二章 5

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二章 5

 茶碗蒸しにしようと思った。  五、六日前に読んだ記事が、自転車に跨ったとたんに浮んだ。菜穂子の買ったファッション誌に茶碗蒸しの作り方が載っていた。だしと卵の割合は三対一。混ぜ合わせて、目の細かい網で濾す。蒸し器は必要ないとボブカットの女性が記事の中で断言していた。底の深い鍋に湯を沸かし、器を入れればいいのだそうだ。茶碗蒸し。悪くない。  スーパーで買い物し、部屋に戻った。記事を確認し、まず昆布といりこでだしを取り、醤油と酒、塩で味を調えた。それから買ってきたピーマンを細切りにし、炊飯器に残っていた茶碗一杯半ほどの飯をラップに包んで冷凍庫に入れた。米を研いで、菜穂子にメールした。それからパソコンを立ち上げ、遼平のブログを呼び出した。  遼平は近くの公園で弁当を食べているらしい。三日前からそうしているようだ。温かい日差しと冬の静けさ。透き通った青空と妻の作ってくれた弁当。浮気の話題はどこにもない。これを読んで、由梨はどう思うか考えた。黒川の見当違いの指摘を思い出し、僕は少しだけ笑った。由梨が僕を? 馬鹿げた話だ。  ブログを読み終えても、携帯に返事はなかった。台所のだしも、冷えていないだろう。別のブログを呼び出した。どこかの人妻が浮気相手に撮影してもらった自分の行為を自宅で再確認し、オナニーにふけっていた。別の、やはり浮気に関して人妻が告白しているブログは、訪問者が一日二万人を超え、コメント欄は炎上していた。浮気するなという非難の言葉が燃え上がっている。中には明らかに常軌を逸してしまっているコメントもいくつかあった。宗教上の対立でもあるかのように熱くなっている。  コメントを斜め読みし、映見のブログを開いた。  映見のブログを、僕はもう一年以上追いかけている。ネットサーフィンをしていて、たまたま辿りついたブログだ。どんな顔をしているのかも、どこに住んでいるのかも知らない。コメントを残したこともない。たまたま見つけ、それからずっと読み続けているだけだ。  映見は結婚していて、二人の子どもがいる。夫はギャンブルをするわけでも浮気をするわけでもなかったが、四年間彼女とセックスしなかった。彼女はネットで知り合った相手と浮気し、そのことをブログで告白していた。  もしも映見が夫を詰り、自分の浮気は当然だと主張していたとしたら、僕はプラウザをバックさせていただろう。浮気を自慢する人妻のブログは山ほどあり、その大半は夫が悪いんだと声高に主張している。浮気する人妻の多くは、夫は悪かったかもしれないが、浮気してまで非難するのはアンフェアだとは考えないものらしい。  映見は違った。彼女は夫を非難しなかった。彼女はただ、どうしてなんだろうと繰り返しブログの中でつぶやいているだけだった。  どうして夫は四年間セックスしなかったのだろう?   彼女が本当に知りたいのは、それだけのようだった。  映見の夫が不能なら話はもっと簡単だったかもしれない。が、夫は四年も映見に触れなかった挙句、今月の頭に彼女を抱いた。  十一月二日に更新されたブログには、彼女の混乱が綴られていた。 『四年ぶりのセックスはあっけなく終わった。夫は終わると、無言のまま背中を向けて眠ってしまった。次のセックスは、また四年後なのだろうか。オリンピックみたいだと思うと空虚な笑いがこみ上げてきた』 『どうして夫は今になって私を抱いたのだろう。どうして夫は何も言ってくれないのだろう。どうしてわたしは、夫に、何も聞けないでいるのだろう?』  その日を境に、映見はブログを更新してない。今日も更新はなかった。小さな落胆が僕の内側をピンボールのように跳ねた。  彼女のブログがなぜこんなに気になるのか、自分でも理解できなかった。映見は嘘をついているかもしれないと考えたこともある。ただ、嘘であろうとなかろうとと、彼女のつぶやくどうしてという言葉は僕の中に入ってきて、うずたかく降り積もり、心を締めつけた。