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一章 5
啓太と別れ、事務所に戻った。
なぜか事務所にはまた由梨がいて、黒川の肩を揉んでいた。
「最終的にどういう話になったんだ」
「本契約にはなりました。犯人は馬鹿兄貴だとは言えませんでしたが」
啓太には金庫を買うように指示しておいた。家の中から保険証がなくなり、もう一度戻って来たのは確かだ。セキュリティの面で問題があるのだから、そこを強化しろとアドバイスした。
啓太の兄である高木敏郎は弟の保険証に手を出すくらい切羽詰っている。尻に火がつき、その場凌ぎをしているだけで、破綻は近い。啓太が保険証や現金を守ることが、敏郎を追い詰めることに繋がる。
それから、誰かが家に侵入したのは確かなんだから家族にも注意するよう呼びかけろとも言い含めておいた。啓太にとっては自然な言葉だが、敏郎は自分が疑われているのではないかと勘ぐるだろう。脛に傷のある人間はそういうものだ。
敏郎を疑えとは言えなかったが、打てる手は打った。
「明日からは敏郎を尾行しようと思います。馬鹿兄貴はきっとパチンコにでも行っていると思うので、それと」
図書館でまとめた案を話すと、黒川は頷いた。
「いいだろう。その線で行ってみろ。なんかあったら報告しろよ」
由梨に目配せし、黒川が立ち上がった。テーブルに置いていた携帯電話を黒いスーツのポケットに入れる。ごついデザインのサングラスをかけ、黒のコートを着こむ。
「どっか行くんすか」
「公民館で量子論の講演があるんだ」
黒川はまるでデートに出かけるような、うきうきした声で言った。
「お前、ちょっと留守番してろ。一時間したら戻る。時給は払ってやる」
じゃあなと言って、黒川は事務所を出た。引き止める間もなかった。
「あんたが来なかったら、あたしに留守番してって言ってたの」
黒川の椅子に由梨が座った。座り心地を確かめるように、背もたれに体重をかける。
「変な人よね、あなたんとこの所長」
「というか、なんであなたはここにいるんだ。まさか黒川は留守番させるためにあなたを呼び出したのか?」
「そんなわけないじゃん。暇だったからここに来たら、頼まれただけよ。ちょっと探偵の仕事に興味があったし、黒川さんは変だけど面白いし」
所長のデスクに座っていると、由梨はしっくりはまって見えた。ここが興信所ではなく、もともとのカラオケパブとして営業しているような気さえしてくる。着替えてきたらしく、由梨は黒のえらく高そうなミニのワンピースを着て、首から馬鹿でかいクロスのネックレスをぶらさげていた。細いメンソールの煙草に金張りの小さなライターで火を点けると、由梨はちょっと含み笑いをした。
「AFくんはアナルファックの経験あるの? あたしは、アナルでしたことあるよ」
「は? 何?」
「聞き返さないでよ。恥かしい」
いや僕はあんたのアナル経験なんて聞いてないと言い返そうとした。察したように、由梨が早口で言った。
「彼女とアナルでしたいんでしょう。色々質問してみたいことあるんじゃない? 全部答えてあげるからさ、鳴戸遼平がどういう人なのか教えてよ」
「僕に取り引き持ちかけてんのか」
「そうよ」
由梨がぎこちなく笑った。
「なんならお金払ってもいいわ。だから教えて。どんなことでもいいから。鳴戸遼平ってどういう人なの」
頭の中にあのブログが浮んだ。
鳴戸今日子の依頼を受け、僕が最初にやったのはパソコンを調べることだった。
浮気していた男が相手からのメールは破棄していたのに、その相手と出会ったサイトは保存しているというのは結構あるものだ。ネットを閲覧だけに使っているレベルだと、お気に入りをコピーし、メールに添付することが可能なのを知らない場合が多い。だから無防備に自分の趣味を曝してしまう。
遼平のお気に入りには、出会い系サイトも、変態趣味のアダルトサイトも登録されてなかった。期待していたようなものは全く見当たらず、あるのは住宅情報だけだった。
不動産会社、中古物件情報から市の競売物件までが系統別にきちんと整理されていて、中には格安物件はなぜ格安なのかというサイトまで登録してあった。自殺や変死など訳あり物件に関する情報だ。幽霊を信じていなくても、あまりに格安な物件は疑ってかかれとサイト管理者は警告していた。
