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三章 2
朱実は西条駅前のカラオケパブ『ふくふく』を辞めていた。
「突然よ、突然」
突き出しを厨房で作りながら、侑子は忌々しそうに舌打ちした。『ふくふく』のママ、侑子は三十代後半、女性にしては長身で、ヒールのせいか僕より背が高かった。彼女は菜箸で雪平鍋のふちを叩いた。
「無断欠勤が二日くらい続いてね。いつものことだったけど、さすがに三日目になると心配になって」
「携帯に電話はしなかったんですか」
「したけど通じなかった。解約しててね。で、マンションに行ってみたらいなくなってたんだ。男と同棲してたんだけどね、そいつにも黙って出てったらしいのよ。まあ、やの字だったから、逃げて当然だったんだけど」
マンションの管理人も同居人の行く先までは知らないだろう。同棲相手に覚られるような場所に逃げるとも思えない。なによりヤクザに関わっても碌なことになるはずがない。ため息をついて、カウンター横に飾ってあるオヴジェを眺めた。変わったオヴジェだった。陶器の巨大なふぐが飾ってある。大きさはみかん箱よりほんのわずか小さいくらいだ。身体をまん丸に膨らませて、口を尖らせている。
「ネットで見つけたんだ。いくらしたと思う? 三十万だよ」
侑子が豪快に笑った。
「そういう珍しいもんがあるとね、無口な客でも話が弾むんだ。ネタになるからね。福は福を呼ぶし」
「なるほど」
僕もふぐの置物を持って聞きこみに行けば、少しは収穫があるのかもしれない。仕事がはかどるなら三十万は安いものだ。重さを訊ねると、五十キロあるんだよと侑子は目を輝かせた。ふぐの置物を背負う案は却下し、店を出て黒川に電話した。
「近辺の店を全部回れ」
黒川は言った。
「一軒残らずだ。ママには話してなくても、他の店の女の子が愚痴くらい聞いてたかも知れねえ。虱潰しに当たれば、なんか出てくる。あと浩次の勤務先までは突き止めておいた。調査員が伺いますって言ってるから、明日から回ってみろ。リスト作ってあるから取りに来い」
一時間かけて六軒の店から話を聞いたが、収穫はゼロだった。朱実についてだけではなく、魔法の言葉についても質問してみたが、有益な情報は得られなかった。六軒目の店ではこっちが質問された。
「あたしも知りたいから、分かったら教えてよ」
髪を赤く染めたボブカットの女性は、僕が怯むくらい真剣な口調で言った。教えると約束するまで、彼女は目を逸らそうとしなかった。
店が混む時間帯になってきたので調査を切り上げ、事務所に行って黒川から勤務先のリスト――食品工場、テレフォンアポインター、整備会社、居酒屋、塗装工場、カラオケボックス、工場、工場、工場――を受け取った。それをポケットに収め、大急ぎでポプラに向かったが十分遅刻した。オーナーに嫌味を言われた。
それから三日間、聞きこみを続けた。
浩次はそれぞれの職場で、最長四ヶ月、最短で一日、働いていたが、女遊びが激しかったという印象が語られるだけで、彼の現在の居場所、連絡先、魔法の言葉を知っている人物はいなかった。
浩次は東広島市だけではなく、呉市の引っ越し業者でも働いていて、三日目にはそこにも足を伸ばした。車ではなくJRを使った。山間と田園風景が車窓に広がる山陽本線から、なだらかな瀬戸内海に沿った呉線に乗り換え、気持よく舟をこいでいると二時間後には呉市に到着した。
駅の改札口には、大きな文字で『大和のふるさとへ、ようこそ』と書いた垂れ幕がかかっていた。造船所として有名であることは知っていたが、以前に訪れたときにはなかった垂れ幕に首をかしげながら、引っ越し業者の事務所に向かった。垂れ幕の説明をしてくれたのは、事務所にいた、五十歳くらいの社長だった。人気のある若手俳優が数多く出演した邦画がヒットし、そのロケ地となった呉市は、戦艦大和が登場するその映画にちなみ、大和ミュージアムをオープンさせた。一年で八千人ほど来れば御の字だという当初の予測をはるかに上回り、すでに来館者は二百万人を突破したらしい。