男が、あるいは女もなのだろうが、結婚してセックスしなくなるという事実を、映見のブログは僕に突きつけてくる。  八本松の食品工場に勤務していた頃、僕に目をかけてくれた班長がいた。四十台の、太い腕と指をした中塚という男だった。中塚は失敗した誰かを責めたりはせず、豪快に笑い飛ばすような男だった。時々、僕の試合を見に来てくれたりもした。僕が辞めるときも、最後まで心配してくれた。  僕は家庭内別居なんだと、よく中塚はそう言っていた。嫁さんと寝室が別なんだよと。中塚と同じように話す既婚者が工場には大勢いた。  もしかすると、結婚し人生からセックスが消える人々というのは、僕が考えるより多いのかもしれない。中塚に同意した既婚者の多くは、映見の夫と同じ立場にいたのかもしれないし、逆に映見と同じような立場の者もいたのかもしれない。  たかがセックスと考えることは可能だ。精神的な結びつきはとても大事で、神聖なもので、それに比べたら肉体的な結びつきなど取るに足らないのだと考えることは。  しかし、人間の三大欲求のひとつを、そう簡単に切り捨ててしまうのはどこか違うような気がした。黒川には偉そうに言ったが、僕が浮気に対して単純な見方をしなくなったのは、映見のおかげだ。  ディスプレイから目を離し、携帯電話を確認した。気づかないうちに、菜穂子からメールが来ていた。仕事を切り上げ、九時に戻るということだった。時計を見ると、八時二十分を過ぎていた。  パソコンを閉じて、だしと卵を混ぜ合わせ、目の細かい網で濾し、器に入れた。ラップで蓋をして鍋で蒸す。蒸している間に、ネギを刻んで容器に入れ、ピーマンとエノキダケ、もやしをフライパンで炒めた。  炬燵に炒め物と刻みネギ、お椀、インスタントの味噌汁を並べた。茶碗蒸しは火を止めたまま、鍋に入れておいた。  八時五十分。菜穂子とあと十分で会える。米が炊き上がっていることを確認し、少しだけ休むつもりでベッドに横たわった。手足がシーツに沈みこむような気がした。意識もベッドに吸いこまれてゆく。何かを解放するような、何かを手放すような感覚が全身を覆う。安らかな闇が意識を覆った。  目の前にスカートに包まれた尻があった。  誰かがベッドに腰かけ、遠慮がちに僕の肩に触れている。向かいのアパートから漏れる明かりが、真っ暗な部屋を照らしている。向かいはテレビでも見ているのか、光はちらちらと踊り、作り物めいた笑い声が聞こえてきた。動けないまま、目の前の尻を見つめた。テレビは意味もなく笑い続けている。  スカートの柄に見覚えがあると思ったとき、不意に意識がクリアになった。顔をずらし、上を見た。  菜穂子は泣いていた。唇を噛んで嗚咽を殺している。頬を涙が濡らし、角度によって白く光って見えた。身体を起し、時計を見ると十時を過ぎていた。一時間以上寝ていたことになる。  僕が起きると、菜穂子はすっと立ち上がって、背中を向けた。素早くティッシュを取る。 「今日も探偵なんでしょう。寝てていいよ」 「起きるよ。話したかったんだ」  口の中が乾燥していた。いつもの彼女なら、布団を剥いででも僕を起こすはずだ。菜穂子は少し距離を保ったまま、右手にティッシュを握りしめている。正面に回りこむと、彼女はうつむいた。手を伸ばし、そっと抱きしめた。菜穂子は僕を抱き返してこなかった。力なく抱かれたまま、僕の肩に顔を押しつけている。背中の筋肉が緊張しているのが分かった。 「ごめん、ほんとに」  しばらくそのままでいた。  頭の中に、裸のまま泣いていた菜穂子の姿が蘇った。性質の悪い虫歯のように、心の根っこの部分が疼いた。手の届かない場所で、痛みが脈打っている。強く菜穂子を抱いた。痛みを押しつけているような気がした。 「もう大丈夫だよ」  菜穂子が顔を上げた。僕が見つめると、菜穂子はすっと視線を逸らした。 「ご飯、食べよう。ちょっと待っててね」 「大丈夫?」 「うん。顔洗ってくる」  どう考えるべきか判断がつかないまま、部屋の明かりを点けた。  狭く、散かった部屋だ。どこから片付けるべきか、判断できない。