第一話 禁断の王子(1)

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第一話 禁断の王子(1)

 うららかな午後の陽射しが照り付ける中、メネスは、一人、静かな郊外の自宅で、小さな庭に道具を広げて小さな葦の舟を編んでいた。年の頃はちょうど、青年と少年の間くらい。この、こぢんまりとした家の主だ。  傍らには相棒というべき同居人の狒々が、葦を結ぶ縄を固定したり、切り落とした余分な端をかき集めたりして、せっせと手伝っている。何も声を掛けなくても勝手に仕事をするさまは、まるで人間のようだ。  ここに住んでいるのは、彼と狒々だけだ。嫌でも目を引く容姿のせいで、出歩いているだけでまじまじと見つめられたり、何やら噂されたりするのが面倒で、何年か前にここに移り住んで来た。  というのも、メネスの髪は、もみあげの僅かな部分と襟足のあたりを除いて、ほとんど全てが白いのだ。それも僅かに銀色がかった、どこか透き通るような色をしている。生来のものではない。幼い頃に高熱を出して寝込んだ時以来、ずっとそのままなのだ。今となってはもう、一生そのままだろうと彼は諦めている。  一人で暮らすのも悪いものではない。街から少し離れているお陰で静かだし、滅多に人が訪ねてくることもない。  ――そう、滅多に。  「おーい王子、いる~?」  「……。」 遠慮のない呼びかけとともに、生垣の向こうから少女が、ひょっこり顔を出した。そう、例外は、彼女くらいだ。  「あっ、いたいた。お邪魔するね~」 言った時にはもう、庭に通じる裏口を勝手に開けて入り込んでいる。  彼女はタシェリト、幼馴染で、いわゆる「乳兄弟」だ。メネスにとっては妹のような存在でもある。…と言っても、「実の妹」のほうも多数いるのだが。  「はいこれ、母さんからのおすそ分け。」 そう言って、彼女は手にした籠を差し出した。中にはもぎたての、丸いイチジクが山のように入っている。  「! き、キーッ」 それまで仕事を黙々と手伝っていた狒々が、手を叩いて大喜びで大好物のイチジクに突進していく。  「あ、こらヘジュ。…あーあ、もう少しで舟が完成するところだったのに。」 メネスは、軽く少女のほうを睨んだ。  狒々は両手にイチジクをとり、夢中でかぶりつきはじめた。こうなったら、食べ終わるまで意地でも手を放さないだろう。  「いいじゃん、王子も休憩すれば? どーせ朝からずっとやってたんでしょ、それ。大きさからして、ヘジュを乗せるつもりだったんでしょ。だったら、本人の好きにさせればいいのよ」 作りかけの葦舟を見下ろしながらタシェリトは言い、笑いながら遠慮なく台所のほうへ入っていく。  「じゃ、また後でね~」  「…はあ。これも、仕事のうちなんだけどなぁ…。」 溜息をつきながら葦を切っていた小刀を鞘に納め、彼も、イチジクをひとつ取り上げた。かじりつくと、みずみずしい甘い汁が口の中いっぱいに広がっていく。初夏の味、だ。  それとともに、涼しい風が、庭の木々の間を通り抜けていく。  家のすぐ裏手は河になっていて、庭からは、川べりにそよぐ葦と対岸の崖が良く見えた。この国で唯一の川にして、あらゆる生命の担い手である堂々たる大河。とはいえ、季節によって水かさの大きく変わるその川は、今はそれほど水量も多くない季節で、対岸までの距離はそう遠くもない。  この「変わり者の家」に臆することなく踏み込んで来られるのは、二日か三日に一度、街からやって来る家事手伝いのタシェリトくらいだ。そして、彼が「王子」と呼ばれるのにも理由がある。  ――この「黒の国」には今、「太陽王」と呼ばれる偉大な王が在位している。その、五十人目の王子なのだ。  つまりメネスは、一応は王族の、末席の末席に連なっているのだった。  王には今、およそ百人の子供がいる。王子が約五十人、王女が約五十人。正確なところが分からないのは、亡くなる者がいれば、いまだ新たに生まれてくる者もいて、毎年のように数が変わるからだ。  王がそれほど多くの子を為すに行ったのは、百年ほど前の王のせいだった。  この黒い土の国(ケメト)は古来より、数多の神々の加護を受けて栄えて来た。