「あそこの道は、駅への裏道だったんだがね」
と社長は声を弾ませた。
「今じゃ、いつも渋滞してる。まあ、大したもんじゃ」
原爆は否定するが、戦艦大和造船の地であることはアピールするという、経済によって生じた矛盾をつぶさに観察できたのは収穫だったが、浩次の足取りはつかめなかった。その日は、呉への遠征だけで一日が潰れた。
夜は駅前の飲み屋を回った。
二十九軒目まで、何も当たりがなかった。広大生のバイトやフリーターの女性は、朱実の名前すら知らなかった。彼女たちの多くは、客の愚痴や親にばれそうだという心配を抱えていて、それについて話さずにはいられないようだった。彼氏がずっと夜の仕事に反対しているという話も多かった。
「稼ぎもないのに、昼の仕事につけっていうのよ。腹立つと思わない?」
ジャスト三十軒目の店で話を聞いた黒髪の女性は、悩みや愚痴を口にしなかった。後方に座っているオーナーママをしきりと気にしていた。ママは若い客と親密な雰囲気で話しこんでいる。
「彼氏なの」
こっそり打ち明けるように女性は微笑んだ。
「同棲してるんだって言ったら連れて来いって言われて。他のお客さんには内緒にしてね。それで、何の話だっけ?」
何もかもが無駄な気がした。少しだけ、ニートのころが懐かしくなった。
ニートのころ、僕はとてつもなく暇だった。暇で暇で死にそうだった。ある日、暇を持て余した僕は、男性向けのエロ漫画と女性向のレディースコミックにおける性表現の違いを比較することを思いついた。古本屋でどちらの雑誌も三十冊買い、その全てに目を通した。二つを比べてみると、かなり違うのに驚いた。
男性誌の三十冊には、現実にあり得ない男の夢が語られていた。具体的には、現実にはあり得ないほど巨大なペニスだ。男性向けの漫画雑誌では、挿入される女性が必ず「大きいッ」と興奮することになっていて、ただ入れられるだけで夢中になる。男性の性的幻想にはサイズという概念が必須条件のようだった。
一方、レディースコミック三十冊に表現されていたのは、手つきの繊細さであったり、少しの強引さであったり、愛の囁きであったりした。丁寧な前戯や執拗なクンニリングスがかなりのページを占め、優しい、あるいは乱暴な愛の言葉を男性が口にすることでクライマックスを迎える。徹底して描かれるのは女性に対する扱いであり、サイズに関する言及はほとんど見られなかった。
アダルトな漫画表現における二つの違いは、男女の致命的なすれ違いを表しているように思えた。
ひとつだけ、共通点があった。どちらにも共通するのは、自分が一生懸命になる必要はなく、ベルトコンベアのように流れに従っていれば相手も自分も性的に満足するという点だ。それは男にとっても、女にとっても、セックスがいかに難しいことなのかという証左のような気がした。
そのことに気がついた時、僕は大げさではなく感動した。自分が絶食し、悟りを得るために修行している僧であるような、ストイックな高揚を味わった。ニートは現代における、洞窟に閉じ篭って瞑想する僧侶なんだと思った。その間違った確信が祟り、僕はセックスレスの問題について考え、虐待とコンドームの関係について思考を巡らせ、社会復帰が遅れた。
馬鹿馬鹿しい限りだったが、それでも充実感があった。今は体力を無駄に減らしているだけのような気がしてならなかった。必要経費はかさみ、睡眠時間は日を追うごとに減っていった。背中の痛みは一向に引かなかった。進捗しない調査に、僕は苛立っていた。
鳴戸遼平は、妻を裏切り、水村由梨と浮気してからも、ほぼ毎日ブログを更新していた。暖かい日には相変わらず公園で手作り弁当を食べているようで、そうした時間のもたらす安らぎについて書いていた。水彩絵具で冬の一日をスケッチするような、穏やかな文章で浮気の気配はどこにも見られなかった。