僕と菜穂子には、もっと広い部屋が必要だ。  だが部屋が広くなると、僕と菜穂子の距離はもっと広がってしまうような気がした。 「座ってて」  菜穂子が戻って来て言った。 「炒め物、レンジしてくるね」 「お湯、沸かすよ」 「座ってて。ご飯、作ってくれてありがとね」  菜穂子がスーツを脱ぎ、着古した青いセーターとジーンズに着替え、てきぱきと働くのを見ていた。もう怒っているようにも、疲れているようにも見えない。涙を流し終え、彼女の気分は切り替わっているようだった。いつもの菜穂子と同じに見える。  どうして泣いていたのか聞きたかったが、聞くのが怖かった。それを聞いてしまったら、結局、あの夜の涙についても聞いてしまいそうだった。菜穂子は一生懸命明るく振る舞ってくれている。僕が寝ていたことを責めないでいてくれる。それをぶち壊したくなかった。  台所で菜穂子が小さく叫ぶと、僕の前に飛んできた。 「鍋に何かある」 「茶碗蒸し作ってみたんだ」 「凄い。茶碗蒸しなんて作れたんだ」 「これに書いてあった」  僕は雑誌を拾い上げ、ページを開いた。 「簡単にできるって書いてあったから、やってみた」  菜穂子に喜んで欲しくて。いつもなら簡単に口にできる言葉が出てこなかった。何かひとつ言葉を飲みこんでしまうと、どんどん言葉が出てこなくなるのかもしれない。  まだ温かいよと言いながら、菜穂子が茶碗蒸しを運んできた。 「食べよ」  菜穂子が微笑んだ。僕は頷いて、箸を取った。まるで食欲が湧かなかった。  それで気づいた。  菜穂子を抱きしめていたときも、菜穂子の着替えを見ていたときも、僕は勃起しなかった。それどころじゃない。今日一日、ずっと僕の股間は静まり返っていた。 「美味しい、茶碗蒸し。よくできてるよ……どうしたの」  菜穂子が不思議そうに言った。 「何でもないよ」  僕は無理やり笑った。僕の息子が小動物のように縮こまってるんだ、なんて口が裂けても言えなかった。言えないことが、山のように増えてくる。  震える茶碗蒸しを口に放りこんだ。  もう引退しちまったプロレスラーによれば、格闘技とは『心・技・体』ではなく『心・体・技』なのだそうだ。  心が強く、肉体が強くあって、初めて技が生きる。心が強くても、身体が弱ければ技は潰されてしまう。そういうものらしい。  技と体、どちらが重要なのか僕には分からないが、どちらにしても心が一番に挙げられているのは興味深い。それはセックスでも同じだと思う。  セックスも心は一番大切だ。古臭いのは分かっているが、僕は馬鹿だから考えを変えようとは思わないし、なんでも新しいことが正しいとも思えない。セックスは心と心でするものだ。それは男も女も同じで、だから、もしも二人の間にしこりがあれば、心底楽しめなくなる。そうなると、しこりを持っている側の人間は、セックスを回避する。  つまり、バロメーターになるってことだ。  会話と一緒だ。自分のことばかり話すのは楽しいが、いつも聞き役の相手は不服を抱くようになる。心のこもった相槌は少なくなるし、そこから熱は生まれない。しまいには会話を避けられる。いつも同じ話題では相手に飽きられるのも同じだ。会話に必要なのは、創意工夫とキャッチボールだが、それはセックスに要求されるものとほとんど一緒だ。というか、身体を使って会話するのがセックスだと僕は思っている。  もちろんこれには、同じ相手と何度もセックスする場合という但し書きがつく。  魅力的な異性と出会い、話が弾むのと同じで、セックスもまだ出会って間もない魅力的な相手とならば、頭を使わなくても成立する。それは好奇心が薄れるまで、あるいは最初の衝突までなら持続する。発展はしない。  別の相手に同じ言葉を繰り返し使ってみれば、それがどれほど味気なくつまらないものなのか、相手と自分をも貶めているのか、分かるはずだ。それは会話を、セックスを、パターンで捕らえるという陥穽を招く。 「ビートルズは常に新しい音楽を探していたんだって」  僕がそういう話をすると、菜穂子は微笑んで言った。