Chapter.5

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Chapter.5

 偶然の出会いから数週間、チヤが宿と遭遇することはなかった。チヤも締切前で頻繁に【月に雁】へ行くことが出来なかったし、すれ違いが生じていたかもしれない。来店していたかどうかを雁ヶ谷に聞くわけにもいかず、結局あの遭遇はただ一度の幸運だったのかも、と思うようになった。あれはコツコツ頑張っている自分へ降り注いだ僥倖(ぎょうこう)だったのだ、と。  そんなある日の朝。いつものようにパソコンを立ち上げメールを確認していると、ポートフォリオを預けている出版社の担当編集者からアポ取りの連絡が来ていた。  明日の昼頃、打ち合わせをしたいから来社できないか、という打診だ。  出版社(そこ)で出している雑誌のコーナー用にイラストを数点、という依頼なのだが、わざわざ出向くよう言われるのは珍しい。  カットの依頼なら電話やメールでの連絡が主で、あまり呼び出されることはないのに。と考えつつメールを最後まで読むと、文末に『そのほかに今後のお仕事のことについて、直接お話ししたいことがあります。』云々と書かれていた。ちょうど先の予定も空いていたので、了承の返信をした。  翌日、約束の5分前に出版社の受付へ到着すると、担当編集は打ち合わせの最中だと謝罪され、 「こちらで少々お待ちください」  受付の女性から会議室のカードキーとネックホルダー付きの入館証を渡された。ロビーの待合所で待機するのが通常だが、担当からの指示があったらしい。 「ありがとうございます」  首にホルダーをかけつつ指定された会議室へ向かう途中で、使う予定より一つ奥側の会議室からチヤの担当編集者が出てきた。会議室の中に向かって何やら話しかけている。 「……で、ちょうどこのあと打ち合わせが――あっ! ナイスタイミング~!」  キャア~! と言いながら両手のひらを胸の前でフルフル振ってチヤに駆け寄ってくる小柄な男性編集者が、この出版社でのチヤの担当、尾関(オゼキ)近正(チカマサ)だ。 「お疲れ様です~」  同じように両手を振って、尾関を迎える。 「通常(いつも)のお仕事とは別に、新しいお仕事をね~? お願いしたくって~」 「ありがとうございます、お話伺いたいです」  チヤと同じような背丈の尾関に阻まれていまいち見えていないが、その後方、会議室のドア付近に誰かが立っている。少し首をかしげてその姿を見て、顔に出そうになった表情を慌てて閉じ込めた。 「あっ、ごめんなさい立ち話で! チヤちゃんカードキー持ってるよね? 入って入って!」  尾関がチヤを促し会議室へ案内する。 「新成先生もどうぞ~!」  尾関が後方に立つ人物へ声をかける。キャッキャとはしゃいでいる尾関の声にかき消されてしまったが、確かに宿の口はこう動いた。  ――やっぱり……。  なにに対しての予想が当たったのか、チヤには見当もつかない。  思い当たるのは【月に雁】で近くの席に座ったとき、なにか印象に残るようなことをしたのかも、ということだが、だとしても“やっぱり”という副詞が付くに行きつかない。 (勘違いだったらいやだし、こっちからは言わないでおこう……)  諸々を仕事モードに切り替えて打ち合わせに入る。尾関の他己紹介のあと、 「新成です」 「シガラキと申します」  お互いに名刺を交換して、向かい合わせに座る。 「ウチの会社でね~? 今度ご本を出して頂くことになったの~」  尾関の勤める会社は岳元(たけもと)出版という、雑誌や小説、漫画など多岐にわたって本を発行している出版社で、これまでに宿の小説が刊行されていなかったから、正直チヤの目標的にはノーマークだった。とは口が裂けても言えない。 「そうなんですね」  努めて冷静に、社会人として、取引相手として穏やかに対応する。 「でね? チヤちゃんにイラストをお願いしたくて」 「はい」 (うそでしょ、もう夢かなっちゃうの?)  突然の幸運に喜びたい気持ちを抑えて、必死で営業中の対応をする。 (表紙絵とかかな~。それでも光栄だな~!)  宿の小説に挿絵が入ったことがないのを知っているチヤの考えを、 「小説の内容に合った挿絵をね? 何点か描いていただきたいんだけど」  尾関が打ち破った。 (えっ)  一瞬思考回路が止まる。驚きが顔に出ていたのか、 「あっ、いきなり言われてもビックリしちゃうよね」  尾関が慌てて言葉を続ける。しかし、チヤの表情を違った意味合いで捉えたようだ。 「ポートフォリオをね? 預かってるじゃない?」 