王は人間の世界と神々の世界を繋ぐものであり、人間世界の代表として、神々との間をとりなす役目を担うというのが神代いらいの約束事だ。  王の子供たち、つまり王家の子息たちもまた、血筋によってその力を受け継ぎ、父王の仕事を補佐してきた。  けれど百年ほど前、アクエンアテン――王名は「ネフェルケペルウラー・ワァエンラー」――という名の王が突如、その秩序を書き換えようと試みた。自らの信奉する異界の神のために、この国の全てを捧げようとしたのだ。  結果、古来よりの神々は力を奪われ、多くが人間の世界に力を及ぼすことが出来なくなった。  アクエンアテンが玉座にあった約二十年の間、世界の秩序は乱れ続けた。  そして彼が玉座を去り、その子孫の血統も途切れた後に即位した新たな王たちには、失われた人間と神々の絆を再び結び合わせ、二つの世界の秩序を元に戻すことが必要とされたのだ。  けれど、どれほど強力な力を持っていても、王ひとりでは到底、手が回らなかった。何しろこの国を支えていた神々は、大小あわせても何百柱もいた。それらの神々と人間世界の繋がりを蘇らせ、乱された人間世界の秩序を元に戻さねばならない。  そこで王は願ったのだ。豊穣の神――生命の誕生と生殖を司る神々に、己の子孫繁栄を。  王族の数が増えれば、それだけ王の仕事を代行できる者が増えるのだから。  かくて王の願いは叶えられ、数多の妻たちとの間に、数多の子宝が誕生した。  ――もっとも、子供たちが受け継いだ力のほどや性質は、それぞれ大きく違っていたのだけれど。  隣から聞こえてくる果実をすする音は、いつまでも終わらない。  仕事を中断して川べりを眺めていたメネスは、ちらりと狒々の方を見やって溜息をついた。あれほど沢山あったイチジクは、いつの間にか半分ほどに減っている。代わりに、足元には、たべかすの種が山のように散らばっていた。  「まったく、知恵の神の眷属が聞いて呆れる食い意地だな。なぁヘジュ、そんなに食べてるとまた腹を壊すよ」 声をかけると、狒々は咀嚼しながら顔を上げ、悪びれもせずに答える。  「食えるのは身体があるうちの特権だ。お前も食っとけ、相棒。生きとるうちに食う楽しみを満喫しとかんと勿体ないぞ?」 普通の人間が聞けばただのキイキイ声だが、メネスには、人間の言葉として聞こえている。声は太い中年男性、といったところだ。どこか信用ならない軽薄な響きさえ持っている。  「暴飲暴食は自制心の欠如だ。判ってるのか? あの舟が仕上がられないと、次の仕事に出られないんだぞ」  「あと少しだろ? 今日中には仕上がるさ。こいつを、むぐむぐ。食べたら、やる、から」  「…はああ。」 神や神の眷属と会話できることは、王族の血を引くがゆえの能力の一つだ。神々の世界と人間の世界を繋ぐ役割を果たす上で必須とも言える。  とはいえ、高位の神々が人間世界に直接、干渉してくることは滅多に無い。送り込まれるのはヘジュのような、眷属に連なる下位の神々だ。「一応」神ではあるのだが、低俗さが抜けないのはそのせいもある。  「まぁ、心配しなさんな。そう頻繁に依頼が来るわけが――」 ヘジュが陽気に言いかけた時、木に吊るした木片がカラカラと音を立てた。木片の先には縄が玄関のほうまで繋がっている。入り口の、扉の脇にある呼び出し用のひもを引っ張ると鳴る仕組みだ。  来客だろうか。  腰を上げるのと同時に、家の中からタシェリトが顔を出してメネスを呼んだ。  「王子に用事だってー」  「判った。行くよ」 足元を、狒々が食べかけのイチジクを手にしたままついて来る。  玄関に出てみると、村人が二人、おずおずとした様子で立っていた。親子だろうか、雰囲気はよく似ている。若い男の方は、メネスの容姿を見て明らかに怯えたような顔になっている。もう一人の年配の男のほうが、勇気を振り絞って震える声で言った。  「あの…殿下、実は、折り入ってお願いがありまして」  「そんなに畏まらなくていい。何か問題が起きたのか?」  「はい、その…うちのせがれの奴が、ちょいと興味本位で『禁断の都』に出向いて。いや、皆も止めたんですよ。けど一度見てみたいと…で、戻っては来たんですが、それっきり、目を覚まさなくなっちまったんで。」  