浴衣

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6  俺は寝不足ながらゴミを出し、いつも通り会社にいった。木曜日だった。  昼にスマホをチェックする。幸晴からは何も来ていなかった。  仕事をしていると緊張感のためか気は紛れたが、退勤した途端、憂鬱がどっと押し寄せた。  謝るなら、早い方がいい。  もとに戻したいなら……。でも本当にそれでいいのか、と思う。  幸晴から提案してきたことだ。一緒に住んでから、嬉しいことも多かったが、衝突も増えた気がした。”離れてみる”というのは、むしろ、なるべくしてこうなったのでは。  幸晴が留学に行っているあいだ、恋しくて仕方なかったし、あの頃は、一緒に住みたいと心から思っていた。  けれど俺は、そういった人生の大きな出来事に、振り回されているだけだったような気もする。俺は、自分で決めているのではなく、良くも悪くも幸晴の力に影響され、流されている。  相談したかった羽田は、タイミング悪く、先輩の出張について行き不在。  俺は電車にのり、いつもどおりの帰り道。  コンビニに立ち寄って、家につく。  玄関ドアをしめ、1人の空間になった途端、幸晴なんてもう帰ってこなければいいと思った。泣きながら、コンビニ袋ごと冷蔵庫にしまった。食欲がなかった。  翌日、少し期待していたが、やはり幸晴から連絡はなかった。いつもと違うのはあたりまえだった。幸晴はあんなに冷静なまま、自分から出ていったのだ。  どこにいるんだろう。ホテルか、または黒木くんのところにでも泊まっているのか……。  土曜日。  俺は何もやる気が起きず、ベッドで二度寝を決め込む。  幸晴と住んでから、昼間まで寝たことなんて、あまりなかった。朝食を一緒に食べると決めたのも大きい。一度しっかり起きてしまえば、またベッドに行くのは少し抵抗もある。  棚の充電器に挿しっぱなしだったスマホが振動し、長いので、俺は慌てて手を伸ばした。  着信は、登録していない番号から。  様々な可能性を考えながら、通話ボタンを押す。 「はい……」 「すみません。宇野さんのお電話ですか?」 「はい、宇野ですが」  スマホ越しに聞こえてきたのは、幸晴の声ではない。柔和そうな、感じの良い男の声。まるでアナウンサーのように聞き取りやすかった。 「日下と申します。以前、ビュッフェの会場で、ご挨拶させて頂いたのですが」 「ああ、はい……! もちろん覚えてます。その節は……あ、ありがとうございました」  ビュッフェどころではなく、幸晴との関係も、同衾したことも知れているのだと思い出し、頬が熱くなった。俺はベッドから足をおろし、姿勢を正した。 「実は今、幸晴くんが、うちに泊まってるんです。一昨日の昼間に連絡があって、それから……」 「そうでしたか」 「宇野さんが、心配しているんじゃないかと思いまして。もちろん、幸晴くんからは知らせるなと言われてるんですが……」 「そうですよね、助かります。ありがとうございます。わざわざ電話まで頂いてしまって。ご迷惑を」 「いえ、以前から遊びに来たいとは言っていたし、迷惑ではないんですが……」  少し間があった。 「何か、僕に出来ることはないかなと」 「あの」 「お節介だとは思ってます。喧嘩をしょっちゅうするっていう話は聞いていたのですけど、今回はなかなか、とても……傍観なんて出来なくて。だいぶ、落ち込んでいるようなので、つい」 「あの、ご迷惑おかけしてすみません! 迎えに行きます」 「いえ、今来たら逆効果かもしれません。時間をおいたほうがいいかと……。僕は一人暮しなので、迷惑なんて気にしなくていいですよ」 「ですが」 「いいタイミングになったら知らせます」 「そうですか……、すみません。よろしくお願いします」  幸晴と日下さんとは、群馬の実家で共に下働きをしたという旧知の仲で、東京で再会してから、たまに飲みに行っているのは知っている。  幸晴が、この人にとても好感を持っているのは、話しぶりから理解していた。 「宇野さん」 「はい」 「……僕は、どうやっても幸晴くんの側の人間になってしまいますが、よかったら、相談に乗らせてもらえませんか?」 「相談……、ですか」 「僕は幸晴くんの言い分しか聞いていないし、それで彼にどうこうアドバイスなんてできないので、できれば事情を知りたいなと思っていまして……。二人の間に誤解があるなら、橋渡しになれないかなと」 「え、あの……」 「突然で、驚きますよね。すみません。もし気が向いたらでいいので、電話でもメールでもください、このあとアドレスも送ります」 「はい……」 「それでは、お休み中に失礼しました。