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一章 6
黒川に起され目が覚めた。五時だった。
「帰っていいぞ」
頭を掻きながら、寝惚けた頭で黒川を見上げた。
「講演はどうでした」
「良かったよ」
うっとりした声で黒川が言った。急に目が覚めた。
「その話はまた今度にしましょう。帰ります」
慌てて立ち上がり、事務所を出た。興奮している黒川の話につきあって、混乱するのはご免だった。量子論なんか知らなくても僕は生きていける。
自転車置き場まで行って、由梨の取り引きについて報告しなかったことに気づいた。どうしたものかと思案した。が、由梨はもう来ないのだし二度と取り引きはない。報告する必要はないだろう。事務所まで戻ったら、量子論の餌食になるだけだ。コンドームが切れかかっているのを思い出し、スーパーに行き、ついでに食材を買って、アパートに戻った。部屋の窓を開け、空気を入れ替え、食器を洗って米を研いだ。
菜穂子は八時過ぎに帰宅した。二人で食事の準備をしながら、僕は田中のアシストについて話した。
「じゃあ、掛け持ちするの」
「そういうことになる。啓太のほうはそう長くもかからないから、大丈夫だよ」
「困ったな」
「話を聞いてる? 啓太の件は長くかからないから」
「そういうことじゃないの」
「どういうことだ? それと鍋が沸騰してる」
「火を止めて。後で話すことにしない? 夕食が遅くなっちゃうから」
「困ったなって言ったのはね」
夕食のあと、菜穂子が言った。
「魔法の言葉についてなの」
「そういえば、昨日そんなことを言ってたね」
彼女はしばらく考えをまとめるように唇を閉ざした。集中している彼女の顔は引き締まり、瞳が深く輝いて見えた。いつものようにすべすべの頬に触れたかったが我慢した。彼女が話し始めた。
「あたしの会社に吉川さんって人がいるの。吉川智恵子さん」
彼女の説明によると、吉川智恵子は東広島タイムズの営業補助として、フリーペーパーに載せるイラストを描いたり、広告のデザインを担当している。四十六歳で既婚者、旦那は商社に勤務している。子どもは一人。
「高校二年生の女の子で、樹里ちゃんって名前」
「凝った名前だ」
「最近は女の子の名前に『子』はつかないの。名前の意味より音の響きを優先させる傾向にあるみたい」
日本語は表意文字から表音文字に変化しつつあるのだろう。そのため子どもの名前は意味より響きが優先され、本の売れ行きは落ち、漢字検定が流行る。いっそ漫画みたいに全ての本には読み仮名をつけるべきだ、と思う。そう言うと、菜穂子は顔をしかめた。
「聞いて。最近、樹里ちゃんの様子がおかしいらしいの。部屋に閉じ篭って、学校に行かないらしいのよ」
「食事は?」
「出てこないんだって。廊下にコンビニ弁当の容器が出してあるから、夜中に買いに出てるんだろうって言ってた。かと思うと、一日出かけたまま帰ってこない日もあるみたい。それは靴がないから分かったらしいの」
「可能性としては、変な男に引っかかってる」
「煙草吸いたい?」
「なんで」
「吸いたそうな顔してるから。吸っていいよ。吸いながら黙って聞いて。それほど単純な話でもないのよ」
僕は窓を開け、小型扇風機のスイッチを入れた。煙草に火を点ける。菜穂子が話を続けた。
「智恵子さんは二週間様子を見てみたんだって。だけど、樹里ちゃんは部屋の中にいて出てこようとしない。学校からも連絡が入って来る。で、トイレに出てきた樹里ちゃんを捕まえて何があったか話すように言ったの。そしたら『あたしは大丈夫だから、心配しないで。あたしはもう十分幸せなの』ってすごく興奮した口調で言ったらしいの。吸いすぎないでね」
「一本だけにするよ。十分幸せってどういうこと?」
「うん、智恵子さんも聞いたらしいのね。そしたら『あたしには彼がいるから。彼が魔法の言葉であたしを救ってくれたの。だからもういいんだ』って」
「彼?」
「誰だか言わないらしいの。彼は魔法が使えるのよとか何とか言ってたみたい。魔法の言葉を聞いたら、誰でも彼を好きになるんだって」
「変な男じゃなくて、変な宗教にはまってるのかな」
「正直そんな感じだったって。ぞっとしちゃったって智恵子さん言ってた」
「もともと学校はよく休むほうだったのかな、樹里ちゃんは」
「全然。ほとんど皆勤賞だったし、成績もずっと良かったんだって」
だからといって、問題がなかったわけじゃないのだろう。樹里の現在がそれを物語っている。短くなった煙草を消した。
「あたし前に一平が興信所で働いてるって言っちゃったのよ。それで智恵子さん、どうしても樹里に何があったのか調べて欲しいって。コンビニ辞めたって聞いてたから、つい引き受けますって言っちゃったのよ。すごく感謝されちゃったから、どうやって断ろうかなと思って」
僕が調べたところで、樹里は変化しないだろう。樹里には探偵ではなく、別の専門家が必要だ。カウンセラーとか心療内科とか。とにかく僕じゃないことは確かだ。
だが樹里に対して役にも立たなくても、僕が調べることで智恵子は少し安心するかもしれない。ちょっとだけ心の負担を軽くする。その程度のサポートなら、僕にも可能だ。おまけに黒川を通してないからマージンを抜かれることもない。明日の朝一番に行って、智恵子から話を聞いてみると告げると、菜穂子がぱっと目を輝かせた。
「でも大丈夫?」
「任せとけよ」
