三章 4

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三章 4

 駅前からバスに十分ほど乗ると、関門海峡が見えてきた。  アナウンスに耳を澄まし、唐戸で降りた。海沿いにウッドデッキが長く伸び、ガラスを全面に使った建物やレンガ色の建物が、古びたフェリー乗り場を挟んで並んでいる。駅前で手に入れたガイドブックによると、ガラスの建物は水族館で、レンガ色の建物が唐戸市場と呼ばれる魚市場らしい。唐戸市場は古くから卸売りと小売を行っていたが、平成十三年に『唐戸地区ウォーターフロント』の核施設としてリニューアルしたそうだ。ウッドデッキや水族館は、ウォーターフロント計画に合わせて作られたのだろう。  フェリー乗り場の周辺には小さな食堂が並んでいて、ウォーターフロントの新しい波による影響は見られなかった。手書きでオススメ料理の書いてある食堂に入り、ふぐの天ぷらそばを食べ冷えた身体を温めた。朝からふぐの天ぷらを食べることに多少の後ろめたさがあったが、ふくは幸福の福だ。死に物狂いで手がかりを掴まなければならない僕に福はどうしても必要だ。食べないわけにはいかない。  七時前という時間帯の割に、食堂は人が多かった。市場で働いている関係者らしきゴム長を履いた男性も多かったが、浮き立った興奮を滲ませている若い女性の旅行者もちらほらいた。きっと、ウォーターフロントのおかげなのだろう。壇之浦古戦場跡の近くにできた公園には滝沢秀明の手形があるらしいので、もしかしたらその影響なのかもしれない。ガイドブックは、いつでも多くの情報を教えてくれる。  食堂を出て、神社の脇にある細い道を十五分ほど歩くと二車線の道路に出た。寂れた感じの商店街が続いている。駄菓子屋の向かいに浩次の実家はなかった。そこには、曇り空に白く光る雑居ビルが建っていた。大きな真新しいビルは、もしかしたらウォーターフロントの影響によって建設されたのかもしれない。  浩次の引っ越し先はガイドブックに記載されてなかった。福に頼ることもできないようだ。  仕方なくビルを中心にローラーをかけ聞きこみを始めたが、まだ早朝だからなのか、それとも僕が滝沢秀明ではないからなのか、情報はほとんど集まらなかった。わずかに手に入ったのは、ステンレス雑居ビルは地元の金持ちのものであり、以前にあったのは古い借家だったことくらいだ。借家のひとつが浩次の実家だったらしい。 「あの家とはそれほどつきあいがなかったからねえ」  大声で家の中に向かって早くしなと叫ぶと、四十半ばくらいの女性は笑った。 「子どもがね、小学生なんだけどいっつもぎりぎりまで支度しなくてねえ。で、なんの話だったかね」 「佐藤浩次くんのご実家の転居先などを教えていただければと思いまして」 「ごめんねえ、ちょっとそこまでは分からない」  威勢良く言うともう一度早くしなと大声で怒鳴ってから、女性は奥に引っ込んでいった。  手帳に聞きこみを行った家と住所を記しながら、ブロックごとに潰すようにし、浩次の引っ越し先を聞いて回ったが、時間が経つにつれ自分の現在地が曖昧になってきた。通勤や通学に出てきた人たちと目が合い、露骨に不審そうな顔をされた。時折目を上げ、白く輝くステンレスのビルを見つけると、古い友人を見つけたようにほっとした。  九時過ぎに雑居ビルからかなり離れたアパートで、次の情報が見つかった。中学校の同級生だった男が一人暮らしをしていて、ちょうど休みだったため話を聞けた。浩次は去年の暮れ、父親を亡くしていた。同級生から連絡が回ってきたのだと言う。引っ越し先は知らないとのことだった。アパートを出て煙草の自動販売機のそばに座りこんで一服していると、黒川から電話があった。 「樹里の部屋を見てきた。クロゼットに露出の高い服はなかった。