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第九話 降臨(1)
「キィーッ!」
生垣の外のほうから甲高い狒々の悲鳴と貴婦人の怒鳴り声が聞こえて来て、巻物を広げていたメネスは顔を上げる。
庭を覗くと、庭で薬草の手入れをしていた母キヤも、何事かと生垣のほうへ歩いていくところだった。
「ああ、また! もう、どうしてお前はこう、ぐずなの!」
怒鳴り声を上げているのは、高位の王妃の一人だった。裕福な貴族の家柄の出で、変わった鳥や珍しい猿などを輸入しては、愛玩動物として飼うのが好きな人だった。
昨日は確か、獅子の子供を連れまわしていたと思ったが、今日は、若い狒々の首に輪をつけて、その先に紐を繋いで歩かせている。何かをしでかしたらしい若い狒々は、扇で強く叩かれた頭を抱えて、キイキイ声で悲鳴を上げている。
「煩い! 黙らないと、もっとぶつわよ!」
そう言われても、動物が静かになるはずもない。
逃げようとぐいぐい紐を引くせいで首は締まり、首輪のあたりの皮膚は赤く擦り剝けている。
「まあ、妃殿下。その狒々は怪我をしています。それで痛がっているんですよ。」
見かねたキヤが外へ出て、声をかける。
「人間のものしかありませんが、薬を塗って差し上げましょう。それで鳴きやむと思います」
「そう? なら、そうして頂戴」
ふんと鼻を鳴らし、貴婦人は見下したような視線をちらとキヤに向けてから、扇を振って踵を返した。
「わたくしはもう行くわ。あとで届けさせて」
薬師を兼ねた庶民出の王妃など、たとえ優秀と評判の王子を産んだところでその扱いなのだ。睨まれるのが怖くて隠れていたメネスも、王妃とお付きたちが去って行ってから、ようやく顔を出した。
「大丈夫よ、もう怖くないからね」
キヤはまるで子供でもあやすように、頭を抱えてキイキイ声を上げる狒々を優しく抱き上げ、庭へ連れてくる。
「珍しい色の毛だね。黒っていうより…黒銀? きらきらして見える」
「そうね。それで捕まえられて連れて来られたんでしょうね。はい、これ食べる?」
庭でとれたイチジクの実を差し出しても、潤んだ黒い目で見つめるだけで、手を出そうともしない。欲しがって、叱られるのを恐れているのだ。体の毛は抜けかけて、ところどころ、傷に血がにじんでいるのが見える。
「ずいぶんひどくやられたんだな、お前。」
「傷薬を塗ってあげましょう。少し染みるけど、我慢しててね。
「キッ…」
「よしよし」
傷薬を塗り終わると、狒々の震えは、ようやく少しだけ収まった。けれど縄を外してやっても、怯えるばかりで庭の木にぴたりとしがみついたまま、そこから動こうとしない。
「このまま返すのは可哀そうだよ、母さん。」
「そうね。傷が化膿してるからと言っておけば、しばらくうちで預かれるかもね。ずっとは、無理だけれど…。」
「そのほうがいいと思う。あの人、きっとすぐに新しい動物を持ってきて、古いほうは飽きてしまうよ。」
いつものことだった。
大きくなり過ぎた獅子を神殿に売ってしまったり、飽きてしまった水鳥を飾りにしたり。お気に入りの上着を引っ掻いた縞のある猫などは、酷い折檻を受けて死んでしまったという。
それでも、彼女には何人もの子供たちがいて、今、王宮にいる王妃たちの中では一、二を争う高貴な身分にある。咎めだて出来る者など、王その人くらいしかいないのだ。
「あ、いけない。もうこんな時間か…」
庭の端の水時計の目盛りに気づいたメネスは、慌てて、鞄に巻物と筆記具を詰め込む。
「学校の時間ね。行ってらっしゃい」
「行ってきます。」
その頃メネスはまだ、王宮の端にある書記学校で読み書きを習っていた。そこは王家の師弟だけでなく、神官見習いもいる場で、隣の大神殿からは乳兄弟のカエムワセトも通って来ていた。
既に乳母の元は離れていたが、学校では毎日のように顔を合わせていた。そして、学校が終わったあとは決まって一緒に大神殿へ寄り、もう一人の乳兄弟であるタシェリトとも顔を合わせ、話をするのが日課のようになっていた。
その頃は、大神殿のどこへでも自由に出入りが出来た。
カエムワセトが一緒だったのもあるが、大神官が寛容だったのだ。だから書庫に入り浸っていても誰も何も言わなかったし、メネスは様々な書物を読みふけって楽しんでいた。
逆に、勉強など嫌いで、最低限しか書物を読みたがらなかったカエムワセトは、何かにつけて書庫に彼を構いにやって来ていた。
