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三章 3
翌日は朝から曇りだった。分厚い雲が空を覆っている。ひどく寒かった。
僕はバイトを終えると、眠らないまま八本松の塗装工場に向かった。
野暮ったい制服を着た女性事務員に話を聞いた。同僚の妻や彼女に手を出したという、いくつかのエピソードを彼女は教えてくれた。魔法の言葉については知らなかった。リストは、それで終了だった。
昼前には部屋に戻り、ベッドに寝転がって天井を見上げた。目が冴えて、このままずっと起きていられるような気がした。板張りの天井には、溝が縦に六本走っている。布団に入っても、指は冷たいままだった。
昨夜のことを考えた。あれから朱実は侑子ママに挨拶したいと言い張り、一緒に駅前の「ふくふく」に行った。朱実はほとんど侑子と話さなかった。侑子だけではなく、僕とも、他の誰かとも話そうとはしなかった。彼女はひどく酔っぱらった挙句に客と喧嘩し、カラオケを歌いまくった。朱実は、誰かに手を握ってもらう必要があるように見えた。それを素直に求めることができず、足掻いているように見えた。
高い山の頂には一年中雪が残るように、朱実の心には浩次の思い出が降り積もったまま、氷となって残っている場所がある。たぶん、そういう場所は誰にでもある。山下は樹里の写真を捨てられなかった。僕の右足は季節の変わり目に、遠い追憶のような痛みに疼く。普段は意識しなくても、心がずたずたになった記憶は硬く凍りつき、永久凍土となって人の心に残る。このまま菜穂子を失えば、それもまた、僕の中に凍り付いて残るのだろう。かじかんだ指に息を吹きかけ、何度も動かした。
朱実は本当に懲りたのだろうか。例えば、浩次がやり直そうと提案したらどうだろう。あり得ないと思い、ひょっとしたらと思うのではないだろうか。過去をやり直すという言葉の響きは、強烈に人を誘惑する。過去をやり直し、永久に凍りついた場所の雪どけを望まない人間はいない。
もしも浩次が樹里に連絡を取ったとしたら、どうなるだろう。樹里は心がずたずたになるのを承知で、浩次と話したいと望むかもしれない。
望まないかもしれない。
それは人それぞれで、実際に起こってみないと分からないものだ。酷い修羅場の果てに別れた男女が再びよりそうことはあるものだし、逆にもう一度やり直したらと周囲がいくら望んでも、別れたままの男女もいる。ケース・バイ・ケースだ。
魔法使いは浩次なのかもしれないし、浩次ではないのかもしれない。
寝返りを打って、身体を起した。パソコンを立ち上げ、画面上で下関の地図を確認する。どこかに浩次の実家があるはずだが、当てもなく探すには広すぎ、経費がかかりすぎる。何か手があるはずだと感じるのに、それがなんなのか分からなかった。地図を消し、逆引き電話帳ソフトを立ち上げる。佐藤で検索をかけ、膨大な佐藤家の住所を眺め、ソフトを終了させた。
樹里のブックマークを調べた。彼女はいくつかのブログをブックマークしていた。共通しているのは男女平等に関しての議論が燃え上がっているということだった。佐藤浩次でページ検索をかけたが、ヒットしなかった。魔法使いで検索をしても同じだった。頭が熱くなっているのに、指は冷たいままだ。遼平のブログを呼び出し、佐藤浩次と魔法使いで検索をかけ、何もヒットしないことを確認した。
ヤフーで下関を検索する。関門海峡のこと、巌流島のこと、角島のこと、ふぐのことについて詳しくなった。下関では、ふぐをふくと言うのだそうだ。福に繋がるという意味合いがあるらしい。逆にふぐは不遇に繋がるとされ、忌み嫌われている。
パソコンを閉じ、朱実に電話した。古いアドレス帳のことを聞いてみるつもりだったが、彼女は電話に出なかった。少し考え、啓太に電話した。長く呼出音が鳴り、切ろうと思い始めたころ、啓太が電話に出た。何か用ですか、と身体の芯まで冷たくなるような声で対応された。敏郎が夜間に外出することはないか聞くと、帰ってくる時間はまちまちだと言われた。いちいち僕は兄貴を監視してるわけじゃないと言わんばかりの口調だった。
「あなたの言うように、兄はカードローンの支払いが残っていたことを認めました。治療費にかかった借金を言い出せなかったみたいです」