事務所でメールを開き、遼平がブックマークしたサイトを閲覧しながら、僕は鳴戸夫婦の住む部屋を脳裏に浮かべた。それほど広くなかった。ロフトがついていたが、ワンルームの一人暮らしなみの広さでしかなかった。そこに遼平と今日子は大量のカラーボックスや収納ケースを積み上げ、生活していた。棚の上には五百円玉貯金箱が置いてあった。
貯金箱のそばには小さな絵が飾られていた。水彩で描かれた、淡い色調の絵だ。二階建ての家で、窓が大きく、狭い庭に樹木が植えてある。あたしが描いたんです。絵について聞くと、そのときだけ目を輝かせ今日子は照れたように笑った。笑みはすぐに懊悩に隠されてしまったが、一瞬だけこぼれた笑顔は印象的だった。
今日子の疑いが間違いであって欲しいと思い始めたのは、その時からだ。
広い部屋に引っ越したいと思う僕と、一戸建てを買おうとしている遼平は違うが、東広島市の住宅条件に苦しんでいるのは同じだった。広島大学移転が決定してから西条地区の地価は急騰している。もちろんそれは賃貸にも影響を与えていて、大抵は広島市より高かった。もともと古い民家があるだけの町だったため、アパートやマンション、住宅などはほとんど新築ばかりだったのも響いていた。わずかでも良い物件情報を得ようとした彼のブックマークに、僕は共感を覚えた。
ひとつだけ、意図の不明なブログがあった。
管理者のハンドルネームも書いてないそのブログは、一人の男性の平凡な日常を描いたものだった。会社勤務の男性が、妻と一緒に狭い部屋で暮らしている。毎日仕事にでかけ、妻の手料理を褒め、時には二人で散歩する。散歩しながらどんな家に住みたいのか話すこともあった。途中に不動産会社があれば窓に貼ってある物件をチェックしたり、道に並ぶ一戸建てを見ながら住みたくなる家かどうか話したりしていた。
微笑ましかったが、それだけだ。野球選手や芸能人だけではなく、誰でもブログを作る時代だ。浮気を告白するブログや、変態趣味のブログもある。その中で、どうしてそのブログに遼平が注目したのか、理解できなかった。
僕はブログを古い日付のものから読んでいた。だから途中まで気づかなかった。
ブログの男性は、八月二十三日、予想外の出会いに遭遇する。その出会いが忘れられなかった男は、仕事が終わると自宅とは逆方向に足を運んだ。やめようと思いながら、何度も窓の明かりを眺めた。
『彼女はとても悲しむだろうと思ったが、気持ちをコントロールできなかった。妻に、ばれなければいい。そうすれば彼女はいつまでも幸せだ。僕は妻を愛している。それでも、その愛が何の妨げにもならないことを、僕は知っている』
『遅かれ早かれ、僕は自分の欲望を満たしてしまうに違いない』
ブログの男性は遼平だった。彼は自分のブログをブックマークしていた。
そのことに気づいた途端、僕はブログを自分のお気に入りに登録した。調査が打ち切りになっても、僕はほぼ毎日、遼平のブログを見ている。
「ねえ、黙ってるってことは、何か知ってるってことよね?」
由梨の声で我に返った。煙草の煙と共に、香水の匂いがただよってくる。
「知ってるなら、教えてよ。ね」
「交換条件が適正とは言えないな」
僕はできれば遼平に浮気しないで欲しかった。理想の白い一軒家を手に入れて欲しかった。僕は自分と菜穂子の未来を彼ら夫婦に重ねていて、だからできるなら二人に上手く行って欲しかった。
「僕がアナルファック初心者だってどうして決めつけるんだ」
「そんなのすぐに分かる。やったことある男ってね、絶対やるもんだから。AFくんが彼女とできないのって、彼女が拒んでるせいもあるんだろうけど、あんたも自信がないからでしょ?」
「それは」
「図星でしょ。いいから教えてよ。どんな人、鳴戸遼平って」
「会って話せばいいだろう」
僕は言った。言いながら、いや会われても困ると思い直す。
「だいたい」
「だいたい、何?」
「……だいたい、お前がアナル経験者だって証拠があるのか」
勝ち誇ったように由梨が目を細めた。
「痛いか痛くないかって言えば、もちろん痛いよ。丁寧に指から一本ずつ増やしていくのが普通だと思うけど、あたしが初めてしたときは大変だった。そこは出口専用なのに、いつも出て行くよりもごついのが入ってくるんだもん。切れるし。だから、すんごいゆっくり埋めてもらった感じ」
何を言ってるのかすぐに分かった。分かって僕は狼狽した。由梨が笑みを深めた。
