Chapter.31

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Chapter.31

 紫檀が取材中に撮影した資料写真を見ながら、新刊用の文章を書き続ける。もう人生の半分ほどを作家として過ごしているけど、新しい話を書くのには楽しみと共に生みの苦しみが付きまとう。  今回は雑誌で連載していたエッセイの直しもあって、意外に重労働だ。  気分転換に少し外の空気を、とベランダへ出て、空を見上げた。上空は風が強いのか、速い勢いで右から左へと雲海が流れていく。  その様子を眺めながら、気付くと俺は回顧していた――。  ――風が強い日だった。その風は外の樹々を揺らし、時折、病室の窓をカタカタと揺らす。 「やどりにはきっと、他に運命の人がいるんだよ。だから私のことは気にしないで、見つけたら、今度はちゃんと、やどりから声かけてね」  どんな流れでそう言われたのかはハッキリと覚えていない。なのに、その言葉になにも言い返せず、なに言ってんの、と小さく笑ったことはいまでも思い出す。  運命の人がそう何人もいてはたまらない。そう思ったのに、それを口に出すことができなかった。  彼女のその言葉は、遺言となった。  彼女は絵を描くのが好きだった。好きなだけで決して巧いとは言えず、彼女自身も自分に絵の才能がないことを認めていた。趣味と称して色々なモチーフを探し、選んで、描き続けた。  景色、物、植物、動物。けれど、実在の人間を描くことはない。 「だって、人は感想を言うからさ。それに、嫌な思いさせたらイヤじゃん」  何枚描いても一向に上達する気配はなかったけど、それでも描くことをやめなかった。 「もっと上手だったら、やどりの小説に挿絵描きたかったなー」 「わりぃ。俺の小説、そういう感じのじゃねぇわ」 「知ってるよ。言うだけはタダなんだからいいじゃん。小説家のくせにリアリストなんだからさー」 「小説家が全員ロマンチストなわけじゃねぇし」 「それもわかってますー」  言いながら彼女は鼻に皺を寄せる。いつもの癖だ。 「この先も、表紙はまだしも、本文に絵とか入れるつもりないし」 「さぁ、それはどうかなー」  彼女は笑う。  彼女はやけに勘がいい(たち)で、そういう含みを持った言葉を発するときは、彼女なりの予感があるらしい。一緒に暮らすようになってからそういった場面に何度か遭遇しているから、今回もなんとなく、いずれはそういった機会がくるのかもしれない、なんて思った。けれど。  彼女の夢が永遠に叶わなくなり、いよいよもって決意は固くなった。  なのに、俺は出会ってしまった。 「新成先生がそういった形式でご出版なされていないのは存じ上げております。しかし、だからこそ、それが新たな売り、強みになると、弊社は考えております」  見た目5~6頭身くらいで男性ホルモン強めの、漫画から出て来たキャラクターのような編集者はなおも熱っぽく続ける。 「実際にご出版いただけるかは、弊社預かりのポートフォリオをご覧いただいてから、お決めくださいませんでしょうか」  回答はゆだねているものの、彼の口調に疑問符はない。傍らに積まれている数冊のファイルは、彼が現れたとき、重そうに、大事そうに抱えていたもの。  彼の熱意を無下に退けられるほど、悪人にはなれなかった。 「拝見するだけでしたら……」 「ありがとうございます!」  渡されたファイルには、数点の作品が集約され、作家名ごとに収まっていた。ページをパラパラとめくるが、いまいちピンとこない。  プロやそれに近い人たちの作品であろうそれらは、確かに素晴らしい画力だ。しかし、彼女(みつぐ)が持っていたような不思議な魅力を感じることができない。  はなから断るつもりで()()()のは失礼だと思い、選出することを前提に作品を見るが、それでも手は止まらず、数冊あったファイルは最後のページにさしかかろうとしていた。十数分間の沈黙。応接室にビニールのページを繰る音だけが響く。  俺の反応に、編集者も手応えを感じていないのがわかる。 (やっぱり、挿絵はいらないな……)  出版社から提案されているジャンルは挿絵が入る作品が主流。しかし逆に、その定義を覆すことも売りになるのではないか、と提案する言葉を脳内で構築する。  新ジャンルに挑めるのはありがたいし、繋がりのない出版社と契約できるのも正直ありがたい。仕事の依頼自体は受けるつもりだが、 (やっぱりもう、絵には心が動かないのかもしれない)  そんな風に思う。心というか、感性というかに鎖が巻き付き、南京錠がかけられたよう。その鍵がどこかにあれば、意固地な考えは解き放たれるのだろうか。  すべてのファイルを見終わり、そっと編集者に返却する。先ほどから頭の中で修正と構築を繰り返していた言葉を発しようと口を開いたとき、ドアを控えめにノックする音が室内に響いた。 「あっ、すみません」 「いえ、どうぞ」 「ありがとうございます。はーい」  編集者は返事をしながら、ドアを開いて訪問者を確認する。 「お話し中すみません。尾関さんが先ほど探してらしたファイル、戻ってきたので、ご入用だったら、と思って……」 「わっ、ありがとう~!」  先ほどまでの雄々しさはどこへやら。フェミニンな口調で礼を言って、一冊のファイルを受け取った。 「申し訳ございません。大変お手数をおかけして恐縮なのですが、最後にこの一冊だけ、ご覧いただけませんか?」  対面当初よりも柔和な表情と声色にほだされて、 「じゃあ、せっかくなので……」  おずおずと差し出されたファイルを受け取る。 「常時数冊用意しているのですが、あいにく全て使われてしまっていて……」  それは、このファイルに人気の作品がつまってるっていう意味か?  