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一章 11
退屈な尾行だった。
三七五号線の歩道は狭く、埃っぽかった。道路沿いにあるうどん屋やラーメン屋も、埃にまみれ古びて見えた。この辺りには昔からある店が多く、明らかにブールバール沿いの飲食店とは違う。飲食店というより食堂という雰囲気だ。
敏郎は薄いブルーのブルゾンを羽織り、寒そうに背中を曲げて、極端に遅い速度で歩いていた。時折、酷く切羽詰った表情で後ろを確認してくる。僕は携帯電話を耳に当て、適当に話す振りをしながら歩いていた。どうしてか分からないが人は携帯電話で話している相手には油断する。敏郎もそうだった。二メートルほど後方をたらたら歩いている僕に注意を払わず、更に後ろを確認しようとしていた。もしかすると敏郎は、自分の家の方向を眺めていたのかもしれない。
気を抜くとと追いついてしまいそうだった。僕は時々足を止め、会話に熱中している男を演じた。あくびが出てきて仕方なかった。歩道にはガードレールがなく、すぐ横を大型のトラックが唸りを上げながら通過しているのに、足がふらつきそうになる。眠くてたまらない。
「眠くてたまらないんだよ」
誰にも繋がってない携帯電話に向かってつぶやく。
「もう二日も寝てない」
何かを忘れているような気がした。それが何かはどうしても思い出せないのに、重要なことを忘れているもどかしい感覚だけがある。性質の悪い違和感だ。どうせ思い出せないなら、忘れていることすら記憶から抹消して欲しいものだ。砂利を積んだトラックが短気そうにクラクションを鳴らした。
黄色と黒に彩られた消費者金融の前で敏郎が足を止めた。いかにも不自然な感じで素早く左右を見る。敏郎を追い越した。
「ふざけんな、馬鹿」
僕は大声で携帯電話に怒鳴った。
「眠いって言ってんだろうが」
敏郎が無人ATMに入って行く。ジッパーを開けていたウェストバックからデジタルカメラを取り出した。ポケットから出した敏郎の右手にしわくちゃの一万円札が何枚か握られているのが見えた。横顔が緊張に引きつっている。ボタンを押して、敏郎を撮影した。
カメラをウェストバックに戻し、僕は携帯電話に向かって優しく言った。
「終わった。うん。そっちに行くよ」
誰も返事をしてくれなかった。
何を忘れていたのか、樹里の部屋についてから思い出した。
「どうしました?」
戸口に立っていた智恵子が言った。
智恵子は部屋に入ろうとはしなかった。頑丈なスライド式の内鍵に恐れをなしているようにも、部屋の有様に怯えているようにも見えた。もしかしたら、部屋を掃除して樹里と争ったことがあるのかもしれない。これまでにも樹里が外泊していることから考えると、十分にあり得る話だった。
「いえ」
僕は苦笑した。由梨がどうやってアナルファックを持ちかけられたのか、聞き出すのを忘れていた。今さら思い出しても手遅れだ。自転車を取りに戻ったとき、神社に由梨はいなかった。
頭を振って、もう一度部屋を眺めた。
スナック菓子の空き袋が大量に山積みされていた。すくなくとも、部屋の一角は完全に占拠されている。ベッドの足元に位置するその場所はどうやら樹里にとってのゴミ捨て場であるようで、彼女が何を食べていたのかを如実に物語っていた。スナック菓子の袋と共に、コンビニのビニール袋も散乱している。
ゴミ捨て場の横には白い本棚があり、ハードカバーの分厚い本が並んでいた。社会学や心理学の本が多いようだ。マンガは二冊だけで、ぱらぱらとめくったが過激な性表現はなかった。ベッドの正面に、パソコンと木製のパソコンラックがあり、その隣には勉強机が並び、教科書を隠すようにCDが積まれている。CDケースのいくつかはひび割れ、大半はジャケットと中身が一致してなかった。窓には青い重そうな遮光カーテンがかかっている。
床に置かれている照明器具のスイッチを入れると、曇りガラスのような加工をされたプラスチックのボールが淡く光った。樹里が、どうしてこの照明を選んだのか分かる気がした。
