二章 3

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二章 3

「なんだそりゃ」  ドアを開けると黒川が言った。いつものように量子論の本を読んでいたようだ。黒川が本を閉じた。 「水原に樹里の携帯データを復活させたんです」 「啓太くんから電話あったぞ。AFはいないと言ったら、領収書を送るよう言って切りやがった。なんかあったか」  六万九千円を渡して説明した。黒川は黙ったまま最後まで聞いて、当然の質問をした。 「なんで怒った?」  僕は電源が切れる寸前だった。重い自転車をこいだからでも、相葉の話が原因でもない。  菜穂子が足りなかった。僕のエネルギーは菜穂子だ。彼女と会っていられるなら、眠らなくてもいいし、物も食べなくていい。それで生きていける。なのに昨日の朝以来、会ってない。電話で二度話しただけだ。どちらも短くて、用件だけの電話だった。おまけにメモもない。  充電しなければ、バッテリーはもたないものだ。 「啓太が浮気してたんです」  正直に言った。 「だから腹が立って」 「浮気する奴は嫌いか」  黒川から離れ、ソファに座った。紙束をテーブルに置く。今にも雪崩が起きそうだ。危うい均衡を保っている。 「あまり好きになれませんね」 「どうして」 「父親が浮気してたから。離婚して、母親に育てられて。良くある話です」  国語のテストが記憶の底から蘇ってきた。  夜中に両親が言い争っていたことがある。トイレに行きたくて暗い廊下を歩いていたら、両親の寝室から押さえた、だが間違えようのない諍いの気配が漏れてきた。聞いてはいえないと反射的に思った。聞こえてくる声は、いつもの両親とは全く違っていた。別の大人がそこにいるような気さえした。足音を忍ばせ、ゆっくり自分の部屋に戻った。  翌日、国語のテストがあった。なんでもない、いつもの小テストだった。僕はその時、そのテストで、絶対に百点を取りたかった。どうしてか、満点なら父親と母親は仲良くなると思いこんだ。テストは九十八点だった。あと二点足りなかった。 「両親が離婚したから浮気するやつが嫌いになった?」 「そこまで単純じゃないですよ」  僕は手を振った。 「浮気して言い訳する人間が嫌いなんです。母がね、言ってたんですよ。僕は男だからしかたないって。つきあう女の子と別れるたびに、そんなふうに言ってて。妙に頭にこびりついてるんです。そういう時の目がね、すごく怒ってた。たぶん、父は浮気した言い訳に、男だからしかたないって言ったんでしょうね。こういうのってマザコンなんすかね」 「知らねえよ、そんなこと」 「昔の女に言われたことがあるんです」 「男にマザコンだって言う女は、大抵がファザコンだ。そういう女ってのは、あれだろう? もっと大きな愛で見守って欲しいとか、あたしが何しても怒ったりしない男がいいとか言うんだろう」  黒川が言った。 「自分の父親がしてくれなかったことを、して欲しがってるのさ。理想の父親を求めてる。男に父性を求めてるんだ、そういう女は。おっかなくって、ファザコンだなんて言えねえがな」 「確かにおっかない女でしたね」  黒川は声に出さずに笑った。首をこきこきと鳴らす。 「だから鳴戸遼平に肩入れしてんだな」  息が止まるかと思った。黒川が僕を見て、もう一度笑った。 「なめんなよ、俺を。お前が遼平に浮気して欲しくないと思ってることは、お見通しなんだ」 「気づいてないと」 「一瞬の表情や言葉の端々に出てるもんだよ。隠せないもんだ、そういうのは」 「そんなもんですか」 「そんなもんだよ」  なんとなく、分かるような気がした。ちょっとだけ黒川を見直した。 「まあ、パソコンの履歴は見たけどな」  黒川がパソコンをこつこつと叩いた。 「お前があのブログを見てたのは知ってたんだ」  非難すると、黒川は肩をすくめた。 「なんとなくお前が遼平に肩入れしてるみたいだったから調べたんだ。ブログを読めば、お前が何考えてるかすぐに分かった。お前も引っ越ししたがってたからな。でもなAF、何から何までお前と同じ人間なんて、この世にいないんだぞ」 「まあ、それはそうでしょうね」 「遼平が浮気しても、あんま気にするな」  多分。  口を閉ざし、黒川を真っ直ぐに見ながら考えた。多分、遼平が浮気したら、僕は落ちこむ。それを止めることはできないだろう。 「お前なあ」  呆れたように言って、黒川は意地悪そうに目を輝かせた。 「じゃあ、お前が由梨を口説いたらどうだ。あいつ、多分お前のこと好きだぞ」 「は?」 「鈍いな。変だと思わなかったか。遼平の住所やアドレス教えてやったのに、由梨はここに戻って来ただろう」  取り引きについて説明してなかったことを思い出した。詰まっていると、黒川が続けた。 「あんだけ金持ってるんだ、遼平のことを知りたいならどこでもいいから探偵雇えば良かったと思わないか。