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二章 1
コーヒーの香りはほとんどしなかった。
外は夜のように暗かったが、ファミリーレストランの店内には僕と啓太の他にも客がいた。きちんとネクタイを締めて、新聞を広げているサラリーマンが数人いる。彼らは同じような服装をしていたが、微妙に距離を取っていた。独特の縄張りがあるのかもしれない。店内の奥には十人くらいの若い男たちが座っていた。話をしているのは二人だけで、後は目を閉じたり、疲れきった顔で煙草を吸っている。厨房からオーダーを告げる声と、何かを焼く音、皿のかちゃかちゃいう音が聞こえてくる。
「また泥棒が入ったんです」
僕の前に座った啓太が言った。
「今度は保険証じゃなくて銀行のカード盗まれて。キャッシングされたんです」
「その前に言うべきことがあるだろう」
僕はうんざりしながら言った。身体に力が入らない。何しろ徹夜でのバイトが終わったばかりだ。気を抜くと、ずるずると椅子を滑り落ちてしまいそうだった。
「先に説明しろ。どうして何度も電話したのに出なかった」
啓太は、表情を強張らせ、視線を泳がせた挙句、うつむいてしまった。助け舟を出す気にもなれず煙草をふかした。あからさまに機嫌が悪そうに見えるだろうが、知ったことじゃなかった。僕が短気なのは今に始まったことじゃない。
啓太から電話があったのは、僕がバイトしてる最中だった。カップルがコンドームとエロDVDを買ったり、明らかに道を踏み外した若者たちが店内で大声を上げている間に、彼は電話してきた。十一月九日の午前三時と午前四時二十分の二回。二回目には深刻そうな口調で「大変なことが起こったんで、連絡ください」とメッセージが残してあった。
正直なことをいえば、勘弁して欲しかった。シャワーを浴びたかったし、菜穂子と話したかった。眠りたかったし、腹だって減っている。それでも啓太に会うことにしたのは、黒川の教えを守ったからだ。
探偵にとって一番大事なことを、黒川は教えてくれた。
それは尾行や聞き取り調査のテクニックではなかった。といっても、抽象的な精神論でもなく、来年から施行される探偵業法にも記載されていない。僕にとっては完全に盲点で、多分、黒川が教えてくれなければ痛い目に合っていただろう。
探偵にとって、一番大事なこと。
それは金の回収だ。
依頼は金を貰って終わるんだと、研修中、黒川は何度も言った。
「全額貰わなきゃ、仕事は終わらない。分かるな」
最初はぴんとこなかったが、すぐに何を言っていたのか、身を持って実感できた。
アメリカと違い、日本の探偵には公的なライセンスがない。探偵が扱う商品は物品ではなく情報だ。しかも調査が終わるまで最終的な料金は決定しない。つまり、支払いトラブルになる条件が揃っているということだ。離婚するための証拠を欲しがっている場合ならともかく、ちょっと疑って不安になっただけというケースは不払いに発展しやすかった。結果に満足いかなかったり、途中で気が変わったり、思ったよりも高額だったりと、支払いを渋る理由にはことかかない。調査員がゆすり屋に変貌することが多いのは、そういう事情も絡んでいる。
契約書があろうとなかろうと、金を払わない人間は払わないものだ。
だから、探偵にとって依頼人と連絡が取れないというのは、調査が進展しないことより深刻だ。啓太と会うのは、腹立たしいが必要なことだった。
「女とトラブってたんです」
注文したモーニングがテーブルに置かれたあと、唇を何度も湿しながら啓太が言った。
「それで会社も休んでたんです」
「貴子ちゃんだったっけか。続いてたんだな」
一昨年の酒祭りのとき紹介された啓太の彼女を思い出した。気の強そうな目が、今も印象に残っている。
「続いてたっていうか、昨日で完全に終わったんですけどね」
苦笑混じりに、啓太が答えた。
「例の、闇金からの電話でちょっと僕、動揺してて。携帯ずっと気にしてたんです。それで浮気してるって疑われて」
「それでって」
ちょっと呆然として僕は言った。
「完全な誤解じゃないか。どうしてちゃんと説明しなかったんだ」
「誤解じゃないんです」
啓太は申し訳なさそうに言った。
「実は僕、会社の女の子とできてて。だから」
僕は一度灰皿に目を落とし、それから窓の外を眺めた。夜だとしか思えない。僕の身体の中にも、夜の空気が残っている。煙草の自動販売機の前で、コカコーラの配達員が休憩していた。
「もしかして、髪長い、ストレートの、こないだお前の会社に行ったとき働いてた娘か」
「その娘です。朋香っていうんですけどね」
煙草を唇に貼り付けたまま、天井を見上げた。木目調の、すっきりした天井に洒落た照明が吊り下がっている。
「朋香には説明したのか」
「貴子と終わってすぐ、朋香に連絡しました。お前のために別れたよって言ったら、すごく喜んでくれて」
確認する必要はなかったのだと、答えを聞いてから思った。何も啓太だけじゃない。とっくに修復不可能だった前の女との別れを、豪華な花束みたいにプレゼントする男は大勢いる。そんな嘘はどこにでも転がってる。珍しくもない話だ。
だけど、きつかった。徹夜明けで、菜穂子と会ってない僕にはこたえる話だ。ああ、疲れたと大声で喚きたくなるような話だ。
「もう冷めてたつうか、飽きてたんですよ、貴子には。それに比べて朋香はいい女だったし。朋香のほうから近づいてきたんすよ」
「いい女だったから浮気した?」
「そういうもんでしょう、男って。住田さんは違うんすか?」
背中を伸ばし、啓太を正面から見た。啓太は口を曲げ、上目遣いで僕を見ている。ウェストバックからデジタルカメラを取り出し、画像を呼び出した。
「現金を盗んだのはな」
啓太にデジタルカメラを差し出した。
「お前の馬鹿兄貴だよ」
当然のように、啓太は兄の無実を主張した。
僕は借金が綺麗になったはずの人間は消費者金融のATMに近づかないこと、そもそも借金の総額がいくらだったか明確ではないことを話した。求人情報誌の借金はいくらだった? トラックの修理費は? 医療費はいくらかかったんだ?
