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三章 7
西条駅についたのは八時過ぎだった。改札口を出ると、眠そうな顔で足早に歩く学生やサラリーマンを避けるようにして、菜穂子が立っていた。白いニットの帽子を被っていて、チェックのスカートにブーツを履いている。そこにだけスポットライトが当たっているようだった。菜穂子に近づいた。
「仕事は」
「休んだ」
僕の右手を取ると、手の甲に菜穂子は鼻と唇を押しつけた。そのまま何度も深呼吸している。
「何してるの」
「匂いかいでるの」
顔を上げて、菜穂子が僕を見つめた。
「くんくんしたかったんだ」
説明するように言うと、また僕の手に顔を近づけ鼻を鳴らした。時々、本当に疲れたとき菜穂子はこうやって僕の匂いをかぐ。安心するのだと言う。匂いで僕が菜穂子を好きかどうか、大切に思っているかどうか、分かるのだと言う。
手首の匂いをかぎながら、菜穂子は目を閉じていた。ニットから少しだけ前髪がはみ出している。女子高生の集団があからさまな好奇の目で僕たちを見ていた。彼女が匂いで僕の心を知ることが可能なのかどうかは分からない。ただ、そうやって犬みたいに鼻を鳴らしている菜穂子が愛しかった。安心するのは、菜穂子ではなく僕のほうだ。与えているのではなく、与えられている。深呼吸したように、胸がいっぱいになった。
「行こうか、ちょっと邪魔になってるみたいだし」
そっと菜穂子の頬に手の平を当てた。なめらかな感触が、僕を満たしてくれる。
「後でまたさせてくれる?」
本気で心配している声だった。もっとかぎたいのにと目が訴えている。僕は笑って菜穂子の手を取った。
「愚痴ねえ」
菜穂子がううんとつぶやくと、動きを止めた。視線がコーヒーカップの取っ手あたりに固定して、動かなくなる。
僕たちは駅前の喫茶店にいた。モーニングの時間は微妙に過ぎていて、店内はそれほど混んでない。さっきまでここに座っていた男たちは、今ごろ列車ですし詰めになっているのだろう。出社時間が遅いのか、何人かのスーツ姿の男性がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。ほとんどが一人で座っていて、無言だった。一人だけ携帯電話でしゃべっている若い男がいて、男はやたらと早口になりながら、今向かっているところですと繰り返していた。向かっているもなにも、男は椅子に座っている。半分かじりかけのトーストが皿に乗っかり、コーヒーは湯気を上げている。電話の相手に突っこまれたのか、男は半分腰を浮かせながら、そちらに向いつつありますとひときわ大きい声で言った。案外正直な男だ。
「樹里ちゃんに関する愚痴はいくつか聞いたけど」
菜穂子が言った。
「でも思い出すのって、最近のばっかりだな。だってそれ、一年以上前なんでしょう」
「たぶん、そうだと思う。何か言ってなかったかな。つまらないことで喧嘩してとか、そういうようなこと」
愚痴には豊富な情報が含まれるものだ。何に対してやるせなく思ったり、憤りを感じるのか、どんなときに愚痴をこぼすかによって、その人間が出る。樹里の問題がなんだったのか知るために、吉川智恵子がどういう愚痴をこぼすのか知っておきたかった。
「高校に入学して喜んでたのは思い出せるんだけどな。智恵子さん、発表の日は同じ絵を何枚もコピーしてた。そういうのはすぐ浮ぶんだけど――駄目だ。思い出せない」
菜穂子が顔をしかめた。
「また後になれば思い出すかもだけど。ごめん」
「いいよ。こっちこそ、ごめん。無理言って」
「聞いてもいい? そうやって智恵子さんの愚痴を聞くのって、樹里ちゃんとの関係について知りたいからだよね。それが魔法の言葉の解明に繋がるかもしれないから」
頷くと、真っ直ぐ僕を見て菜穂子が言った。