おそらく樹里は昼間寝て、夜になると目を覚ましていたのだろう。天井の照明は消したまま、このサッカーボールほどの明かりを点け、パソコンを起動させていたに違いない。部屋のほとんどが闇に覆われていれば、いかにこの部屋が荒れ果てているのか、自分の生活が破綻してるのか、見なくてすむ。部屋に閉じこもる人間にとって、闇は優しく、光は残酷なものだ。だから、樹里はこの照明を、月のような淡い光を欲したのだろう。
パソコンは無線ランだった。配線のないパソコンはすっきりして見えた。パソコンを立ち上げ、お気に入りをコピーし、メールで事務所に送った。
「さてと」
データを消去し、部屋の探索に戻った。
僕は魔法の言葉なんて、全く信じてなかった。だから樹里が男に熱を上げているのは、スピードとセックスの合わせ技だろうと決めつけていた。スピードはセックスドラッグの王様だ。亀頭に塗って挿入すれば、女は膣の粘膜からスピードを摂取し、快感にのた打ち回って虜になる。セックスとドラッグの組み合わせは最悪だが、女をコントロールする最も有効な手段でもある。
結論から言えば、僕の予想は外れていた。
どれほど探しても注射器やゴムのチューブは見つからなかった。アシッドペーパーもなし。灰皿がない部屋でグラスを吸うとは思えなかった。
病気にかかった人がその病に詳しくなるように、ヤク中はドラッグに関する書物に興味を示すものだが、それもない。脳が溶けかかったトルエンやシンナー中毒者の場合は書物に興味すら持てないが、常用していれば室内に匂いが残る。樹里の部屋に有機溶剤に特有の鼻を突く尖った匂いはなかった。
ドラッグではないということだ。
セックスの線も薄そうだった。男が徹底的にセックスの味を教え、コントロールしていたのだとすれば、樹里の興味はそっちに向かっていたはずだ。本棚に過激なレディースコミックはなかったし、ざっと見た限りではお気に入りにアダルトサイトは登録されてなかった。登録されていたのはいくつかの個人ブログだけだった。
成果も少しはあった。
ベッドの下に押し込まれていた箱に、古い型の携帯電話が三台入っていた。ストレートタイプのものが一台と、折りたたみ式が二台。三台とも電源を入れてみたが、バッテリーが切れているらしく沈黙したままだった。充電器はなかった。記念のために取っておいただけなのだろう。思い出にバッテリーは必要ないということかもしれない。
携帯電話と、樹里の二年分のクラス名簿を借りることにして、部屋を出た。
探偵のもとには、様々なトラブルが持ちこまれるものだ。
今から一年前に黒川が扱った事件には、とびきりの変態が絡んでいた。事務所と同じ並びにあるカラオケパブ「りぼん」。そこで働いていた千秋という女性が、その変態の餌食になった。
それは千秋の誕生日のことだった。女の子の誕生日は、「りぼん」にとって大きなイベントだ。誕生日にかこつけ、客を呼べるからだ。
千秋は呼べるだけの客を呼んで、抱えきれないほどの花束を受け取り――いくつ花束がプレゼントされるかというのは夜の世界におけるステータスだ――ケーキの蝋燭を何度も吹き消し、浴びるように酒を飲み、トイレで吐いた。便器は真っ赤だったという。千秋が言うには、血を吐くようになって初めて一人前として扱われるそうだ。一昔前のスポ根ものみたいな話だ。
彼女は噴水のように吐き、笑顔でトイレから出て歌を歌い、大量の客をさばき、完全燃焼してどこかに携帯電話を忘れた。気がついたのは翌日の夕方だった。二日酔の千秋に探そうとする気力はなく、仕方なく携帯電話は解約した。客のリストは手元にあったから、それでなんとかなるはずだった。とにかく誕生日というイベントは終わったのだからと彼女は思った。
三日後の月曜日、水原忍という男が店に来た。初めての客だった。少し太った、外人のように高い鼻をした水原は千秋の客の知り合いで、噂は何度も聞いていたと語った。ウィスキーの水割りを舐めるように飲みながら、水原は千秋についてどんな噂を聞いているか、客が千秋にどんな感情を抱いているか話した。少しも自分の話をしようとはしなかった。何かが変だった。だけど、どこが変なのか分からなかった。
火曜日も、水曜日も、水原は店にやって来た。やって来て、千秋と千秋の客について熱心にしゃべり、帰っていった。何がおかしいのか千秋が気づいたのは、木曜日にやってきた水原の話を聞いている最中だった。
