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三章 1
細長い間取りの部屋だった。
朝日に照らされた玄関脇のキッチンは狭く、コンロは一口タイプだ。床は、間違ってもフローリングとは呼べないような黒光りする板張りで、奥の部屋を区切っているのは、すりガラスの入った障子戸だった。山下は出てこない。
靴を履いたまま玄関先に腰かけ、待った。
正直、話は聞いてもらえないものだと思っていた。
僕は基本的にアポなしで突撃する。世の大半の人は、探偵にできるだけ親切にしたいと思ったりはしない。話を聞きたいのだと言っても、電話だと簡単に断られてしまう。直接会っても同じだ。断られることは、やはり多い。が、面と向かって断ると、相手は持たなくてもいい罪悪感を覚える。それが二度、三度と続けば、根負けし、話だけはしてくれるようになる。不在の場合も名刺を入れておく。地味だが確実に話を聞きだせる、少なくとも会ってはもらえる、菜穂子に教わった営業の手法だ。
断られるのが前提だったため、朝食は採ってなかった。なのに山下は玄関に上げてくれた。浩次の写真がないことを告げると、アルバムを引っくり返すために奥の部屋に行ってくれた。お忙しいようでしたら後ほどうかがいますと言った僕に、山下は「あんたも急いでるから、こんな朝っぱらから来たんだろう。座って待ってろよ。僕も何度も煩わされんのも、面倒だしさ。すぐ見つかるから」と言って灰皿まで持ってきてくれた。腹が減ったから帰りますとは言い辛かった。
座ったまま、明け方にやってきた客のことを考えた。ポプラで働きはじめて、色んな客を見てきた。聞き取りにくい声で弁当を温めるよう要求し、僕が聞き返すと怒り出す若い男。煙草の銘柄だけを告げ、小銭を投げるように渡してくる髪の長い女。両替しろと執拗に繰り返す中年男性。様々な客がコンビニには訪れる。訪れ、コンビニの店員を混乱させ、拳をカウンターの下で握らせる。
だが、男はそういう客の中でも特別な存在だった。頭頂部が薄くなり始めたその男は、何も買わずにビニール袋を渡せと要求してきた。とにかく袋を渡せと右手を突き出されたが丁寧に断った。男は諦めなかった。僕も諦めなかった。結局、僕とコンビニを罵りながらその男性は出て行ったのだが、彼がどうして無料でビニール袋を欲しがるのか、なぜジュース一本でいいから商品を買おうとしなかったのか、理由は分からなかった。男とのやりとりで、入院していた一日を含め、四日分の完全休養で蓄えた体力を、一気に削られてしまった。
山下は出てこない。腹が減りすぎてゲロが出そうだと思った。もしかしたらあの客はゲロが出そうだったのかもしれない。だからビニール袋が欲しかったのかも。
ガラス障子が開き、山下が出てきた。開いた隙間から、奥の部屋が見えた。黒いパイプ製のベッドがあり、その足元に雑誌の山が崩れている。あちこちに紙が散乱していた。
歩いてきた山下が僕の前に腰を下ろした。茶色に染めた髪を後ろに撫で付けていて、生え際が黒くなっているのが分かる。
「悪いな、待たせて。これが浩次だよ。どうした?」
僕はゆっくり首を振って、声が出せないまま背中の痛みが去るのを待った。湿布が汗で剥がれかかっていた。赤や青、紫になったカラフルな自分の背中が脳裏に浮んだ。呼吸を整え、手を伸ばして写真を受け取った。
どこかのカラオケボックスだった。
端にマイクとディスプレイが映っている。ソファーに四人の男女が並んで座っていた。山下と男、それに若い女性が二人。山下と女性二人は笑っていた。浩次だけが笑ってない。割と整った顔を、険悪と言ってもいいくらいしかめている。顎が細く、目に力がある。
「この二人はどういう関係なんですか?」
