二章 6

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二章 6

 橋の欄干に手錠で繋がれたまま、暗い川を見つめた。  水の流れが早い。飛沫が散って、月の光がこぼれているようだ。両側の岸は暗すぎて見えない。葦が風に揺れているのが分かるだけだ。  魔法使いの推理は当たっているような気がした。ドスカラスは、鳴戸遼平の関係者か高木敏郎の関係者で、殺害計画を安全に遂行するためにバットで僕を脅した。  一方で、そんなわけないと執拗に主張する僕もいた。仮にドスカラスが誰かを殺そうとしているのだとすれば、邪魔者は僕だけではない。魔法使いだって目障りになるはずだ。やはりあれは魔法使いで、僕を惑わせるためにマスクを被ったのではないだろうか。  分からなかった。  そもそも、今の僕が考えごとに適した状態にあるとも思えない。  腰をずらし、左肩を動かした。ずっと手をあげているため、肩と肘が痛み始めている。手首が熱を帯び、背中が強張っていて、全身が重い。頭の血は止まっていたが、左手首は熱を持っているようだ。指先は痛いほど冷たくなってほとんど感覚がない。わずかに露出している皮膚からだけではなく、セーターとシャツ、ジーンズを通過して、冷気が忍び寄ってくる。  あつあつの茶碗蒸しを、口の中が火傷してもいいから放りこみたい。それが無理なら肉まんでもいい。コンビニで肉まんを買って、熱いまま噛まずに飲みこんでしまいたかった。ラーメンでもいい。たこ焼きでもいい。なんでもいいから冷え切った食道と胃を温めてくれるものが欲しかった。胃袋が温まり、熱がじんわりと手足や指先に行き渡るような幸せな料理が食べたかった。おでんでもいいし、湯豆腐でもいい。鍋物なんか最高だろう。別にカニ鍋が食べたいなんて贅沢は言わない。ちょっと出汁がよく出るような素材が入ってればいい。アサリとか。アサリはいいよな。安くて美味しい。脳年齢だって若返るんだとテレビで言ってた。だからアサリは決定だ。後は豚肉でも入ってりゃいい。左手が痛くてしかたないな。豚肉を入れるなら、キムチ鍋にしたいところだ。あれは温まる。カプサイシンとか言ったっけ。なんか唐辛子にはそういうパワーがあるのだ。違う。パワーじゃなくて、栄養素。テレビとかでカプサイシンパワーって何度も言うから間違って覚えちまう。パワーじゃない。あれは栄養素の名前だ。燃えるような唐辛子が身体を温めてくれる。発汗作用があるんだ、カプサイシンには。だけど、キムチ鍋にすると、鍋カレーにできないのが問題かもしれない。鍋を途中まで食って、具材を残してカレールーを投入すれば、鍋カレーの出来上がりだ。あれは美味い。菜穂子も美味いと喜んでくれた。カレーの基本はスープなんだと聞いたことがある。美味いカレーを作りたければ、スープに神経を使うことだ。そういう意味では出汁の効いた鍋に残ったスープは、カレーのために存在していると言っても過言じゃない。鍋カレーは美味いぞと、荒岩さんも言っていた。クッキングパパはいつまで続くんだろう。それにしても寒い。寒くてたまらない。  胸元を見下ろした。服にゲロがこびりついていて、そこから寒さが浸入してくる。まるで身体に開いた穴から風が吹き込んでくるみたいだった。ポケットに手を入れ、菜穂子のメモに触れた。  あれは誰だったのだろうと朦朧としながらもう一度考えた時、闇を切り裂くような荒々しい音が響いた。  轟音が土石流のように山から降りてくる。目を凝らした。道路一杯に無数の明かりが煌めき、音と共に走ってくる。巨大な蛇のようだった。目玉が無数にある蛇だ。広島の名物が宮島とお好み焼き、紅葉饅頭だけではないことを思い出した。 