二章 2

1/1
前へ
/34ページ
次へ

二章 2

 タモリが友達の輪を広げるまで粘ったが、眠れなかった。テレビの音を聞きながら、天井を見つめた。  気がつくと鳴戸遼平のことを考えていた。遼平に浮気して欲しくなかった。なかなか引っ越せなくても、幸せな生活を築いて欲しかった。たぶんそう願うのは、ぎこちない菜穂子との関係から目を逸らすため、他の何かに自己投影してるに過ぎないのだろう。馬鹿な話だ。僕の本質は、ニートの頃と同じなのかもしれない。  あの頃、僕は一日中どうやったら虐待がなくなるか考えていた。多くのニートと同じように、自分の問題から目を逸らし、もっと大きな問題を解決しようとやっきになっていた。今も同じだ。何も変わってない。  テレビを消して立ち上がった。体力は戻ってないが、携帯の充電は完了していた。動く気になれば、動ける。  水原に電話し、二十分後、僕は二号線沿いにある水原のマンションに到着した。二十階建てのマンションは、たぶん他で見るより高く感じるだろう。周囲には高くて五階以上の建物がない。すぐそばに学校のグラウンドが二つくらい入りそうな土地にぐるりと塀を巡らせた豪邸があぐらをかいていた。庭に、小規模な竹林まである。本物の金持ちを見下ろせる快適な居住空間が、マンションの売りだったのかもしれない。  部屋番号を押し、チャイムを鳴らすとすぐにオートロックが解除された。エレベーターに乗り、水原の部屋に向かった。 「樹里たん最高」  ドアを開けると、水原は僕に抱きつかんばかりの勢いで出てきた。足元は白い靴下しか履いてない。 「樹里たんって、すごくいいよ」  両手で水原を押し止め、中に入った。短い廊下を歩くと、リビングに出た。カバーを外し、内部が露になったパソコンが炬燵の上に乗っている。自作のパソコンらしい。熱がこもるため、カバーはつけないのだという。  炬燵から距離を取って、足元に転がっていたクッションに腰を下ろした。 「せめて相手を確認してからロック外せよ。オートロックの意味がない」 「早く話したかったんだ。一言でいえば、氷の女王だね、樹里たん」  もどかしそうに早口で言いながら水原が座った。クッションは使わず、フローリングの上に直接あぐらをかいている。靴下の裏が薄く汚れていた。炬燵の脇に手を伸ばすと、積んでいた紙を手に取った。 「相葉って男と別れるとき、すごいメール打ってるんだよ。今年の六月なんだけど相葉が、『僕は別れない。お前は弱いんだ、それ認めろよ。お前の力になりたいんだよ』ってメールしてんのね。そしたら『人は誰だって弱いものだけど、弱さを認めるだけじゃ、ダメなんじゃない? 弱いって知ってるからこそ、強くありたいと願うの。相葉の言い方は卑怯だよ。他の女の子を探しなさい』だって」  水原は目を潤ませた。 「もう、樹里たん最高」 「頼むから」  僕は言った。 「鼻息を荒くするのだけはやめてくれ」  相葉のアドレスを確認し、探偵であること、樹里について聞きたいことを書いて、メールした。しばらく待ったがエラーメッセージは表示されなかった。相葉の携帯はまだ、生きている。 「もう話していい? 樹里たんって氷みたいに冷たいんだ」  水原は鼻をぴくぴくさせた。性癖を知っているためか、妙に卑猥な仕草だった。 「同い年くらいなのか、相葉と樹里は」 「たぶん。でも、樹里たんは同い年じゃ無理だね。というか、相葉は可哀想なんかじゃない。卑怯な奴だよ、相葉は」 「卑怯な口説き文句だとは、僕も思うけどね。ただ使う男は多いと思う。それを喜ぶ女もいるし」 「そこが樹里たんの特別なとこさ」  水原は偉そうに言った。 「彼女はまさに特別だね。高校生とは思えない。外見誉められても全然気にしないし。冷たいんだよ、本当に。綺麗だとか可愛いとかメールで言ってきても、『外見なんて、プレゼントのラッピングみたいなものよ。