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俺は寝不足ながらゴミを出し、いつも通り会社にいった。木曜日だった。
昼にスマホをチェックする。幸晴からは何も来ていなかった。
仕事をしていると緊張感のためか気は紛れたが、退勤した途端、憂鬱がどっと押し寄せた。
謝るなら、早い方がいい。
もとに戻したいなら……。でも本当にそれでいいのか、と思う。
幸晴から提案してきたことだ。一緒に住んでから、嬉しいことも多かったが、衝突も増えた気がした。”離れてみる”というのは、むしろ、なるべくしてこうなったのでは。
幸晴が留学に行っているあいだ、恋しくて仕方なかったし、あの頃は、一緒に住みたいと心から思っていた。
けれど俺は、そういった人生の大きな出来事に、振り回されているだけだったような気もする。俺は、自分で決めているのではなく、良くも悪くも幸晴の力に影響され、流されている。
相談したかった羽田は、タイミング悪く、先輩の出張について行き不在。
俺は電車にのり、いつもどおりの帰り道。
コンビニに立ち寄って、家につく。
玄関ドアをしめ、1人の空間になった途端、幸晴なんてもう帰ってこなければいいと思った。泣きながら、コンビニ袋ごと冷蔵庫にしまった。食欲がなかった。
翌日、少し期待していたが、やはり幸晴から連絡はなかった。いつもと違うのはあたりまえだった。幸晴はあんなに冷静なまま、自分から出ていったのだ。
どこにいるんだろう。ホテルか、または黒木くんのところにでも泊まっているのか……。
土曜日。
俺は何もやる気が起きず、ベッドで二度寝を決め込む。
幸晴と住んでから、昼間まで寝たことなんて、あまりなかった。朝食を一緒に食べると決めたのも大きい。一度しっかり起きてしまえば、またベッドに行くのは少し抵抗もある。
棚の充電器に挿しっぱなしだったスマホが振動し、長いので、俺は慌てて手を伸ばした。
着信は、登録していない番号から。
様々な可能性を考えながら、通話ボタンを押す。
「はい……」
「すみません。宇野さんのお電話ですか?」
「はい、宇野ですが」
スマホ越しに聞こえてきたのは、幸晴の声ではない。柔和そうな、感じの良い男の声。まるでアナウンサーのように聞き取りやすかった。
「日下と申します。以前、ビュッフェの会場で、ご挨拶させて頂いたのですが」
「ああ、はい……! もちろん覚えてます。その節は……あ、ありがとうございました」
ビュッフェどころではなく、幸晴との関係も、同衾したことも知れているのだと思い出し、頬が熱くなった。俺はベッドから足をおろし、姿勢を正した。
「実は今、幸晴くんが、うちに泊まってるんです。一昨日の昼間に連絡があって、それから……」
「そうでしたか」
「宇野さんが、心配しているんじゃないかと思いまして。もちろん、幸晴くんからは知らせるなと言われてるんですが……」
「そうですよね、助かります。ありがとうございます。わざわざ電話まで頂いてしまって。ご迷惑を」
「いえ、以前から遊びに来たいとは言っていたし、迷惑ではないんですが……」
少し間があった。
「何か、僕に出来ることはないかなと」
「あの」
「お節介だとは思ってます。喧嘩をしょっちゅうするっていう話は聞いていたのですけど、今回はなかなか、とても……傍観なんて出来なくて。だいぶ、落ち込んでいるようなので、つい」
「あの、ご迷惑おかけしてすみません! 迎えに行きます」
「いえ、今来たら逆効果かもしれません。時間をおいたほうがいいかと……。僕は一人暮しなので、迷惑なんて気にしなくていいですよ」
「ですが」
「いいタイミングになったら知らせます」
「そうですか……、すみません。よろしくお願いします」
幸晴と日下さんとは、群馬の実家で共に下働きをしたという旧知の仲で、東京で再会してから、たまに飲みに行っているのは知っている。
幸晴が、この人にとても好感を持っているのは、話しぶりから理解していた。
「宇野さん」
「はい」
「……僕は、どうやっても幸晴くんの側の人間になってしまいますが、よかったら、相談に乗らせてもらえませんか?」
「相談……、ですか」
「僕は幸晴くんの言い分しか聞いていないし、それで彼にどうこうアドバイスなんてできないので、できれば事情を知りたいなと思っていまして……。二人の間に誤解があるなら、橋渡しになれないかなと」
「え、あの……」
「突然で、驚きますよね。すみません。もし気が向いたらでいいので、電話でもメールでもください、このあとアドレスも送ります」
「はい……」
「それでは、お休み中に失礼しました。また」
「また……」
通話はあっさり切れた。
カーテンもあけていない薄暗い部屋。ベッドの上でひとり、スマホを見つめたまま呆然とする。
幸晴が、人に仲介役を頼むなんて思えなかった。まどろっこしいことはせず、自分でやるだろう。むしろ、自分の知らないところで事が動いていたと知ったら、気分よくはないはずだ。
だとしたら、この日下さんは自発的に、この電話をして……。電話番号はどこから手に入れたのだろう?