「だけどさ、それって一平のやるべき仕事なの? 一平の仕事は、樹里ちゃんにちょっかい出してる男が誰で、どこに住んでるか調べることなんじゃない。魔法の言葉が何なのか考えることじゃなくて。家庭の問題に深入りすると大変よ。年頃の女の子と母親が衝突するのなんて、良くあることだから」
「耳が痛い」
僕は頭を掻いた。
「正直、そこまで考えてなかった。もう魔法使いに繋がる手がかりが見つからないんだ。だから樹里本人の魔法を解いて、魔法使いのことをしゃべらせたいと思ってたんだろうな、僕は」
「それって、単に魔法使いを探すより難しいかも。魔法を解かなきゃ、樹里ちゃんはしゃべらないだろうし」
「だな」
「それに樹里ちゃん、まだ家に帰って来てないから」
菜穂子はたっぷり三十秒は沈黙した。それから思いついたように口を開いた。
「よくさ探偵小説なんかじゃ裏社会の知り合いがいたりするじゃない? 裏社会に詳しくて、探偵に親切にしてくれる人がいて、困ってると色々教えてくれたりするじゃん。そういう知り合いとかはいないの」
ミステリー小説好きの菜穂子らしい意見だった。彼女はミステリーであれば、本格もハードボイルドも関係なく手当たり次第に読み漁る。
小説には必ずいる、都合のいい裏社会の人は、なかなかいないものだ。都会にならいるのかもしれないが、東広島ではそもそも需要がないだろう。情報屋はバイトしなければ生活できないことになる。そこまでして探偵に親切にしてくれる人はいない。だから現実の探偵が使ってるのは結構しょぼい手だ。黒川は実習のとき、僕に声色の使い方を教えてくれた。
「声色って、声を変える、あれ」
「そう。相手を電話使って脅す場合もあるからさ、偽名と声色で別人を装うんだ。脅すのは電話でやって、直接会うときは、別人のふりをする。で、電話の会話を録音したテープを聞かせて念書書かせたりする」
結婚詐欺の常習犯に黒川はその手を使った。
詐欺師と電話で話すとき、黒川は偽名を名乗り、いつもとは違う甲高い声で散々脅して自白させ、会話をテープに収めた。直接会って話したときに、黒川はうちの調査員との会話を録音していると言い、無言で一筆書かせた。推理小説ではとうに廃れてしまった一人二役を平気でやるのが、現実の探偵だ。
「なんか、せこいんだね、探偵って。カードローンの取り立てみたい」
「カードローン?」
「取材に立ち会ったことがあるの。カードローンの会社って、支払いの督促するとき、脅す人間と諭す人間の二人がいるんだって。脅す側の人間は、とにかく払え、払わないと自宅や会社に行くぞとか言って、散々脅すの。そうやって、金を借りた人間を不安にさせるだけさせておく。でも法律では自宅や会社に督促の電話をかけたり、押しかけたりしちゃいけないのね。だから、次に電話かかってきたら債務者はそう言って対抗しようとするでしょう? でもね、次に電話をかけてくるのは最初とは違う人なんだって。文句を言っても、あいつは会社辞めましたとか言って、今度は情に訴えるような話をしてくるの。電話って顔が見えないから、そうやって責任逃れ平気でやっちゃうみたい」
「たぶん、うちの事務所も人が多かったらそうするんだと思う。人が少ないから、探偵は声色を使う。法的な制裁措置を取られないようにしてるんだ」
「まあ、誰でも素直に借金を支払うわけじゃないし、悪事を働いた人がぺらぺら自白して後悔するわけでもないもんね」
菜穂子が言って、立ち上がった。
「行こうか」
「どこへ?」
「フィクションと現実は違うけど、でも通用する部分はある」
ニット帽を被りながら、菜穂子が言った。
「現場には何度行っても行き過ぎることはないわ。樹里ちゃんの部屋に行こう。何か見つかるかもしれないし」
犬が激しく吠えた。長い槍を突き出すような、二階にまで届く凄まじい怒号だ。
菜穂子と目を見交わしてから、ドアを開けた。樹里の部屋は、以前のままだった。居住スペースとゴミ捨て場が一緒くたになっている独創的な空間だ。いくつか新しいゴミが増えているように思えたが、気のせいなのかもしれない。部屋に足を踏み入れた。犬の吠える声が聞こえるせいか、二人して泥棒に入っているような気分だった。