「領収書は」
「税務署相手にしてるわけでもないでしょう。とにかく、僕と親父は兄を信じてます。もう関わらないでください」
啓太は一方的にまくしたてると電話を切った。何の手がかりも、何の温かみもない会話だった。
コーヒーを入れ、一口飲んで、鳴戸今日子に電話した。彼女はすぐに出た。どういう用件でしょうと言われた。声が震えていた。
「もう依頼は終わったはずですが」
「お聞きしたかったんです。どうして調査を中止なさったんですか?」
「夫を信じることにしたからです」
少し息を吸って、今日子は今年からボーナスが減ったことを告げた。だから遼平を信じることにしたのか、脅迫しても無駄だと言いたいのか、どちらにしても今日子が僕との会話を望んでいないことは分かった。彼女に詫びて、電話を切った。またパソコンを点け、逆引き電話帳ソフトで津川と津山を検索し、その全てに電話をかけたが浩次の友人はいなかった。
浩次の友人を探している途中、田中から電話があった。熱が下がったんだ、と田中は言った。だから、今日から僕がバイトに出るよ、今日はゆっくり休んでね。分かりましたと答え、田中との会話を終了した。休みたくなどなかった。座っていられなくて、部屋を歩き回った。背中が時々痛みを訴えたが、無視できる程度の痛みだった。とにかく、動いていたかった。止まりたくなかった。調査を始めてからのことを、動きながら振り返った。一人ひとり、どういう会話をし、どんな表情だったのかをできるかぎり正確に脳裏に呼びさます。
秘密を打ち明けるように微笑んだ女性の顔が浮んだとき、足が止まった。彼氏なの、とその女性は言った。福は福を呼ぶのではなかったことに気づいた。ふくは福を呼ぶだ。可能性。メモリを呼び出し電話をかけた。
「もう寝るとこなんだけど」
侑子は不機嫌さを少しも隠そうとしなかった。
「朱実は見つかったんだから、もう用事はないんでしょう」
「ひとつ、いやふたつだけお聞きしたいんです」
僕は言った。
「もしかして、侑子さん、ご実家が下関なんじゃないですか?」
「あら、よく分かったわね。朱実から聞いたの?」
侑子が言った。
店名とふぐの置物。説明しなかった。聞きたかった質問をした。
「朱実は、浩次という男を店に連れて行ったことはありませんでしたか。佐藤浩次という下関出身の男です」
「あるわよ。ほら話したでしょう、朱実は同棲してる男がいたからね、よく店に男を連れてきてたのよ。浩次のことなら覚えてるわ。懐かしいわねぇ。朱実が浩次についたら、お客さんにばれちゃうでしょう。他の娘じゃ心配だからってあたしの客みたいになってたもんよ。浩次は同郷だったから、楽しい客ではあったね」
「同郷だと、どこの店を知ってるとかいう話になりますよね」
「そうそう。あの子の実家がね、下関の中心街だったのよ。割と有名な魚市場があるんだけど、その近所でね」
侑子は詳しく浩次の実家近くにある建物を説明してくれた。魚市場のある国道から一本入り、神社の脇にある細い道を十五分ほど歩くと細い裏道に出る。寂れた感じの商店街が続いていて、浩次の実家は駄菓子屋の真向かいだ。あたしね、と侑子は言った、その駄菓子屋に行ったことがあったの。
礼を言って電話を切り、シャワーを浴びた。それから服を着替え、キャッシュカードを持って、西条駅に向かった。新下関駅には三時間後に到着した。
午後四時を過ぎていた。
「お前、どこにいるんだ」
誰かと電話で話していた。執拗に話しかけてくる。頭がはっきりしない。
「どこにいるんだって聞いてるんだ、AF。おい」
声は、黒川だった。身体が重く、喉がからからだ。部屋が真っ暗で、今何時なのか分からない。黒川の声が頭に響く。
「樹里がまたいなくなった。吉川智恵子から何度も連絡が入ってるぞ」
冷水を浴びたように身体が震え、瞬時に目が醒めた。
「菜穂ちゃんも何も聞いてないっていうし。お前、どこで何してるんだ」
頭がしゃんとし、自分がどこにいるのか思い出した。下関だ。思い出した途端、飛んでいた記憶が繋がり、原因と結果が結びついた。
新幹線でも眠らなかった僕は、薄暗くやけに邪魔な柱の多い下関の駅を出て、ビジネスホテルに部屋を取り、少しだけ休むつもりでベッドに横たわった。このままでは寝てしまうと思いながら意識を失い、長い長い夢を見た。