今でも彼が由梨の家に足を運んでいるかどうかは分からない。だが、どうしてか、彼はあそこに通っているような気がした。彼は午後十時まで建築事務所で残業し、自宅とは反対方向に足を向け、つや消し加工されたステンレスの外壁に夜の暗闇を映す、あの瀟洒な二階建ての家を眺めているはずだ。背の低い桜の木が門を越えて張り出しているのを避けるように立ち、由梨がいようといまいと二階の窓を見つめている。そんな気がした。
映見のブログは沈黙したままだった。夫とセックスして以来、彼女はブログを更新してなかった。
一日二万人以上の訪問者がいる、浮気を告白していた女性のブログは相変わらず炎上していた。悪意に満ちたコメントは終わる気配がなかった。中にはあまりの言葉に反論する訪問者もいたが、更なる炎上を招く結果となった。反論した人間に複数の訪問者が次々と人格を否定するような言葉を投げる光景は、庇う人間が次の標的にされるという、ニュースで流れるいじめの光景そのものだった。コメントの投稿を禁止するか、次々にブログを更新して炎上を防ぐという方法を、ブログの管理者は思いつかないようだ。あるいは、もう自分のブログを見ていないのかもしれない。
どのブログにも、コメントは残さなかった。
五日目の深夜、バイトの休憩時間中に湿布を張りなおしていると着信があった。
「魔法の言葉が何か分かった?」
真剣な口調に聞き覚えがあった。赤い髪のボブカット。六軒目の店にいた女だ。まだだと告げると、張り詰めた沈黙がしばらく続き、ボブカットは短いため息をついた。片手で背中の湿布を剥がしながら、どうしてそんなに知りたいのか質問した。間髪入れずに答えが返ってきた。
「引き止めたいから」
湿布に触れていた指が止まった。
アパートの前でアナルについて言い争って以来、菜穂子と顔を合わせてなかった。
僕は彼女がいないときを狙って部屋に戻っていた。離れた場所からアパートの窓を確認し、人の気配がないことを確かめ、アパートに近づくようにしていた。意図的に彼女と顔を合わせないようにしていた。
どうすれば以前のような状態に戻れるのか、ジェットコースターの下降を防ぐ方法はないのか、逃げ回りながらずっと考えていた。菜穂子を失いたくなかった。
だが、そもそも、そんなことは僕一人で考えても意味がない。二人で一緒に考えなければ無意味だ。分かっているのに、彼女と会うのが怖かった。会えば、今度こそ終わりが待っているのだとしか思えなかった。
けれど、もしも魔法の言葉が本物なら。
本当に、それが誰にでも効くのなら。
「朱実のこと、知り合いに電話しまくったの」
ボブカットが言った。
「広島の市内で働いてるよ。流川の『ガーデン・ガーデン』って店」
魔法が分かったら教えてと念押ししてから女は電話を切った。湿布を全て剥がしてゴミ箱に叩きこみ、『ガーデン・ガーデン』に電話した。
「高い時給だけどね、服はそれなりに必要だし、髪もきちんとしなきゃいけないから、月に何度も美容室に行くし。ほら、男ってショート嫌いでしょ。みんな、ロングで綺麗な髪が好き。馬鹿よね、髪長いのは丸い顔とか張ったえらとか隠しちゃうのに。本当に美人かどうかなんて、ショートにしなきゃ分からないのに」
朱実がため息をついた。
「それに携帯電話使ってもお金かかるし、つけの売りかけはあたしが店に払わなきゃいけない。客から回収するのも当然あたしだし。罰金だってあるもん。遅刻したら一万円とか、そういうの。店内でボーイとかと恋愛したら、それも罰金だし。だから食事は奢ってもらうの。食費浮くからね」
テーブルの向こうに座っている朱実は、小柄な身体にぴったりしたピンクのスーツを着ている。白い、胸の大きく開いたシャツを着ていた。地味な顔立ちの中で、ぽってりした唇が匂うような色香を放っている。
昨日の電話で朱実は何も知らないと言った。電話番号や実家の住所は全て捨てた、写真も残ってない。何もないんだと彼女は言った。それでも話したいと食い下がると、電話を置きっぱなしにして忘れてしまったのではないかと思うほど時間が空いてから、久しぶりに西条に行ってみたいかもなと彼女はつぶやいた。酔っているようで、声がハスキーにかすれていた。