最初は目を惹くけど、すぐにしわくちゃになって見向きもされなくなるんだから。大事なのは中身じゃない?』って。もう樹里たん語録作ってもいいね、僕は」 「語録ねえ」 「相葉だけじゃなくってさ、色んな男が樹里たんのことをメールで口説いてるんだ。けど頭が良いって誉められても『それはあたしの本質じゃないわ』だし、心が綺麗だって言われても『どう綺麗だと思う?』って切り返すし。もうね、イメージは日本刀だね。切れ味鋭すぎ」  水原は更に樹里の語録を読み上げたが、僕はほとんど聞いてなかった。別のことを考えていた。樹里を口説くのは容易ではなかっただろう。弱みにつけこむのを許さず、外見を誉めてもなびかない女を口説くのは難しい。かといって中身を誉めようとすれば、それは口説く人間の内実を曝すことにも繋がる。心が綺麗だというのは簡単だが、樹里のようにどう綺麗かを問われれば、どういう心を尊いと思うのか、それは何故なのか、語らなければならない。  樹里のガードは異常に堅い。それが意味するところはひとつだ。 「他に男の名前は出てこなかったか。ただ単に口説いてきた相手じゃなくて、つきあってた男の名前は」 「浩次かな」  しばらく考えて水原が言った。 「昔、樹里たんがつき合ってたみたいなんだ。相葉が最後に『結局、お前は浩次が忘れられないんだろう』ってメールしてるんだ。『お前は浩次を忘れるために、僕を利用したんだ』って」 「樹里の返事は」 「これも凄いんだ。『浩次を忘れたりはしない。でも勘違いしないでね。浩次を忘れないのは、あんな女好きに二度と騙されないためだよ』だって」  身悶えする水原を眺めながら、考えた。魔法使いは女好きであることを隠してなかった。浩次に騙され、極端に用心深くなっていたはずの樹里が、どうして魔法使いを信用したのだろうか。そこまで考え、別の可能性に気づいた。一度男に騙され、酷い目にあった女のガードが緩む場合がひとつだけある。  同じ男が、改心したと言って謝って来た場合だ。可能性は低いが、ゼロではない。そういうケースは往々にしてあるものだ。  魔法使いは、浩次なのかもしれない。  水原は樹里の語録には注目していたが、浩次に関してはノーマークだった。 「なかったと思うけどねえ」  電話帳より厚い紙束をめくりながら、水原は首を傾げた。 「一番古いのって、相葉とのやりとりだったから。あ。これもいいんだ。あのね、樹里たんの性格を誉めたやつがいてさ」  紙をひったくり、データをメールに添付して事務所に送信させた。マンションを出て、重い紙束によろめきながら自転車をこいでいると、携帯電話が鳴った。  相葉からのメールだった。『おもしろそうじゃん、今から学校を抜けるよ』  どこで待ち合わせるか決め、相葉を現代社会の教室から脱走させた。  十分少々自転車をこぐと、相葉の指定した古い喫茶店に到着した。大きな色つきの窓ガラスを蔦が塞いでいる。狭い店だった。入口の脇に、表紙がぼろぼろになったマンガ週刊誌が山のように詰まれている。奥の席に相葉は座っていた。 「すごいだろ、ここ」  得意そうに相葉は太い眉を上げた。真っ白い歯がこぼれる。青いブレザーにストライプのネクタイ、黒のローファー、学校指定のバック。 「ファミレスに行ってドリンクバーで粘るヤツもいるけど、僕はこういうのが好き。穴倉みたいでさ。ほら、昭和って感じするじゃん」  僕は昭和生まれなんだよという言葉を飲みこみ、腹が減っているかどうか問うと、相葉は顔を綻ばせた。僕はピラフを頼み、相葉はラーメンとカツ丼を頼んだ。 「樹里の何聞きたいの」  細身の相葉は猛然と料理を平らげると、ジッポで煙草に火を点けた。制服のネクタイを外した相葉は、急に幼さを増したように思えた。僕は百円ライターで火を点けて、煙草を吸った。 「まず友達について聞かせてくれないか」 「女友達ってことなら、樹里には一人もいなかったな」  よくあるいじめだよ、と相葉は言った。 