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一章 7
樹里の部屋は二階の奥にあった。
ドアは閉じている。声をかけたが、返事はなかった。誰なのか問いかけようともしない。こういう場合、昼夜逆転の生活をしていることが多いものだが、樹里は起きているはずだ。親と言い争って、すぐに眠れる人間はいない。
「返事なんかしませんよ」
ぽつりと、毒のこめられた口調で智恵子が言った。暗かった顔に、はっきりとした怒りが見えた。
「とりあえずもう少し声をかけてみます。もし良かったら下で休んでいてください」
「でも」
「大丈夫です。すぐに降りますから」
更に何度か勧めると、智恵子はうつむいたまま階段を下りていった。力ない足音が一階まで続き、しばらくするとテレビの音が聞こえてきた。僕はそっとため息をつき、もう一度ドアをノックした。
「樹里さん。開けてくれないか」
返事はなかった。親と喧嘩したあと、見知らぬ誰かと話したくなる人間はいない。だいたい、樹里がドアを開けても、僕は何を話していいのか見当もつかない。
僕が話をしたいのは樹里じゃない。唐突に思った。僕が話したいのは菜穂子だ。心臓にずしりと重い何かが乗っかっている。拳を強く握った。ドアを殴りつけそうになる。息を吐いて、腕の力を抜いた。
「話す気になったら電話してくれ」
名刺をドアの隙間から滑りこませ、階段を降りた。智恵子に挨拶し、参考までに樹里の写真を見せて貰った。樹里は整った、綺麗な顔をしていた。ざっくりしたセーターを着て、スニーカーを履き、にこりともしないでカメラ睨むように見ている。高校に入学した直後の写真だと智恵子が熱のない口調で説明した。写真を借り、明日電話する約束をして外に出た。
コンクリートの坂を降りながら、携帯電話をポケットから取り出した。着信もメールもない。菜穂子の番号を呼び出し、電話をかけようとした。指が震えて動かなかった。どうしてもボタンが押せなかった。
携帯電話をしまい、駅に向かって歩いた。
五分前に電車は出ていた。
次は十五分後の九時三十五分だった。切符を買ってホームに出る。ラッシュは終わり、ホームに人影はなかった。大量の土砂を積んだトラックが駅のそばを走って行った。ゴルフ場のグリーンのネットが遠くに見える。
十時半には啓太の家につくはずだった。啓太の母は、彼が中学生のとき亡くなっているため、昼間の高木家は完全に無人だ。敏郎は八時には家を出ているらしいが、昼寝に帰ってくるかもしれない。もし帰って来なくても、五時近くまで粘る。それからバイトだ。バイトは十時までだった。
ポケットに手をつっこむと、何かが触れた。アルバイト二日目の朝、菜穂子が書いてくれたメモだった。彼女にメールをしておくなら、今しかない。躊躇いながら携帯を開く。着信が二件入っていた。非通知。九時十八分と十九分。誰からなのか考える間もなく、携帯が明滅した。非通知だった。通話ボタンを押した。
「もしもし?」
僕の声はわずかに震えていた。雑音が聞こえてくる。返事はない。
「もしもし」
菜穂子だろうか。心臓の鼓動が早まる。もし菜穂子なら、どうして非通知でかけてきたのだろう。
「良かった出てくれて」
声。若い男のものだった。菜穂子ではない。
「誰だ?」
「僕が誰だか分からないんですか、探偵さん」
男の声は落ち着いていた。僕より少し若いかもしれない。ある想像が頭に浮んだ。自販機の横にあるベンチに座った。
「用件を聞こうか」
「落ち着いてますね。話が早くて助かる。樹里を困らせないで欲しいんです。彼女は精神的にとても不安定だ。母親との関係に疲れている。彼女を刺激して欲しくない」
「君は樹里とどういう関係なんだ。彼氏なのか」
「彼氏ではないですね。ただ、樹里は僕のものです。そういう魔法をかけたから」
「メルヘンな話だな」
「リアルな話ですよ。僕には魔法が使える。魔法の言葉で樹里を救ったんです」
男の口調は冷静そのものだった。深い、いい声をしている。まるで朗読でもするように、常軌を逸した内容を話している。
「本当に君は彼女を救ったのか」
「ええ」
「依存させたの間違いじゃないのか? 君はどうやら精神科医ではないようだ。そういう専門家じゃない。もしそうなら、自分が救ったなんて言わない。プロなら彼女が回復する手助けをしたと言うはずだ。そうじゃなければ、患者の自立を阻害してしまうから」
「もちろん僕は精神科医なんかじゃない。カウンセラーでもない。だから彼らの論理やルールには縛られないんです。彼らには魔法が使えない。魔法が使えない連中に、人を救うことなんてできない」
「それで」
僕はこめかみを押さえた。
「君は彼女を愛しているのか」
「はい? なんて言ったんです?」
「樹里を救ったのは君が彼女を愛しているからなのか聞いたんだ」