「なーあー、ラメセス。遊びにいこうぜ?」
まだ、自分の名前に特に引け目を感じていなかった頃だったから、乳兄弟や親しい間柄の人たちは、自然にその名前を口にしていた。
「んー、もうちょっと…って、くっつくなよ、暑いだろ」
「だったら遊びにいこうぜー? 釣りがしたいんだよ。付き合えよ」
「そんなの、一人で行けばいいだろ…」
「つまんないだろ、釣りしながら話す相手いないと」
「釣りに集中してればいいじゃないか。なんでわざわざ、釣りしながら話を…」
「それが楽しいんだって。判ってないなーお前はー」
一度、ぴったりくっついたカエムワセトは離れることがない。溜息をつきつつ、メネスは巻物を元の棚に戻して立ち上がった。
大神殿の参道のすぐ外側には、船着き場になっている水路がある。釣り糸を垂れるのは、決まってそこだった。神殿の船着き場なら、近所の人たちと競合することもなく、魚を釣り放題だったからだ。
「最近またなんか熱心に読んでるけど、今は何にハマってるんだ? 前は、神話とか調べてただろ」
「…歴史、かな…。百年前のことが少し、気になってる」
「百年前?」
羽毛で作った疑似餌を括った釣り糸を垂れながら、カエムワセトは、不思議そうな顔で振り返る。
「それって、もしかして、こないだ授業で先生の言ってた、異端の王…とかって話?」
「そう。名前を読んだり、書いたりしてはいけない王だって言われて、でも調べてみたら案外あっさり名前は判ったよ。さすがに大っぴらに口にはしないけどさ。忘れられし名前。記録から抹消された王。どういうことをして、そんな扱いになったのか気になるだろ」
「あー、そういや先生も、詳しいことは言ってなかったなぁ…。って、おっと」
ぱしゃん、と魚がはねる。
「あちゃー、話してたらやられたー」
「ほら。だから釣りに集中したほうがいいって言ったのに…」
「いーんだよ、黙々と釣ってたって虚しいだけだろ? お前のほうも来てるぞ、ほら」
釣り糸を引くと、小さな魚がぴちぴちとはねながら水の中から姿を現した。
「小さすぎるな、これは」
針から外して水の中に放り投げる。二人とも、もう一度、針を水の中へ投げ入れる。
「――で? その王様、悪い奴だったのか」
「うーん…それは、まだ良く分からない」
「よっぽど悪い奴だったから、名前を消されたりしたんだ、そうに決まってる」
「失敗したのは間違いない。でも、多分、最初は民を救いたかった…んだと思う。考えて、考え抜いて、新しいことを思いついて、それが正しいと信じて突っ走っていったんだけど、その先にあったのは大失敗だった。って感じかな」
書き残された書物がどれだけ正しいことを言っているのか、その時のメネスには確信が持てていなかった。
唯一の神だけを信じ、他の多くの神々の神殿を封鎖したり、姿を消させたりしたのは間違いない。それによって、すがるべき神を失くした人々が絶望感を味わったことや、新しい都を作るために多くの若者たちが労働力として駆り出されたこと、高い税を徴収されたことなども。
けれどその記録は、一方的な内容でもあった。
(その王自身が書き残したものも、王の側近たちの意見も残ってはいなかった…。)
餌に反応があった。糸を引っ張ると、今度はそれなりの大きさのある魚が引き上げられてくる。
「おっ、やるな? よーし、こっちも…おっ、来た! 大物だ!」
カエムワセトは隣で、糸をぐいぐい引っ張る何かと格闘している。その間、メネスはぼんやりと、書庫で探していた書物について考え込んでいた。
百年前の記録自体は、ある。
けれど、知りたいことが書かれていない。
「――なあ、カエムワセト」
「ん? 何だ?」
「禁断の神って、どんな神だったんだろうな」
「へ? …って、うわああっ」
糸が音をたて、ぶっつり切れてしまう。
「ああーっ、嘘だろー? 大物だったのに…」
「さすがに大きすぎじゃないのか。どうせ亀かワニの子供だよ。釣ったところで食べられなかったさ。」
「お前どうしてそう、いつも諦めがいいんだよー」
「逃した魚は大きい、ってさ。よく言うだろ? 実際は、手に入れた中くらいの魚のほうがいいものなのさ。」
釣果の入った桶を手に、メネスは腰を浮かせた。
「そろそろ帰ろう。」
「ちぇっ。今日は全然だったなぁ…」
並んで歩く、親し気な少年たちを見て、気に留めて振り返る者は誰もいない。