「助けてくれ」  絶叫した。高まる轟音に、声はあっと間にかき消される。立ち上がった。もう一度、声を上げた。  喉が裂けそうなほど絶叫し、もう無理なのかもしれないと諦めかけた時、蛇が止まった。怒号があちこちから飛び、群れから一台のバイクがこっちに向かってきた。痩せた男だ。白地に何か無数の漢字が書かれている長い上着を着て、頭に鉢巻を締めている。山から降りてきたことから考えると、山伏のように思えなくもない。バイクが橋に到達し、僕はライトに照らされた。 「なんだ」  低い、何かに苛立っているような声が、ライトの向こうから聞こえてきた。 「SMショーでもやってんのか、お前」  暴走族の連中はどこかのラーメン屋まで連れて行ってくれるだろうか。考えながら、僕は腰を下ろした。ラーメン屋までは無理でも、ワゴン車までは運んでもらおう。もう一歩も歩けない。  道路は見える範囲全てがバイクに占領されて、駐輪場のようだった。エンジンは停止させてないようで、方々から低い唸りが聞こえてくる。口笛とひそひそ囁かれる言葉。  深くため息をついてから、僕は口を開いた。 「申し訳ないんだが、橋の入口に手錠の鍵がある。取ってきてもらえないか」  ライトの向こうで男が一声かけると、何人かの男がすぐに動いた。よく訓練された動物のようだ。動きに愚直なまでの忠誠が滲みでている。兵隊の一人が男の元に向かい、ライトが消えた。男がバイクから降りて、こっちに向かって来た。  助かったんだ。僕はもう一度、深い息をついた。 「これか」  男が言った。手に鍵を持っている。まだ若い。二十歳になったかならないかくらいだろう。口髭を生やしているが、まるで似合ってなかった。 「たぶん、それだ」 「何やってたんだ、こんなとこで」  男が鍵を揺らした。 「プレイか?」  男が僕を見た。僕の答えを待っている。どう説明すべきか分からなかった。とにかくラーメンが欲しかった。 「何があったか分からないんだ」  僕は首を振った。左手を持ち上げる。 「急に襲われて。気がついたらこんな状態になってた」 「それでどうして鍵のことを知ってるんだ」  男が唇を捻じ曲げた。髭が、斜めに吊りあがる。男が右手を振った。振った手から何かが飛ぶのが見えた。血が凍りつくようだった。男の手に、鍵はなかった。何度見ても、男の手にさっきまであった鍵は見当たらなかった。 「嘘つくからだ」  にやにやと笑いながら男が言った。視線が針のように尖っている。罠にかかった獲物をいたぶる目だ。 「本当のこと言えよ。言えば、仲間に言って鍵を拾ってきてやるよ」  マンガに出てくる暴走族は大抵いい奴だ。話せば分かる、血の熱い連中だ。曲がったことが大嫌いで、本当の正義が何かを知っている。  それは結局フィクションで、現実の暴走族は単なるフラストレーションを解消するためにバイクを走らせている、とは思わない。中にはマンガの登場人物のような暴走族もいるのだろう。だが、目の前の男が、そういうタイプだとはまるで思えなかった。どう見ても、弱者を痛めつけることに喜びを見出すタイプだ。  男が更に近づくと、僕を見下ろした。優越感と暴力の気配が上から降ってくる。反発が恐怖に追いやられ、胃が痙攣した。 「覆面を被った男に襲われたんだ。手を引けと言われた」 「手?」 「探偵なんだ。調査から手を引くよう脅された。僕が目障りな人間がいるらしい」 「じゃあ、もしここで」  男が奇妙にかすれた声で言った。 「僕がお前を殺したとしたら、犯人はその覆面野郎だって警察は考えるかもな」 「警察はそこまで馬鹿じゃない」 「僕な、いっぺん人を殺してみたかったんだ」  僕の話など聞いていないかのように、男が笑った。 