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三章 8
痙攣するように犬が吠えていた。バイクの音は聞こえてこない。気の毒な郵便配達ではなく、他の不運な誰かが犬のストレスを浴びているのだろう。恐らく、犬にストレスを押しつけているのは飼い主だ。飼い主もまた、誰かのストレスを押しつけられているのかもしれない。
「どうしたの?」
押さえた、控え目な声で菜穂子が言った。
「いつもの一平じゃないみたい。何かあったの?」
インポの僕は、もちろんいつもの僕じゃない。このままじゃアナルファックは夢のまた夢だ。縮こまったペニスのように、僕の心も萎えっぱなしだ。
が、問題はそれだけじゃなかった。どう説明すべきか、手を止めて考えた。
僕は浩次のように、金を稼ぐのが男でそれが全てだと言い切る人物を前にすると、劣等感を覚える。そういう相手の前に出ると、萎縮するのが自分でも分かる。うつむいてしまい、胸を張れない。
「一平?」
横から覗きこんで来た菜穂子の目を避け、キーボードに視線を落とした。
収入の少ない僕は、なかなか引っ越せない。そしてそれは、自業自得だ。だから自分より稼いでいる男を否定するのは難しい。給与と人格的な問題は別だと理解できるが、浩次の人格を否定すると、稼ぎで負けていることを帳消しにしているような気持ちになる。自分を汚い手段で正当化しているような気がする。とにかく、何かを誤魔化しているような気がしてならない。
それを、菜穂子にどう伝えればいいのか分からなかった。
静かだった。いつの間にか、犬も吠えるのを止めている。
菜穂子は無言のまま立っていたが、やがて僕の肩に手を置いた。戸惑っているような、遠慮しているような、曖昧な力が加わる。
何か言うべきだと思ったが、どうしても言葉が出なかった。男は稼ぎだという言葉に反論できない気持ちと似ていた。菜穂子の手がゆっくりと僕の腕を撫で、セーターを通して温もりが伝わってくる。僕の手を握ってくれるのは、世界中で菜穂子だけだ。音の聞こえてこない部屋で、それだけが確かなことだった。顔を上げ、菜穂子の手に僕の手を重ねた。
その時だった。
「誰ッ」
鋭い声が、沈黙に突き刺さった。乱暴な足音が、声に続く。
「ちょっと」
声が心臓を鷲掴みにした。菜穂子の手が硬直する。反射的に立ち上がったが、逃げる場所も、隠れる場所もなかった。犬が吠えていたことを思い出す。ストレスの解消は、同時に警告を意味していたのだ。
振り向いた。
予想した通りの人物が立っていた。ベージュのワンピースに黒のコートを羽織り、手には大きめのキャリーバッグを持っている。完璧な卵形の顔。描いた細い眉。意志の強い、力のある瞳が敵意をたたえてこっちを見ていた。怒りのためか、なめらかな頬が紅潮し、形の良い唇を震わせている。フルメイクした顔に、幼さは微塵もなかった。
「何なのよ」
怒りを露にして、樹里が噛みつくように言った。
左手を動かし、菜穂子を背後に庇った。パソコンがつけっぱなしだ。消す暇はなかった。樹里はディスプレイを注意深く観察し、大きな目を細めて僕たちを見た。
「泥棒じゃないみたいね」
「そうだ」
僕の声は自分でもはっきり分かるくらい、上ずっていた。内臓がひきつるような感覚が断続的に襲ってくる。
「もちろん僕たちは泥棒なんかじゃない。ちゃんと許可を取って、ここにいるんだ。だから話を」
「誰の許可を取ったって言うのよ」
冷ややかな声で、樹里が僕の言葉を遮った。
「ここに入るには、あたしの許可が必要よ。ここはあたしの部屋なんだから。あなたは、例の探偵?」
認めてしまえば、きっと依頼者である智恵子に迷惑がかかる。だが、認めなければ通報される。逡巡を、樹里があっさり一蹴した。
「そっちの人、写真で見たことがある。菜穂子さんね」