まだ一緒に暮らし始めたばかりの頃だ。 「大抵のバンドはひとつになることを求めて活動し、そのピークを迎えると下降していく。それを避けるために頻繁にメンバーを交代するんだけど、ビートルズは新たなピークを迎えるために、新しい音楽を求めたの。一平が言ってるのって、そういうことでしょ」  彼女はとても貴重だし、彼女となら一生話しても会話は途絶えないだろう。いつまでも僕たちは二人で成長し続けて行ける。当時の僕はそう思った。  だけど。僕はワゴン車に寄りかかったまま周囲を見回した。  広い敷地の果てに、黒々とした闇がわだかまっている。広島大学の校舎だ。いくつかの窓に明かりが点っていたが、それがかえって闇を引き立てているように思えた。零時を三十分過ぎていた。  黒川に車を借りていた。自転車では遠すぎる距離だったし、魔法使いは車で現れるかもしれない。彼が来なかった場合も、ワゴンならすぐ部屋に戻れる。  夜空を見上げながら、両手をこすり合わせた。身体の芯から震えが湧き起こってくる。冴えた星空を眺めながら、だけど、ともう一度思った。  だけど僕はインポになっちまった。  セックスと会話はほとんど一緒だが、それでも全てが同じではない。セックスレスの問題は、遠くネットの彼方や結婚後の問題ではなく、不意に手で触れられるほど身近なものになっていた。まるで、気がついたら隕石が地球に衝突することが分かりましたというニュースを突然聞かされたような衝撃だった。  僕は映見の夫のように行為が可能なのにしなかったわけではない。僕が本当にインポなのかどうか、まだはっきりしていない。単に疲れているだけかもしれないし、通院することでまた力強い勃起を取り戻すことは可能なのかもしれない。  だが僕は映見の夫のように、菜穂子に何の説明もしなかった。  遅めの夕食を済ませたあと、ベッドに横たわり、しばらく一緒に過ごした。菜穂子は僕の上に乗っかり、色っぽく目を細め、僕の耳をつまんだり、髪を指先で撫でたりした。一言で言えば、そういう雰囲気だった。が、僕の股間はセックスの気配に縮こまっていた。切羽詰った挙句、僕はしたいけどできない、ではなく、ちょっと疲れているんだと言った。菜穂子は、伸ばした手を遠慮がちに引っこめた。当惑と後悔が入り混じったような顔で、あんな顔、二度とさせたくなかった。  病院に行くべきだろうか。何科に行けばいいのだろう。もっと様子を見て、これが機能的な問題なのか、精神的な問題なのかを見極めるべきなのだろうか。  仮に僕がずっと勃起しなくて、セックスレスのまま菜穂子と上手くいくだろうかと想像してみた。きっと菜穂子は優しくしてくれるだろう。気にしないと言ってくれるだろう。それでも、その状態のまま続くとは思えなかった。性欲が減退した頃にセックスレスになるのとはわけが違う。僕たちは互いに苦痛を強いられるし、その苦痛を表に出さない苦痛に苛まれる。気にしてないと互いに言い合いながら、気にしなくてはならなくなる。  そんな関係が長続きするとは思えなかった。  別の相手なら勃つのだろうか。男が浮気し始めるのは、こういう時なのかもしれない。そう思った瞬間、もしかしたら遼平はインポに悩んでいるのかもしれないという考えが浮んできた。彼は、だらしないペニスにため息をついて、力を取り戻そうと足掻いているのかもしれない。  携帯電話を取り出した。零時四十分。帰ろうと思った時だった。  背後から、右手にバットが叩きつけられた。  痛みというより、まるで骨を直接叩かれたような不快感があった。木琴でも叩いたような、乾いた澄んだ音が耳の奥に残っている。強い痺れがあった。指が動かない。  顔を上げた。右手の方向、すぐ近くに男が立っている。黒のジャージの上下を着ている。頭全体がすっぽりマスクに覆われていた。ルチャだと思った。ルチャ・リ・ブレ。メキシコのプロレスラーは小柄な選手が多く、派手で夢幻的な飛び技を駆使する。そういうプロレスをルチャ・リ・ブレと呼ぶ。男が被っているのは、メキシコ系のプロレスラーが被るような真っ赤なマスクだった。  