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三章 6
十時を過ぎたあたりから、店が混み始めた。
浩次の他にも従業員が出勤し、それに合わせるように客も増えだした。派手な女性客の団体がカラオケで歌いだすと、従業員の一人がボトルで一気飲みを始めた。タンバリンを叩いていた浩次に金を払おうとしたが、東貴に捕まった。
「河岸を変えよう」
凄みのある笑顔を浮かべ、東貴が言った。目が怖いくらいに吊り上がっているが、怒りを押さえているのではなく、もともとそういう顔つきのようだった。
「せっかく会えたんだ。ちょっとくらい、つきあえよ」
酒場に連れて行かれるものだとばかり思っていたが、東貴が案内したのは国道沿いのファミリーレストランだった。
「どの店も知り合いばっかでな」
席につきながら、東貴が言った。
「知り合いばかりで、気を使わなきゃならない。息が詰まると、良くここに来るんだ」
店内は六割ほどが埋まっていた。二人連れの着飾ったカップルが多く、手荷物やカメラから観光客であるのが見て取れた。地元の人間は、思ったよりも少ない。
「ここは朝が早いんだ」
僕の視線を見透かしたように、東貴が言った。
「市場は三時過ぎには動き出すからな、バスなんかも夕方の六時台が最終だ。どの店もラストオーダーが八時だしな。港の朝は早いが、夜も早いんだ。夜に動いてるのは、観光客か、俺らみたいな水商売か、でかく儲けた連中か、くらいのもんだ」
説明されると、観光客ではない人間は、いかにも派手で、遊んでいるように見えてくるから不思議だった。だが、店内で一番目立っていたのは、やはり東貴だった。ファミレスの明るい照明の下で見る赤いどてらは異様としか言いようがなかった。ウェイトレスは慣れているらしく、東貴の服装に目を止めようともしない。
「店は良かったのか」
「騒いでいたのは、エステの姉ちゃんたちなんだ。あいつら誰がいようと関係ない。騒ぎたいだけ騒いで帰っていく。無茶苦茶やって、ストレス吐き出すんだと。小娘ばっかなのに、下手な漁師より金遣いが荒い。クレームもつけまくるし、場の雰囲気なんかお構いなしだ」
一息にいって、東貴は顔をしかめた。
「悪い。こんな話がしたかったんじゃないんだ」
「仕事の愚痴は誰にもある」
「オーナーになると、特にな。こんなはずじゃなかったんだが。もっと楽に稼げるはずだった。最初から失敗したがね」
「何に失敗したんだ」
東貴の口調には、適度にくたびれた響きがあり、それが僕の興味を引いた。ヤクザ顔負けの迫力のある顔が、ぼそぼそしゃがれた声で話す姿は、なかなか良かった。東貴が煙草に火を点けた。
「スピードをインドで買って、日本で売りさばこうとしたんだ。コンドーさんに詰めて、自分でケツの穴に入れて。今考えると笑えるんだが、あれはけっこう大変なんだ。カマ掘られてるようなもんだからな」
涼しい顔で、東貴は煙を吐いた。
「しかも二本だぜ、二本。あれを苦労して入れたのは、一生忘れられない。中で破れりゃオーバードーズでショック死するから、命がけだしよ。そんだけ苦労したのに失敗した」
「麻薬捜査官に捕まったのか」
「そんなドラマチックなもんじゃねえ。入国ゲートで、ちょっと質問されただけで、腹下してよ。多くは話さないが腹がぴーぴーになって、立ったまま下痢した」
「それはそれでドラマチックなのかもしれない」
「確かに、あんなドラマは二度とないかもな。逮捕されて実刑食らった。模範囚だったからすぐ出られたんだけどよ、おかげで店持つのに借金まみれになっちまった。もともと、借金したくなくてスピード運ぼうとしてたんだけどな」
「それがあの店か」