それまで水原が話していたのは、一人の客ではなかった。全員だ。相互の繋がりなどないはずの、千秋が持っている全ての客について水原は語っていた。気づいたとたん、千秋はトイレに駆けこんで思い切り吐いた。吐瀉物に、血は混じってなかった。個室に充満した酸っぱい匂いをかぎながら、千秋は混乱した。真っ先に携帯電話のことが浮んできたが、メールは一週間ごとに削除していた。水原が語ったのは、誰も知らないはずのことだった。
依頼を受けた黒川は、水原を尾行し、住所を突き止め、翌日、喫茶店に呼び出した。
黒川がちょっと脅すと、水原は全てを話した。偶然、千秋の携帯電話を拾ったこと。携帯電話のメールを読み、千秋に好意を持ったこと。メールを読みながら何度もオナニーにふけったこと。店の名前を電話帳で調べ、千秋に会いに行ったこと。
「だが、千秋はメールを削除してたはずだ」
黒川が言うと、蒼白になっていた水原は少しだけ微笑み、得意そうに説明した。
「削除したメールは携帯電話の中に残ってるんですよ。パソコンだとデータを削除してもハードに情報が残っているというのは常識なんだけど、携帯電話はそうじゃないと思いこんでる人は多い。でもね、探偵さん、携帯電話だって同じなんです。僕は千秋ちゃんが消したつもりになってるメールを復活させ、それを会話風に並べた。千秋ちゃんが色んな男と話してるみたいにしたんです。何度読んでも素晴らしかった」
水原は、今後は絶対に店に行かないと約束した。実は、と水原は言った。そろそろ店に行くのは辞めようと思っていたところだったんです。
「だって、実物より、文字のほうが魅力的なんです、千秋ちゃんは。千秋ちゃんの顔を思い浮かべながらオナニーするより、彼女の文字を読みながら抜くほうが遥かに気持ちいいんです」
僕はそのとき、研修中で黒川の助手として同席していたのだが、しみじみと思ったものだ。変態の世界は奥が深いと。
変態の世界は深く、探偵の役にたつこともある。
樹里の家を出て電話すると、水原はよく躾られた犬のように西条駅で待っていた。
「早く見せてくれ」
水原は開口一番、そう言うと鼻を鳴らした。もの凄く高い鼻だ。アルプスの険しい山のような鼻梁で、これほど整った鼻はめったに拝めないだろう。その鼻が女子高生の匂いを嗅ぎ取ろうとするかのように蠢いている。
三台の携帯を渡すと、水原は携帯電話の特長を嬉々とした顔で語り始めた。水原を置いて、自転車置き場に向かった。
「待ってくれ」
水原が携帯電話をしっかり握りしめて追いついてきた。
「こんないい携帯を持ってきてくれて、あんたには本当に感謝してる」
「当然だな」
「女子高生の携帯なんて久しぶりだ」
うっとりと、夢見るような口調で水原は言った。今にも携帯電話に頬擦りしそうだ。
「明日には終わるか」
「もちろん。ワードに落としておくよ」
目をきらきら輝かせて水原が言った。
「ありがとう、本当に」
水原に謝礼は必要ない。携帯電話に入っているデータが、水原にとっての報酬だ。
「どこにも漏らすなよ」
千秋の件以来、水原はデータの本人に会おうとはしてないが、念押しをした。水原は頷いた。笑みが深くなり、美しい鼻が盛り上がった頬の肉に埋もれた。
「当然だよ。これは僕の個人的な楽しみなんだから」
変態の世界は、本当に奥が深い。
水原と別れ、中央通り沿いにある古いショッピングモールに向かった。人の疎らなショッピングモールに着くと、十二時前だった。
菜穂子と昼食を一緒にと約束していた。ぎこちなさは残っているし、なぜ泣いたのかまるで分からなかったが、それでも共に食事をするのは悪い傾向ではなかった。昼食を提案してくれたのは菜穂子だった。
喫煙所の椅子に座って煙草に火を点け、菜穂子にメールした。
いくら待っても菜穂子は来なかった。メールの返事もない。一時まで待って、僕はアパートに戻った。空腹だったが、眠くて限界だった。部屋にたどり着くと、横になって目覚ましをセットし、次の瞬間には眠りに落ちていた。
その時、菜穂子が別の人間と会っていたなんて、想像もしなかった。
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