また」 「また……」  通話はあっさり切れた。  カーテンもあけていない薄暗い部屋。ベッドの上でひとり、スマホを見つめたまま呆然とする。  幸晴が、人に仲介役を頼むなんて思えなかった。まどろっこしいことはせず、自分でやるだろう。むしろ、自分の知らないところで事が動いていたと知ったら、気分よくはないはずだ。  だとしたら、この日下さんは自発的に、この電話をして……。電話番号はどこから手に入れたのだろう?   俺は幸晴の居場所を教えてもらえて安堵していたが、日下さんは、この電話がバレたら幸晴と揉めるリスクがある。  それでも幸晴が心配で、力になりたいという彼。  ホテルでの、初対面の印象はすごく良かったし、優しい人なのだろうとは思ったが、何となく俺は、腑に落ちないものを感じていた。      ***  土曜日は一日中ふて寝し、夕飯を食べてまた寝た。日曜日は朝から本を読んでいた。  静かな部屋。  自分が発生させる音以外しないという環境は、久々だ。俺は一人暮しが……この空間が好きだった、と思い出した。  誰かの帰りを気にする必要もない。厚めの文庫を一冊読み切った時、日が暮れていた。あまりの没入感に、心地良い疲労があった。幸晴からの連絡はなかった。  月曜日。  日下さんからメールが来ていた。都合を合わせるから、一度会いませんか?と。  親切で気が利く人だ。  だが、本人も言っていたように、幸晴側の人なのだった。俺は、ほぼ初対面のような相手に、わざわざ時間をさいて会いたくなかった。しかも二人きり……。  先に幸晴の言い分を聞いているのだから、俺が責められるかもしれない。そんな場所に行きたくない。  俺は、今週は仕事が忙しいからと、遠回しに断った。  幸晴が家を出ていった水曜日から、一週間がたち、木曜日の夜。  さすがに、問題をこのまま放置でいいはずはないと思い、俺からも幸晴に連絡を取ってみたが、反応はなかった。幸晴だったらどうするだろうと考えると『会いに行く』というのが一番に浮かんだ。曜日ごとに、退勤の時間はわかっている。寝る前に迷いに迷ってようやく、『仕事終わりに会いに行く』とメッセージを送信した。  金曜、帰りにはいつもと違う電車に乗った。  いつか気まずい思いをしたカフェに寄り、そこで待っているから、と幸晴にメッセージを送る。  退勤時間をとっくに過ぎ、2時間……、3時間過ぎても、幸晴からは、なしの礫。  誰かとシフトを交代したのかもしれないし、何か用があって、急いでホテルを出たのかもしれない。スマホを忘れたり、なくしたりしたのかも。 (まだ怒ってるってことだよな)  思考はそこへ行き着く。  先週末の、日下さんの提案を受けていれば、何か違っただろうか?   選択にやや後悔を感じながら、店が閉まる時刻と同時に、外へ出た。  何も収穫がないまま帰るのが虚しくて、そのままホテルへと歩く。今まで、遠くから見たことしかなかった。  都心の一等地、太い円柱がそびえ立ち、その隙間を埋めるように等間隔ではまっている重厚そうなガラス。見上げれば首が疲れそうなほど高い天井。  建物は、周辺の物件より群を抜いて背が高い。  俺はなんとなくエントランスの前まで行って、中のきらびやかなシャンデリアや絨毯を眺めて通り過ぎる。  対になっている、反対側の道を通って引き返す。  幸晴は、今どんな業務をしていると言っていたっけ。家ではあまり仕事の話をしないから、俺はよく知らなかった。……俺が聞いていなかっただけかもしれない。そういえば、憂鬱そうにしていた、偉い人との会食は、何の話をしたのだろう。ケンカは続いていたし、あのあとフォローも何もできなかった。  ロータリー脇を通り過ぎた時、俺の横を並走するようなスピードで、走る車がいた。黒塗りだった。いつか、空港近くのホテルでも似たようなことがあった。俺は足を早める。車を追い抜くと、急に声がした。 「待って!」  あまりにも馴染みのある声に驚いて立ち止まり、反射的に振り返る。車からスーツ姿が出てきて、俺に向かって駆け寄ってきた。 「待って」  しっかりと腕を掴まれ、俺は呆然としていた。そこにいたのは、鷹城家の次男、陽二さんだった。藤咲さんのパーティーで会って以来だ。 「あ、あの……」 「宇野くんだよな? やっぱり! 幸晴に会いに来たの?」 「いえ、その」 「幸晴の兄の陽二、覚えてる?」 「もちろんです」 「驚いた? 俺もまさかこんなところで会えると思わなかったよ」  俺が戸惑っているのが伝わったのか、彼は、はにかんで手を離した。