写真の女性二人は、浩次を挟んで座っていた。派手で、フェミニンなデザインのワンピースを着た二人は、浩次に身体を摺り寄せるように密着していた。女の一人は、良く見ると樹里だった。化粧がさまになっていて、とても高校生には見えなかった。写真の日付は、五月になっている。
「二人とも、浩次の女だよ。こいつは女関係すごくてね」
あぐらをかいたまま、山下は煙草に火を点けた。しっかり肺に吸いこんで、煙を吐きながら続けた。
「自分の女を、よく僕に紹介してくれた。紹介ってか、礼のつもりだったみたいだけど」
「礼?」
「浩次の親、入院かなにかしてたらしい。あいつ、実家は下関なんだけど、見舞いに行くから夜間シフト代わってくれって何度か頼まれたんだ。交通整理とか、あるだろう。ああいうの。で、シフト代わってやると、次の休みにはこうやって浩次が女連れてきて、飲みに行ったりしてた」
きつい労働条件の仕事は、休みの確保に苦労する。それは警備会社もコンビニも同じだ。
昨日の午後、僕は病院で三日分の痛み止めと湿布を貰ってから、テイキョウ警備保障と竹下警備会社に向かった。テイキョウ警備保障は空振りだったが、竹下警備会社にいた事務員の男性は浩次が去年の秋に辞めたこと、名字が佐藤であること、当時仲が良かったのは山下義文だったことを教えてくれた。
オンラインショップで買った逆引き電話帳ソフトは佐藤浩次を発見できなかったが、山下義文の住所は表示してくれた。彼のアパートは西条駅から自転車で二分もかからない場所に建っていた。そのまま山下を尋ねようとしたが、田中に電話で足止めされた。風邪を引いて四十度近い熱を出していると田中は言い、仕方なく僕は深夜シフトで朝まで働いた。シフトを代わらなければビニール袋男にも出会うことはなかっただろう。今ごろ湿布を張り替えていたに違いない。菜穂子は張り替えてくれないだろうと思うと、何もかも嫌になってきた。
「親がどんな病気かは教えてはくれなかったな」
山下が言った。
「あんま、そういう家族の話とかはしなかった。まあ、それは浩次だけでもないけど。あんたも分かんだろう。若いころって親の話をぺらぺらしゃべったりはしねえじゃん」
二十一歳からすれば、二十歳の日々は遠い過去なのかもしれない。若いころは、一年がとてつもなく長く感じられていたのを思い出した。自分が何のためにここに来たのかも思い出す。山下の口を軽くさせるためだ。痛みや菜穂子のことを頭から追い出し、山下に向かって頷いた。
「気恥ずかしい感じがしますからね、親の話なんかは」
「だろ」
「どんな話をしてました、浩次さんとは」
「女の話ばっかしてた。あいつは女仕込むのが上手かったんだ。結構頻繁に女は替えてたね」
「彼は自分の女について、よく話すほうでした?」
水を向けると、山下はたちまち食いついた。
「あいつはいつも自慢してたよ。女とどこで、どんなふうにやったか。あいつの連れてる女はとにかくみんな、色っぽくてさ。つきあいだすと、見る見る色気が出てくるんだ」
山下は身を乗り出すと、樹里を指差した。目が熱っぽい光を帯びているように見えた。声を落として、山下は続けた。
「この女、本当は高校生で、樹里って名前なんだけどさ、この娘もそうだったよ。あいつにやられた途端に変わってさ。ありゃお見事だった。そう浩次に言ったら、じゃあお前に貸してやるよって言って」
「貸してやる?」
「六月くらいだったかな」
少し目を細め、山下が言った。
「僕と浩次と樹里がファミレスに三人でいたとき、浩次が突然言ったんだ。お前こいつと寝たいんだろうって。焦ったよ、まじで。浩次は僕の顔を面白そうに見てから、こいつお前と寝たいんだって、だから寝てやれって樹里に命令したんだ。そんで、浩次は他の女と電話で話し出した。その写真に写ってる、もう一人の女だ。浩次は話しながら席を立っちまった。僕と、樹里は二人きりになった。で、寝たよ、樹里と」