わざわざお前を探す必要なんてなかったんだ」  由梨は電話帳で調べたと言っていたのを思い出した。コンビニの周囲に、ここ以外にも興信所があるのを由梨は知っていた。遼平のことを知りたいだけなら、探偵を雇えばいい。由梨が僕を探さなければならない理由について考えていると、黒川が言った。 「人の心は電子と同じなんだ」  黒川の目は面白がっているようにも、真剣なようにも見えた。愉悦と知性が重ね合わせになって、瞳の奥で揺れている。 「電子は人が見てないときは波で、人が見ると粒になる。どうしてか? もちろん人の視線に力があるわけでも、電子が人に気づくわけでもない。電子が変化するのは光のせいなんだ。人は何かを見るとき、光を必要とする。その光が電子に影響を及ぼすってことらしい」  でな、と言って黒川は続けた。 「そういうのは人の心も同じなんじゃないかと思うんだ。由梨は遼平に惚れてると思ってる。自分が行動するのは、いつも窓を見上げている遼平のことが好きだからだと思ってる。だが心を見つめているときには分かってるつもりでも、意識してないときには違うことを考えている可能性だってある」 「いや、意味分かんないんですけど」 「じゃあ、お前を例にあげようか。お前は浮気が嫌いだと言う。自分も浮気しないと思ってる。それはお前が長い年月をかけて築いてきた価値観だ。お前が自分の心を見つめるとき、必ずその価値観が視線にはこもる。言い換えるなら、価値観は光だ。影響を与えるんだよ、そういうのは。無心に自分の心を見るなんて、できないもんだ。浮気は嫌いだ、浮気したくないと思いながら自分の心を見つめても、ありのままのお前の心なんて見えないはずだ」  自分が強いと錯覚していたことを思い出した。自分のことは、案外自分では知らないものだ。それは、もしかしたら黒川の言うように、心が電子と同じような性質だからなのかもしれない。  意識して見るときと、そうでないとき、心は別々の顔を見せるのかもしれない。 「由梨も同じだ。窓の外で手を振る男に惹かれ、闇雲に行動したように見えるかもしれないが、行動に駆り立てたのはお前だって可能性もあるんだ。由梨が気づいてないだけでな。由梨はここを探した。情報を手に入れたのに、昼下がりにもう一度ここにやって来た。お前に会うために」 「それは違うと思いますよ。だって」  取り引きの説明をしようとしたとき、携帯電話が鳴った。ディスプレイを見た瞬間、鳥肌が立った。  非通知。すぐにボタンを押した。 「こんにちは、AF探偵さん」 「お前」 「僕ですよ」  男が言った。 「魔法使いです。もう忘れちゃったんですか?」 「忘れたりはしないさ」  そっと息を吐く。唇がわずかに痙攣するのが分かった。 「樹里はそばにいるのか?」 「帰しました。そろそろ家に着いてるはずです。今日はね、探偵さん、樹里のことではなく」 「悪い」  僕は男の言葉を遮った。 「バッテリーが切れそうなんだ。もっと話したい。今事務所にいるからかけなおしてくれないか。番号は樹里に渡した名刺に書いてある。本当にもう――」  電話を切った。もう一度ボタンを押し、電源を切る。 「例の男か」 「はい」  それ以上、黒川は質問しなかった。黙って立ち上がり、意図が伝わっていることを示してくれた。僕は黒川が空けてくれた席に座り、待った。  かけてくるはずだ。黒い電話機を見ながら思った。あいつは電話してくる。そのはずだ。かけてこなかったら、僕はみすみす男との接触を逃したことになる。  ハイヒールの鳴る音が聞こえ、となりのドアが開き、しばらくすると何かを蹴るような音がした。隣の経営者が何に苛立っているのか、見当もつかなかった。あるいは何かに躓いただけかもしれない。  電話が鳴った。スピーカーに切り替え電話に出た。 「黒川正探偵事務所です」 「携帯はちゃんと充電すべきですね」 「失礼ですが、お名前は?」 「樹里の魔法使いですよ」  そっと息を吸った。魔法の言葉がなんだったか分からなくても、樹里の魔法を解くことは可能だ。問題は、どう誘導するかだった。 「樹里とは吉川樹里さんのことだね」 「そうですよ。どうしたんです? そんなことをわざわざ確認して」 「確か、この間、彼女に関して色々教えてくれたよな? 今、調べているところなんだが、まだ君の正体がつかめないんだ」 「当然でしょうね」 「樹里さんに聞いては駄目かな」 「無駄ですよ。樹里は僕を愛しているから。魔法が解けない限り、彼女は何も話しません」 「君はどうなんだ」  僕は言った。 「君は樹里を愛してるのか」 「ねえ、探偵さん」  魔法使いが言った。 「会話を録音してますね?」  神経の中で情報が転倒し、背中の筋肉がひきつった。嘲るように魔法使いが続けた。 「会話を録音することを最初に告げなかったから、証拠能力がないのはもちろん分かってますよね」  腹筋を強くしめた。