「それは答えるべきことなんですかね」
「当たり前だ」
「どうして」
「お前はいかれているが、樹里はお前に惚れてるようだ。お前も樹里に惚れているなら話は簡単だ。精神科医にお前を連れて行って、僕の仕事は終わりだ」
「精神科医なんて何もできない存在ですよ。彼らを信じているんですか」
「いいから答えろ。樹里を愛してるのか」
「探偵さん、あなたの言ってる愛がどんなものなのか僕にはちょっと理解できないんです。詳しく説明してもらえると助かるんですが。そのつまり、愛ってどこに売ってるんです?」
くすくす笑いながら男が言った。
「コンビニとかで売ってるんですかね? 見たことないんですけど」
「どうやらお前は僕をからかって楽しむために電話してきたらしいな」
「そしてあなたは挑発して僕の尻尾を掴もうとしている。図星でしょう、探偵さん」
「名前は」
「職務質問みたいですね」
「どうして樹里にちょっかい出した」
「困ってる人を見ると、ほっとけないんですよ。僕には人を助ける力がある。だから助けたくなった。僕は菜穂子さんだって助けることができる」
「なんだと」
「あなたの彼女なんでしょう、菜穂子さん。樹里の母親と一緒に働いている菜穂子さんですよ」
どうして泣いたのかわからないの。
「お前の助けなんか必要ない。僕がついてる」
「それは、あなたの思いこみかもしれない」
「黙れ」
「声が大きいな。耳が痛い。あなたと菜穂子さんは問題を抱えてる。そうですね」
菜穂子は笑おうとした。笑おうとしたまま、涙を流した。裸のまま泣き続ける菜穂子に、僕は何もしてやることができなかった。
アナウンスと音楽が流れ、電車がホームに滑りこんで来た。轟音の中で、男の声がはっきりと鼓膜を打った。
「どんな問題を抱えているんです」
「お前には関係ない」
声をしぼりだした。喉がからからに渇いていた。
「二度と、僕と菜穂子のことを口にするな」
「だったら僕と樹里のことに口を出すのもやめてもらいましょうか」
車掌が電車に乗るのかどうか問うように僕を見ていた。首を振ると、車掌は長く笛を吹いた。電車のドアが閉じた。動き出した黄色い電車が遠ざかってゆくのを見送った。
「お前は樹里に何をしたんだ」
「言ったでしょう。魔法をかけたんです」
男が言った。
「僕はね、探偵さん、魔法使いなんですよ」
「樹里をどうする気だ」
「菜穂子さんをどうする気です」
「幸せにする」
「アナルファックで?」
眩暈がした。頭の奥のほうが鈍く痛んだ。
「また図星だったようですね。その話を聞いたのはずっと以前なんです。菜穂子さんが樹里の母親に相談し、母親が樹里に話した。そしてそれを僕に聞かせてくれた。菜穂子さんの男が変わってる場合も考えたんですが、まだ続いていたようですね。探偵さん、菜穂子さんはあなたの変態的な要求に悩んでいる。それで幸せにできると言い切れるんですか。性的な趣味があわないのなら、別の女性を探してはどうです?」
「余計なお世話だ」
「どうしてアナルに執着するんです? 恋人に嫌がられてまで。僕にはそれが信じられない」
「お前に説明する義理はない。答えろ。樹里をどうする気だ」
「ずいぶんと勝手な人ですね。こちらの質問には答えず、僕には答えろと言う。菜穂子さんに対しても、そうなんですか? それじゃ彼女が可哀想だ。なんだか興味が湧いてきたな、菜穂子さんに」
「てめえ」
「樹里はね、どうしようか迷っているんですよ。もうとっくに飽きてるんだけど、何でも言うこと聞くから捨てがたくもある。どこまで要求を飲むのか、限界まで試してみたい気もしてるんです。母親を刺し殺すよう命令するというのも考えたんですが、さすがにそれは問題が多そうですしね。ちなみに菜穂子さんって、美人ですか」
「菜穂子に近づくな」
「でも僕はもう菜穂子さんに興味を抱いてしまった。菜穂子さんの職場も知ってる。もしかしたら彼女と僕は愛しあう運命にあるのかもしれない。菜穂子さんと僕が会うのを邪魔しなければ、樹里から手を引いてもいいですよ」
「僕がうんと言うとでも思ってんのか」
「あなたの許可がなくても、僕は菜穂子さんに近づける。近づいて魔法の言葉を囁くこともできる。賭けてみます? 菜穂子さんに魔法がかかるかどうか」
「かかるわけねえだろう。いかれたサイコ野郎が」
「では、賭けは成立ですね」
男が朗らかに言った。
「結果を楽しみに待っててください」
「待て」
「それからやっぱり良く考えてみたら、樹里を捨てるのは惜しいのでそっちは忘れてください。樹里は僕のものだ。魔法が解けない限りね」
もう一度待てと叫ぶ前に、電話は切れた。詰めていた息を吐き出すと、どっと疲労が押し寄せてきた。手の平に滲んだ汗を拭いて、僕はもう一度携帯電話を見つめた。
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