「気に入らないことがあるとさ、無視するんだよ。学年のリーダーっぽい女っているでしょう。スポーツできて、勉強もそこそこ。ちょっとボーイッシュで、気が強くって、誰からも好かれるタイプ。安東って女なんだけどそいつの彼氏が樹里に惚れちゃったんだ。正確に言うと、安東キープしたまま、樹里にちょっかい出そうとした」 「安東は樹里が彼氏を誘惑したんだと言った」 「そういうこと」  生真面目な顔で相葉は頷いた。親指と人差し指で煙草をはさみ、煙を肺まで吸いこんでいたが、板についてなかった。煙草はそうやって吸うものだ誰かに教えられ、それをそのまま実行しているように見える。 「結構さ、安東は徹底してた。女子は誰も樹里と口を利かなかった」 「樹里ちゃんはそれを苦にしてた?」 「全然。本当は気にしてたのかもしれないけど、少なくとも外からはそんなふうに見えなかった。どっちかっていうと、樹里のほうが周囲を無視してるみたいに見えたよ。どっちみち、樹里は綺麗だから男がしょっちゅう声かけてたしね」 「相葉君も、そういう一人だった。つきあっていたんだよね。他に、樹里ちゃんとつきあっていた男性は知らないかな。君の前でも後でもいいんだが」 「前なら知ってるよ。浩次ってやつ。名字は知らない」 「どういう男性だったのか教えてくれないか。こういうことは、話しづらいかもしれないが」 「樹里はやりまくってたらしいよ」  僕の言葉を遮ると、相葉はにっと笑った。 「外が多かったって。ビルの非常階段でやるのが多かったって言ってた。僕と樹里が初めてホテルでしたとき」  過去の恋について、口をつぐむ人間とそうでない人間がいる。相葉は後者のようだった。吐き出すように語るタイプだ。 「よくね、聞かされたよ浩次のことは。樹里は浩次のこと思い出して泣くんだ。いっつも。で、僕が慰める役目して。それでいいんだって思ってた。浩次がどんなタイプが知ってりゃ、樹里が嫌がるようなことしなくてすむし、樹里を慰めたかったしね」 「ちょっと年上だったのかな?」 「良く分かるね。五個か六個離れてたんじゃないかな。そんなこと言ってた気がする。セックスも上手かったって。はっきり言われたよ。浩次のほうが身体の相性は良かったって。もう最後の頃だったけど」 「二人はいつ頃からつきあってたんだ」 「樹里が一年のとき、かな、確か」  頭を掻きながら、相葉は天井のあたりを見つめた。 「樹里とは塾が一緒で、気になってたんだ。で、夏休み終わったころに落ち込んでたから、僕が慰めて。いじめはそれこそ入学してすぐくらいからだったんだけど、樹里は落ちこんでなかったんだ。その樹里がしょげてたから、気になって。こんな話、役に立つ?」 「もちろん」 「浩次はね、放置プレイが多かったらしい。二人で会ってるときも、電話で話し出したら樹里を見向きもしなくなっちゃうんだって。メールの返事も遅いし、電話しても繋がらないし。基本的に樹里の都合より、浩次の都合優先だったっぽいね。だから僕は樹里の話を聞いて、樹里を放っておかないようにしてた。樹里を一番にしてたんだ」  相葉は言って、顔をしかめた。 「でも結局ふられちゃったから、駄目だったんだろうね。僕には今でも良く分からないけど。なんで浩次みたいに放っておかなかったのに、僕がふられなきゃなんなかったのか。優しくしたのに、嫌われたのか。やっぱ、女ってエッチ上手な男じゃないと駄目なんかな。一回もいかせらんないんじゃ?」  咳き込みそうになった。菜穂子の涙を見て以来、僕は積極的に性について考えたい気分じゃなかった。そういう相談に、今僕ほど不向きな人間もいないはずだ。が、相葉はえらく純粋な目をして僕を見ていた。フィルターを噛んだ。 「僕の友達が、似たようなことを言ってた。女はセックスばっかりだって」 「へえ」 「友達には奥さんがいたんだけど、別の女とやりまくってた。そいつは女を縛るのが好きで、その浮気相手も同じ趣味だったらしい。