態勢を立て直すことに集中する。 「何か勘違いしているようだが、録音なんてしてない。君の言うようにきちんと録音することを提示しなければ証拠として成立しないんだ」 「警察はそう判断するでしょうね。でも一般人相手なら、説得する役には立つ。違いますか?」  周囲を見回し、そもそも窓がなかったことを思い知る。黒川とは目で合図しただけだ。盗聴器の可能性はない。 「探偵さん。これは僕がかけてる電話で、僕が料金を支払わなければならないんです。僕のしたかった話をしますね」 「電話番号と名前を教えてくれれば、こちらからかけ直すけどな」 「お断りしますよ。時に、探偵さんは推理小説は好きですか。ハードボイルドじゃなくて、名探偵が登場するような作品ですが」 「昔、読んだことがあるな」 「名探偵って不思議だと思いません? あんなに頭がいいのに、事件を未然に防ぐことができない。全員死んでから、真相を明らかにする。どうしてだと思います」 「考えたこともない」 「じゃあ、凄く綺麗な人、男でも女でも構わないんですけど、そういうルックスのいい人って、結構鈍いことがあるでしょ。恋愛に関して。あれはどうしてだと思います」 「さあな」  手の平の汗を拭い、受話器を持ち替えた。 「だが、不思議に思ったことはある。どうしてこいつは気づかないのかなって」 「ルックスのいい人が恋愛方面で鈍いのは、防衛なんですよ。鈍くなきゃ、頭が変になっちゃうでしょうね。誰も彼もが自分に性欲を抱いてるって思うのは、あまり気持ちのいいことじゃない。だから、この人が親切にしてくれるのは、単にこの人が親切なだけで下心があるわけじゃないと思う。相手がいくら下心剥き出しでもね。名探偵もルックスのいい人と同じなんです。いつも鋭すぎると、人の殺意が見えすぎて発狂してしまう。だから推理小説の名探偵たちは、防衛のために鈍くならざるを得ないんです」 「面白い説だな」  さっきふいたばかりなのに、もう手の平に汗が滲んでいた。背筋に走った悪寒が、リズムキープするベースのように持続している。 「どうしてそんな話を僕にするんだ?」  僕は、魔法使いに対し、あらゆる心構えをしていた。今度は菜穂子の名前を出されても、動揺しないつもりでいた。何を言われても、驚かない自信があった。 「あなたが調査してた事件、鳴戸遼平の浮気の件と、高木啓太の兄の件ですが」 「なんでそれ知ってる」 「あれね、放っておくと、どちらかで人が殺されます」 「なん、だと」  魔法使いの言葉が、上手く理解できなかった。僕の調査と、人が殺されるという言葉が結びつかない。 「名探偵の真似をしてみたんです」 「どちらかが殺される」 「ええ。あれはね、そんな単純な話じゃないんですよ。近い将来に殺人が起こります。僕が二つの調査について知ってるのは、菜穂子さんに聞いたからです」  魔法使いが笑った。笑いながら、もう一度僕の心臓を撃った。 「もう右足は痛まないんですか?」  衝撃が、右足に走った。幻の痛み。それが右足の脛を叩き、蛇のようにまとわりつく。 「空手の世界では有名な話みたいですね」  歯を噛んだ。食いしばった歯の隙間から、声を押し出す。 「有名だから、調べれば分かる。お前は菜穂子に聞いたんじゃない」 「じゃあ、鳴戸遼平の浮気調査と、高木兄の件は」 「別の探偵を雇って尾行させたんだ」 「僕とあなたが初めて会話したのは、鳴戸遼平の浮気調査が終わってからだ。そうでしょう?」 「お前は」  椅子ごと乱暴に跳ね除けられ、壁に後頭部がぶつかった。痛みに耐えて目を開けると、黒川がデスクに両手をつき電話を睨みつけていた。 「結局何が言いたいのかな、魔法使いくん」 「あなたは?」 「所長の黒川だ」 「事務所に美人だろうとブスだろうと女の子を引っ張りこんで、やりまくってる所長さんですか」 「好きものなんでね、俺は」 「ブスでも構わないって認めるんですか」 「俺はどんな女でも、穴に入れさせてくれるなら可愛がるんだ。顔は関係ない。用件を話せ」 「もう話したはずです。殺人事件に発展する可能性をAFさんに教えてあげたんですよ。親切でしょう、僕」 「証拠もない話だ。親切もくそもねえな」 「だったら証拠を見せましょう。AFさん、まだそこにいるんでしょう」  黒川の制止を無視し、僕は声を張り上げた。 「なんだ」 「今夜十二時に、広島大学の前で会いましょう。そのとき、あなたに証拠を見せてあげます」 「お前が来るのか」 「必ず一人で来ること。いいですね」  念を押すように言うと、電話は切れた。回線の切れた音が事務所に響いた。 「頭冷やして来い」  電話を乱暴に黙らせ、黒川が言った。 「話はそれからだ、AF」
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