「はい」 「あれをご覧になられてね? チヤちゃんに是非って」 「わぁ…! 嬉しいです」  声に感情や色が混じっていて棒読みにこそなっていないものの、色々な感情が入り乱れすぎてどう表現して良いかがわからない。それでも自然にニヤけてしまう口元を隠そうと、驚きを表現するように顔の下半分を手で覆う。 (あーでもちょっと、リアルに泣きそう)  チヤの心の中に棲む小さなチヤが(頑張ってよかったー!)と万歳三唱をしている。 「僕にとっては初めてのターゲット層なので、イラストで少しでも物語に入りやすくなってほしくて……」  宿が慣れない面持ちで笑顔を見せる。人見知りの子供が親の後ろから顔を出すような、少しの気まずさも見え隠れする。 「お役に立てるかわかりませんが、尽力いたします」 「よろしくお願いします」 「イラストの指定ができたらまた改めてご連絡するので、実際に描いてもらうのはもう少し先のお話になるんだけど、スケジュール大丈夫ですか?」  即答で快諾したいくらいだが、さすがにそれは無責任に見えてしまいそうで、傍らに開いたノートでスケジュールを確認する。定期的な仕事や不定期のものも含め、余裕なわけではないけれど…… 「はい、大丈夫です」 ここで断るなんて、いままでの努力が水の泡になってしまう。というか、意味が分からない。 「今回、新成さんに書いていただくのはヤングアダルト向けのライトノベルで、シガラキさんには登場人物とそのシーンに合ったイラストを描いていただく形になります」 「はい」 「キャラクターデザインは新成さんとシガラキさんとで打ち合わせというか、すり合わせしていただく必要があるかと思いますので、ご連絡いただければ当社の会議室などはご用意いたします」 「「はい」」  チヤと宿の返答が重なる。  宿の小説は全て読了しているチヤでも、その作品に挿絵が入っているを見たことはない。単行本の表紙や連載中の雑誌で使われる写真、イラストも抽象的だったり風景画が多く、人物が中心のチヤの作風とは少し違っていた。話の感じではキャラクターの描写もあるようだから、新成宿の新たな面を開拓、というところだろうか。  そんな大役を仰せつかって良いのだろうかという不安と、これが成功したらきっと自分にとっても大きな経験値になるという期待と、新成先生とお仕事とかマジサイコウ!! というオタク心が共存し、気を抜くと次の瞬間どの自分が表に出てくるかがわからない。 (オタク面だけは出さないようにしないと……!)  と気に掛けつつ、慎重に会話を進めていく。努めて仕事として、極力過剰な感情を出さないようにしつつメモを取りながら尾関の話を聞いているチヤに 「どうしたの? 今日元気ないね?」  尾関が心配そうに声をかけた。 「あっ、いえ。ちょっと予想外だったもので、頭が着いていってないというか……すみません」 「そうだよね。突然な話でごめんね? 本当ならお呼び立てする前に意向を伺うんだけど、タイミングよかったからすぐに、と思って」 「タイミング、ですか」 「うん。ついさっき決めていただいたの」 「スミマセン、僕が決めるの遅かったので急な話になってしまって……」 「いえ、全然! とんでもないことです」  チヤは慌てて首を横に振る。 「チヤちゃんも多分、こういうお仕事初めてだよね? だから、顔合わせも兼ねてと思って…」 「スミマセン、この先すぐにスケジュールが取れなくて……」 「いえ、本当にお気になさらないでください。お声をかけていただいてとても嬉しいです」  宿と尾関、両方に顔を向けてチヤが恐縮する。  正直、会うのがわかっていたらもう少し身なりに気合を入れて挑んだのにと思うが、あくまで仕事の話なので気にしないことにする。むしろ知っていたら来る前に緊張で体調を崩していたかもしれない。  とにもかくにも、神様仏様尾関様と拝みたい気分である。  脳内で実際に拝んでいると、どこからか荘厳なオーケストラの調べが聞こえてきた。  とうとう召されたかな? と思ったが 「あッ、やだ、ごめんなさい」  尾関が自分のスマホを手に取った。お迎えの合図かと思ったオーケストラの音色は尾関の着信音だった。  受信を切ろうとする尾関に、チヤと宿が「「どうぞ」」と声を揃え、通話を促した。 「ごめんなさい」  申し訳なさそうに尾関が言って、席を立ち退室する。  尾関を見送り何か話題を……と考えつつ手元のスケジュール帳を開くと、 「あのー……」  宿が口を開いた。
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