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 五月の二週目、水曜日、大学構内の食堂。  もう昼食のピーク時間は過ぎていて、七割ほど空席だ。俺はカツカレーと親子丼について真剣に悩んだあと、どこに座ろうか考えながら、歩き出したところだ。  見覚えのある人物が、たまたま目に入ってしまった。五、六人の男子学生のグループ。その中の一人だ。  その瞬間、俺は驚きすぎて、不覚にも歩調を緩めてしまう。  不自然でない程度に俯いてから、すぐに歩き出した。  目は合わなかったから、このまま素通りできるかもしれない。  しかし、その男のいるテーブルを通り過ぎた頃、声を掛けられた。 「なぁ、おい」  学食のトレイを持ったまま、半身だけ振り返る。真後ろに男が立っていた。 「久しぶり。なんだ、同じ大学じゃねーか」 「……どうも」  それは紛れも無く、数カ月前ヌードモデルのバイトで、一緒になった男だった。俺が四時間、その膝上に乗っかって過ごした男だ……。髪はずいぶん伸びて、髪型も違う。しかし強気な目元の印象だけは変わらない。 「どこの学部? 何年?」 「すみません。あんまり時間ないんで、また今度」 「あ、俺もう飯終わってるから付き合う」  そっちの都合はどうでもいい、と文句を言いそうになりながらも、俺は食堂の一番奥へ向かった。隅に座ると、男は向かいに腰掛ける。  男と同じテーブルで騒いでいた仲間たちが、ちらちらとこっちを見ているのが気になった。俺の予想していたとおり、まあそういう……俺とは違うタイプの集まりだった。運動が出来、おしゃれで、女にモテるという人気者のグループだ。個々はそんなに悪いやつでもないけれど、集まるとうるさいし、やけにでかい顔をするので、あまり好きではない。 「びびった、こんなことってあるんだな。信じらんねー」  男はテーブルに片肘をつきながら、やけに上機嫌でそう言った。 「俺、経済の二年で鷹城。おまえは?」 「……環境の二年です」 「タメじゃん。名前は?」 「宇野です」  素早くそう言ったあと、手を合わせて食事を始めた。カツカレー定食だ。ボリュームのあるカツカレーに、サラダ、味噌汁、おしんこ、ミニあんみつのデザートがついている。  話しかけるな、という冷たい態度をとったつもりだが、鷹城はまったく動じずそこに座ったままだった。  しばらくして何も言わずに立ち上がり、どこかへ消えた。またすぐに戻ってくると、その手には二つのコップが握られていた。熱い緑茶のようだ。 「ん、緑茶」 「どうも……」  飲みたいと思っていたので一応、礼は言った。  鷹城は、さっきと同じ椅子に座る。何も言わずにこちらの食事を眺めているようだった。視線が気になった。ここに居座るつもりだろうか。 「カツカレー好きなのか?」 「ええ、まあ……」 「俺はここだと親子丼が一番だな。カツカレーも好きだけどな」 「そうですか」 「なぁ、なんで敬語使ってんの?」 「あの」  俺はついに耐え切れなくなり、箸を止め顔をあげた。 「あのバイトのこと、学校に言わないでくださいね。隠しときたいんで」  あの日、帰りの電車で画家のことを調べた。  七十歳で、藤咲伍郎という。日本のみならず、欧州、米国などでたくさんの芸術賞をとっている画家らしかった。一年の半分は海外で暮らしているらしい。あの快活そうな印象にぴったりだった。そのオフィシャルサイトは藤咲アトリエ・デザインの名で作られていたし、もちろん美高さんの名前も載っていた。  怪しい会社でないことは確かめたが、なんにせよ学生が……、ヌードモデルのバイトというだけで、問題が起こりそうなのはわかる。 「ああもちろん、黙ってるけど……。金、困ってんの?」 「いえ、もう困ってるってほどじゃないですけど。あの分でだいたい補填できたんで」 「補填?」 「とにかく黙っといてください」 「いいけど、敬語やめろよ。気持ち悪いし」 「クセなんで」  なんとなく距離を保っておきたくて、敬語はこのままにしたかった。  そのとき、ちょうど鷹城の仲間がテーブルを離れ、食堂を出ていこうとする。 「あの、友達行っちゃうみたいですけど、いいんですか?」  鷹城はそれを聞いて振り返り、大きく手を振った。あっちも手を振り返してくる。 「問題なし。それでさ、駅の反対側に美味いカツ丼出す店があるんだけど、知ってるか?」 「いえ……」 「今日帰りに行こうぜ」  誘われたことに驚いたが、俺はもとからの予定を思い出した。 「バイトあるんで、やめときます」 「ふーん、何のバイトやってんの?」 「居酒屋で」 「大変?」 「まあまあ……。でも夜は時給いいんで」 「ああ、そう聞くけどな。じゃあ明日はあいてるか?」  俺は心の中でため息をついていた。この自分勝手な距離の詰め方。苦手なタイプだった。 「明日もバイトです。あの俺、飯は静かに食いたいほうなんで……、もういいですか。すみません」 「ああ、うん。悪かったな、いきなり……」  鷹城はあっさりと席を立ち、コップを持つ。 「今週は無理?」 「無理ですね」 「じゃあまた誘うわ。そういえばおまえ一人だけど、友達は?」 「……見かけたら一緒に食いますけど、別にいちいち約束とかしませんよ」 「じゃあ、ここで宇野が一人で食ってんの見つけたら、隣座ってもいいか? 俺、人と食べるほうが好きなんだよな。美味しいだろ、そのほうが」  俺は呆然と、鷹城を見上げていた。ここまで話が噛み合わない相手は久々だった。返答に困り無言でカツを咀嚼していると、鷹城はなぜか微笑んでいた。 「またな。おまえって飯食ってる顔、面白い」  そう言って残りの緑茶をすすりながら、去っていった。
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