「初めては後始末が大変ね。トイレも切れてるから痛いし。でも器官自体が慣れてきちゃうとそんなに辛くもないかな。挿入時にちょっと気持ち悪いけど。気持ち悪いっていうと違うか。排泄するときの感じがあのときにくるの。挿入時は異物感で、引く時にぞくぞくって。AFくんにも本当は理解できるんだよ。あの快感は排泄の快感と一緒だから。どう、もっと聞きたい? あ、でもあれか。一番聞きたいのは別のことか」
「僕が何を聞きたいって――」
「知りたいのは、最初のとき、なんて言われたかでしょ。どういうふうに口説かれたらアナルオッケイするのか知りたいんでしょう?」
僕の動揺は自分でも笑っちまうくらい深かった。由梨から目が離せない。欲望が目に出ているのが自分でもはっきりと分かる。
僕は知りたかった。どうやれば菜穂子がうんと言ってくれるのか。僕は、本気で菜穂子のアナルに入れたい。
「鳴戸遼平のこと、教えてくれたら話してあげる」
由梨が目を伏せて、灰皿でゆっくり煙草を消した。
「お金だって払ってあげる、悪い条件じゃないでしょ」
屈伸した。
アナルファックと鳴戸夫妻のどちらが大事か考えた。数度、膝を曲げたり伸ばしたりすると簡単に答えが出た。大事なのはアナルファックだ。遼平が浮気するかどうかは彼自身の問題だ。由梨は金まで払ってくれる。迷う必要などどこにもない。黒川ほどじゃないにしろ、僕は卑しい探偵だ。
「いくら払える?」
由梨が黙って指を一本立てた。一万円。それほど高くもないが、安すぎるということもない。由梨の言うように、悪い条件じゃなかった。
「十万出す」
僕は一旦口を開け、言葉を飲みこみ、口を閉じた。煙草に火を点け、ニコチンを摂取する。由梨に背中を向け、デスクに尻を乗せた。ドアが正面に見え、黒川が楽しそうに出て行ったことを思い出した。どうして量子論であんなに幸せそうな顔ができるのだろうか。
電子について考えた。人が見ていないときの電子は波で、人が見ているときの電子は粒だという言葉の意味を理解しようと努めた。電子というやつは、人の顔色をうかがってその正体を見せないということか。だが、電子はどうして誰かに見られていることが分かるのだろう。
「返事は」
由梨に肩を叩かれた。尻の位置をずらし、由梨を見下ろした。
「どうして尾行してたのが僕だと気づいたんだ」
「あんたのつむじは変わってるから。コンビニでつむじを見て、見覚えがあるなと思ったの。それで顔も確認した」
「今度から尾行のときは帽子をかぶることにするよ。僕がここにいるのは?」
「誰かの後をつけるのは犯罪者か警察か探偵で、AFくんは犯罪者にも警察にも見えなかった。それで興信所を探したの。AFくんは自転車で逃げたから、たぶん探偵社も自転車で行ける範囲にあると思った。そこまで考えて、後は電話帳で住所を調べた。コンビニの近くにある探偵社は二つあって、そのうちの一つがここだったの」
「あんた頭いいって良く言われるだろう」
「脚が綺麗とは言われるわ。返事は?」
「あんたは僕の握っている情報がどんなものか確かめようともしないんだな」
由梨が目を見張った。
「せめて一万だったら良かったんだ。一万だったらあんたの話に乗るのは煙草に火を点けるより簡単だったのに」
「何が不服なのよ」
「金の出所がはっきりしない」
由梨はすでに遼平の情報を得るために十八万払っている。身につけているのは、おそらく僕なんかの知らないブランド品だ。クロスのネックレスはきっと僕には買えないだろう。闇金から電話がかかってくると言った啓太の顔が浮んで消えた。
「旦那の金をくすねるくらいなら可愛いが、それだけじゃないかもしれない。良く聞くだろう、女性銀行員が男に狂って金を横領しちまうって事件」
「あたしは銀行員じゃない」
「そんなこと知ってるさ。僕が言いたいのは、あんたは金回りが良すぎて胡散臭いってことだ。クレジット破産者は馬鹿兄貴一人で沢山だってことだ。取り引きに応じるつもりはない。帰ってくれ」
「あたしは」
由梨は唇を震わせたが、言葉が出てこないようだった。黙ったまま立ち上がると、ミリジャケを羽織って出て行った。
煙草を消し、奥に行ってL字ソファに寝転んだ。あたしはの次に由梨は何を言おうとしたのだろう。酷く気分を害した目だった。僕の予想は外れていたのかもしれない。そう考えるのは十万とアナル情報に未練があるからかもしれない。それにしてもどうして由梨は一万と言ってくれなかったのだろう。
考えているうちに、いつの間にか寝てしまった。
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