樹里の目は、さっと菜穂子を一瞥すると、ゴミが集積するスペースに固定された。それっきり、口を開こうとしなくなった。退場すべきだ。樹里がゴミ捨て場を見ている今なら、ここから走って逃げ出すことができる。そして樹里から話を聞くチャンスを永遠に失う。勝手に部屋に入った僕を、樹里は許してくれないはずだ。怒りは智恵子にも飛び火する。そうなれば、依頼は取下げられるだろう。ここで樹里を説得し、魔法使いが誰なのか聞きだすしかない。
「菜穂子はついてきてくれただけだ。君のクローゼットを見たかったんだ」
「クローゼット?」
「君は援助交際をしていたね」
樹里は反応しない。渇いた目で、ゴミの山を見つめているだけだ。
「浩次に会ってきたんだ。彼から聞いた」
樹里は反応しない。
「魔法使いが誰なのか教えてくれないか。君は」
キャリーバッグ。振り回されたそれをとっさに避けた。樹里の手から離れたバッグが机にぶつかり、ラップトップのパソコンが窓ガラスを突き破って落ちる。わずかに遅れてパソコンがアスファルトに激突する音が響いた。人の声は聞こえてこなかった。窓に駆け寄って、下を見た。誰もいない。アスファルトに散らばったガラスが鈍く光り、すぐそばにパソコンが落ちていた。ラップトップのパソコンは、ディスプレイとキーボードが分断されていた。落下による被害者はいない。例のストレスを溜めこんだ犬が盛大に吠え始めた。近くから聞こえるが、犬の姿は確認できなかった。樹里を見た。
「魔法使いが誰なのか教えてくれ」
「勝手に部屋に入って、何を」
振り絞るような声で言うと、樹里は絶句した。瞳が細かく揺れる。両手をきつく握り締め、力ずくで自制を保もとうとして、彼女は失敗した。見開いた目から涙が溢れる。
頭が冷えるのが分かった。成立するはずのない賭けだ。今この場で、樹里を説得するなんて。成立するはずがないのに、無理やり言いくるめようとしていただけだ。
「は、じ」
震える声で言うと、樹里は黙りこんだ。息を吸い、下唇を噛み、突然その場にしゃがみこむ。膝に頭を乗せ、コートを握りしめていた。樹里の背中を見た。嗚咽を堪え、息づいている背中は怖いくらい張り詰めていて、一切の言葉を拒否していた。樹里は自分自身の中に避難し、二度と声を聞かせるつもりがない。それが分かった。僕が仕事に失敗したことも。
僕の手を取り、菜穂子が首を横に振った。促がされるまま廊下に出た。最後に樹里が何を言おうとしたのか、僕にも分かった。ということは、菜穂子にも分かったのだろう。顔を見れば、それが察せられた。
恥を知れ。樹里はそう言いたかったのだろう。
階段を降りながら、水原の言葉を思い出した。以前、水原は、彼女はまさに特別だね、高校生とは思えないと言っていた。確かにそうだ。樹里は特別で、高校生とは思えない。
僕は自分を恥じるべきだ。
一階に降りると、犬の声が大きくなった。僕が仕事に失敗したことを、犬だって知っているのだろう。
吉川智恵子が廊下に出てきた。青ざめた顔は、すでに半ば何があったのか理解しているように見えた。理解しているのに、現実を見たくなくて、拒否しているように。
犬は吠え続けている。まるでこの世界全てを呪い、嘲笑っているようだ。
智恵子に近づいた。
時計を見た。十時四十八分。戻ってから、二十分が過ぎた。永遠にも思えるような二十分だった。閉め切った部屋は、ほとんど物音がしない。わずかに聞こえてくるのはトラックがバックすることを告げる、機械的な声とチャイムだけだ。やがてそれも聞こえなくなった。トラックはバックし、満足したのだろう。
テレビを点けるかどうか訊ねると、菜穂子は曖昧に首を振った。菜穂子はニットキャップも脱がずにベッドに座り、力なく足元を見つめている。部屋に戻ったときから、ずっとそうだ。ベッドに縛りつけられているように動かない。リモコンを手にしたまま、彼女の意思表示を読み取ろうとしたが、断念した。どっちみち、見逃すのを心配するような番組があるわけじゃない。