王の五十番目の王子と、大神官の末子。
二人はまだ、それ以外の何者でもなく、他の多くの少年たちと何も変ったところはなく、特に価値や意味のある存在でも無かったのだ。
「ただいまー」
家に戻ると、キヤは丁度、家の離れにある小さな台所で夕食を作っている最中だった。高位の王妃たちなら召使に食事を作らせるものだが、ここでは、自分で全ての家事を賄わねばならない。大変そうな時はメネスも少し手伝っていたけれど、キヤは、ほとんど自分で家事をこなしていた。
「お土産の魚。カエムワセトがどうしても釣りに行きたいっていうから、少し付き合って来た」
「あら、そお。相変わらず仲いいのね」
キヤは、嬉しそうににこにこしている。
「腐れ縁だけどね」
ちらと庭のほうを見ると、出かけた時のまま、狒々は木の下に座り込んでいる。目の前の籠に積まれたイチジクは、一つも減っていない。
「あいつ、あれからずっとあのまま?」
「そうね。ご主人様に捨てられたと思ってしょんぼりしてるのかも。預かってるだけよ、って言っても、あの子に言葉は判らないものね。――あ、これからちょっと離宮のほうへ出かけてくるから、食事が済んだら戸締りして寝ててね。」
「また仕事? 大変だね」
「薬を届けに行くだけだから、すぐ戻れるわよ。どうしても今日中に欲しいんですって」
思えば彼女は、王妃としてよりも、薬師として王宮に求められていたのだった。女性薬師ならば、後宮にも離宮にも問題なく入ってゆける。忙しく働く母とは、ほとんど逢えない日も多かった。
その間、メネスは、学校の課題や、大神殿で借りてきた書物を読んで一人で過ごしていた。
父である王と逢うことも、ひと月に一度くらい。けれど百人もいる子供たちの一人ずつに面会する時間は、それほど長くはない。せいぜいが顔を見て、一言、二言、言葉を交わすだけ。
それでも、不満に思ったことはない。忘れられていないという、それだけで十分だとメネスは思っていた。
食事のあと、いつものようにランプを灯して書物を広げていると、窓から、おそるおそる狒々が覗き込んだ。
「ん? どうした。気になるのか? ここへおいで」
呼ぶと、窓枠に狒々が飛び乗った。腹の辺りの毛が明かりに銀色に輝くのを見て、ふと、彼は思いつく。
「銀色――ヘジュ、だな。呼び名が無いのも困るし、お前のことは、ヘジュと呼ぼう」
「キッ…?」
「知ってるか? 知恵の神様は、朱鷺の姿のことのほうが多いけど、狒々の姿をとることもあるんだぞ。知恵ある獣、”大いなる銀のもの”。ずっと昔、太陽の娘がはるか南へと逃げた時、狒々の神は追いかけて、娘を連れ戻そうとした…。」
理解などしていないはずなのに、首を傾げたり、瞬きしたり、反応してくれる狒々と話していると、何故だか、人間を相手にしているような気分になってくる。
「お前、傷が治ってもここにいられるといいのにな」
「キキッ」
「でも、あの人のことだから、そう簡単には手放してくれないんだろうけど…」
差し出したイチジクを食べてくれるようになるまで、二日ほどかかった。傷が治り、綺麗に毛が生えそろうまで、一週間ほど。
その間メネスは、夜ごと、狒々に巻物を読んで聞かせたり、自分の考えを話しかけたりして過ごした。
「…というわけで、その、『禁断の神』っていうのがどういう神だったのか、誰も知らないし、どこにも書いていないんだよ。分からないのに危ないものって言われてるのが、よく判らなくて」
「キィ…」
「僕は知りたいんだ。百年前に本当は、何があったのか。禁じられた理由も。…だって、知らないまま否定するなんておかしいと思うから」
寝台に寄りかかりながら、彼は、天井を見上げていた。
「全て知って、それから判断するのが正しい手続きだ。知って、…それで…。」
眠りが忍び寄って来る。落ちてくる瞼には抗えず、巻物を胸に乗せたまま、メネスはいつしか眠りに落ちていた。
月明かりが窓枠を照らしだし、誰もいない庭に、微かな白い光が踊る。
「! キ、キッ」
声を上げかけた狒々は、窓枠から落ちかけてしがみついたまま、しっぽの先から舌まで硬直してしまった。
震えている狒々は、ただ見ていることしか出来なかった。――月から降りてきた一枚の白い羽毛が、メネスの枕元に落ちて光の粒となって消えるのを。
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