菜穂子を失う夢だった。由梨が「いいよ、こっちも悪かったんだし」と言ってアナルファックのいきさつについて教えてくれ、黒川がそれを見てにやにやしていた。空気が動いているのか、闇の中で由梨の香水が鼻についたかと思うと、最初から存在しなかったかのように消える。暴走族の爆音が僕の腹んなかをかき回し、気がつくとそれは電話の音だった。
「どこで何してるんだって聞いてるんだぞ」
上半身を起した。ベッドのデジタル時計は五時半を示している。ふと気づいた。眠りに落ちる前、この時計は十七時と表示されていた。
「今、朝の五時半なんですか」
「当たり前だ。何言ってんだ、お前」
「……寝てました」
「何だと」
「すみません。ずっと寝てなくて。新幹線でも眠れなくて、ちょっと休むつもりでいたら」
「新幹線? ちゃんと順を追って話せ。お前、今どこにいるんだ」
「下関です」
僕は観念して言った。
「下関に、来てるんです」
数瞬、黒川は沈黙した。胃にもたれるような沈黙だった。
「馬鹿だな、お前」
低くつぶやいてから、黒川は声をあげて笑った。受話器越しに、黒川がひいひい言いながら悶えているのが伝わってきた。
「そこまで笑わなくても」
「あほ。笑うに決まってるだろう」
息も絶え絶えに、黒川は言った。
「わざわざ下関まで行って寝る馬鹿がいるか。信じられん。何しに行ってるんだよ。寝るなら部屋で寝ろ、部屋で」
「……それはそうなんですが」
「僕も色んな事態を想定してたんだが、まさか寝てるとは思わなかった。ある意味、すごいぞAF。お前はすごい馬鹿だ」
褒められた気が全然しない。
「で」
散々僕を虐めてから、黒川が真面目な口調になった。
「何か掴んだのか。昨日、朱実とかいう女に会ったんだよな」
朱実の話をすると、黒川は唸った。
「心をずたずたにしたい人間はいない、か。まあ、誰かの心をずたずたに切り裂ける男は、女を口説くのが異常に上手かったりするからな。なるほど、だから下関か」
「とにかく、実家に行ってみます」
「朝の五時半にか? まず菜穂ちゃんに電話しろ。お前、下関に行くこと、伝えてなかったんだろう?」
言葉に詰まった。追い討ちをかけるように、黒川が言った。
「お前ら、上手く行ってないんだろう」
ぐうの音も出ないという状態がどんなものであるのか、僕は身を持って知った。生きるというのは、未知の何かを実感することなのかもしれない。
「ちゃんと電話しろよ。それから順序が違うが、せっかく下関まで行ったんだ、手がかり掴むまで戻ってくんな」
「いや、あの、バイトあるんですが」
「バイトなんか辞めちまえ。勝手に行動したんだ、死んでも手がかり掴んで来い」
身体の芯に響くような、力のある声だった。
「手がかり持って戻って来るんだ。戻って、菜穂ちゃんに土下座して謝れ。いいな。そうすりゃ、菜穂ちゃんだって許してくれる」
頑張って頑張って頑張っても上手く行かなかったら、運が悪かったと言って笑えばいい。が、運のせいにしていいのは、死ぬ気で努力してからだ。そうじゃなきゃ、悪運からクレームがくる。
「樹里のほうは、俺が引き受けてやる。だから、ちゃんと菜穂ちゃんに電話しろ。あんな良い娘、他にいないぞ」
「所長」
ジェットコースターが落ち続けるなら、飛び降りて、そいつを受け止め、押し返せばいい。ベッドに正座して、頭を下げた。
「ありがとうございます」
返事は一言だった。馬鹿と言って、黒川は電話を切った。的確で妥当な表現だ。
正座したまま菜穂子に電話した。
ツーコール目で、彼女が出た。
受話器から聞こえてきたのは声ではなく、押し殺した息遣いだった。
高圧な何かに菜穂子がじっと耐えている気配がし、空気が帯電するかのような緊張をはらんでいる。息をするのもはばかられるような重いプレッシャーが、菜穂子のいる場所だけでなく、僕の部屋まで伝播する。黒川との会話で感じた空気はどこにもない。怯んだ僕を見透かしたように菜穂子が笑った。
「いくじなし」
尖った言葉の先は矢じりのようだ。鋭い先端が、僕の胃に突き刺さる。
「菜穂子、僕は」
「いくじなし」
もう一度菜穂子が言った。
「もうたくさんよ。はっきりして。あたしに飽きたの? だから逃げてるの? そういうことなんでしょう。だったらもう」
「ちょっと待ってくれ。話を」