俺は幸晴の居場所を教えてもらえて安堵していたが、日下さんは、この電話がバレたら幸晴と揉めるリスクがある。
それでも幸晴が心配で、力になりたいという彼。
ホテルでの、初対面の印象はすごく良かったし、優しい人なのだろうとは思ったが、何となく俺は、腑に落ちないものを感じていた。
***
土曜日は一日中ふて寝し、夕飯を食べてまた寝た。日曜日は朝から本を読んでいた。
静かな部屋。
自分が発生させる音以外しないという環境は、久々だ。俺は一人暮しが……この空間が好きだった、と思い出した。
誰かの帰りを気にする必要もない。厚めの文庫を一冊読み切った時、日が暮れていた。あまりの没入感に、心地良い疲労があった。幸晴からの連絡はなかった。
月曜日。
日下さんからメールが来ていた。都合を合わせるから、一度会いませんか?と。
親切で気が利く人だ。
だが、本人も言っていたように、幸晴側の人なのだった。俺は、ほぼ初対面のような相手に、わざわざ時間をさいて会いたくなかった。しかも二人きり……。
先に幸晴の言い分を聞いているのだから、俺が責められるかもしれない。そんな場所に行きたくない。
俺は、今週は仕事が忙しいからと、遠回しに断った。
幸晴が家を出ていった水曜日から、一週間がたち、木曜日の夜。
さすがに、問題をこのまま放置でいいはずはないと思い、俺からも幸晴に連絡を取ってみたが、反応はなかった。幸晴だったらどうするだろうと考えると『会いに行く』というのが一番に浮かんだ。曜日ごとに、退勤の時間はわかっている。寝る前に迷いに迷ってようやく、『仕事終わりに会いに行く』とメッセージを送信した。
金曜、帰りにはいつもと違う電車に乗った。
いつか気まずい思いをしたカフェに寄り、そこで待っているから、と幸晴にメッセージを送る。
退勤時間をとっくに過ぎ、2時間……、3時間過ぎても、幸晴からは、なしの礫。
誰かとシフトを交代したのかもしれないし、何か用があって、急いでホテルを出たのかもしれない。スマホを忘れたり、なくしたりしたのかも。
(まだ怒ってるってことだよな)
思考はそこへ行き着く。
先週末の、日下さんの提案を受けていれば、何か違っただろうか?
選択にやや後悔を感じながら、店が閉まる時刻と同時に、外へ出た。
何も収穫がないまま帰るのが虚しくて、そのままホテルへと歩く。今まで、遠くから見たことしかなかった。
都心の一等地、太い円柱がそびえ立ち、その隙間を埋めるように等間隔ではまっている重厚そうなガラス。見上げれば首が疲れそうなほど高い天井。
建物は、周辺の物件より群を抜いて背が高い。
俺はなんとなくエントランスの前まで行って、中のきらびやかなシャンデリアや絨毯を眺めて通り過ぎる。
対になっている、反対側の道を通って引き返す。
幸晴は、今どんな業務をしていると言っていたっけ。家ではあまり仕事の話をしないから、俺はよく知らなかった。……俺が聞いていなかっただけかもしれない。そういえば、憂鬱そうにしていた、偉い人との会食は、何の話をしたのだろう。ケンカは続いていたし、あのあとフォローも何もできなかった。
ロータリー脇を通り過ぎた時、俺の横を並走するようなスピードで、走る車がいた。黒塗りだった。いつか、空港近くのホテルでも似たようなことがあった。俺は足を早める。車を追い抜くと、急に声がした。
「待って!」
あまりにも馴染みのある声に驚いて立ち止まり、反射的に振り返る。車からスーツ姿が出てきて、俺に向かって駆け寄ってきた。
「待って」
しっかりと腕を掴まれ、俺は呆然としていた。そこにいたのは、鷹城家の次男、陽二さんだった。藤咲さんのパーティーで会って以来だ。
「あ、あの……」
「宇野くんだよな? やっぱり! 幸晴に会いに来たの?」
「いえ、その」
「幸晴の兄の陽二、覚えてる?」
「もちろんです」
「驚いた? 俺もまさかこんなところで会えると思わなかったよ」
俺が戸惑っているのが伝わったのか、彼は、はにかんで手を離した。こんなに似ていたかと思うほど、幸晴と同じ声だった。近頃は幸晴の声を聞いていないから、余計にそう思うのかもしれない。
「いや実は……。幸晴に連絡無視されててさ。しびれ切らして、来たとこなんだ。君がいたら、あいつも逃げられないと思うから、助かったよ」