肉親が裏切るはずがないという常識に対抗できるのは、金を借りたときの常識だ。兄貴は父親から金を借り、支払った後、領収書を見せたのかと質問した。
あんたには関係ないと、顔を朱に染めて啓太は低く唸った。新聞を読んでいたサラリーマンの一人がちらっとこちらを見た。眼鏡が照明を反射し、それが男の好奇心を表しているように思えた。
「関係ある」
僕は言った。
「お前は僕に調査を頼んだんだ。誰が保険証を盗んで闇金から借りて、また保険証を戻したのか調査してくれと言った。そんなもん、内部犯に決まってんだろ。じゃなきゃ、誰がわざわざ盗んだ保険証を元に戻す?」
眼鏡のサラリーマンが新聞を折りたたむのが見えた。目はこちらに向けてなかったが、聞き耳を立てている。新聞よりも面白いと思ったのだろう。過去の事件より、現在の事件はいつも人の興味を掻き立てる。鮮度が違うからだ。
「あんたは赤の他人だからそんなことが言えるんだ」
吐き捨てるように言った啓太を睨み、僕は身体を乗り出した。
「お前は実の弟だから色んなことが見えなくなってるんだよ。消費者金融は横の繋がりがある。多重債務者をチェックするためだが、それは同時に多額の借金を返済した人間も教えてくれるシステムだ。複数の会社からの借金を完済すれば、そいつは上客だ。利益を生んでくれる金の卵だ。だから彼らは電話する。DMを送る。あなたならすぐに融資しますと甘い言葉を囁く。多重債務者のほとんどは、その言葉に抵抗できない。なぜなら、抵抗できるなら、そもそも借金なんかしないからだ。借金しても誰かが払ってくれるからだ。働いて金を返したわけじゃないから、懲りないんだ。お前の兄貴みたいにな」
「黙れ」
「お前の兄貴は嘘つきなんだよ。単に借金で首が回らなくなっただけなのに、不運だっただけだ、自分が悪いんじゃないと嘘をついて、周囲と自分自身を騙してる。自己破産させるべきだったんだよ、お前の兄貴は」
「調査は打ち切る」
低くうめくように啓太が言った。目尻が何度も痙攣していた。
「あんたなんかに頼るんじゃなかった」
「僕を頼らなかったら、今も闇金融の電話に悩まされていただろうな」
「対処してくれたのは弁護士だ」
「弁護士は連絡がつかなかったら、お前の会社に電話したはずだ。僕はどんなにお前と連絡がつかなくても、会社に電話することだけは控えた。もう十分、得体の知れない電話がかかってくることで、お前は悩んだと思ったからな。まさかお前が、女と乳繰り合ってるなんて想像もしてなかった」
啓太は口を開き、何かを飲みこんで、口を閉じた。少し間を置いて、調査費は税込みで六万九千円であることを告げた。更に間を空け、今すぐ支払うように言った。
「金を払っておけばもう僕に会わなくてすむし、会社に押しかけてきた僕を見て、お前が困ることもない。そうだろう?」
啓太は返事をしなかった。一度外に出てコンビニのATMで現金を下ろしてくると、六万九千円を叩きつけるようにしてテーブルに置き、モーニングも食べずに出て行った。僕はきちんとトーストとベーコン、目玉焼きを食べ、コーヒーをお代わりした。煙草を三本灰にして、二人分の料金を払い、ファミレスを出た。
東の空が青く透き通っていた。ファミレスの裏通りで、カラスがゴミ袋をつついていた。足とくちばしを使って、身をよじるようにして袋の中身を出そうとしている。僕が近づくとカラスは一声鳴くと飛び立っていった。
部屋に戻った。菜穂子の姿はなかった。テーブルにメモもない。
領収書を書き、収入印紙を貼った。パソコンで報告書を書いてプリントアウトし、デジタルカメラの画像を印刷して、それら全てを封筒に収め啓太の会社に速達で送った。
アパートのドアを開けたときには足元がふらついていた。シャワーを浴び、布団に横たわった。目を閉じた。
啓太の尖った口調、射るような鋭い目、憤った声が、いつまでも頭から消えてくれなかった。
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