「聞きたくない」
ベッドを降りて、窓際に向かった。ブラインドを上げる。まだ朝の気配はどこにもなく、街灯のオレンジ色の光が、すぐ前の緩やかにカーブするアスファルトを照らしている。人影は見えない。身体を動かしても、菜穂子の声が鼓膜を叩いた余韻は消えなかった。拒絶に胸が詰まり、何を言えばいいのか分からない。黒川がアドバイスしてくれたはずだったが、何も思い出せなかった。無力感がネガティブな想像を連れてやって来る。暗い想像は身体のあちこちで跳ね返り、僕の内部をずたずたにしていった。道を歩く人の姿は見えない。
切迫した息遣いが受話器から聞こえた。呼吸音に嗚咽が混じっていた。菜穂子は苦しんでいる。出し抜けに、怖いのは僕だけではなかったことに気づく。
ここ一週間、菜穂子はずっと遅くまで残業し、休日は友達と外出していた。それは、僕と顔を合わせれば、別れ話になると予感していたからだ。彼女を不安にさせ、一人にさせていたのは僕だ。
「大丈夫だ」
気がつくと、そう口走っていた。
「大丈夫だ、菜穂子。大丈夫なんだ」
「――何が大丈夫なのよ」
「とにかく大丈夫なんだよ」
二人とも怖いなら、切ないなら、希望はあるはずだ。なんとかなるはずだ。
「意味分かんない。あたしに触りもしないくせに。飽きたんでしょ。だからアナルでしたい、なんて言うのよ。別の穴に入れたいだけなんでしょう?」
菜穂子が涙声のまま、虚ろに笑う。その声が、奈落に落ち続けるジェットコースターの振動と重なる。気がつくと、僕は震えていた。
「違う」
「何が違うの」
「アナルでしたいのは、飽きたからなんかじゃない」
理由は別にある。
「だったらどうしてよ?」
たまりかねたように菜穂子が言った。
「大体、どうしてキスもしないの?」
ジェットコースターを止めろ。心が叫んだ。今すぐに飛び降りろ。身体が震える。震えながら僕は目を閉じて喚いた。
「インポなんだ」
「え?」
「立たないんだ。勃起しない」
息が乱れた。心臓が、あり得ないほど早い鼓動を刻んでいる。菜穂子の返事はない。深く息を吸って、目を開けた。
「言えなくて、ごめん。インポなんだ」
「嘘」
「嘘じゃない」
あれほど言えなかった事実は、自棄になって口にだした途端に、僕を解放してくれた。肩の力が抜けているのが自分でも分かった。しばらく考えて、気づいた。僕は菜穂子に秘密を持っているのが嫌だったらしい。
「正直に言いたかったけど、恥かしかったんだ」
自分でも、笑っちまうくらいに心が軽かった。
「僕のちんこは勃起しない。ふにゃふにゃなんだ」
「ちんこ言わないで」
「じゃあ、それは勃起しないし、ふにゃふにゃなんだ」
「本当、なの?」
「まだ医者に確認したわけじゃないから、機能的な問題なのか、精神的な問題なのかは分からない。でも、とにかく本当に立たないんだ」
「あたしだけ? あたしにだけ反応しなくなったの。それとも他の女には反応する?」
「反応しない。というか試してないから分からないけど、そもそも、そういう欲求が消えてるんだ。セックスの気配を感じると、心が怯えて縮こまるのが自分でも分かる。インポだって知られるのが怖かったんだ。インポになったら捨てられそうで、怖かった」
「捨てるわけないじゃない」
「そう言ってくれるのは嬉しいし、そうあって欲しいと願ってるんだけど、仮にもし僕が一生インポなんだとしたら、僕はどうしたらいいか分からないんだ。すごく劣等感を感じる。優しくされればされるほど、八つ当たりしたくなるかもしれない」
「八つ当たりすればいいよ」
「そんなことしたくない」
「病院に行ってみよう」
さらりと菜穂子は言った。落ち着いた口調だった。動揺は少しもなかった。
「健全な精神は、健全な肉体に宿るのよ。昔の偉い人もそう言ってる。泌尿器科に行けば、EDの問題も扱ってくれるはずだし」
「けど」
反射的に言葉が口をついた。
「けど、どうしたの?」
僕は自分の足元を見つめた。
「医者や看護師に知られたくない」
「そっか。ごめん、そうだよね。……いつから、勃起しないの?」
仰向けのまま涙を流す菜穂子の顔が蘇った。あの夜のことを蒸し返すのが、問題を解決することになるのか、それとも菜穂子を責めることになるのか判断がつかなかった。
