二章 4

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二章 4

 男の子が自転車と格闘していた。  五歳くらいの男の子だ。顔を真っ赤にして彼の背丈には少し大きめの自転車にまたがっている。ハンドルを握るのに必死で、ペダルをこぐのを忘れていた。前に進むというより、バランス競技のために自転車に乗っているようだ。  僕は中央公園のベンチに座っていた。事務所を出てから三十分以上が過ぎていた。ずっとここで、男の子の曲芸のような奮闘振りを見ていた。何度転んでも男の子は涙を見せなかったが、限界は近いように思えた。セーターを着た薄い胸が、酸素を求め喘いでいる。次の瞬間、大きくハンドルを切ると、自転車ごと男の子は派手に転んだ。やはり泣かなかったが、男の子は倒れたまま、呆然と自転車を眺めている。どうして上手くいかないんだろうという内心のつぶやきが聞こえてくるようだ。近くに母親の姿はなかった。スーパーで買い物をしているのかもしれない。  男の子から視線を逸らし、足元を見つめた。真っ直ぐな右足を見た。透明だった湖がかき回され、底に積もっていた細かな泥が水を濁らせるように、僕の内側で過去がざわめいていた。ざわめき、踊り、吠えている。目を閉じた。目を閉じると、過去は一層騒々しさを増すようだった。  僕の右足は、昔、脛の真ん中で逆向きに曲がった。医者は右下腿骨骨折だと診断した。全治三ヶ月だった。  八年前の話だ。二十歳のとき、空手の中国大会で、初めてベスト十六に残った。  それまで二回戦どまりだった僕は頭に血をのぼらせ、ベスト八を目指してローキックを放ち、骨折した。押し込むように放ったローが相手の膝に正面衝突したせいだった。  空手やキックボクシングでいうローキックは、相手の足を蹴ることを意味する。ただ足を蹴るためにも技術が必要で、前足と奥足を狙う場合は踏み込みが全く違ってくる。上手い選手は、足の弱点を狙う。膝の内側を蹴れば、膝裏の靭帯を痛めつけることができる。太腿の外側、気をつけの姿勢で指先が触れる個所は、大腿骨の一番弱い個所だ。どちらを蹴るにも高度な技術がいる。  もっとシンプルに弱点を突く蹴りもある。現役時代、僕がもっとも得意だったのは、脛を狙う蹴りだった。相手の脛に、正面から自分の脛を叩きつける。ただそれだけだ。それだけの技が、僕には一番合っていた。  脛は徹底的に鍛えた。鍛え方は単純だ。風呂上りに脛にタオルを当て、ビール瓶で軽く叩く。段階を追いながら徐々にタオルの厚みを薄くし、逆に瓶にこめる力は強くしていく。続けてさえいれば最後にはビール瓶を直接脛に叩きつけ、割れるようになる。  そうやって鍛えた脛を、相手の脛に叩きつける。移動距離が短く、安定した姿勢から放てる、パワフルなローだ。  僕の攻撃は全てそのローキックが重要な位置を占めていた。コンビネーションはいかにローキックを効果的に使うかに重きを置いた。全ての軸はローに集中していて、ローを放つために他の技があるといっても過言ではなかった。  だが、怪我を境にローが蹴れなくなった。  七週間入院し、その倍以上かけてリハビリを行い、体力を取り戻し、いざミットを蹴ろうとしたら足がどもった。吃音に悩む人の言葉のように、僕のローは出なかった。逆向きに曲がった足が、何度も頭に浮んだ。ミットを構えた後輩の目が、とまどいから同情に変わったのを、今でもはっきりと覚えている。  もちろん足掻きに足掻いた。他の技に活路を見出そうとしたり、ボクシングジムに通ったりした。が、それは僕の闘争心がローに直結していたことを証明しただけに終わった。  空手生命が終わった時点で、勤めは首になった。八本松の食品工場は、僕をある種の広告媒体として雇っていた。