智恵子は経緯を説明しようとする僕を途中で遮り、帰ってくれと連呼した。その合間に顔を歪め、涙をこぼした。言葉もなかった。恥を知れという声が、舌を硬直させた。
帰りの電車の中で、あたしが悪いのと菜穂子は泣いた。あたしが現場に行こうなんて言ったからあんなことになった。あたしが悪いのに、泣いてごめんなさい。ごめんなさい。
そんなことはないと僕は言った。僕があんな場面で樹里に魔法使いのことを聞いたからだ。菜穂子は首を振った。もう後がないって思ったからでしょう。一平は悪くないわ。あたしがいけなかったの。
部屋に戻ると涙は止まったが、まるで感情の針が振り切れてしまったように、菜穂子はベッドに座って動こうとしない。
僕はいい。僕は自分の仕事が時に毛嫌いされるものであると承知している。他人の私生活を覗き見し、足を突っこむ仕事は、称賛されることがほとんどない。分かっててやってることだ。
しかし、菜穂子は違う。菜穂子は探偵じゃない。
気持ちを軽くしてやりたかったが、どうしたらいいのか分からなかった。
インポで一番困るのは、抱き合うことに対し臆病になることだ。そして、抱き合うことに対し臆病になると、互いを慰めあうことが難しくなる。
広い部屋がなくても、給料が少なくても、二人で抱き合えばそれを吹き飛ばすことは可能だ。今までずっと、そうしてきた。抱き合うことで、僕は、僕たちは、どんな困難にも立ち向かう意志と強さを分かち合ってきた。
なのに、今の僕は抱き合うことを怖がっている。抱き合って、互いに温めあっているうちに、セックスに発展することを恐れている。
「どうしたの?」
菜穂子が僕を見つめていた。瞳の奥に、不安が揺らめいている。菜穂子にそんな顔をさせたくなかった。
「いや」
僕は掠れた声で言い、首を振った。
「何でもない。大丈夫、心配しなくていいよ」
「そう」
彼女はごくわずかに頷き、また力を抜いて僕にもたれた。
叫びだしてしまいそうだった。役に立ちたいと思うのに、セックスが怖くてたまらない。
違う。怖いのは、セックスじゃない。怖いのは、がっかりされることだ。勃起しなくて、菜穂子に捨てられるのが怖いだけだ。
トイレに行くと告げて、立ち上がった。個室に入り、ジッパーを下げ、ペニスを露出させた。取り出したペニスはちっぽけで、力なくうなだれていて、今の僕そのものだった。
なんとかしなければいけない。今、なんとかしなければ永久にこのままだ。
こうなってしまった原因なら、ずっと前から分かっている。涙がインポの始まりだった。だとすれば、あの夜、どうして菜穂子が泣いたのかさえ分かれば、きっとペニスは硬くなる。
あの夜のことを考えた。途中までは、いつものセックスだった。菜穂子は僕の責めに息を詰め、昇りつめた。肌を紅潮させ、足の指を強く曲げ、僕にしがみついて声を漏らした。
指で一度。正常位で一度。バックで一度。菜穂子が三度達したのを数え、僕はバックのまま腰を律動させ、射精した。
あの夜、途中までの菜穂子は、いつもの彼女だった。肌は汗でしっとりと濡れ、何度も荒い呼吸を繰り返していた。演技だったとは思えない。彼女は満足し、そのことが僕に力と高揚を与えてくれた。何かがあったとすればその後だ。菜穂子が三度達し、僕が射精するまでの短い間に、何かがあった。
トイレの水を流し、ペニスをズボンに収め、冷たい水で顔を洗った。鏡を睨みつける。
女は何度いっても満足しないという、友人の声がした。女なんてという浩次の声が、それに続く。声に、涙がオーバーラップする。
洗面台を叩こうとした瞬間、何かが脳を掠めた。目を見開き、鏡の中の僕を見た。たった今感じた思考の手応えを、必死で手繰ろうとした。目を閉じてそれを見つけ出そうとしたとき、ノックの音が集中をぶち壊しにした。
「ごめん」
菜穂子がドアの向こうで言った。
「電話だよ。何度もかかってるの。だから」
ドアを開けると、くぐもった着信音が聞こえた。ハンガーに吊ったままのファージャケットから携帯を出した。見知らぬ番号だった。非通知ではない。