つい癖で言葉の裏を読みつつ、先入観は捨ててページをめくり始めた。 (これって……)  数ページ繰ったあと、目から飛び込んできた画像と同時に浮かんだのは、俺が書いた小説の情景だった。頭の中で思い描きながら文字に変換したあの風景が、細かいところまでは一致していないものの、いま視覚としてはっきり捉えられる。もしかしてあの情景をモチーフに? そうではなかったとしても、きっとこの絵を描く人物と自分の見る風景は似通っている。そんな風に思えた。  細部までまじまじと見るために手が止まる。 「……気になります?」  俺の様子を見ていた編集者が、そっと声をかけてきた。 「そう、ですね。色使いとかは、かなり好きな感じです」  その風景画以外のイラストも見ながら、ページを行ったり来たりして見る。 「良かったー。その絵を描いたイラストレーターさん、他の方々と比べるわけじゃないんですけど、私の一押しなんです。シガラキチヤさんって(かた)なんですけど」 「ちや……さん」 「はい」  その名前に聞き覚えがあった。知り合いではなく、どこかで…… 「あ」 「はい」 「あ、いえ。すみません」こちらの話です、と尾関さんに頭を下げる。  脳内に聞こえたのは雁ヶ谷さんの声。そうだ、月に雁で……。  隣の席で熱心に絵を描いていた女性を、雁ヶ谷さんがそう呼んでた。…気がする。  いやしかしまさか同一人物なわけないじゃん。そんな話、うまくできすぎていてネタにもできない。  …とはいえ、同名の人がたまたまいた、というには少し考えにくい、あまり聞かない名前だ。絵描きという符号も合うし……。  いやだからってこの人に決めるかどうかの判断材料にはしないよ?! しないけど……。 「少し、考えたいので、お時間いただけますか」 「もちろん! ご検討いただければ幸いです」  尾関さんが机に額をつけんばかりに頭を下げる。  帰り際、ご丁寧にシガラキさん個別の作品資料を渡された。いやうん、まぁ。個人的に気に入った絵だけど、挿絵に起用するかは別の話だよ。だけど。  その絵を見れば見るほど惹かれていく。脳裏に浮かんでいるのは月に雁で見かけた女性の容姿。  本人は無意識なのかもしれないが、絵を描くのが本当に好きでたまらない、というような表情で色鉛筆を走らせていた。その表情が、みつぐを思い出させた。だからって、その絵に決める要因にはしない。しない、けど……、うん。  出版社での打ち合わせが急遽決まった。スケジュール的にもうここでしか無理! という、申し訳ない決まり方だった。  プロットと内容の進行スケジュールについて、尾関さんと詰めていく。まだ、挿絵を採用するかは保留中だ。  一回くらい、会えると思ってたんだけどなー。  雁ヶ谷さんが呼ぶところの“チヤちゃん”のことを思い出す。  会って、それでどうするのか。あなた、岳元出版にポートフォリオ預けてましたよね? わたくし、作家のシンナリという者ですが……。いやいや、怪しすぎんだろ。  それでもやっぱり、頭と心にかかってしまったモヤは晴れない。  もういい加減決めなよ! どこかでみつぐの声が聞こえるようだ。  うん、そうだね。俺が勝手に意固地になってるだけだよ。だったら、俺が一歩、先に進むしかないんだよな。 「あと」  進行についての話が終わったところで、付け足すように言葉をつむぐ。 「はい」 「ギリギリになって申し訳ないんですけど、挿絵のお話なんですが」 「はい……!」  固唾をのんで、とはまさにこのこと、という面持ちで、尾関さんが俺の言葉を待つ。 「先日ご紹介いただいた、シガラキさんにお願いできれば、と思います」  俺の話が終わるや、尾関さんはパアァ…と擬音が付きそうな笑顔を見せた。 「ありがとうございます! 彼女は絵の腕も確かですし、ご本人のお人柄もとても良くて~!」  いつか見たフェミニンさを全面に出して、尾関が熱弁した。よっぽど一押しなんだな、と感じる。作品も、作者本人も。 「あっ。このあと彼女と打ち合わせする予定が入っているのですが、もしよろしければ、お会いになられますか?」  正直、興味があったんだ。  もし、あの絵を描いたのが、俺が思い浮かべている人物だとしたら、その偶然になにか意味があるのかを。  だから、ほんの少しの可能性にかけてみることにした。俺にしては、相当の冒険だよ? 「はい。お邪魔でなければ、ご紹介いただきたいです」 「お邪魔だなんてとんでもない~! ぜひぜひ~」  尾関さんは胸の前で合掌して喜ぶ。  だから、廊下でその顔を見たとき、つい、口から出てしまったんだ。 「やっぱり……」  キミには聞こえていなかったみたいだけど、俺はそのとき、見えないなにかが繋がった気がしてた。だから、普段だったらしないような、強引な理由付けのアポを取ったりしたんだ。…まぁ、野鳥が好きなのもキミが使っていたノートが羨ましかったのも本心なんだけど…。  全てはあの一冊、いや、あの見開き2ページとの出会いから始まった。  俺はいまでも、そう思ってる。  思い返しながらキミとの日々を綴るのは、ラブレターを書いているようでなんだか照れてしまうけど、自分の気持ちを確認するには最適のツールだと思う。  ……うん。やっぱり俺は、キミが好きだよ。  面と向かって言うにはまだ勇気が足りないから、もう少しだけ待ってて欲しい。  マンションのベランダから、晴れた空を見上げる。上空に吹く強い風はその辺り一面の雲をすべて流してしまったようで、ただ青く、澄んだ空が広がっていた。  もうそろそろ、いいかな、伝えても。  何故かそう思える、晴れやかな空だった。 * * *
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