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 すべての始まりは今年の三月だった。  俺は、銀座の一角にある、テナントビルの前に立っていた。  ここは、クリスマスから付き合っていた彼女の住所だった。  誕生日が二月にあったので、彼女が欲しいとずっと言っていたブランドのバックをプレゼントした。資格をとるためのお金ということで、二月の末に五万円貸していた。  三月。  彼女から、ごめんなさいとだけメッセージがきて、それから一切連絡がとれなくなった。  かろうじて知っていた彼女の住所を訪ねてみれば、そこはマンションなどではなく、事務所がいくつか入ったテナントビルだった。  この付近は駅から徒歩数分、並行した一本向こうの通りでは、ファッションに疎い俺でも知っているような外国のブランド店が立ち並んでいた。  どこを眺めても、学生が一人で住めるような賃貸物件は見当たらない。  俺は、住所を教えてもらった時点では、土地勘もなかったため気づかなかった。彼女の話を一ミリも疑わなかったので、調べようとも思わなかった。いつか彼女の部屋に誘ってもらえたらいいなと、ぼんやり未来のことを想像しているだけだった。  銀座に来る前、神田にある彼女の大学も訪ねてみた。調べてもらったが、そんな学生は在籍していなかった。  貸した金は、なくてすぐ困るような金額ではなかった。  しかし、彼女の為だから出せたのだ。  彼女が去って、金の穴埋めをなんとかしないといけないと、現実的なことを考え始めた。そんな時だった。 「ちょっと、お兄さん」  ビル一階のガラス戸を押して、男の人が出てきた。  年は三十前後だろうか。髪の毛は白に近い金髪で、両耳に複数ピアスをしている。スーツもかなり凝ったデザインだった。奇抜ともいえる外見に圧倒され、少し身構える。 「今、時間ありますか?」  俺は平静を装って、ごく普通の声で答えた。 「ええ、まあ……。何ですか?」 「割のいいバイトあるんですけど、やってみませんか?」 「バイト?」 「そう。私、ここのアトリエの者なんですが、モデルが必要で。上から見ていたうちの者が、あなたを気に入ったみたいで……。どうでしょう?」  モデルと聞いて、俺は首を横に振った。 「まさか、モデルなんて無理です。すみません。それじゃ……」 「今日、七万出しますよ。三、四時間いてくれれば充分です。夕飯もご馳走しましょう」  その言葉に踏みとどまる。 「……モデルって、どういうモデルですか?」  そう訊き返してしまったのが、いけなかった。  ――藤咲アトリエ・デザイン 美高 昇。  名刺にはそう書いてあった。  胡散臭いとは思いながらも、裏通りとはいえ銀座の一等地にアトリエがあるくらいなのだから、老舗か、まあそこそこ景気のいい会社なのだろうと予想する。  ヌードモデルと聞かされ驚いたものの、アトリエの壁に飾られた絵は、人とわからないような抽象画だった。そういう画風らしい。モデルを必要とするのは、生命のインスピレーションを受けるためなんだそうだ。  これならば自分とバレる絵が残るわけじゃないし、後腐れないだろうとほっとする。 「それで、実はもう一人モデルがいるんですよ。だからってやることは一緒ですね。指定のポーズのまま、じっとしてくれればいいだけなんですが」 「はぁ、そうなんですか」  そうは言いつつ、可愛い女性が出てきたら下半身の問題がおこるかもしれない。そういう場合どうするのかと、内心焦っていた。  しかしドアから入ってきたのは同性でほっとする。  俺と同年齢くらいだ。身体は鍛えられ引き締まっている。対して、こっちはだらしないとは言わないが、自信のもてる肉体ではないので、ほんの少し劣等感を持った。  裸の男二人からどうやってインスピレーションを得るのだろうと、ぼんやり考えていたが……、とにかく俺は甘かった。  そのあとやってきた初老の男性に指示され、とらされた姿勢というのがひどかった。  椅子に男が座り、その膝の上に横向きに座れというのだった。もちろん、不安定だから男の身体に掴まっていなければならない。  画家らしい男性は白髪で、短いあごひげが似合っている。色落ちして穴の空いたジーンズに白いTシャツ。