「…禁足地になっている、アケトアテンの王都へ行ったのか。」 メネスが微かに眉を上げるのを見て、村人たちは怯えた様子になる。  百年前、アクエンアテンが異界の神のために築いた都は、今では呪われた地として立ち入ることを禁じられている。けれど見張りがいるわけでもないから、近隣の若者たちが度胸試しや興味本位からこっそり訪れることもあり、何がしかの問題が起きることもあるのだ。  そして、そうした「公に出来ない問題」に対処するのが、メネスの仕事でもあった。  「判った、すぐに様子を見に行こう」 メネスが言うと、村人たちは心底、ほっとしたような顔になる。  「準備をするから、少し待っていてくれ」 家の中に引き返すと、彼は、台所にいるタシェリトに声をかけた。  「近くの村まで出かけてくる。夕方には戻るよ」  「はーい、行ってらっしゃい。それまでにお掃除しとくねー」  「よろしく。」 二階の自室に上がった彼は、壁にかけてあった薄手の頭からすっぽりと被れる上着を取り、肩掛け鞄に仕事の道具を詰め込んだ。  出かける時はいつも持っていく筆記具に祈祷用の呪文が書かれた巻物、香炉に薬草。それから――生命の印を象った護符。  「こんな時に仕事が来ちまうとはなぁ。」 メネスの肩に腕を回して背中におぶさりながら、ヘジュが言う。  「しかも『禁断の都』へ行った、だって? こいつは、一筋縄じゃいかなさそうだぞ」  「だから言っただろ。早く仕上げておけば良かったんだ」 狒々を軽く睨みながら、メネスは上着の覆いで髪を隠した。  「それより、急いだほうが良さそうだ。夕方までに戻って来られたほうがいい」  支度を整えて玄関に戻ると、そわそわしながら待っていた村人たちは、先を急ぐように無言に歩き出す。後ろめたいのもあるだろうが、その切羽詰まった様子からして、ことは一刻を争うようだった。  「歩きながらでいい、もう少し詳しく聞かせてくれ。その、目を覚まさない男が『禁断の都』へ行ったのは、いつなんだ?」 僅かな間があった。  「…四日ほど前で。」  「そんなに前? 神官か医者に相談は?」  「村の祈祷師にはお祓いを依頼しましたよ! けど、とても祓えない強力な呪いだと言われて。高位神官か、王族でも無きゃ無理だと…そ、それで…。」  (それで、声のかけやすい私のところに来たわけだ) よくあることだった。  郊外に一人で住んでいる「変わり者」の王子のことは、この近隣の住人なら誰でも知っている。それに、同じような相談を受けて悪霊払いをしたことは、過去に何度もある。  とはいえ、容姿や不吉な噂から彼を気味悪がっている者は少なくなかったし、積極的に相談を受けることは無い。彼を頼ってくるのは、本当に本当の、「最後の手段」なのだった。  「その人は、一人で行ったのか?」  「い、いえ…。三人で、この次男も一緒でした。ただ、呪いを受けたのは倅だけです。」 ということは、やはり、この二人は親子なのだ。  メネスは、ちらりと息子の方に視線をやる。  「君たちは、どのくらい都に滞在した? 何を見たか教えてくれ」  「え、ええと…。月が出てから、沈むあたりまで。王宮跡があったんで、中に入ってみたんだ…」  (ほとんど一晩か) 月齢を計算して、メネスは瞬時に時間を計算した。  「それで?」  「何も無かったけど、壁の模様なんかが綺麗で、みんな別々に歩き回ってた。おれは何となく薄気味悪かったから先に舟のところに戻って待ってたんだ。そのあと、友達のアイが果樹園を見つけたと言って花を持って戻ってきて、…兄貴は最後に、青い顔してふらふらしながら戻って来た。何があったのかよく覚えてない、幽霊を見たかも、って言ってさ。で、その日は戻って、そのまま寝たんだ。…」 話しながら、若者の声はだんだん、小さくなっていく。  「…そのまま、兄貴は目を覚まさなくなっちまった。ずっと、うなされてて…このまま、死んじまうんじゃないかって…。」  「まだ望みはある。急ごう」 三人は歩調を早め、畑を通り過ぎ、小道をどんどん進んでいく。  やがて行く手に小さな村が見えて来た。数十件ばかりの家々が軒先を連ねて、川岸から奥まったところに集まっている。