会う場所として朱実が指定したのはステーキハウスだった。ログハウス風の作りになった店は、平日のためか客の姿はまばらだった。従業員は弛緩してなかった。どのウェイターもきびきびと気持ちよく動いている。ちらりと見たメニュー表が示していた料金は、懐が心配になるほどではなかった。高すぎず、安すぎない店だ。背中の痛みさえなければ、もっとリラックスできたかもしれない。それと、仕事でなければ。
菜穂子と来てみたいと思った。彼女がそばにいないときほど、彼女のことを考えている。一緒にいると、どうやっても、何を言ってもすれ違うような気がしてならなかった。
「あたしね、目つきの悪い男が好きなの。探偵って言うから期待してたんだけどな」
「悪かったな」
「まあ、合格点ではあるかな。嫌な客でもないし、今日はついてた」
「ステーキまで奢って、アンラッキーとか言われたんじゃたまらないよ。これ、見てくれ」
写真を取り出し、木目調のテーブルに置いた。浩次を指差す。
「こいつが、浩次だな」
「やだ、懐かしい」
店内に、朱実の声が響く。カウンターのそばに立っていたウェイターがこっちを見ていた。
「声でかい」
「これ、こいつが持ってたんでしょ。入れ揚げてたもんな。へえ。今も惚れてんの、こいつ。樹里に」
写真の山下を長い爪で軽く弾きながら、朱実が言った。少し考えてから口を開いた。
「この写真の女性は、樹里って言うのか」
ウェイターが料理を運んできて、僕の質問は宙に浮いた。熱い鉄板が音を立て、食欲をそそる香りが胃袋を直撃する。ナイフとフォークを手に取ると、朱実があからさまに営業用の微笑を浮かべた。
「美味しそう。ねえ、隠しすぎると墓穴だよね。樹里が依頼人? なわけないか。あんだけ修羅場って別れたんだし」
「何の話だ」
「こいつが樹里のこと、話さないわけないじゃん」
優雅にナイフを操りながら、朱実が笑った。
「なのに、名前も知らなかったって装うのは、樹里が依頼人に近い人間だから隠したかったんでしょ。でもね、隠しすぎるとかえってバレバレになっちゃうよ。あ、そうだ」
肉から僕へと瞳を移すと、朱実は手に持ったナイフで僕の顔を指した。
「あれ言ってよ、あれ。依頼人の秘密は言えない」
喉の奥で笑いながら肩を小刻みに震わせた。上目遣いでこっちを伺うように見る。
「あたしね、一度本物がそういうの聞いてみたかったんだ」
「ナイフで人を指すな」
朱実は海千山千のキャバ嬢だ。ペースに嵌れば、むしられるだけだ。僕はステーキを一度に切り分け、フォークを右手に持ち替えると、香ばしく焼けた肉を口に運んだ。朱実が言った。
「カジュアルな食べ方」
「どうせ鉄板に乗せたステーキハウスだ。マナーなんて気にしないで食べるのが一番なんだよ。これは同伴でも、店外デートでもなくて、調査なんだからな。樹里を知ってるのか」
「知ってるよ」
だって、と言って朱実は続けた。
「浩次、あたしと樹里のこと、同時に口説いたんだもん」
「同じ時期に二股だったってことか?」
「半分正解」
朱実がビールに手を伸ばした。僕の視線を無視して、ビールを飲む。
勝手に喉が鳴った。この後はバイトだと自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、喉の渇きが増すような気がした。ビールから無理やり目を逸らし、フォークで肉を突き刺した。
「二股だったのは当たり。でも浩次はね、あたしと樹里をいっぺんに口説いたの」
ステーキを口元に近づけたまま、手を止めて朱実を見た。
「同じ場所でってことか」
「そう。同じ日の同じ時間、同じ場所で、あたしと樹里は同時にモノにされたの」
「いつだ」
ステーキを刺したまま、フォークを皿に置いた。
「最初から話してくれ」
両手で抱えていたジョッキを置くと、朱実はわずかに目を細めた。それだけで朱実の顔からは、甘さが微塵も感じられなくなった。