「あれは三軒目なんだ。前の二軒は潰れた。不思議なんだが、借金しまくってるのに、それが逆に良かったみたいだ。真面目に仕事しようと思えたからな。借金背負ってるとなりゃ、どうしても必死に働くしかない。それまではどっか身が入ってなかったんだな、僕は。商売やるならチャラで始めるより、多少借金あったほうがいいって言うが、ありゃ本当だったんだなと今さらにして思うよ。まあ、そんなもんだったよ、空手辞めてからの僕の人生は」
つぶやくように言って、東貴は顔を上げた。
「それで、お前は何してたんだ」
「僕?」
「たりめえだろ。お前の話が聞きたいから、こっちは恥かしい過去を告白したんだ。話せ。なんで探偵なんてやってんだ。あの住田一平が」
「まさか、僕の話を聞きたいなんていうやつがいるとは思わなかった」
「謙遜してるわけじゃなさそうだな」
東貴が身を乗り出す気配がした。
「あんたは足折っても、主審が待てを言うまで相手を睨んでた。ちゃんと自分の足が折れてるのを確認したのにな。俺はそれにしびれたんだ」
あの瞬間のことは、ほとんど覚えてない。自分の足が逆向きに曲がっていたのを覚えているだけだ。東貴の言うように、相手を睨んだ記憶はなかった。
「あれ見て、俺は空手辞める決心がついたよ。あんな根性、俺にはないと思ってな。同じことやっても絶対敵わねえから、別の道で勝つつもりだった。そのお前がなんで空手辞めてるんだ?」
ローを蹴ろうとした右足が、どもった話をした。攻撃の軸であったローが出ない僕に、どうしようもなかったことも。笑って話すことができた。
東貴じゃなかったら、笑って話すことなどできなかっただろう。空手家として最後の試合を、東貴は覚えていてくれた。それで十分だった。過去に一本、強い芯が通ったような気がした。
「そうか」
全てを話し終えると、受け止めるように東貴は一度頷いた。
「怪我で終わる選手は、多いからな。聞いて悪かった」
「いいさ。それより教えてくれないか。浩次はどうして夜の仕事に? 一年前には、水商売はしないと断言していたんだ」
「浩次の親父さんが死んだのは知ってるか」
「昨年の暮れだったらしいな」
「親父さんが言ってたらしいんだ。水商売だけは絶対にやるなと」
「じゃあ」
「そういうことだ」
東貴が言った。
「あいつは親父さんが死ぬまで、その約束を守ってたんだ。そういうとこが、あいつにはある」
それっきり、東貴は口をつぐんだ。ウェイトレスが料理を運んできて、東貴の前にステーキご膳が、僕の前にグリーンカレーセットが置かれた。それにビールのジョッキが二つ。ウェイトレスが立ち去るまで、沈黙につきあった。
「どうして浩次に会いに来たんだ?」
東貴が言った。抜き身の刀を突きつけられたような気がするほど、強い声だった。東貴の目を見据え、樹里の話をし、魔法使いの話をした。東貴が笑った。
「それは勘違いだ。浩次は魔法使いじゃない。あいつは今、純情な恋をしてる最中だ。仕事以外で、他の女にちょっかい出したりはしないよ」
「それは」
文庫本を読んでいた女を思い浮かべた。
「あのヘッドホンの女のことか」
「どうしてそう思う」
「探偵なんてやってると、人の色恋には敏感になる」
浩次は話しながら僕の灰皿やグラスにきちんと注意を払っていた。その目配りは僕だけではなく、店全体に及んでいた。灰皿を変えるために動くと、浩次は必ず周囲に目を走らせていた。あの女だけを、浩次は見ようとしなかった。
「誰なんだ、あれは」
「俺の愛人」
ステーキを食べ終え、東貴がナイフとフォークを行儀良く揃えた。ポケットから煙草とマッチを取り出し、火を点ける。
「二十二歳の女子大生だ。もとは客だったんだが、俺の女にした。俺には良く分からん音楽を聞いて、俺には分からない本を読んでる」
「で、浩次に惚れてる」