智恵子の許可は取っていた。会社を休み寝こんでいた智恵子を説得できたのは、菜穂子の存在が大きかった。菜穂子の顔を見てほっとしたのだろう、智恵子は一階の和室で横になっていた。一昨日から、ほとんど寝てないのだと言う。
犬はまだ吠えている。パソコンを立ち上げ、フォルダを開いた。学校のレポートに使ったのか、様々な文章が収められている。ボッカチオの代表的著書は「デカメロン」。ナントの勅令とは、一五九八年、アンリ四世が発布し、プロテスタントにもカトリック教徒と同様の権利を認めた勅令のこと。フランス革命でルイ十六世が処刑された後、恐怖政治を行ったジャコバン派のリーダーはロベスピエール。世界史的な文章の羅列だ。 魔法使いの名前、住所と電話番号、生年月日、どんな言葉を囁くのか、に関する文章はなかった。
「やっぱり、あの服はないみたい」
クローゼットを閉めると、菜穂子は手を止め、肩を落とした。
「後で、智恵子さんに聞いてみなきゃ」
「僕がやるよ」
「いい。あたしがやる。そのほうがいいと思うし。そっちは」
「まだ何も」
お気に入りを呼び出す。樹里がブックマークしていたサイトはチェック済みだ。彼女がブックマークしていたブログは、どれも男女平等に関することが書いてあり、見事なまでに炎上していた。
男性と女性は肉体的な違いがあるのだから、真の平等などないというコメント。そこを踏まえて互いに思いやりをもつことが平等なのだというコメント。男性社員もお茶入れろというコメント。女は優遇されているのに、まだ優しくして欲しいのかというコメント。
誰かの言葉に、別の誰かが反応し、過剰反応した言葉が更なる過剰を化学変化のように引き起こす。なだめる言葉を投げかける者に対し、日和見だと言い切り、そうやって場を治めようとすることで良い人だと思われたいのかという罵声が飛ぶ。そこにあるのは意見の交換ではなく、意見の押し付け合いだ。流し読みするだけで殺伐とした気分になる。あまり好んで見たいと思うような文章ではなかった。
最初のブログには千を越えるコメントが寄せられ、次のブログには八百以上のコメントがついていた。三つ目のブログはクッキー対応だった。一度コメントを書きこんだユーザーを一定期間覚えていて、閲覧者がハンドルネームを書きこむ手間を省いてくれる、頭の良いブログ。
「見つけた」
菜穂子を振り返った。彼女は本棚の前にいて、分厚い心理学の本を納めるところだった。
「何?」
「樹里は、ここに書きこんでいたんだ」
コメント欄には、まる美というハンドルネームが表示されていた。まる美のコメントを探した。いくつかのコメントが、すぐに見つかった。
『女性が浮気をすると、とにかく酷い言われようをするけれど、男性が浮気する場合、それは男の甲斐性だなんて言う。火遊びだと言い切る芸能人が潔いなんて称えられる場合もある。同じことを女性が言ったと考えれば明白でしょう。世の中は、女性に対してあまり公平じゃない』
『女性が仕事をすることに反対する男性の多くが、他の男と知り合う機会を減らしたいからって理由で反対しているのだと思う。自分が職場で浮気、ないし、精神的な恋愛を異性と楽しんでいることを、誰よりも一番知っているから』
『援助交際についてメディアが扱う場合、若い女性の性に関するモラルの低さがクローズアップされるけど、それを買う側のモラルの低さはそれほど話題にならない。男の性に関する呆れるほど低いモラルは見逃され、買われる側のモラルが問われる』
『モンシロチョウのメスはパートナー以外のオスに対し、交尾拒否することで知られていて、純潔の象徴と呼ばれている。だけど交尾拒否するのはサナギから出てきたばかりのメスで、成虫となって二三週間たったメスは、相手を吟味した上で、パートナーではないオスとの交尾を許可するの。だからモンシロチョウのオスはサナギからかえったばかりのメスを探して血眼になるんだけど、これって人間の男も一緒だよね。自分と他の男を比べない女性を探して、ソープランドじゃなくて、素人の高校生や中学生、小学生にお金出したりするんだから。そういう意味では虫と一緒の男と平等なんてあり得ないのかもしれない』