足元は草鞋。彼は至極真面目な顔をしてキャンバスと画材の準備を始めた。  美高さんはちょっと申し訳なさそうな顔をしていたが、やってくれと促すし、相手のモデルは、まったく問題がないといった様子で椅子に座った。慣れているのかもしれない。狼狽えているのは自分だけだった。  俺は、男色趣味を持つ文豪のことを思い出す。日本の芸術文化と男色というのはいつの時代も関わりがあるもので、……とにかく、この異質な感じがインスピレーションのもとになるのかもしれないと、なんとか自分を納得させた。芸術家というのは、きっと突出したなにかを求めているのだろう。  男の太腿に直接座るのは、とても気持ちが悪かった。  だが脂ぎった中年男性でないだけ、ましだろうと自分に言い聞かせる。  男の髪は栗色に染まっていて、短めだった。ワックスである程度整えられている。  香水の匂いがした。大人っぽい……悪くない香りだったが、俺も、俺の友達も香水なんてつけてるやつがいないから、これがどういった系統の香りなのかはわからない。   目元は切れ長で、大きい口と顎。しっかりした男前の顔つきだが、その中に、どこか柔らかい印象も受けた。  まあしかし、どこからどう見てもモテそうなタイプだ。  彼女なんてとっかえひっかえだろう。きっと男女の交流サークルをつくって、派手にやっているんじゃないだろうか。その為の金稼ぎだろうか。自分とは正反対のタイプだ。  基本的には喋ることも禁止されていたので、俺は、正面の白い壁と男の身体を眺めるしか、やることがなかった。途中何度か男と目が合った。すぐに逸らしていたが、そのうち暇に耐えられなくなると、俺は少し笑みを作って男の様子を窺った。男は一瞬目を見開いて、そしてすぐ元の顔にもどった。  うとうとしそうになるのをなんとか我慢しながら、数度の休憩を挟みつつ、四時間が過ぎる。終わった頃には身体が疲れきっていた。  服を着たあと、出前でとった天ぷら月見うどんを食べさせてもらった。  とにかくこれが最高に美味い。聞くところによると、老舗名店のうどんらしかった。親しい近所にだけは、出前を受け付けてくれるのだという。  気難しそうに見えた初老の画家は、話してみれば気さくで、とても元気な人だった。  絵の事をいろいろと話してくれたが、俺は初心者すぎてよくわからなかった。観るのはわりと好きなほうだったが、描くのは苦手だ。  だが画家が話している様子はとても楽しそうだったので飽きはしなかったし、好感を持った。俺に声をかけた理由も一応訊いてみたが、なんとなく、と言われた。そういうものなのかもしれない。  もう一人のモデルは、やはり既に何度かバイトをしている知り合いらしい。その人は月見うどんを食す席にいなかったが、俺がビルを出たところで、焦った様子で追いかけてきた。 「もうここには来ないのか?」 「ええと……、一回きりっていう話だったんで」 「そうなんだ。どうだった? 今日」  男は微笑みながらそう言う。俺が女の子だったら……、心を動かされてしまいそうなほど、爽やかで見事な笑顔だった。感想を訊かれるとは思わず、可笑しくて俺も笑ってしまう。 「疲れました。もうやりたくないかな、よく続きますね」 「ああ、まぁ……俺あのじいさんの友達で」 「へえ。やっぱり有名な人なんですか?」 「結構な。普通にビルの玄関とかに、でかい絵飾ってあるぞ。ちょっと向こうの国立フォーラムとかにだって飾ってあるし」 「すごいですね。名刺もらったんで帰ったら調べてみます。じゃあ」 「おいちょっと」  もう一度呼び止められ、俺は振り返った。 「なんですか?」 「せっかくだし……、連絡先とか交換しない?」  しばらく考えたあと俺は言う。 「いや、大丈夫です。今日はどうもありがとうございました。お世話になりました」  まだ何か言いたそうな男から目を逸し、早足で歩き始めた。  おそらく、ちゃんとした会社ではあるのだろうが……。品行方正な学生で通っている手前、こういったことはあまり良くないと感じていた。素行の問題で、万が一にでも奨学金を取り消されたら困る。甘い話には裏があるというのが、世の中の常だ。
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