棒立ちになったまま、男を見つめた。頭の一部が働き続け、男の被っているマスクがドスカラスというプロレスラーのマスクに似ていることを認識する。ドスカラスがバットを持ち上げると、斜めに打ち下ろしてきた。  思考よりも先に、身体が動いた。バットが左肩を掠め、白いワゴンの屋根を叩く。音で、意識がはっきりした。何を考えているんだ僕は。歯を強く噛んだ。  バットを避けるため、ワゴンのドアから遠ざかっていた。男の背後に広島大学が見える。右手がどくんと脈打ち、痛みが跳ねた。携帯電話を持っていないことに、その時気づいた。携帯電話はドスカラスの足元に転がっていた。バットが届くか届かないかの距離で睨み合った。  ドスカラスは僕とそう変わらない身長だ。百七十三センチ前後。中肉中背。それでメキシカンレスラーのことが頭を過ぎったのかもしれない。メキシコ系レスラーの平均身長は、僕と一緒くらいだ。身長制限によって日本でプロレスラーになれなかった場合は、メキシコに渡ってマスクマンになることが多い。  だからルチャはどうでもいいんだ。大声で叫びそうになる。ドスカラスは動かない。口を開け、肩で息をしていた。バットの先端が呼吸に合わせ、迷うように上下している。  逃げよう。  心を決めた。ドスカラスは素人だ。たった二度の攻撃で、息を乱している。右手と肩を狙ったことから考えても、殺すつもりはない。不用意に争って、相手を追い詰めることは避けるべきだ。パニックに襲われた素人ほど、やばいものはない。  逃げてしまえばいい。ドスカラスはバットを持っている。マスクで視界も悪い。  問題は、背中を見せれば確実に襲ってくることだ。  拳を下げた。呼吸を腹式に切り替える。数度繰り返すと、丹田に気が満ちるのが分かった。もう一度、空気を吸いこみ、踵から爪先まで気を漲らせる。 「うりゃッ」  気合と共に、左の膝を突き上げた。軸足を返し、上段蹴りを放つ。ドスカラスが、気圧されたように首を後方にのけぞらせた。  蹴りは当たらなかった。もともと、届く距離でもない。蹴った足は引かず、勢いに任せて振り切る。軸足を更に返すと視界が百八十度回転した。ドスカラスと車、広島大学が消え、真っ直ぐ伸びたアスファルトの道が目に入った。等間隔で街灯が点っているが、他にほとんど明かりはない。真っ直ぐ続いた道は、闇に消えている。  アスファルトを蹴り、闇に向かって走った。あっという間に最初の街灯が迫って来て、後方に消えた。腕を振る。背中に冷たい恐怖が張り付いていた。二本目の街灯が目の脇を通過していく。走り続けた。自分の心音が邪魔で、背後の音が聞き取れなかった。ドスカラスがどうしているのか分からない。口の中がカラカラだった。三本目を通過した。息が乱れてきた。身体が後ろに引っ張られているような気がする。膝が笑いそうだ。歯を食いしばった。三本目の街灯が見えた。いや、四本目の街灯だろうか。分からなかった。分からないまま走り抜ける。息が苦しい。頭が徐々に下がってくる。踏み出す足の間隔が狭くなっている。街灯。道が右にカーブしていた。後ろを見た。闇が見えるばかりだ。ドスカラスはいない。だが、次の瞬間にも闇から飛び出してくるかもしれない。 「くそ」  死に物狂いで足を動かした。  手が重かった。膝も上がらない。街灯に照らされ、道路の左手に田んぼが広がっているのが見えた。スピードが鈍っているから景色が見える。分かっても、もどかしいほどに足が動かない。  次の街灯まで走ろう。そこまで走ったら、休めばいい。ドスカラスは絶対に追いついてこない。言い聞かせた。言い聞かせながら走った。次の街灯を過ぎ、その次の街灯も過ぎた。  そこで足が止まった。一度止まると身体が言うことを聞かなくなった。背後の山に向かってなだらかに伸びる小道、その脇に生えている雑草に向かって這うようにして進んだ。草むらに身を埋めると、尖った葉が頬や首筋を刺してきた。横たわったまま青白い闇に目を凝らす。月明かりと街灯が、乾燥した田畑と広い道を照らしていた。田の表面がひび割れているのが見えた。寒い。