「彼女は嫌がらなかったんですか」
「さあな。女の気持ちなんて、分かんねえよ」
醒めた声で言って、山下は盛大に煙をふかした。
「ただ、寝てくれたって感じはしたな。自棄になってって感じじゃなく、情をかけられたような気がした。五歳も年下の高校生に。向こうから振ってきたんだ、どこにしますって。ありがたくいただいたよ。十六なのに、ちゃんと女になってた。しっかり身体も開いてて、何度もいってくれたよ。目を閉じて、浩次の名前呼びながら痙攣してた」
山下の声は、低く静かだった。目に薄く涙が滲んでいることに、その時気づいた。好色なのでも、自慢でもない。山下の目の奥にあるのは、まぎれもない痛みだ。
「良かっただろ。次の日、浩次はそう言った。んで、お前とのこと全部聞いたら興奮して、そのまま外でやりまくったって教えてくれた。いい刺激になった、ありがとよ、浩次は笑いながらそう言ったよ。それっきり二度と樹里を僕の前に連れて来なくなった。やつは樹里を自慢して、これ見よがしに取上げたんだ。そうやって樹里が自分のものだって、言いたかったんだろうな。そういうやつだったよ、浩次は」
浩次が辞めてからは一度も会ってないと疲れたように言うと、山下は目を伏せた。煙草を消して、シャツの袖で目を拭っている。山下から目を逸らし、僕は煙草を一本灰になるまで吸った。
「意外に覚えてるもんだな。もう忘れたと思ってたんだけど」
山下は、少し笑った。
「写真だってどこにあるか分からなかったのにな。ただ、どこかにあるのは分かってたんだ。捨てようにも、捨てられなくてな。捨てたら、二度と忘れられなくなる気がしてさ。あんた、写真ないっつってたよな。だったら持ってってくれ」
「いや、ですが」
「んな、あからさまに迷惑そうな顔すんなよ。朝っぱらから起されたのに、手がかりやろうって言ってんだ」
冗談めかすように言った。
「あんた、探偵なんだろう。持ってけよ、写真。捨てるんじゃなくて、手放せるなら、僕にとってもありがたいんだ」
写真を受け取ると、山下は肩の荷が降りたように座ったまま伸びをした。未だに蹴りの影響を文字通り背負っている僕には、できない動きだ。あくびしている山下に言った。
「浩次はどうやって口説いていたか言ってませんでしたか? 例えばどんな女も口説ける魔法の言葉があるみたいなことを」
両手を上に伸ばしたまま、山下は真面目な顔になった。
「女とやった話は山ほどしたが、口説き文句については言ってなかったな」
両手を下げて、山下は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「けどあいつなら、魔法みたいな言葉が使えたとしても僕は驚かない」
浩次と樹里の電話番号なんかは消去した、と山下は言った。
さらにいくつか質問すると、山下は浩次が警備会社で働く前にどんな場所で働いていたかを話してくれた。それだけではなく、もう一人の女性、朱実がカラオケパブで働いていたことも思い出してくれた。以前の勤務先と、カラオケパブの店名を手帳に控えた。
「他に共通の知人はいませんでしたか」
「他にも女紹介してもらったはずだけど、とにかく、とっかえひっかえだったからな」
山下が顎に手をやり、伸びかけた髭を撫でた。
「連絡先聞くより先に、別の女に変わってた。連絡は、取りようがないな。すまんけど」
「浩次は水商売のバイトはやってなかったんですか?」
山下の教えてくれた浩次の勤務先は、引っ越し屋や工場のライン作業など、きつい仕事が多かった。水商売系の店はひとつもなかった。だが、山下の話を聞く限り、どう考えてもそっち向きだ。