写真の服を母親は見たこともないそうだ。ほぼ確定と見ていい」  黒川は一息に言った。 「おそらく、コインロッカーにでも隠していたんだろう」  時々夜中にいなくなっているという智恵子の言葉を思い出した。スナック菓子をコンビニで買うついでに、コインロッカーに金を追加する。不可能な話ではないが、それは西条駅ならばの話だ。西高屋駅にコインロッカーはない。 「だったら、服を預かってた誰かがいたんだ」  黒川が言った。 「派手な女友達がいれば簡単に解決する問題だ」 「同性の友達はいなかったようですが」 「別に同性じゃなくてもいい。異性でいいんだ。男女の関係があってもなくても、問題ない。要は服を預かってくれるだけでいいんだからな。そういう心当たりはないか?」  当たってみますと告げ、さりげなく由梨について聞いてみた。黒川はやはり、僕が菜穂子と同棲していることなど由梨に教えてなかった。 電話を切り、相葉と朱実に電話したが、二人とも繋がらなかった。由梨にも電話してみたが、やはり繋がらない。由梨には朝からずっと電話をしていた。  由梨が菜穂子の職場や僕が同棲していることを知っていたのは、別の探偵を雇ったからだとしか思えなかった。由梨は僕の働いているコンビニの近くに、黒川事務所以外にも探偵社があることを知っている。コンビニに近いのは、全国規模で展開している有名な探偵社だ。  思考を邪魔するように電話が鳴った。非通知だった。 「お土産はふぐちりセットがいいですね」  魔法使いが言った。 「もう水族館には行きました? まさか僕へのお土産はふぐのキーホルダーとかじゃないですよね」  どうして、という言葉を飲みこむ。煙草の煙が急に鼻をついた。  立ち上がり、自動販売機の横に設置されていたスタンド式の灰皿に押しつけて火を消し、吸殻を捨てた。 「何の用だ」 「気のない返事だな」  落胆の声で、魔法使いは言った。大げさなため息をつく。 「つれないな。僕は下関のお土産をこんなにも楽しみにしてるっていうのに」  僕が下関にいるのを知っているのは、黒川と菜穂子だけだ。  苛立ちを噛み殺し、思い直した。さっきまで手にしていた、書きこみすぎてページが真っ黒になった手帳に書かれた人々。僕が聞きこみをした人々は、もちろん僕がここにいることを知っている。訪ねた家の奥に、魔法使いはいたのかもしれない。あるいは、見知らぬ人間に迂闊に話してはならないと感じて沈黙を守り、その後、魔法使いに電話した誰かがいたのかもしれない。お前を探している男がいるぞ、と。ホテルの従業員やバスの運転手、食堂のおかみさんは僕がここにいることを知っている。ここが浩次の地元なのであれば、そして浩次が魔法使いなのであれば、絶対にないとは言い切れない。 「今日あなたが電話した相手から聞いたんですよ」  笑い声が僕を揺さぶった。 「あなたの親しい人が、あなたの居場所を教えてくれたんです」  僕が黒川と菜穂子に電話したのは、ホテルの部屋だ。他に誰もいなかった。馬鹿な。呻き声が喉から飛び出そうになる。 「どうしてそんな場所にいるんです」 「お前を探すために決まってる」 「僕を探しても、無意味です。もっと意味のある行動を取ってください。ドスカラスに襲われたんでしょう?」 「そう言えば、お前は約束を破ったな。嘘をついた」 「証拠を見せると言っただけです。殺人が起こるという証拠を見せると。ドスカラスが証拠ですよ」 「ドスカラスはお前だったのかもしれない」  こめかみがずきずきと脈打った。バットの唸りが耳の奥で蘇り、身体の芯に響く。 「お前は僕を呼び出し、マスクを被ってバットで襲ってきたのかもしれない。第一、どうして犯人がドスカラスのマスクを被っていたことを知っているんだ」 「あなたの身近な人間が教えてくれたんですよ。