「良く分かるな」
「言っただろう、探偵は色恋に敏感なんだって。浩次は殊更に見ようとしてなかったが、それはあの女も同じだ。二人は意識しあってる」
「それを眺めたくて、店に呼んでるんだ」
煙草をくわえたまま、東貴は言った。煙に目を細めている。
「浩次には俺の女に手を出すような度胸はない。女もな。そういう場合、俺がどうするか二人とも良く知ってるんだ。だから目も合わそうとしない。目を合わすくらい、見逃してやるのにな」
「合わせたら、離れなくなりそうで怖いんだろう」
「かもな」
「それを楽しんでる?」
「そういうことだ。あまり見物できるものじゃないからな。じりじり身を焼く苦しいだけの恋なんて、韓国ドラマでもなければ滅多に拝めるもんじゃない」
「趣味が悪い」
「他の男に求められてると思うと、燃えるんだ。女を抱くときもな。嫉妬はマンネリを防いでくれる。上手く性欲に結びつけることができれば」
とにかく、と東貴は続けた。
「だから浩次は他の女にちょっかい出す暇はないってわけだ。分かるか」
頷いた。浩次が魔法使いではないことくらい、とっくに分かっていたことだ。
甘く掠れ気味の浩次の声と、高く澄んだ魔法使いの声は、まるで違っていた。黒川や菜穂子の言った通り、僕は順番を間違え、手順を間違えた。わざわざ下関に来なくても、録音した魔法使いの声を、朱実か山下に聞かせれば分かることだった。
僕は本当に本当に、頭が悪い。
始発の時間まで待って、ファミレスを出た。
朝四時だというのに唐戸市場には明かりが点っていた。市場前の駐車スペースに、何台もの長いトラックが停まっている。眺めている間にも、次々とトラックが市場に入ってゆく。重い車体の軋みが冷たい空気を震わせていた。
駅まで東貴と歩きながら、魔法の言葉について話した。
「女の子を九十パーセントの確率でホテルに連れこめる言葉なら知ってるぞ」
東貴は、寒そうに身体を縮めると白い息を吐いた。暗い天に上ってゆく途中で、東貴の呼気が霧散していく。何度か大きく息を吐いて、東貴が言った。
「知りたいか」
「知りたい」
「どうしても?」
「教えてくれよ」
「想像してみろ。意外と簡単なんだ」
思いつかなかった。もともと僕は直球派だ。ホテルに誘いたければ、ホテルに行こうと言う。好きだと思えば好きだと言うし、可愛いなと思えば可愛いなと褒める。僕は毎日でも菜穂子を口説きたいと思っているし、ここ最近はともかくとして、出会ってから毎日口説いて褒めてきた。
東貴は良く考えろと言って、どてらの袖に両手を入れて、意地悪そうに僕を見ている。しつこく食い下がると楽しそうに目を細めた。
「お前、もう帰るのか。もう一泊してけよ」
「無理無理。調査費用だって出るかどうか分からないし。下手すりゃ自腹だ。それより教えろよ。なんて言うんだ」
「一泊したら教えてやるよ」
「だから無理だって言ってるだろう、教えてくれないつもりか」
腹立ち紛れに睨むと、東貴は澄ました顔で言った。
「もう教えた」
「いつ?」
「だから『一泊したら教えてやるよ』が答えだ。本当は、『俺とホテルに泊まったら教えてやるよ』だけどな」
「つまりそれは」
呆気に取られ、僕は立ち止まった。
「結局答えなんかないってことか」
「失敗したら、そうだな」
含み笑いしながら東貴が答えた。
「でも成功すれば『俺とホテルに泊まったら教えてやるよ』が答えになる」
「詐欺じゃんか、それ。つうか、それでホテルに行く女なんているのかよ」
「だから相手を選んで言うのさ。ある程度の仲になって、誘いたいなと思う女がいるとするだろう。そういう相手に、九十パーセントの確率でホテルに連れこめる言葉を知ってると話題を振る。相手が食いついてきたら、焦らして引っ張りながら様子見するんだ」