「そういや、水商売は絶対にやらないんだって言ってたな」
顎を撫でる手を止め、山下が言った。
「もっと楽に稼いだらどうだって聞いたら、怒ったようにそう言ってたよ。理由は話さなかったけど。そろそろいいかな。腹減ってきたんだけど」
僕は腰を上げ、ふと思いつきこの部屋の家賃がいくらなのか聞いてみた。
「三万三千円。駅から近いからそこそこ安いけど、奥の部屋も結構狭いよ。築十年以上経ってるし。引っ越しとか考えてんの?」
僕は、するかもしれないと答え外に出た。菜穂子と別れたら、僕はきっとあの部屋にいられない。ため息が出てきて、食欲が失せていることに気づいた。
「女の子は、いつでも男の子より先に成長するもんだよな」
事務所で報告すると、黒川は楽しそうに微笑んだ。黒のスーツに、黒のシャツ。今日はノーネクタイだった。
「お前どうして教えてやらなかったんだ、その山下くんに。樹里が嫌がらなかったのは、浩次に命令されるのが初めてじゃなかったからだって」
「そりゃ、もちろん初めてじゃなかったとは思いますが、でも言えないでしょう、普通」
「教えてやるのも、親切だと思うがね」
山下の顔を思い浮かべた。どう考えても、感謝してくれそうになかった。辛い思い出にも、少しは甘さが必要だ。山下はきっと、心のどこかで樹里が自分のことも好きだったから嫌がらなかったんだと思っている。好きだったからこそ、連絡してこなかったんだと思っている。
だが、樹里が山下に連絡しなかったのは、連絡する必要がなかったからだ。嫌がらなかったのは、浩次の無茶な命令が初めてではなかったからだ。
「おそらく山下くんは、樹里の連絡先も知らなかったと思うぜ。知ってりゃ連絡してるって。写真まで後生大事に取ってたんだから、もう一度寝ようとしないはずがない」
「見栄を張るのも男じゃないですか。あのとき電話番号聞いてたらって夢くらい、見させてやってもいいでしょう」
「下らない感傷なんて、豚に食わせちまえ。それよりもっと大事なことがある」
黒川は、テーブルの写真を指した。写真の樹里は、緑と黒の縦縞のワンピースを着ていた。裾は短く、襟元も大きく開いている。
「そっちの線は調べてないんだろう?」
僕は頷いた。
「こういう服装が趣味って可能性もありますし」
「まあ、似合っているしな」
指で写真をつまみ、黒川が言った。
「ただ、援交やってた可能性は高い」
女子高生という人種は、どこでも制服で行動するものだ。それが受けると経験的に知っているためだ。外国人から見ると、売春婦のように見えるという高校生の制服は、今でも需要が高い。制服プレイができるから女子高生を買うという男は多いものだ。一時、騒がれたため目立たなくなってはいるが、援助交際は消えたわけではない。それは携帯チャットやSNSなどのネットに潜伏し、見えなくなっただけだ。女子高生はホテルに行くに相応しい恰好で顧客と待ち合わせをするようになり、個室に入ってから制服に着替えて商売に励むようになった。
新聞やテレビでドラッグ関係の事件が多くなっているのはそのためだ。実際、援助交際で一番打撃を受けたのは暴力団で、重要な資金源であった売春は十代の素人の参入によって苦戦を強いられ、仕方なく彼らは危険の大きなヤクの取り引きに手を出さざるを得なくなっている。
「この服が、樹里の部屋になければ、ほぼ援交決定だな。こないだは、調べてなかったのか?」
「さすがに、そこまでは」
「次があったら、女連れて行け。誰でもいい。クローゼット漁って、この服があるかどうか確かめろ」
黒川の提案は妥当だったが、連れて行くパートナーがいない。菜穂子に負担をかけたくなかった。それでなくても、最近はすれ違っている。