立ち上がって、台所で口をすすいだ。部屋に戻ると、菜穂子が待ちきれないようにキスしてきた。彼女のなめらなか舌が僕の唇を割って入り、情熱的に躍った。そのまま上になってキスを続ける。コンドームを買っておいて良かったと思いながら、菜穂子の胸をまさぐった。
僕は幸せだった。
その夜のうちに、僕と彼女がすれ違うなんて少しも考えてなかった。
翌朝、八時前には部屋を出て、吉川智恵子の家に向かった。
西条駅からJRで一駅移動し、西高屋駅で降りた。ひとつしかない改札口を抜け五分も歩くと、あらかじめ教えられていた通り、左手に寺院のような山門を構える豪邸が見えてきた。木造の古い農家だ。すぐ横をコンクリートで舗装された道が山に向かってなだらかに伸びている。農家の庭に放し飼いになっている鶏を眺めながら、コンクリートの坂を登った。
軽く息が切れ始めたころ坂が終わり、綺麗に区画された道路が目の前に広がった。点在する白を基調とした住宅は清潔な印象だったが、下の農家に比べると重量感が全くなく、プラスチックかなにかでできているように見えた。
高屋町は広大な盆地で、盆地の中に無数の丘がある。東広島市のベッドタウンとして急速に発展しつつある町で、古い農家のすぐ上に、丘を削って近代的な家が建てられ売買されている。
目的の住所には、二階建ての家が建っていた。表札を確認しチャイムを押してしばらく待つと、意匠を施された玄関のドアが開いた。砂色のカーディガンを羽織った年配の女性がドアの隙間から顔を覗かせた。
営業用の声で名乗り、菜穂子の名前を出すと女性の顔から警戒の色が失せた。吉川智恵子ですと頭を下げる。かすれた、投げやりな響きのある声だった。吉川智恵子は、ひどい顔をしていた。それなりに整った目鼻立ちをしていたが、疲労が肌をくすませていた。パーマが取れかかった髪は乱れている。
智恵子に案内され、ダイニングルームに移動した。テレビが点けっぱなしになっていて、新聞が床に落ちていた。天井が高く、広い部屋だ。智恵子がテレビを消すと犬の吠える声が遠くから聞こえた。台所のすぐ前に木製の頑丈そうなテーブルが据えられていて、そこで話をすることになった。
僕は簡単に料金を説明した。基本の調査料金、プラス成功報酬。経費は別だが、きちんと領収書のあるものしか請求しない。
大手の場合は明朗会計をうたっていながら、領収書のない経費を水増し請求することも多い。大抵の大手は探偵学校も経営していて、その卒業生を尾行に使っている。ほとんど素人を使うのだからどうしても質より量になる。彼らはほとんどただ同然でこき使われる。が、クライアントに対する請求書には人件費として多大な金額が記載されている。マージンを抜くことで、潤う仕組みだ。機材も同様で、インターネットで安く仕入れた機材を用い、経費は高く請求する。
黒川は違う。尾行に人員を大量に投入するのも、やたら機材を使うのも、腕が悪いからだと言う。良い探偵は一人で行動するものだと力説する。人件費や機材に金をかけるのがもったいないからではないかと僕は思っている。もっとも機材については別の理由もある。黒川は以前、誰かに見張られていると思いこんだ強迫神経症の男から盗聴器発見の依頼を受けて、懲りたそうだ。
「何度も何度も電話して来るんだ」
黒川は嫌そうに顔をしかめた。
「何度も何度もだぞ。こっちがいくら調べたと言っても聞きやしねえ。あなたが帰ったら盗聴器が作動するんですとのたまいやがる。あんな調査は二度とごめんだ」
本音や苦い過去は隠して大手との違いを説明したが、智恵子はあまり感激してくれなかった。お金は夫が出すので問題ありません、とそっけない口調で感想を述べるに留まった。樹里の友人関係について質問しても、知りませんと簡潔に答え、それっきり彼女は口をつぐんでしまった。会話のキャッチボールはない。部屋に、寒々しい沈黙が落ちた。犬の声はまだ続いている。郵便配達のものらしい、バイクの音も聞こえた。もしかしたら犬は郵便配達が嫌いなのかもしれない。もしかして、智恵子はやはり大手のほうが信用できると思っているのかもしれない。僕に帰って欲しいのかもしれない。
「樹里さんと話しても構いませんか」
僕が言うと、智恵子が暗い顔で頷いた。
「すいません、こんなで。さっき樹里と言い争ってしまったので。あなたが来ることを伝えたら、暴れて」
「そうだったんですか」
浮かしかけた尻を椅子に落とした。智恵子がテーブルに顔をふせ、乱れた髪を両手でまとめ後ろに引っ張るようにした。
「あんな子じゃなかったんです」
髪から手を離し、顔を上げた。
「何が悪かったのか分からない。どうしてこんなことになったのか」
智恵子の言葉は鋭いボディーブローのように僕の鳩尾に突き刺さった。呻き声を上げなかったのは自制心からではなく、あまりに突然すぎたからだ。菜穂子の涙が浮ぶ。どうして泣いたのか分からないの。怯えたような菜穂子の声。
「小さい時から頭のいい娘で、本当に手がかからなかったんです。親を心配させるような子どもじゃなかった。なのに」
「何か思い当たることはありませんか」
かろうじて僕は探偵らしい言葉を口にした。
「何も」
暗い目で智恵子が首を振る。
「何もなかった。ある日突然こうなった。そしてそれがずっと続いているんです。もう私の言葉は樹里には通じないし、樹里の言葉は私には理解できなくなった。私と樹里はいつの間にかすれ違ってしまったんです」
僕は立ち上がって、樹里の部屋に案内するよう促がした。それ以上、智恵子の言葉を聞いていられなかった。
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