背中の汗が冷え、体温を急速に奪いつつある。どこからか、水の音が聞こえてくる。息を殺しながら考えた。  あれは、誰だったのだろう。  無意識のうちに通り魔だと思いこんでいた。だが、通り魔ならもっとがむしゃらに襲ってきたはずだ。ドスカラスは僕の様子を伺っていた。殺さないように手加減をしていた。普通の通り魔なら、そんなことはしないだろう。だとすれば、あれは異常な通り魔だということになる。 「というか」  僕は自分で突っこんだ。 「通り魔はそもそも異常だ」  静かだった。通り魔のドスカラスは姿を見せない。体温の低下を考えると、そろそろ動くべきだろう。ドスカラスはボール以外の何かをバットで叩きたかっただけだという可能性もなくはない。マスクを被った通り魔に遭遇する可能性はゼロだとは言い切れない。もしそうならば、やつは次の獲物を探していなくなっているはずだ。このまま立ち上がって車に戻り、部屋に向えばいい。  でも、もしも、あれが単純な通り魔ではなかったら。  黒川は言ったはずだ。魔法使いは闇討ちでもするつもりじゃないのかと。もしかしたら、マスクの下には、魔法使いの歪んだ笑みが浮んでいたのかもしれない。  違う。魔法使いは会話録音していたことを知っている。待ち合わせを指定したのは、あの男だ。真っ先に疑われると分かっていて、直接襲ってくるとは思えなかった。そこまで直情的な人間ではないはずだ。  樹里の扱いを考えれば分かる。あいつは直接手を下すタイプではない。あいつなら、自分の手を汚さず、誰かに命令するだろう。 『あれね、放っておくと、どちらかで人が死にますよ』 『あなたに証拠を見せてあげます』  ドスカラスの襲撃が、証拠だとしたら。  魔法使いはどちらの調査についても、詳しく知っていた。関係者の電話番号を知っている可能性は高い。もし殺人を計画している誰かに、お前の周囲をかぎまわっている探偵がいるぞと魔法使いが電話で教えたら、どうなるだろう。今は何も気がついてないようだが、いずれお前の計画に気づくかもしれないと囁いたら?  本気で殺害を計画しているのならば、その誰かは僕を襲うはずだ。計画を達成する前に、危険を冒す必要はない。ドスカラスは僕を殺すのではなく、手を引けと脅す可能性が高い。顔を隠していたのは、あのマスクの下には僕が知っている顔があるからだ。  考えすぎだろうか。僕は魔法使いの言葉に惑わされているのだろうか。鳴戸遼平の浮気調査に、殺人の影はない。まだ遼平と由梨の間に肉体関係はない。二人は、二階と一階で見詰め合っているだけだ。そこまで深刻な事態が予見できるとは思えない。啓太の兄貴に関してもそうだ。カード地獄は深刻だが、人を殺すまで発展するのはよくよくの場合だ。敏郎の借金は焦げついているようだが、嘘をつく余裕が残っている。どちらにも、人を殺すという重大な動機が存在しない。動機が存在しないのに、計画的な犯行を行うはずがない。動機が存在しない殺人は通り魔的な犯行だ。いくら魔法使いでも、突発的な犯行を予測することはできない。  それとも、僕は思った、魔法使いはそれすら可能なのだろうか。樹里を魔法の言葉でコントロールしたように、人知を超える何かをあの男は有しているのだろうか。  知るはずのない、遼平の浮気調査について知っていたように。 「馬鹿な」  つぶやいた。つぶやいた瞬間、音がした。誰もいなかったはずの道路。そこにドスカラスがいた。僕を見据えている。露出した口元が、激しく歪んでいるのが分かった。  飛び跳ねるようにして、立ち上がった。手足の関節が、油の切れた蝶番のようにぎしぎしと軋んだ。小さな丘を越えると、身体が暖まりぎこちない動きは少しだけ滑らかになった。水の音が近くなり、川が見えた。暗い川はコンクリートに護岸され、美容整形された鼻筋のように真っ直ぐ流れていた。手術が気に入らなかったのか、水の流れは夜目にも猛って見えた。激しい水音が耳を打った。  頭を殴られたのは、その直後だ。
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