あなたの居場所を教えてくれたのと同じように」  わざわざそれを明かす必要はない。腹筋を絞り、丹田に力をこめた。魔法使いの狙いは僕を疑心暗鬼の状態にすることだ。つきあってやることはない。疑う心など振り捨ててしまえばいい。菜穂子と黒川を信じればいい。誰かを信じるのに、頭を使う必要なんてない。 「僕の言ってることは本当です。電話したらドスカラスが動いたのが証拠です。計画が漏れるのを恐れ、あいつはあなたを脅したんだ」 「お前が言ってるのは滅茶苦茶だ。自分で分かってるのか? 僕をいくら脅しても、お前が殺害計画を知っている。僕だけ脅しても、無意味だ」 「ドスカラスは、一人しか知らないのだと思っているんですよ」 「何だと」 「僕はね、あなたのふりをして電話したんです。探偵のAFだと名乗り、殺害計画について知っていると話した。ドスカラスはそれを信じたんですよ」  話の辻褄は合っている。それが本当ならば、僕はずっと勘違いしていたことになる。ドスカラスは本名を知らないから僕をAFと呼んだのだと思っていた。だが、ドスカラスが知らなかったのは本名だけではなく、僕の顔や声も知らなかったのだということになる。 「ドスカラスは、あなたの調査した二つの事件の関係者だ。そこまでヒントを与えているのに、どうして無駄な遠回りをするんです? 今すぐ東広島に戻るべきだ。戻ってドスカラスを探すべきなんですよ」 「そうやって、僕を下関から追い払おうとしているのか」 「違う」 「だが、その言葉をどうやって信じればいい? 僕はお前の名前も電話番号も知らない。かけてくるのは、いつもお前の都合のいいときだけだ。大体、そこまで言うならどうして自分から動かない? 暗い暗いと不平を言うより、進んで明かりを点けたらどうだ」 「そうできるなら、そうしてる」 「とすると、お前はそうできない状態にあるのか? 言えよ、誰がドスカラスなんだ」  返事はなかった。受話器を耳に強く押しつけても、何も聞こえてこない。 「電話番号を教えろ。そうすれば、誰がドスカラスだったか調査してもいい」  トラックが一台通り過ぎた。魔法使いはあれほどの饒舌が嘘だったかのように、沈黙したままだ。 「樹里は今、お前のそばにいるのか?」  返事はない。 「せめて、誰がドスカラスなのか教えたらどうだ」  電話が切れた。バッテリーが残り少ないことを確認して、ポケットに入れた。  そうできるなら、そうしてると言った時の、切迫した声だけがいつまでも耳に残っていた。唐突な電話の切り方が、魔法使いの失望の深さを物語っているように思えた。  もう一度座りこみ、煙草に火を点けた。意に反して、頭の一部が働き、誰がドスカラスだったのか追求し始めた。ドスカラスは男だった。二つの調査関係者から女性は除外され、鳴戸今日子と水村由梨は消える。残るのは、鳴戸遼平、馬鹿兄貴、啓太の三人だ。この内、啓太は除外できる。啓太は僕の声を知っている。魔法使いの電話を聞いて、僕を襲うとは思えない。鳴戸遼平も違う。遼平はその夜、由梨と一緒だった。病院で由梨がそう告白している。だとすれば、ドスカラスは馬鹿兄貴なのだろうか。二号線での尾行で、馬鹿兄貴は僕の顔を見て、僕の声を聞いたが、覚えているとは思えなかった。  そこまで考えて、気づいた。由梨の夫がいる。由梨は出張だと言ったが、その出張は夜の広島大学での用事を意味していたのかもしれない。  馬鹿兄貴と由梨の夫の二人は、二人とも調査関係者であり、僕の声や顔を知らない。  しかし、二人には動機がない。そもそも常識から考えれば、魔法使いの言葉を真に受けるべきではない。  煙草を消し、魔法使いを頭から追い出した。数度屈伸し、手帳を取り出しローラーを再開した。
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