「菜穂ちゃんが駄目なら、俺が適当に頼んでおいてやるよ。後は朱実の線と、浩次の勤務先か」
「朱実の店には今夜行ってみます。浩次の勤務先は大まかな職種しか分かってないので」
「お前、今日もバイトか」
頷くと、浩次の勤務先は引き受けてやると黒川は言い、面倒臭そうに手を振った。
「もう帰って寝ろ。うっとうしいから。ちゃんと飯食って寝るんだぞ」
好意に甘え、事務所を出た。
戻ると、アパートの入り口に菜穂子が立っていた。
パンツスーツに、黒のロングコートを羽織り、茶色のカバンを肩から下げている。僕を見て、一度目を逸らしてから、もう一度意を決したように視線を戻した。首筋のあたりが強張り、表情は硬かった。
「おかえり」
「ただいま。今から」
「うん」
白の軽自動車が後ろから走ってきて、田んぼに向かって行った。軽自動車を避けたため、菜穂子との距離が近くなっていた。
「背中、大丈夫?」
「少し痛いかも」
菜穂子の目に苛立ちとも憤りともつかない光が走った。
「無理しないで、もう少し休んだらどうかな」
「休まない」
ため息を飲みこんで、菜穂子を正面から見た。
「こないだも言ったけど、休みたくないんだ。働きたい」
二度と、部屋に引きこもっていたくなかった。自分でも多少強迫観念があると思うが、僕は動けなくなるのが怖かった。もともと僕はデリカシーなど皆無の人間で、気分が落ちこんでいるなと思ったら飯を腹いっぱい食う。それでも落ちたままなら寝てしまう。寝れば忘れると思う。眠れなければくたくたになるまで腕立て伏せをし、腹筋をし、スクワットをする。そうやって無理やり眠る。一晩眠れば、大抵の不安は吹き飛んでしまうものだ。
足を折った時には、身体を動かせなかった。僕はいつもの僕ではなかった。動けない僕は僕じゃない。
菜穂子がため息をついた。僕が我慢したから代わりにため息をついたんだという顔に見えた。
「あたし、このままがいい」
「このまま?」
「引っ越さなくてもいいの。狭くてもいいから、ずっとずっとここで暮らしていたい」
「暮らせない、みたいに聞こえる」
「だって病院抜け出しちゃうし、こんなに言っても休んでくれないし」
言葉を飲みこんだ。何を言っても、すれ違ってしまうような気がした。
菜穂子の言う通り、僕はたった一日の入院期間中に病院を抜け出した。中央公園に行って、男の子との約束を守るためだった。補助は上手く行き、男の子は自転車に乗れるようになったが、病院にも菜穂子にも怒られた。当然だ。僕は平謝りに謝り、それで許してもらえたのだと思っていた。
そのことを除けば病院にいる間は、終わりの気配など感じなかった。一時のぎこちなさは消え、まるで全てが元に戻ったような、親密な空気が僕たちの間にはあった。退院して部屋に戻ると、全ては幻だったのだと思い知らされた。終わりは太陽が沈むように、季節が移ろうように、ゆっくりしたものではなく、まるでジェットコースターが猛スピードで下降するように始まった。
退院した日の夜、菜穂子は僕が探偵の仕事に復帰することに反対し、黒川の提案に反対した。挙句に病院を抜け出したことを持ち出して僕を非難した。
もちろん菜穂子の言葉は彼女の立場になって考えれば真っ当なものだ。許してもらったと思っていたのは僕の勘違いだったし、フォローが足りなかったのは僕も悪かったと思う。だが、彼女の非難はあまりにも唐突だった。唐突過ぎて、僕は対応することができなかった。
言い過ぎたと思ったのだろう、菜穂子はその夜遅く、ほとんど明け方くらいになって謝ってきた。そしてセックスの気配を滲ませた。僕の股間は静かで、それを打ち明けることができなかった。動こうとしない僕を、菜穂子は静かに見つめていた。あの目が忘れられなかった。