冷たかったわけではなく、会社は僕が通常の生活に困らなくなるまで待ってくれた。感謝しても足りないくらいだ。  当時の僕にはそれが理解できなかった。だから貯金があるのを幸いに、部屋に引きこもった。  いくら待っても、そろそろ道場へ来ないかという葉書は届かなかった。  僕は一日中部屋にこもり、ネットを徘徊しながら、虐待とコンドームについて考え、結婚と浮気、セックスレスについて考えたりした。  貯金はあっという間に減っていった。  次に減ったのは体重だった。  食費を極端に切り詰めた結果、胃が小さくなり、筋肉が減った。マラソン選手は競技中、蓄えた脂肪だけではなく筋肉や骨までエネルギーとして燃焼させてしまうものだが、僕の身体も飢えたあまり筋肉をエネルギーに変えてしまったらしい。腕とTシャツの袖には隙間ができ、ベルトの穴は三つもずれてしまった。僕はどこからどう見ても、空手の段持ちには見えなくなった。  不思議なことだが、それで少し楽になった。もう空手を忘れていいんだと誰かに言われたような気がした。二十四になっていた。  それからは気楽に空手の試合を鑑賞できるようになり、本も読むようになった。少しずつバイトもやった。リハビリのつもりだったから、週に一度のバイトから始めた。  週に四日働けるようになったころ、菜穂子と出会った。彼女と出会えたのは、神様が届かなかった葉書の埋め合わせをしてくれたように、僕には思えた。  働こうと思った。貯金を使い果たしてしまったことを、初めてもったいないと感じた。貯金さえあれば、今ごろもっと広い部屋に引っ越せたはずだ。  全く、僕は救いようがないほど頭が悪い。  目を開き顔を上げると、予想外の光景が広がっていた。  男の子が立ち上がり、力強くハンドルを握って、自転車にまたがろうとしていた。引き締まった、痺れるほどいい顔をしていた。  男の子に近づいた。 「手伝ってやるよ」 「ほんと?」  男の子が言った。顔だけじゃなく、身体全体が、驚くと同時に喜んでいる。 「ああ」  僕は後ろから自転車を支えてやった。 「持っててやるから、もっと足動かせ。ペダルこがなきゃ自転車は進まないんだからな」  事務所に戻ると今何時か分かってるか、五時だそ五時、と黒川が凄んだ。  僕は黙ったまま頭を下げ、短くなった煙草で山になっているガラスの灰皿を持って厨房に行き、吸殻を捨てて水で洗った。きっちり水滴をペーパータオルでふき取って、黒川の前に置く。もう一度厨房に行き、新しくコーヒーを淹れ直し、カップに注いでソファに戻った。身体を使った心地よい疲労が手足に残っている。幻の痛みはどこかに消えていた。  自転車のことを話した。男の子はほとんど支えていなくても走れるのに、手を離すと転んでしまった。 「気づかれないように手を離せ。手を離しても一緒に走るのがコツだ」  コーヒーをすすりながら黒川が言った。なるほど。これで明日はなんとかなりそうだと告げると、黒川はため息をつき、音を立ててカップをテーブルに置いた。 「整理するぞ。魔法使いを名乗ってる男は、吉川樹里からお前を排除しようとしている。男はお前のことを調べた。お前が空手をやっていたこと、それをくよくよ悩んでいること、鳴戸今日子の依頼と高木啓太の依頼について調べた」 「くよくよ悩んでないです」 「くよくよ悩んでるから、俺にも言わなかったんだろう。どうでもいいよ、そんなことは。で、空手のことと高木敏郎の調査については別の探偵を雇えば調べることは可能だが、鳴戸遼平の浮気調査に関しては調べる手段はない。ここまでは問題ないな」 「空手の話、内緒にしてたの怒ってるんですか」 「別に。水臭いやつだと思っただけだよ。不明なのはそれだけじゃない。どうやってクソがきが樹里を洗脳したのか、まだ明らかになってない。もちろんクソがきの名前もだ」 「それなら」  浩次の話をした。