こんなに似ていたかと思うほど、幸晴と同じ声だった。近頃は幸晴の声を聞いていないから、余計にそう思うのかもしれない。 「いや実は……。幸晴に連絡無視されててさ。しびれ切らして、来たとこなんだ。君がいたら、あいつも逃げられないと思うから、助かったよ」 「……すみません、今ケンカをしていて、あまりお役にはたてないかと……」 「ケンカ? 幸晴と?」 「はい」 「大丈夫。俺のほうが倍はやりあってると思うから、全然問題ないよ。それに俺と君とじゃ関係性が違うだろ。君は幸晴が唯一、親父に紹介した大事な恋人なんだからさ」 「偶然、一緒に食事したことはありましたが……。晴臣さんが来れなくなったとかで」 「あれ、偶然じゃないよ。もとから親父の予定だった」 「え……」 「親父と飯なんて絶対嫌がるだろうから、晴臣と親父が相談して、口裏合わせたんだよ確か」 「……そうなんですか」  晴臣さんからは謝罪も受けたし、過ぎたこととはいえ、あまりいい気分ではなかった。  晴臣さんは一見の味方のようで、味方ではない。  幸晴はブラコンと愚痴るが、俺からすると、とても仲がいいように見えた原因は、こういう部分にあるのか、と思った。 「親父もまさか、キスなんて見せつけられるとは思わなかったんだろ。もう俺、最高だなって。あの話聴いたとき、めちゃくちゃ笑って……、っと。悪い」  喋りすぎた口を諌めるように、陽二さんは口に手を当てる。 「知ってるんですね」 「兄貴と俺だけだよ。おふくろは知らない。まぁ、あの人は興味ないかもしれないけどな」  陽二さんからすんなりと”おふくろ”という言葉が出て、俺は少し驚いた。幸晴は、母親の話を避けている節がある。  いつか晴臣さんに訊いた時も、”忙しい人だから”といって口を濁された。なんとなく、聴かないほうがいいような気がして、それ以降、俺は進んで口にしなかった。  現在では、タカシログループの役員として、各地を飛び回っているキャリアウーマンだということぐらいしか、俺は知らない。 「あの、幸晴くんとお母さんて、そんなに仲が悪いんですか……?」 「仲が悪いっていうか」  陽二さんは少し、困ったように微笑んだ。 「幸晴くんは……、母親のこと、まるで他人みたいに話しますけど」 「実の子だよ?」 「えっ!? いや、そういうことじゃなくて。すみません、いえ……なんでもないです」 「ごめんごめん」  からかわれたようだと気付いて、俺は釈然としない。心の整理がつかないうちに、陽二さんは喋りだす。手招きされ、俺は顔を寄せた。 「3人めは、女の子が欲しかったらしくてさ」 「え……」 「いろいろ、理想があったみたい。それをどうやら、幸晴はどっかで聴いたみたいで。おふくろも否定しないもんだから……。一時期は泥沼。特に幸晴が思春期入った頃なんて、ヤバくて。幸晴は親父とも仲悪いけど、口聞くだけいくらかマシって感じ」 「……驚きました」 「あ……、幸晴には言わないでね。デリケートなとこだから、たぶん……。俺も幸晴と、ちゃんとこの話はしたことないんだ」 「はい、もちろん……黙ってます」  俺の頭のなかで、過去の様々な、幸晴とのやりとりが思い出されていた。  思えば俺達の馴れ初めのいざこざも、俺の拒絶から始まった。俺は幸晴を無視するようになった。幸晴の嫌がらせはエスカレートしていった。  晴臣さんを前のマンションに招いたときに、幸晴の”かんしゃく”の話をしていたと思いだす。あの時は楽天的な想像をしてしまったが、今の話を聴くと……。 「でさ……、立ち話もなんだし、焼き鳥とかどう? 俺行きたい店が近くにあって」 「え?」  シビアな話と同じ口調でだされた話題に、俺は戸惑う。 「お兄さん、幸晴くんに会いに来たんじゃ……」 「そうだけど、作戦会議に変更するよ。幸晴は仕事抜けてこれないかもしれないし……。待ってるよりは、先に宇野くんと親睦深めるほうが有意義だな」 「ですが」  言いながら、陽二さんは俺を車の傍へと誘導した。後部座席のドアを開ける。 「どうぞ」 「いえ……。お誘いは大変ありがたいですが、明日午前から用があるので」 「大丈夫、家まで車で送るよ」 「お酒も、俺苦手でほとんど飲めないんです」 「俺も強くないし、普段は飲まないほう。一杯で充分。だから早めに解散する。あ、もしかして、腹いっぱい?」  問答していると、急に、強い力で後方に引っ張られた。人物の身体に当たって止まる。 「何やってんだよ」  横を見上げれば、スーツ姿の幸晴がいた。
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