その日から今日まで、何度も衝突した。彼女は田中の代わりにシフトに入ることに反対し、雨が降っていたのに洗濯物を取り込んでなかったこと、食器を洗い忘れていたことを責めた。昨日は逆だった。僕はバイト二日目に菜穂子が書いてくれたあのメモを、ジーンズのポケットに入れていた。それを忘れて洗濯に出してしまい、メモはこなごなになった。僕はポケットを確認してくれと彼女に食ってかかった。何が入っていたか知らないけど、次からは自分で洗濯して、と菜穂子は言った。
ジェットコースターは今も落ち続けている。しかも上昇する気配がない。
「あたし、どうしたらいいの」
菜穂子が小さく首を振った。僕ではなく、百メートルほど向こうのゴミ捨て場を見ていた。指定の茶色い、紙製のゴミ袋に混じって、黒いビニールのゴミ袋が混じっている。ゴミ袋は口が開き、嘔吐したかのように中身をぶちまけていた。生ゴミと一緒に青いスチール缶が転がっている。ここ最近、黒いゴミ袋が増えていた。引っ越してきた誰かの仕業なのだろう。昔からこの辺りに住んでいる人間なら、自分のゴミが散かっているのを見過ごせないはずだ。二羽のカラスが生ゴミを嬉しそうにつついている。
「一平にとってあたしは必要なの?」
「ちょっと待ってくれよ、じゃあ僕は何のために働いているんだ?」
「あたしが追い詰めてるの?」
菜穂子は立ったまま泣いていた。泣きながら僕を真っ直ぐ見ていた。
「あたし、一平に無理させてるの?」
「違う、無理なんかしてない。僕は、ただ」
喉に何かが詰まったように、後が続かなかった。ペニスが勃起しないんだ、インポなんだと言えなかった。菜穂子に触れるのも、触れられるのも怖かった。
「させないからなの」
低い声で菜穂子が言った。
「アナルでさせないから、あたしは必要ないんでしょう」
「違う。そんなわけないだろう」
「だって」
菜穂子は唇を噛みしめた。それから何かを断ち切るように、顔を背けた。涙が彼女の頬を伝うのが見えた。
「菜穂子」
「会社に遅れる」
震える声で言うと、大きく息を吸って、彼女は身体を震わせた。
「今日は友達の家に泊まるから」
ポケットからハンカチを取り出し、目に押しつけながら、菜穂子がローファーを鳴らして足早に歩き始めた。追いかけて、どうしてアナルでしたいのか説明すべきなのに、足が動かなかった。
菜穂子がゴミ捨て場の前で止まった。追いかけろ。強く思った。彼女は待っている。今すぐ追いかけるんだ。一歩踏み出そうとしたとき、菜穂子が落ちていたスチール缶を思い切り踏んだ。高い音が響き、缶が転がった。菜穂子は逃げるスチール缶を追うと右足で蹴飛ばした。空き缶はふっ飛び、コンクリートの壁に激しく激突して、二度跳ねてから路上駐車のセダンにぶつかって静止した。
菜穂子は肩で大きく息をつくと、再び歩き始めた。遠巻きに彼女の様子を眺めていたカラスが激しくはばたいて宙に舞った。
僕は動けなかった。動けないまま彼女の背中が小さくなり、角を曲がって行くのを見ていた。彼女が消えるのを待っていたようにカラスが舞い戻ってくる。ため息をついて、部屋に戻った。
テーブルにメモは残ってなかった。冷たい布団に包まって眠った。
午後六時過ぎに目覚め、シャワーを浴びた。携帯電話をチェックしたが、菜穂子からメールも着信もなかった。携帯を閉じながら思った。僕は菜穂子と別れたくないと考えながら、心の中では半分諦めているのかもしれない。
彼女が帰ってくる前に部屋を出た。夜気の冷たさが、ブーツと分厚い靴下をものともせず、遠慮なく噛みついてくる。自転車のペダルを強くこいだ。
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