樹里はその男を、どういう意味であれ、忘れないと告げたことを説明し、樹里の携帯電話に浩次のデータはなかったこと、相葉と会ったことを話した。 「テイキョウ警備保障と、竹下警備会社は調べたのか」 「まだです」 「とっとと聞きに行けよ、公園で遊んでないで。座ってろ。まだ話は終わってねえんだ。男が浩次かどうかは置いとこう。問題はどうやって鳴戸遼平の浮気について知ったかだ」  黒川は心の底から嫌そうに顔をしかめた。 「菜穂ちゃんがあんな奴にお前のことを話すはずがない。もしそれが本当なら情報源は秘密にするはずだ。手の内を明かす意味はねえ。嫌がらせだ、あれは。情報がどこから漏れたか心当たりがあるか」 「由梨」  阿呆と言って、黒川が腕組みした。 「由梨が自分から浮気してることを話すはずがねえだろ。鳴戸今日子も論外だ。今日子は夫を疑うのが嫌になったって、調査を止めたんだからな」 「あいつを捕まえて吐かせます」 「お前、今夜行くつもりか? 来ないと思うぜ」 「魔法使いがですか」 「そうだよ。他に誰が来ないってんだ」 「緑健児」 「誰だよそれ」 「僕の英雄ですよ。そろそろ道場に来ないかっていう一行だけの葉書を受け取って、空手の世界王者にまで登りつめた」 「だったらマイケル・ジョーダンだって広大には来ねえよ」  黒川は顔を伏せ、煙草に火を点けた。一息で五ミリほど煙草の穂先が赤くなる。 「クソがきだがな、ああいうタイプの人間は、正面切って出て来ないもんだ。なんか企みがあんだよ。お前を闇討ちにしようとか、そういうな」  闇討ちにすれば警察沙汰になる。不利になるのは魔法使いだ。そう言うと、黒川はとんでもないことを口にした。 「だとしたら、狙いは菜穂ちゃんかもな。なんて顔しやがる。いいか、夜の十二時に呼び出すってことは、お前が菜穂ちゃんのそばにいないってことだ。それを狙ってる。そういう可能性だってあるんだ」  黒川の言葉を噛みしめ、深呼吸した。短くなった煙草を黒川が灰皿に押しつけるのを待って、口を開いた。 「広大には僕が行きます。だから所長は僕のアパートを見張っててください」 「嫌だよ」 「所長が言い出したことでしょう、菜穂子が危ないって」 「危ないなんて言ってねえだろう。狙ってるって言っただけだ」 「同じじゃないですか」 「嫌だよ」  黒川は首をすくめた。 「だって寒いじゃねえか」 「空手のことは、今度話します。樹里の件も、ちゃんと事務所を通します。それでどうです」 「そういうことなら仕方ねえな」  つぶやき、黒川は笑った。 「お前のためにひと肌脱ごうじゃねえか」  脱いで風邪でもひいちまえ。 「なんか言ったか?」 「いや、なんでもないです。あの、殺されるって言ってた件は」 「あれこそ嫌がらせじゃないのか。浮気や闇金絡みの事件ってのは世の中にあるもんだから、言ってみただけだ。騒ぐことはねえ」  魔法使いの口調は、そんなあやふやな感じではなかった。絶対の確信が声にあった。何か見逃してないか考えた。 「菜穂ちゃんともめてんのか」  新しい煙草に火を突けながら、黒川が言った。反射的に身体が強張った。 「アナル用の女を用意しとけって言っただろう。だから魔法使いにつけこまれるんだ。由梨に頼んでみたらどうだ」 「そういうことじゃないんです」 「じゃあどういうことだ。菜穂ちゃんと何があった」  僕と菜穂子に何が起こったのか。どうして菜穂子が泣いたのか。世界で一番知りたいのは、多分僕だ。 「とにかく、菜穂ちゃんと仲直りしとけよ。続けるぞ」  細かい打ち合わせをし、事務所を出ると、六時を三十分過ぎていた。  魔法使いの指定した時刻まで、五時間半残っていた。
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