「探偵なんて、どうせ浮気調査とか汚い仕事してるんだろう。死んで当然だな」  男が舌なめずりし、次の瞬間、右足で僕を蹴った。腰の入ってない、みっともない蹴りだ。それでも効いた。  うずくまった僕に、更に蹴りが飛んでくる。欄干にしがみついて男に背中を向けた。笑い声が道路から聞こえてくる。煽るように、エンジンをふかす音がする。音がうるさすぎて、思考のつぶやきは聞こえない。痛みがそれに拍車をかける。逃げようにも手錠で繋がれている。相手はバイクだ。数が多すぎる。死ぬのか。こんな場所で僕が死ぬはずがない。痛い。後ろの男はいつか疲れるはずだ。疲れてバイクで去っていくはずだ。僕が死ぬまで続けるはずがない。怖い。絶叫しそうだった。  男は去らなかった。僕をゆっくりと蹴り続けた。体力を温存するためなのか、連続して蹴るわけではなく、一回蹴り、しばらく間を開け、もう一度蹴るということを繰り返していた。途中に挟む休憩は同じではなく、極端に短かかったかと思うと、もう蹴るのを辞めたのかと思うほど長い場合もあった。予測が立てられず、どの蹴りも凍えかかった身体の芯に響いた。  笑い声やエンジン音はギャラリーの興奮を現すように音量を増していた。一体感のようなものが男の蹴りを後押ししている。その一体感から、僕だけがはじかれていた。阻害され、苦痛に喘いでいる。  眼下の川を見た。手すり越しに、暗く煌めく水面が見える。死ぬはずがない。腹を庇うことで、内臓破裂は防いでいる。死ぬ、はずがない。時間さえ稼げば。その思考が蹴りに揺さぶられる。水面が揺れる。エンジンが吠えた。金属的な唸り声が身体に浸入し、腹の中をかき回す。音が内臓を食い破ろうとしている。苛立ちが身体中に充満し、エンジンの唸りと共に合唱する。蹴り。積み上げた思考が崩れる。崩れているのは心なのかもしれない。もどかしさに手を動かし、手錠で繋がれているのを思い出す。蹴り。生まれてからずっと、こうやって蹴られているような気がした。他のことは思い出せない。蹴り。面倒くさそうに舌打ちする男。笑い声。エンジンの唸り。暴力が音と共に、流れこんでくる。流れこんで、内側を蹂躙する。逃げ出そうとした。何故か左手が動かなかった。腹に爪先が食いこんだ。  手錠で繋がれているんだ。腹を押さえ、倒れながら思った。それを忘れるなんて、どうかしてる。それとも、もう僕はすっかりどうかしちまったのか? 「なんだ、いいもんが転がってるじゃねえか」  口髭の男が言った。からんと金属が鳴る音。ぼこぼこに変形したバットを、男は持っていた。真っ白い歯が闇に浮んでいる。 「いいかぁ」  間延びした声で、男が言った。バットを両手で振り上げる。 「動くなよぉ」  バットが風を裂いた。動こうとした。途端に、猛烈に左手首が痛み、意識がはっきりした。手錠で繋がれている。逃げられない。  バットを右手で払いながら、身を捩った。直後にアスファルトを打つ音が響く。 「動くなって言っただろうが」  口髭が怒鳴り、もう一度バットを振りかざすのが見えた。左だけではなく、右手首もおかしかった。もうさっきのような無茶はできない。口髭がバットを頭上にかざした。  足を伸ばし、口髭の膝を蹴った。足裏に、したたかな衝撃が突き上げた。伸びた膝を正面から蹴れば、靭帯にダメージを与える。関節蹴りに、口髭は悶絶した。バットが川に向かってふっ飛んだ。膝を押さえ、口髭が地面を転げまわった。観察する暇もなく、横から顔面を蹴られた。手すりに後頭部がぶつかる。一瞬、視界が真っ暗になった。気がつくと、囲まれていた。数え切れないほどの足が、僕の身体を蹴っている。伸ばしたままの左手を蹴られ、痛みに僕は絶叫した。身体が棒のように硬直する。