「最初はナンパだったの。一年前の春くらいだったと思うけど、ちょっと面白くないことがあって――何だったかは聞かないで――それで駅前をぶらぶらしてたら浩次に声をかけられたの。いい男だったし、寂しかったからオッケーしたら、浩次が友達と合流しようって言い出して。サラダ食べないの?」
「食べない。やるよ」
「ありがと。最近野菜不足なのよ。ええと、それで浩次の友達とカラオケボックスで合流したんだけど、そこに樹里がいたのね。後から分かったんだけど、樹里もナンパされてたのね、浩次の友達に。長髪で、浩次と同じくらいの年だったはず。浩次はそいつと二人でナンパすること多かったみたい」
「そいつの名前、分かるか」
「確か、津川とか津山とかだった、かな。よく覚えてない」
「電話番号か住所は」
「部屋に古いアドレス帳が残ってたら」
「デザート食べてもいいから、帰ったら調べてくれ。それで、合流してカラオケボックスに入ったんだな」
「そう。あたしは浩次の隣に、樹里は長髪の隣に座って、四人でテーブル挟んで向かい合わせになってたの。それぞれ、隣の相手としか話してなかったんだけど、三十分くらい経ってからかな、急に浩次が樹里たちの話に割りこんだのよ。好きなこと、やってみりゃいいじゃんって。樹里ね、なんかやりたいことがあったみたい。でも、自信がないし、できるかどうか分からないし、すっごいマイナス思考だし、無理だって言ってて、隣に座ってる長髪くんが一生懸命慰めてたの。そこに口出ししたんだけど、浩次もね、最初はそんなに乗り気じゃなかったの。口挟むには挟んだんだけど、テーブルの下であたしの手を触るのに忙しかったから」
照れたように笑って、朱実はビールを飲んだ。白い喉がなまめかしく動く。
「なんか、喉渇くね。どこまで話したっけ?」
「テーブルの下で手を触られてたとこ」
「そっか。ええとね、変なこと言うみたいだけど、手って敏感なのよ。手の平とか手首とか。特に指。末梢神経が集中してるから、上手に触られると気持ちいいの。で、浩次は上手かったのよ。テーブルの下で、樹里や長髪と普通に話しながら、あたしの手を色々触ってたの。指先で軽く撫でたり、手の平で包むようにしたり。声とかすごい真面目なのに、手つきはいやらしくて。ちょっと寝たくなった、浩次と。その時は」
「でも気が変わった」
「浩次がだんだん、樹里の話に熱中しはじめちゃったからね」
朱実は頬杖をついた。目元が赤く染まっている。
「もともと、夢を語る男は嫌いなの。夢があれば素晴らしいとか、努力すれば夢は叶うとかって、キャッチコピーでしょう。やればできるとか耳障りのいいこと言って、お金巻き上げちゃうのよ。英語のテキスト売りつけたり、速読の本を買わせたり」
「そういうケースもある」
自己啓発セミナーなどは、そういう手合いが多い。ネットワークビジネスと呼ばれるものもそうだ。やる気さえあれば、夢が叶い、収入が増える。収入が増えないのはあなたのやる気が足りないからだ、夢を実現したくないのか、と焚きつけるのがそういうやつらの常套手段だ。
「夢を強引に売りつけるのは、僕もあまり好きじゃない」
「というか、できない人間に、気持ちさえ変われば何かが可能になるって教えるの、間違ってると思うのよね。ダイエットだって、そうでしょ。痩せたら綺麗になるとか言うけどさ、ぶっちゃけ、骨格とか顔だちで、痩せたら余計貧相になる場合だってあるじゃん」
「そういう発言は、色んな人の逃げ道を塞ぐぞ」
「あたしは塞がれないからいいの。見ず知らずの誰かの都合なんて、知ったことじゃない」
「すごい毒吐きなんだな」
「別に普通でしょ。世の中なんて毒だらけなんだから。とにかく、あたしはそう考える人間で、だから浩次の言い草に同意できなかった」
「どんな言い草だったんだ、具体的には?」
「マイナス思考の人間は、プラス思考に変わることだってできるとか言ってたかな。小さなことをマイナスに考える人間と、小さなことをプラスに考える人間は、似てるんだって。思考の方向が真逆なだけで、向きを変えれば気持ちは違ってくるって。なんかねえ、そういうこと、浩次が熱く語れば語るほど、醒めちゃって。触るのが上手だったから余計にね。なんだ、こんな男だったのかって思った」