短い言葉で相手を否定する、ネット特有のものとは明らかに異質な文章だった。周囲の論争もどきから一歩距離を置いた、冷たいといってもいいようなつぶやきだ。樹里が短いコメントを残しているのは、一度だけだった。お前はどうせ援助してる女なんだろうと誰かがコメントしていて、それに対し『だから?』と一言だけ返していた。樹里たん語録だと水原なら興奮しただろう。
「他のブログも見てみて」
背後に来ていた菜穂子が言った。
「同じ名前で書きこんでるかもしれない」
「だな」
ページ検索をかけると次々とヒットした。膨大なコメント数だった。まる美というハンドルで書きこまれた文章はどれも異質で、他の誰かが真似できるとは思えなかった。
性の低年齢化や、処女信仰は、浮気されることに怯える男性が増えた証拠だというコメント。女性が男性と同等に浮気の機会を得ることに、男は本能的に反発しているというコメント。
デヴィッド・M・バスによる、残酷な質問とその答えを引用しているコメントもあった。
「あなたのパートナーがその相手に強く心を惹かれ、たがいに信用し、秘密を打ち明けあっていることを発見した」
「あなたのパートナーがその相手と情熱的なセックスを楽しみ、あなたが空想するだけだったさまざまな体位を試していることを発見した」
あなたにとってどちらが耐えがたいものだろうか? とバスが質問したところ、女性の大部分は精神的な裏切りを耐えがたいものだと答え、男性の大部分は性的な裏切りに耐えられないと答えたそうだ。
引用を終えた樹里は、『要するに、男性は女性が性的な裏切りを行うってことに慣れていないのだと思う。慣れてないから、よりダメージを食ってしまう。一方、女性の側には長い長い男性による性的な裏切りを受けてきた歴史があった。男は浮気してしまうものだという、諦めにも似た、大げさに言えば歴史認識があった。だから性的な裏切りよりも精神的な裏切りを耐えられないとしたのだ。このことひとつとっても、男性と女性は平等ではない』と書いていた。
それらのコメントに三人が反発し、二人が呆れ、その他大勢は無反応だった。映画で見る、外国のパーティーのようなものだ。誰もが自分の話に熱中していて、他人の話など聞いてはいない。誰も樹里に、どうしてそう思うのか、何が辛いのか、本当に言いたいことは何なのか、質問してなかった。
「樹里ちゃんは、男を憎んだのね」
ぽつりと、菜穂子が言った。
「浩次を憎むのではなくて」
「もともと、男女平等に関しては敏感だったそうだ」
それぞれのコメントが残された日付は一年前の夏以降に集中していたが、全てがその時期に書かれたわけではなかった。夏以前の書きこみもある。樹里の何もかもを、浩次が変化させたわけではない。僕の説明に、菜穂子は首を振った。
「それでも、ここまで男性を憎んではいなかったはずよ。だいたいその男、樹里ちゃんや朱実さんが自分としたの、全部自分の力だって思ってるんでしょう。そんなの妄想じゃない」
「そうなのかな」
「樹里ちゃんが言いなりになったのは、浩次が好きだったからよ。テクニックとか仕込みに何らかの効果があったとしても、最初の気持ちとして好意がなければ成立しないでしょう。好きだったから、深みにはまったの。ただ、それだけのことなのよ。誰かを好きになる気持ちを軽く見て、自分自身の力が影響を及ぼしたんだと解釈するなんて、浅い」
「会った印象としては、そんなに浅い男でもなかった」
「かばうの?」
「そういうわけじゃない」
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