硬直した身体を蹴られた。  誰かの手が僕のサイフを抜き取っている。動けなかった。蹴りが止んでいた。 「僕が殺す」  声がした。口髭が膝を押さえながら、中腰になって僕を睨んでいた。周囲にいた兵隊たちが離れる気配がした。 「ふざけた真似、しやがって」  口髭の目は、他とは段違いの狂気をはらんで光っていた。声が出ない。距離を測った。膝だけを見つめた。  エンジンの音が激しくなった。口髭が立ち止まり、右手に顔を向けた。待った。音が一層激しくなり、耐え切れないかのように先頭の数台が走り出す。パトカーのサイレンが聞こえた。  口髭が煙草の火を押しつけるように、僕を睨んでいた。この世に存在する憎悪の全てがこもっているような視線だった。  道路を塞いでいたからだ。だから誰かが通報した。教えてやろうとしたが、やはり声が出なかった。断ち切るように口髭は僕から目を離すと、バイクにまたがった。兵隊たちが駆けて行く。口髭のそばに、女が一人だけ残った。化粧は濃いが、まだ幼いように思えた。高校生くらいかもしれない。女は僕を一瞥すると、口髭の後ろに乗った。  サイレンの音が、少しだけ近づいたように思えた。  手錠の鍵を外してくれた年かさの警察官は、何度も僕に寒いのかと聞いてきた。  救急隊員も、黒目がちの看護師も、二十代半ばくらいの眼鏡をかけた医師も、同じ質問をした。そのたびに、僕は首を振った。寒くなかった。ただ、震えが止まらなかった。  眼鏡をかけた若い医師は、僕の手首を見てわずかに顔を顰め、身体のあちこちを点検し、痛み止めの注射を打ってくれた。念のため頭部の検査をしておきましょうと医師は言い、看護師が六人部屋に案内してくれた。同室の患者は、みな眠りについていた。午前四時を過ぎていた。  目を閉じても、震えは止まらなかった。  少しだけ夢を見た。夢の中で僕は、あの口髭の若い男に何度もバットで殴られた。膝を狙った蹴りはかわされ、ダンスフロアのように踏みつけられた。バットが右足に叩きつけられたところで目が覚めた。  それっきり眠れなくなった。  痙攣するような震えは、部屋が明るくなるまで去ろうとはしなかった。  六時過ぎに菜穂子が病室に来てくれた。一度顔を出し、看護師と共に部屋を出て、もう一度顔を見せに戻ってくれた。面会時間じゃないから、彼女が囁いた、すぐ行かなきゃいけないの。簡単に何があったかだけを伝えると、菜穂子は一度手を握ってくれた。ひんやりとした力の強い手だった。手の感触は、彼女が出て行っても消えなかった。三十分ほど眠ることができた。  十時に黒川が来た。 「菜穂ちゃんから電話があったんだ。派手にやられたな」  妙に感心したように黒川は言った。  ゆっくりと僕は身体を起した。鈍い痛みが身体の芯を叩き、筋肉がひきつった。それでも座ることができた。上出来だ。 「差し入れだ」  文庫本サイズの量子論の本だった。黒川が言った。 「何があった」  説明した。短い睡眠が脳の働きだけは回復してくれたようだった。隣のベッドにいた若い患者が僕たちを胡散臭そうに見ながら病室を出て行った。 「族は捕まったのか」 「数人は捕まったらしいんですが、僕を殴った相手はまだみたいです」 「覆面レスラーは魔法使いじゃねえのか。誰かが殺害計画を企んでるなんて考えるより、そっちのほうが現実味がある」  そうだろうか。魔法使いが直接襲ってくるとは思えなかった。ただ、黒川の言うように殺害計画なんて言葉に現実味がないのも確かだ。高木家の問題も、鳴戸家の問題も、人を殺意に駆り立てるような動機は見当たらない。  覆面の男は、魔法使いかもしれないし、二つの調査の関係者なのかもしれない。 