「もしもし、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「電話じゃ言いにくい?」
少し声のトーンを落として、菜穂子が囁いた。
「今どこにいるの? すぐ帰って来られるなら、起きて待ってるけど」
「下関にいるんだ」
「下関?」
樹里のこと、魔法使いのこと、浩次のことについて順を追って話した。こうして調査のことを菜穂子に話すのは久しぶりだった。どれだけすれ違っていたか、いかに危機に瀕していたのか実感した。僕は崖っぷちの縁に踵だけで立っていた。爪先を何もない空間にさらして。
「だから下関に行っちゃったんだ。ちょっと手順が間違ってると思うけど」
話を聞き終えると、菜穂子は言った。
「所長も似たようなこと言ってたな。順番が違うって」
「まあ、行っちゃったんだから仕方ないよ。とにかく浩次を探してみなよ」
「ごめんな」
「いいよ。正直、ちょっとだけ安心したし」
「安心させるようなこと、言ったかな」
「立たないって言ってくれた」
菜穂子が柔らかく笑う気配が伝わってきた。
「ごめんね。一平はすごく深刻だと思うんだけど、でもだからこそ安心できたっていうか。あのね、ヤマモトって女があたしの仕事場に来て変なこと話すから、もしかしてって心配してたの」
「ヤマモト?」
「心当たりがある」
一瞬、菜穂子の声が厳しさを増した。今まで一度も聞いたことがないほど、低い声だった。
「ない、ない」
必死で首を振ると、菜穂子が、だよねと笑った。
「明らかに偽名だったんだけど、でもね、その女、一平がアナルでしたがってるの知ってて」
「ちょっと待った。それ、いつの話」
「病院に運ばれる前よ。二週間くらい前の水曜日かな。ほら、お昼食べる約束して、すっぽかしちゃった日があったでしょ」
慌ててザックから手帳を取り出した。昼に食事の約束をしていたのは、十一月八日だ。翌日、魔法使いから二度目の電話があり、僕は広島大学におもむき、ドスカラスと暴走族に襲われた。
「あの日、営業から一旦会社に戻って、伝票を整理してたの。で、気がついたら十二時近かったから慌てて出ようとしたら、その女が立ってたのよ。黒のタートルに、ダメージジーンズの、長い髪の女だった。うちの事務所って、入口にカウンターがあって、新聞置いてあるのね。配布してない地域の人が直接取りにくる場合もあるから、そういう人なのかなって思ってたの。そしたら営業の小林菜穂子さんいますかって言うから、あたしですって答えてたら、その女鼻で笑ったの。一平がアナルに入れたがってる女は、あんたかって」
菜穂子の声に、押さえようのない怒りが滲んだ。
「教えてあげるってその女は言ったわ。一平がアナルに入れたがってるのはね、あんたに飽きたからなんだよ。別の穴に入れたいだけなの。それって、浮気したいって言ってるのと一緒よ。それだけ言って出て行こうとしたの。すぐに追っかけたわ。追っかけて、あんた誰よって問い詰めたら、あたしはヤマモトよ、そう言えば一平さん、すぐピンとくるわって。本当に知らない人よね」
「ああ」
「良かった」
菜穂子が言った。
「ずっと心配だったの。あたし、一平に必要なのかなってずっと考えてた」
「必要だよ」
「良かった――ごめんね、変に疑ったりして」
「いいよ。別に疑われるようなことはしてないし。なんせ、インポだから」
ごめんと言いながら、それでも安堵を隠せないように菜穂子は明るい声で笑った。しばらくたわいのない言葉を交わしてから、電話を切った。
ベッドに腰を下ろした。
こっちも悪かったんだしという言葉は、そういう意味だったのだろう。だから、彼女と喧嘩していないか聞いてきた。冷静になってみると、コンビニの前で部屋について行くと彼女は言ったが、僕と菜穂子が同棲していることを知らなければそれは脅しにならない。ついてこられたら困るからこそ、僕は神社の石段を指定したが、恋人がいるというだけで同棲まで確信できるものではない。黒川が余計なことを言うからだ。だから、単純な事実に気づかなかった。
ヤマモトは水村由梨だ。
つまり、由梨は、僕が同棲していることや、菜穂子の職場がどこなのか、知っていたということになる。
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