「樹里は説得されてた?」
「全然」
朱実は首を振った。
「そんな簡単に、人って説得されるもんでもないでしょ。上手く行かない経験があるから、マイナス思考になっちゃうんだし。世の中、やることなすこと上手く行くなんて人のほうが少ないんだし。黙って聞いてたけど、最後に樹里は言ったのよ。どうしても我慢できないって感じで」
「何て」
「そうやって、頑張って、頑張って、頑張っても、結局駄目だったらどうするんです。樹里はそう言ったの。その時だけは声援送ったわ。よく言ったって。そうだ、そうだって。口には出さなかったけど、あたしも同じこと、心の中で思ってたから。頑張っても、結果が出なかったらどうすんのよってね」
朱実はそこまで言うと、満足そうに息をひとつ吐いた。まるで、ようやく長い長い準備が終わったと言わんばかりのため息だった。それで、僕は思い出した。そもそも朱実は、資本主義社会が夢というイメージで商品をコーティングして売っていることについて批判していたのではなかった。自分の嗜好について話していたのではなかった。本題は別の話だった。
目を伏せ、朱実がゆっくりと口を開いた。
「そしたら、浩次が言ったの。頑張って、頑張って、頑張っても、どうにもならなかったら、そのときは」
朱実は、鬱屈などまるで存在しないような、澄んだ瞳で正面から僕を見つめた。吸いこまれそうなほど、綺麗な瞳だった。
「そのときは、運が悪かったって言えばいいんだ」
「運が悪かった」
「そう」
朱実は目を細めた。
「そんだけ努力したんだ、最後くらい運のせいにしちゃおうぜって浩次は言ったのよ。運のせいにして、笑い飛ばして、次の目標に向えばいいって。結果は出なくても、努力した事実は残る。ってことは、最後まで努力する力は手に入れたってことなんだから、後は次を探せばいいだけだ。すげえ簡単だろう。そう言って、笑ってた」
「――――」
「今でも忘れらんない、その時のこと。浩次はくしゃっとした笑顔になって、まるであたしがいい男だなって思ってるの分かってるみたいに、優しく手を握ってくれたの。よしよし、みたいな感じで」
「それで落ちた」
「それで落ちたね。時期も時期だったし、余計にね」
「時期って」
「うん、何ていうか……ねえ、人って、本当に孤独で一人だと感じるとき、スキンシップを求めるでしょ。そういうのって、分かる?」
不意打ちのような言葉に、僕は目を見張った。
ニートだったころ、深夜、急に身体が震えだし、嘔吐したことがある。トイレで吐き終えても、歯が鳴るほどの震えは止まらなかった。服をありったけ着て布団にくるまっていると、そのうち頭だけがかっと熱くなった。脳が焼けるように熱かった。医者に行こうにも金もそれほど手持ちがなく、健康保険は滞納したままだった。震えは止まらず、熱も下がらず、そのうち身体がだるくなってきた。
頭が重く、孤独で、喉が渇いても水をコップに汲むことすらできない状態のまま震えながら、僕はずっと取り付かれたようにひとつのことを願っていた。
その時、僕は、誰かに手を握ってもらいたかった。男でも、女でも、誰でもいい。何もしてくれなくていいから、ただ、そばについて手を握ってもらいたかった。そうじゃないと、心細くてどうにかなってしまいそうだった。
「そう、だな」
僕は朱実に向かってぎこちなく頷いた。背中が鈍く痛んだ。
「そういうことは、あるかもしれない」
「あたし、そういう時期だったのね、その時」
朱実はついていた頬杖を外し、髪をかきあげた。
「色々面白くないことが重なって、苛々してて、どうせなにやっても上手くいかないんだ、努力しても駄目なんだって思ってたの。だけど浩次は言葉ひとつであたしの気持ちを引っくり返してくれたわ。引っくり返して、あたしの手を握ってくれた。何かが変わる気がした」
僕はゆっくり呼吸を整えた。テーブルの下で、何度も手を握ったり開いたりした。菜穂子の手の感触が蘇り、胸をしめつけた。
「樹里にはテーブルの下で何かあったか見えなかった。だからこそ、浩次の言葉に口説かれた」