「お前を殴ったっていう暴走族は、魔法使いと関係あると思うか」 「ないでしょうね」  あいつらは、僕が必死になって叫ばなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうだった。声を嗄らして叫んだから、止まっただけだ。そう答えると、黒川は更に、手錠と金属バットはドスカラスが持参したものであること、頭を殴ったのもドスカラスであることを確認した。 「頭痛はしないんだろうな」 「とりあえず、今は」 「ならいい」  何を考えているのか分からなかった。じっと見つめると、黒川は悪そうな笑みを浮かべた。 「魔法使いがマスクマンなのかどうか分からないが、とにかくそいつをとっちめてやりたいと思ってな。多分、警察は族を捕まえることに主眼を置くだろうから」 「確かに」 「警察は暴走族を捕まえるだろう。でもそれだけだ。覆面野郎は野放しになる。お前の頭を殴ったんだから、暴行罪が成立するのにな。もし治療費を請求するとすれば、暴走族からになるだろう」  でもなと言って、黒川は更に声を低くした。 「どうせなら覆面野郎から金を搾りたくないか。そもそも手錠を嵌められなきゃ、お前はこんな目に会わなかったんだ」 「そりゃそうですが」 「お前を殴ったゾッキー君は、捕まってないんだろう。だったら面通しされても、違うって言えばいい。そいつじゃないってな。容疑者を特定できなきゃ、不起訴になる」 「それで? どうするんです」 「お前はドスカラスに殴られ、手錠で繋がれた。診断書もある。それだけ材料があれば、全部ドスカラスのせいにできるってことだ。警察が暴走族を立件したら、使えない手だけどな」  笑ってしまった。 「つまりそれは全部ドスカラスにおっかぶせて、強請ろうってことですか」 「嵌めた奴を嵌め返すのは、常識だろう」  探偵は探偵らしくしようぜと言うと、黒川は立ち上がった。 「とっとと退院して来いAF。とにかくあのガキを表に引っ張り出すことだ」 「樹里の調査を続ければ、道が開ける」 「そういうことだ」  あの件から手を引けというドスカラスの声が蘇った。黒川を見送り、喫煙室で煙草を吸って倒れそうになった。ベッドに戻った。白い天井を見つめ、黒川の策に乗るかどうか考え続けた。    昼食の後、頭部の検査が行われた。  病室で待たされ、一階の検査室前でも長時間待つことになった。待っている間、痛みは、強くなったり弱くなったりした。ゆっくり動けば痛みは少なかった。捻ると息が止まりそうになる。背中一面が熱を帯びているようだった。  検査自体はすぐに終わった。病室に戻る途中、案内表示板があるのに気づいた。穴が空くほど見つめた。婦人科はあるのに男性科はなかった。漢方か針を当たるべきだろうかと考えたとき、声をかけられた。 「何してんの」  振り返ると、由梨が立っていた。白のすごくタイトなミニワンピースを着ている。そっと目を逸らした。通り過ぎる男性のほとんどが、由梨の脚に注目していた。どの男も、驚いたように目を見張っているのがおかしかった。受付の前に移動した。模造革の椅子が整然と並んでいる。椅子に座ると由梨が言った。 「所長さんに聞いた。殴られたって聞いたけど、元気そうじゃん」 「見物にでも来たのかよ」 「怒ってるの? 見舞いよ、見舞い。渡したいものもあったしさ」  茶封筒を差し出す。 「例の十万よ。情報料」  封筒の中を見た。確かに十万入っている。検査の前に、一度警察が来て携帯電話は戻ってきた。が、サイフは戻ってなかった。入院費をどうするか考えていたところだ。もしかしたらこの先、インポの治療も必要になるかもしれない。 「助かる」 「いいよ、こっちも悪かったんだし。それからね。