「……すみません、今ケンカをしていて、あまりお役にはたてないかと……」
「ケンカ? 幸晴と?」
「はい」
「大丈夫。俺のほうが倍はやりあってると思うから、全然問題ないよ。それに俺と君とじゃ関係性が違うだろ。君は幸晴が唯一、親父に紹介した大事な恋人なんだからさ」
「偶然、一緒に食事したことはありましたが……。晴臣さんが来れなくなったとかで」
「あれ、偶然じゃないよ。もとから親父の予定だった」
「え……」
「親父と飯なんて絶対嫌がるだろうから、晴臣と親父が相談して、口裏合わせたんだよ確か」
「……そうなんですか」
晴臣さんからは謝罪も受けたし、過ぎたこととはいえ、あまりいい気分ではなかった。
晴臣さんは一見の味方のようで、味方ではない。
幸晴はブラコンと愚痴るが、俺からすると、とても仲がいいように見えた原因は、こういう部分にあるのか、と思った。
「親父もまさか、キスなんて見せつけられるとは思わなかったんだろ。もう俺、最高だなって。あの話聴いたとき、めちゃくちゃ笑って……、っと。悪い」
喋りすぎた口を諌めるように、陽二さんは口に手を当てる。
「知ってるんですね」
「兄貴と俺だけだよ。おふくろは知らない。まぁ、あの人は興味ないかもしれないけどな」
陽二さんからすんなりと”おふくろ”という言葉が出て、俺は少し驚いた。幸晴は、母親の話を避けている節がある。
いつか晴臣さんに訊いた時も、”忙しい人だから”といって口を濁された。なんとなく、聴かないほうがいいような気がして、それ以降、俺は進んで口にしなかった。
現在では、タカシログループの役員として、各地を飛び回っているキャリアウーマンだということぐらいしか、俺は知らない。
「あの、幸晴くんとお母さんて、そんなに仲が悪いんですか……?」
「仲が悪いっていうか」
陽二さんは少し、困ったように微笑んだ。
「幸晴くんは……、母親のこと、まるで他人みたいに話しますけど」
「実の子だよ?」
「えっ!? いや、そういうことじゃなくて。すみません、いえ……なんでもないです」
「ごめんごめん」
からかわれたようだと気付いて、俺は釈然としない。心の整理がつかないうちに、陽二さんは喋りだす。手招きされ、俺は顔を寄せた。
「3人めは、女の子が欲しかったらしくてさ」
「え……」
「いろいろ、理想があったみたい。それをどうやら、幸晴はどっかで聴いたみたいで。おふくろも否定しないもんだから……。一時期は泥沼。特に幸晴が思春期入った頃なんて、ヤバくて。幸晴は親父とも仲悪いけど、口聞くだけいくらかマシって感じ」
「……驚きました」
「あ……、幸晴には言わないでね。デリケートなとこだから、たぶん……。俺も幸晴と、ちゃんとこの話はしたことないんだ」
「はい、もちろん……黙ってます」
俺の頭のなかで、過去の様々な、幸晴とのやりとりが思い出されていた。
思えば俺達の馴れ初めのいざこざも、俺の拒絶から始まった。俺は幸晴を無視するようになった。幸晴の嫌がらせはエスカレートしていった。
晴臣さんを前のマンションに招いたときに、幸晴の”かんしゃく”の話をしていたと思いだす。あの時は楽天的な想像をしてしまったが、今の話を聴くと……。
「でさ……、立ち話もなんだし、焼き鳥とかどう? 俺行きたい店が近くにあって」
「え?」
シビアな話と同じ口調でだされた話題に、俺は戸惑う。
「お兄さん、幸晴くんに会いに来たんじゃ……」
「そうだけど、作戦会議に変更するよ。幸晴は仕事抜けてこれないかもしれないし……。待ってるよりは、先に宇野くんと親睦深めるほうが有意義だな」
「ですが」
言いながら、陽二さんは俺を車の傍へと誘導した。後部座席のドアを開ける。
「どうぞ」
「いえ……。お誘いは大変ありがたいですが、明日午前から用があるので」
「大丈夫、家まで車で送るよ」
「お酒も、俺苦手でほとんど飲めないんです」
「俺も強くないし、普段は飲まないほう。一杯で充分。だから早めに解散する。あ、もしかして、腹いっぱい?」
問答していると、急に、強い力で後方に引っ張られた。人物の身体に当たって止まる。
「何やってんだよ」
横を見上げれば、スーツ姿の幸晴がいた。
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