逃した魚は大きかった。後少しだった感覚がある。だが、もう何が気になったのかすら、見失ってしまった。
「もしもし?」
「住田さん、だよね」
若い女の声だった。媚びを全く含まない、低いが張りのある、聞き覚えのない声だ。
「どちらさまです」
女がわずかに息を呑んだ。ぴりぴりした緊張が伝わってくる。待った。
「あたしは、金子っていいます。お願いがあって電話しました。ブルーローズの竜也を助けて欲しいんだ」
「悪いがブルーローズにも竜也にも聞き覚えがない。人違いじゃないかな」
「何ボケたこと言ってんだよ。あんた、住田だろう。SM探偵の」
「誰がSM探偵だ」
僕はAF探偵だと言ってやりたかったが、さすがに相手も引くだろう。だがエーエフとエスエムじゃ、頭一文字しか合ってない。それがありなら、エで始まってアルファベット二文字の略語なら、なんでもいいことになる。そのうちAV探偵と呼ばれかねない。
「あんたなんだ」
金子という女は、落ち着きのない口調で言った。
「声で分かる。あんたしか、もう竜也を助けらんないんだよ。頼むから、とぼけてないで話聞いてくれよ」
「だから僕はブルーローズなんて」
ブルーローズが、武瑠兎櫓渦に変換された。変換ミスではないことに気づいた。
「財布か」
すぐさま金子が反応した。
「そう、そうだよ。名刺に事務所の番号が書いてあったんだ。電話したら、携帯に電話しろ、今忙しいって言われて」
「まず財布返せ」
「もちろん。中にも手はつけてないよ」
「確認するぞ。武瑠兎櫓渦は暴走族だな。竜也ってのは、口髭か。もしかして、お前、口髭の後ろに乗ってた女か」
口髭のそばに残った女。化粧は濃いが、まだ幼く見えた。
「僕を刺し殺しそうな目で見て、口髭と一緒に逃げて行った」
「そう、それ。逃げたんじゃねえけど」
「頼みってのは、あれか。口髭の面通しで嘘ついて欲しいとかそういう用件か」
金子が息を呑む音がし、図星だったのが分かった。黒川と同じことを、金子も考えていたのだろう。
黒川の案は、ドスカラスに全ての責任を被せてやろうというものだった。ドスカラスを割り出すために、魔法使いを探せと黒川は言った。だが、それは魔法使いの件で調査費用を当てにできたからこその提案だった。吉川智恵子は依頼をキャンセルした。調査費は入ってこない。ただでさえ、下関に行くために貯金をふいにしている。
ドスカラスを当てに調査するなんて、ごめんだった。ドスカラスが仮に馬鹿兄貴なら、金を取れる見込みはほとんどない。賭けはこりごりだ。菜穂子だって反対してる。それに、トイレでの集中を金子は邪魔した。
「助けて欲しいんだ、竜を。もうほんと、やばいんだって」
「知るか。大体、関係者が連絡してきていいのかよ」
「駄目に決まってんだろ。あたしも刑事に見張られてるっぽいし、今は学校のトイレの中からかけてるんだ。ダチから携帯借りて。なんとかしてくれよ。あんたしか、もう頼れないんだ」
「知ったことじゃない。財布返せ」
「だから財布は返すってば。なあ、頼むよ」
「割が合わないんだよ」
僕はため息をついた。
「お前が魔法使いを知ってるなら話は別だけどな」
「それって」
金子が当惑したように言った。
「津村のことか」
「何だって」
「あんたが言ってる魔法使いがどんなやつか知らないけど、あたしが知ってるのは津村幸彦って男だよ。広大の院生で女食いまくってる。噂じゃ女を虜にする魔法の言葉を知ってるって話」
あたしは会ったことないけどね、と金子は年相応の明るい声で笑った。会ってないのは僥倖だ。会っていれば、金子は虜になっていたかもしれないのだから。
会う約束をし、電話を切った。
「誰だったの」
「いたんだ」
問いかけてきた菜穂子に、僕は満面の笑みを向けた。
「いた?」
「探偵が困ってると色々教えてくれる、親切な裏社会の人」
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