お願いがあるんですけど、嫌だったら本当拒否してくれてもいいんで、聞いてくれる?」 「何だよ。いや、もちろん僕にできるなら、何でも手伝わせてもらう」 「違う、そうじゃなくて、あんたが知りたがってたことだよ。どう口説かれたのか、知りたかったんでしょう。お願いがあるんですけど、嫌だったら本当拒否してくれてもいいんで聞いてくれる? って言われたの。初めてあっちでしたとき。役に立つ?」  僕は言葉を濁し、うつむいた。勃起しなくて、いつも腰が頼りないんだとは言えなかった。おまけに背中だって痛い。今では夢のアナル・セックスどころか、通常のセックスさえおぼつかないだろう。 「彼女と喧嘩でもしたの?」 「してない。そっちはどうなんだ。ブログ、見たんだろう」 「昨日の夜、会ったよ。朝まで一緒にいたの」  何かが剥離したような気がした。心を覆っていた何か。それが剥がれ落ちた。苦い落胆がこみ上げてくる。 「正直ね、あのブログを見た瞬間は、胸が潰れそうだった」  由梨が言った。その声が胸に流れ込んで来る。 「でも、何度も読んだら、あの人があたしに魅力を感じてくれてるのは分かったから。だからあの人の会社の前で待ってたの。昨日も旦那は出張だったしね。どうしてか分からないけど、あんたにそれを聞いて欲しくて」 「僕?」 「他に話せる人いないし、それにあんたは信用できる気がするから」 「探偵を信用すると、痛い目にあうぞ」 「そうかもね」  ちょっと由梨は笑った。 「でもね、あんたあたしの脚を見ないでしょう。結構自信あるのよ、脚には。大抵ガン見されるし。なのに、あんたは見向きもしない」  それは修行の一環だ。  菜穂子は僕が少しでも他の女に目をやるのを嫌う。それが分かっているのに、僕はミニスカートの女が歩いていると目で追ってしまう。別に寝たいと思うわけじゃない。どうしてか目が吸い寄せられる。自分でもどうして見るのか分からない。男はミニスカを追うものだと社会的に刷りこまれているのかもしれない。  それでも、それが菜穂子を少しでも傷つけるなら、見ないようにしようと思った。最近は遠くにミニスカの女がいたら、無理やりにでも目を逸らすようにしている。菜穂子がそばにいないときも、極力そうしていた。日々の修行が大切だ。 「まあ、あたしが趣味じゃないからなんだろうけど、それはそれで気が楽なもんだなって思うの。そうでしょう。男女の友情みたいな感じかな」  男女の友情は、互いに恋人がいて、それぞれが恋人と上手く行っているときにしか成立しない。どちらかに恋人がいなかったり、恋人との関係がこじれたりしているときは上手くいかないものだ。由梨が僕を見ていた。好みのタイプだった。嫌いな顔じゃない。 「互いに好みから外れてると、友情が成り立つのかもしれないな」  僕は言った。また、胸の中で何かが剥がれ落ちた。 「だよね」  由梨が目を伏せた。唐突に立ち上がった。 「また事務所に遊びに行くよ。そのときは相談に乗ってね」 「暇があったらな」  僕も立ち上がった。苦痛が跳ねるのに構わず、先に歩き始めた。由梨が僕を追い越した。 「じゃあね」 「ああ。これ、ありがとう」  封筒を振った。由梨は微笑んで、真顔になると背中を向けた。身体だけでなく、なぜか胸が痛かった。だけど、それについては考えないようにした。考えてはいけないような気がした。黒川の言葉も思い出さないようにする。全て心の底に沈めた。  遠ざかってゆく由梨の脚をしばらく眺めた。形の良い脚が、日差しに白く光っていた。由梨は角を曲がると、あっけなく消えた。一度も振り返らなかった。
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