で、真っ赤なロープを使ったセックスにしびれた。奥さんにばれて、すったもんだがあったが、結局離婚して、浮気相手と同棲することになったんだ」 「それ友達じゃなくて、探偵さんの話なんじゃない」 「友達の話だって言いながら自分の話をするのはよくあることだけど、この場合は違う。僕の話じゃない。非難の集中砲火を浴びながら、それでもスタートさせた同棲はたった三ヶ月で終わった」 「どうして?」 「そいつの言葉を正確に言えば『女はいくらいってもキリがない。一晩で三回やって、僕がへとへとになっても、あいつは満足しないんだ。終わってもずっと、僕の隣でオナニーしてた。身体がもたないよ』だそうだ」  相葉は黙っていた。まだ長い煙草を灰皿に押し付ける。口を閉じ、ライターを手にしたまま煙草の箱を見ていた。それから言った。 「減煙してるんだ。煙草が値上がりしたから。友達みんなそうしてる。絶対に煙草止めるのは無理だって言ってたやつらが、二十円上がっただけで煙草を止めるって言ってる。たった二十円で。そう思うのに、僕も煙草を減らそうとしてる。その友達の話に教訓はあんの」 「実は」  正直に言った。 「どうして自分がこんな話をしたのか分からないんだ。何か言わなければならないような気がして、言わば気分で言葉を口にしただけだ」 「アドリブ苦手な若手芸人が、トークの途中で落ちが見つからなかったみたいな感じ?」 「たぶん。話の着地点が見えなくて、頭の中が右往左往してた」 「つまり教訓はない?」 「そうだ。僕に言えるのは、セックスで女を繋ぎ止めるのは無理なんだろうってことだ。いかせる、いかせないとか関係ないんだろうってことだ」 「曖昧だなあ」  呆れたように相葉は言った。 「じゃあ、どうやったら女を繋ぎ止められると探偵さんは思うわけ?」 「その答え、僕も知りたいよ」  言葉と一緒に煙を吐いた。あるいは魔法の言葉が、その答えなのかもしれない。泣いている菜穂子の顔が、浮んでは消えた。 「探偵さん、彼女いないの」 「君は? 新しい彼女は作らないのか」 「作ったに決まってるじゃん」  相葉は無邪気に笑った。 「今の彼女はさ、すっごい嫉妬深いから、あいついるとこで探偵さんに会いたくなかったんだ。前の彼女の話を聞きたいとか言われただけで、修羅場になっちゃう。なんかね僕に前カノがいたってことすら認めたくないんだって」  無理もないんだけど、と相葉は言った。だって樹里の相談してた女友達だったから。 「その娘とはまだ」 「してないよ。だからさ、怖いわけ。した途端、離れて行っちゃうんじゃないかなって。つか、僕ばっか答えてるじゃん。探偵さんは彼女いるの?」 「いるよ」  煙を吐いて、もう少し正確に言った。 「いるけど、別れが近いのかもしれない」 「不安定な職業だから?」 「そうかもしれない」 「探偵さんも大変なんだねえ」  相葉が言った。肘をテーブルについて、手の平に顎を乗せている。  僕は苦笑し、短くなった煙草を消した。減煙を試みる連中の多くは、もともと煙草を根元まで吸ってなかったのだろう。本数を減らし、最後まで吸うようになったにちがいない。僕はずっと前からフィルターが焦げるまで吸っている。煙を減らせるはずもない。 「浩次のことだが、住所とか、どこで働いていたとか聞いてないか」 「住所は知らないけど、働いてたとこなら聞いたことあるよ。確か警備会社で働いてたはず。警備の仕事の合間に、外でしてたって。会社名までは知らないけど」  田舎の美点は沢山ある。水や空気が美味く、緑に溢れている。都会と違い、商業施設や会社が少ないためだ。東広島市に警備会社は二社しかない。テイキョウ警備保障と、竹下警備会社だ。  相葉に新しい彼女と寝るときはコンドームを二枚重ねるように勧め、伝票を取って店を出た。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加