「あたし気づかなかったんだ、樹里も浩次がいい男だと思うに違いないって。頭回ってなかったんだよね。そん時あたし、浩次と寝ることしか考えてなかったからな」
背を伸ばすと、朱実は通りかかったウェイターにビールを注文した。ビールが到着するまで、僕たちは互いに口を開かなかった。嫌な沈黙ではなかった。共感と親密さが混ざった、暖かい毛布を二人で共有しているような沈黙だった。ビールが届くと、朱実は話を再開させた。
「樹里から連絡取ったんだって、後から知った。長髪の男の子に、樹里が連絡先を聞き出したの。で、あたしと寝た次の夜に、浩次は樹里と寝た。樹里は遠慮してたみたいね、あたしに。浩次が寝たのは樹里が連絡取ったからだと思ってて、一番はあたしなんだと思ってたみたい。だから急に呼び出されても頑張って家を抜け出したり、連絡が取れなくても諦めたり、色々我慢してたんだと思う」
樹里は自分を、二番目だと位置づけていたのだろう。もともと、別の男にナンパされていたなら、それも理解できる。あらかじめ何かを諦めているからこそ、我慢できるというのはあるものだ。
「どうして別れたんだ、樹里と浩次は」
「浩次の女が、あたしと樹里だけじゃないって気づいたからよ」
当然という口ぶりで、朱実が言った。
「浩次はね、他の女と会う口実に、あたしを使ってたのね。健気に我慢してた樹里は、それ知って逆上したのよ。そりゃそうよね。自分より先に出会った女がいるから身を引いてたのに、自分より後にナンパした女といちゃついてたら、頭にくるよ」
「なんで、樹里はそれを」
「あたしが教えたに決まってるでしょう」
薄く笑って、朱実は言った。
「他に女はいるんだろうなって、薄々は思ってたの。けど、まさか樹里にまで手を出してるとは思わなかった。どっか、心の隅で思ってたんだろうね、樹里と話してたけどあたしを選んでくれたんだって。あたしも他に男がいたし、浮気くらいに目くじら立てる気はなかったんだけど、でも樹里だけは許せなかったの。矛盾してるけどね」
まあそんな感じよと投げ出すように言って、朱実はジョッキに口をつけた。長い髪を後ろに流し、喉を無防備にさらして、意地になったかのようにすっかり泡の消えたビールを飲んでいる。
運が悪かったと思えばいいという言葉こそが、魔法の言葉だったのだろうか。少なくとも二人の女を虜にするくらい、その言葉には力があった。
「樹里は嫌いだけど、でも、今でも偉いなと思っているとこがひとつだけあるの」
朱実は半分ほど空にしたジョッキをテーブルに置いた。ジョッキの中で、ビールが嵐の海みたいに激しく揺れた。
「浩次と別れ話をしたとき、あの娘手を握らせなかったの。あたし、その場にいたんだけど、浩次が触れようとすると、樹里はさっと手を隠してた」
「手?」
「手を繋ぐのが好きだったのよ、浩次は。心と心が繋がってる気がするって言ってた。だからもともと手を繋ぐのが好きだし、触るのも上手かったから、本気で女を口説くときって、手に触ってたの。ほら、逃げる女はいつでも美人だって言うでしょ。もったいないと思ったんだろうね。でも、樹里は一度も触れさせなかった。対策を立ててたんだと思うよ。浩次に二度と捕まらないように」
「樹里は本心から逃げようとしていた?」
「そりゃそうよ。あたしだって、こりごりだもん」
朱実は肩をすくめ、年齢には不似合いなほど、苦い笑みを浮かべた。
「今でも浩次はいい男だと思う。けど、それは遠くから見てればって話」
「懲りたってことか」
「誰だって懲りる」
朱実が重いため息をついた。
「自分の心をずたずたにしたい人間なんて、いないでしょう?」
そう、自分の心をずたずたに切り裂きたい人間などいない。
だから、僕は、菜穂子と正面から向き合わないのだろう。彼女のことは遠くから見ているべきだったのだろう。近づいたのが間違いだったのかもしれない。
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