「なんかもうその時点でやらしいな、あんたが言うと」
「焦らすってのは、どんなことでも淫靡なもんだ。そういう駆け引きが成り立つ相手かどうか見極めて、ホテルに泊まったら教えてやるって言うんだ。見極めに失敗して、鼻で笑われることもあるけどな」
「好きなら好きだと言えばいい。そんな回りくどいことせずに」
「あんたはそうだとしても、多くの男はシャイで口説き文句を言えないんだ。だからそういう阿呆な手段を考える。魔法の言葉ってのも、案外そういうハッタリを利用したもんなんじゃないのか?」
しばらく東貴の意見について、考えた。考えながら歩いていると、いつの間にか駅前に出ていた。
下関の駅は暗いと思っていた。駅前にはほとんど広場がなく、すぐにロータリーがあり、邪魔な柱が何本も立っていると。遠目から見て、その印象が間違っていたことに気づいた。
広場は二階にあった。一階のロータリーを覆うようにして、空中庭園が朝日を浴びて輝いている。邪魔だと思っていた柱は、広場を支えていた。下関の駅に心の中で謝罪した。空中庭園から眺める駅前は明るく開放的だった。空が広く、気持ちのいい風が吹いている。
東貴は改札口まで見送ってくれた。また店に行くよと告げると、顔を綻ばせた。見慣れたせいか、赤いどてらを着た東貴の姿が自然なものに思えた。
五時四十五分の山陽本線に乗った。新山口駅でのぞみに乗り換え、眠そうなサラリーマンがまばらに座っている車内に足を踏み入れた。周囲に誰もいない座席を見つけ、腰を据える。目を閉じて、東貴の言ったことについてもう一度考えてみた。
あたしはもう救ってもらったから大丈夫なのと、樹里は言ったはずだ。ホテルに一度誘うのと、人を救うのは違う。しかし、東貴の言葉は、僕にある示唆を与えてくれた。
東貴は焦らして相手を見極めるのだと言った。見極めてから、言葉を告げるのだと。それは空手と同じだった。
空手に必殺技などない。どんな強力な技にも、前準備が必要だ。ローで仕留めるつもりなら、まず細かいフェイントで意識を上に持っていかせる。相手にわざと攻撃させ、重心を移動させる。一気にローを蹴るんじゃない。どんな技にも、フェイントや崩しなどの、事前のやりとりが必要だ。出せば相手が倒れる必殺技など、マンガの中にしか存在しない。
魔法の言葉も同じであるような気がした。事前のやり取りがあり、見極めを行うからこそ、魔法がかかる。樹里は魔法にかかりやすい状態に誘導されたからこそ、虜になったのかもしれなかった。樹里が救いを求めていたのは、想像に難くない。浩次と別れるときの修羅場がどんなものだったかにせよ、それは彼女を徹底的に傷つけたはずだ。相葉と一時的につきあい、すぐに別れたのは、樹里の傷が深く、傷が癒えてはいないことを物語っている。
『でも結局ふられちゃったから、駄目だったんだろうね』
相葉のつぶやきが、耳の奥に聞こえた。
『なんで浩次みたいに放っておかなかったのに、僕がふられなきゃなんなかったのか。優しくしたのに、嫌われたのか』
相葉は浩次の逆をやろうとしすぎたのではないだろうか。それが樹里に浩次のことを思い出させてしまった。樹里が求めていたのは、浩次のような存在でも、浩次とは真逆の存在でもない。魔法の言葉はそういうこととはかけ離れた、まったく別の何かであったはずだ。
葉書の来なかった僕に、菜穂子が救いを与えてくれたように。
彼女は精神的にとても不安定で母親との関係に疲れているという、魔法使いの言葉を思い出した。樹里は浩次と出会う前から援助交際をしていた。
もしかすると、魔法の鍵は母親が握っているのかもしれない。
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