18人が本棚に入れています
本棚に追加
一章 8
黒川に電話した。パチンコ屋にいるようで、背後からフィーバーを告げるアナウンスが聞こえてきた。勝手に依頼を受けサイコ野郎に目をつけられたと話すと、面白そうだからもっと挑発してやれと言われた。
「樹里をつつけばまた電話してくるからよ、やっちゃえやっちゃえ」
黒川の声は威勢のいいBGMに乗り、高揚していた。確かに動きはあるだろう。だが動く先は菜穂子かもしれないのだ。そう伝えると、呆れられた。
「だからいいんじゃねえか。魔法使いが菜穂ちゃんに近づけば、そいつが樹里に何をしたか分かる。お前、駅にいるんじゃないのか? 何してんだ」
「寒いからホームを往復してます。菜穂子は囮ですか」
「どっちみち樹里はつつかなきゃいけないんだ。違うか?」
確かに。電話を切って二十回以上ホームを往復した。身体は温まっていたが、それでも歩き続けた。啓太に電話したが繋がらなかった。額に汗が滲み始めたころ、電車が到着した。車内はがらがらだった。席に座ると、菜穂子の涙が脳裏に浮んだ。
昨日、菜穂子はセックスのあと涙を流した。
いつものように幸せで熱いセックスだった。満ち足りた気分のまま、菜穂子の髪を撫でようとした。いつもそうしている。いつもそうして、二人で笑いあい、満ち足りた、優しい時間を過ごす。
仰向けのまま菜穂子は僕を見上げていた。笑いかけると、菜穂子は笑おうとし、そのまま辛そうに顔を歪めた。堰を切ったように涙が流れ、目の脇を伝うのを、僕は半ば呆然としながら見ていた。
「どうして泣いたのか分からないの」
菜穂子の声は怯えているように小さかった。彼女の手を握り、頭を撫で、キスして抱きしめた。涙は止まらなかった。指の間から砂がこぼれ落ちてしまうように、菜穂子が腕の中からすり抜けていくような気がした。
僕たちは目を閉じて横になったまま、ほとんど身じろぎもせずに朝を迎えた。
何が起こったのか、今でも分からない。
セックスの後、僕たちはいつも幸せだった。今日のセックスがどんなに良かったか、僕たちは言葉やキス、軽い愛撫で互いにそれを伝え合ってきた。僕と菜穂子の間には溝がある。その溝を僕たちは身体を重ねることで埋めてきた。今までは。そしてこれからはセックスのたびに、菜穂子は泣くのかもしれない。そう思うと膝が震えた。
電車が西条駅に到着し、ホームに降りた。それは、あなたの思いこみかもしれないという男の声が、いつまでも耳の奥にこびりついていた。
駅前で啓太に電話したが、やはり出なかった。
自転車に乗り、酒蔵通りへ向かった。店に寄ったが、啓太の姿はなかった。十時半を過ぎていた。営業に向かっているなら、電話に出られないこともあるだろう。もう一度だけ電話し、出ないことを確かめてから啓太の実家に向かった。
マツダの社宅を過ぎ、三七五号線を横断し、パチンコ屋を過ぎると啓太の家が見えてきた。稲を刈り取った田んぼが多く、遮蔽物は少ない。車も人も三七五号線を通るため、周囲にほとんど人影はない。見張るには難しい場所だ。
道なりにしばらく進むと小さな神社が見えた。自転車を停め、コンクリートの石段を登った。鳥居の上に大小さまざまな石が乗っているのが見えた。石が乗れば幸せになれるという噂が子どもの頃流行っていたのを思い出した。鳥居に乗った石が大きければ大きいほど幸せになれるという話だった。子どもながらに胡散臭いと思っていたのだが、一度だけ、どうしても国語のテストで百点を取りたくて、本気で投げたことがある。石は鳥居にかすりもしなかった。
噂は世代を越えて受け継がれ、今でも生きているのかもしれなかった。近所の小学生は真剣な願いごとがあると、鳥居に向かって石を投げているのかもしれない。
境内に人の姿はなかった。イチョウの落ち葉が石畳を埋め尽くし、銀杏があちこちに転がっている。社務所は無人のようだ。全国の神社数に対し、神主の数は少ない。そのため神主の多くは複数の神社を兼任しているものだが、そういった神社のひとつなのだろう。
上から啓太の家は丸見えだった。風が強いのが難点だったが、少なくともここなら誰かが近づけばすぐに分かる。
缶コーヒーを買ってきて、石段に腰を降ろした。啓太の家は、屋根に赤瓦を使った東広島では一般的な木造家屋だ。庭こそないが、それなりに敷地も広い。すぐ近くに新築のマンションが建っていた。ほとんど人影がないことからすると、住んでいるのは広大生なのだろう。
寒さに我慢できずコーヒーを流しこんだ。十一時十分。敏郎が昼寝をするにはまだ早い時間だ。身体が震え始めると石段を昇り降りして暖を取った。十二時を過ぎても、啓太の家に近づく者は一人もいなかった。煙草を三本吸い、階段を六往復した。一時になった。敏郎の姿はまだ見えなかった。
木漏れ日の差す石段に腰を降ろし、量子論のことを考えた。電子は人が見ていないときは波で、人が見ると粒になるそうだ。他にもっと分かりやすい身近な例がないか考え、敏郎のことに思い至った。敏郎は高木家の中では運の悪い男として認識されている。そう見られている。しかし血縁者以外の人間が見れば、敏郎は嘘つきの多重債務者としか見えない。ある要素が加わったことでまるで別ものに見えるというのは、よくある話なのかもしれない。
だが、そもそも電子はどうして嘘をつくのだろう。電子は敏郎とは違う。電子は弟の保険証を使って闇金融から金を借りたりはしない。
四時まで待ったが、敏郎は現れなかった。
腰を上げ、自転車をこいでバイト先に向かった。二十分でポプラに到着した。自転車を止め、もう一度啓太に電話した。繋がらなかった。電源が切ってあるようだった。
もしかしたら啓太は遅れた僕に愛想を尽かしてしまったのかもしれない。もしかしたら啓太は僕が敏郎を疑っていることに気づいたのかもしれない。
「待ってた」
声に顔を上げると、由梨が寒そうな顔で立っていた。
「もう一度、取り引きについて考えてくれない?」
最初のコメントを投稿しよう!