先頭をゆく男は、村の手前の道を曲がり、すぐそこにある小さなあばら家の入り口で立ち止まった。  「こちらです」 家の中からは、母親らしい女性のすすり泣く声が聞こえてくる。  メネスが中に入っていくと、泣き声がぴたりと止まり、寝台の側で顔を覆ってうずくまっていた女性が慌てて立ち上がった。  「殿下を連れて来た。お前は退いてろ」 夫に言われて、母親は慌てて奥の部屋へ退いていく。  寝台の上には、今にも死んでしまいそうに青白くやせ細った若い男が一人、力無く横たわっている。目は落ちくぼみ、呼吸は浅い。枕元には、少しでも栄養を与えようとしたのか、水に溶いたはちみつを入れた椀が置かれている。  肩掛けかばんを外しながら、メネスは、男の側にしゃがみこんだ。狒々のヘジュがぴょんと飛び降り、寝台の端によじ登る。  「こいつぁ、ただの抜け殻だぜ相棒。魂のほうはどっか行っちまってる。よっぽどタチの悪い奴に捕まったな」  「ああ。多分、眠った時に魂が離れて、そのまま囚われたんだ。もう四日…戻れるかどうかは、五分だな」 ほとんど脈の無い腕を取り上げると、腕の内側に、村の祈祷師が施したのだろう、真新しい焼き印の跡が残されていた。  魔除けの印だ。  健康な時に低級な悪霊に出くわせば多少の効果はあるだろうが、今のこの状況では文字通り、焼石に水にしかならない。  「火種を貸してもらえますか」 言いながら、メネスは香炉を取り出して、何種類かの薬草を揉みほぐしながら中に詰め込んだ。次男が台所のほうに走っていく。  「この人の名前は?」  「イ…イブラーです」 父親が答える。メネスは筆記具を取り出して、手にした巻物の端にその名前を描き込んだ。そして、戻って来た次男から受け取った火種を香炉に入れながら、名前を記した紙をその上に置く。  「窓と扉を閉めてほしい。それから、少し離れていてくれ。声を上げないよう、自分の口を押えておいたほうがいい」 夜のように真っ暗になった部屋の中で、メネスは、イブラーの心臓に手を置いて口の中で小さく、冥界の神々の加護を願う祈祷の呪文を唱えた。それから、弱い心臓の鼓動に合わせるように、「冥界の書」の一節を丁寧に、一言ずつ暗誦していく。  銅製の香炉の中から、ぱちぱちと、小さな音が響いてくる。それとともに、不思議な香りが部屋の中に広がっていく。  「――イブラー、聞こえるか? もうとっくに日は昇っている。戻ってこい」 最初は、何の反応もなかった。  だが、同じ問いかけを三度、繰り返すと、突然、男の喉のあたりで、ごぼっ、と音が鳴った。  「だ、め…だ…」 掠れた声。  「! 兄き、…」 思わず声を上げて駆け寄ろうとした次男を、慌てて男が両手で抑える。心配で奥の部屋から覗いている母親のほうも、口元を押さえて震えていた。  「戻れないのか? 今、何所に居る」 構わず、メネスは問いかけを続ける。  「どこだか分からない…いや、王宮の中だ…多分。この部屋の模様は…見覚えがあるから…」  「『禁断の都』だな? 王宮のどのあたりだ?」  「奥の…花の香りがして…美しい…姫様…が…」 声が尻すぼみに消えていく。それを最後に、大きく胸元が膨らんだかと思うと、がくり、と首が落ちた。  ああ、とヘジュが声を上げた。  「駄目だな、魂との繋がりが切れた」  「肉体のほうも限界だ。やっぱり、直接迎えに行くしかない、か…。」 溜息とともに、メネスは香炉の蓋を閉じ、空気を絶った。煙が薄れていく。固唾を飲んで見守っていた家族たちが、おそるおそる、声をかけた。  「あの…どう、なんですか」  「ここからじゃ何も出来ない。彼の魂は『禁断の都』の王宮のどこかに囚われている。直接、迎えに行ってくるよ」 荷物を手早く鞄に仕舞いながら、彼は立ち上がる。  「夜明けまでに彼が戻らなかったら、私がしくじったと思ってくれ。それまでは、彼の側についていて欲しい。いいね」  「え? え…はい…」  「行くぞ、ヘジュ」 半分も理解出来ないことを言い残して足早に立ち去っていくメネスを、村人たちは、ただ不安げに見送っていた。
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