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第一話 禁断の王子(2)
何やら大急ぎで戻って来たメネスを出迎えたタシェリトは、首をかしげていた。
「あれ? もう終わったの? 結局何だったの」
「ちょっとね」
言いながら、庭を突っ切って作りかけの舟の前に腰を下ろす。説明している時間が無いからなのだが、傍目に見ればただの奇行だ。これで怪しまないのは、付き合いの長いタシェリトくらいだろう。
いつものことね、と笑いながら、タシェリトは、来た時と同じように裏口から帰っていく。
「夕飯にパン焼いておいたから。いつもの場所に入れておいたわ。ちゃんと食べるんだよ」
「ああ。ありがとう」
答えながら、彼はヘジュの手助けを借りて、小さな葦の舟を仕上げにかかっていた。
「よし、出来た」
「なんとか間に合ったな。今から出れば、日が暮れる頃には向こうに着ける」
向こう、というのは、『禁断の都』――ここから川を少し下った先にある、かつての王都だ。
今は廃墟と化している都、アケトアテン。
異界の神「アテン」だけに捧げられ、歴代の王たちの住んだ都からは離れた、何もない場所に作られている。
今となっては、そこを訪れるのは王の命によって送り込まれる神官か、肝試しの近所の住民か、何も知らない旅人くらい。壮麗な都の残骸は、ゆっくりと砂に埋もれつつあった。
川を下ってゆくと、その都はすぐに見つけることが出来る。川岸の村落がふいに途切れ、畑さえ見えなくなったあたりに現れるからだ。日が暮れたばかりの薄暗がりの中、無人の都は不気味そのものだ。そしていまだ、他の神々の加護は届かない、魔境のようになっている。
ここが都として機能していた頃は、他の神々を干渉させないために、都の四方には念入りに結界石が置かれていた。けれどその石も、今はひとつを除き打ち壊されるか捨てられ、残る一つは、都の背後の崖の高い場所に直接刻まれたものだけが残されている。
同じように、都の中にまだ残されている仕掛けは幾つもある。都は広大で念入りに設計され、全てを短期間に壊すことは不可能だったからだ。それこそが、かの地が「禁足地」とされた理由の一つなのだった。
そして、もう一つの理由は――。
「…うへえ。」
舟の上からアケトアテンの都を眺めやったヘジュは、珍しく、うんざりしたような声を上げた。
夜の闇の押し寄せる岸辺にはもう、数多の亡者たちの影がうろつき始めている。その数は何百か、何千か。数えるのも面倒なほどだ。
かつての、この都の住人たちの魂だろう。住人ではなくても、たまたまこの都へ来て亡くなった人々の多くは、結界の内側に囚われたまま、今もここに「生きていた時の如く」暮らしている。
アクエンアテンが王として在位していた間、人間世界と神々の世界の理はほとんどが覆され、神々の役割は停止させられていた。
「死者の魂は冥界へ赴く」という理もその一つだった。死者の名を記した「神命の書」すら更新されておらず、誰が生まれ、誰が死んだのかの記録もない。だから彷徨える魂を効率よく回収する術は無く、出くわした端から冥界へ送るという手段しかない。
「相変わらずだな、ここは…」
舵をとるメネスだけは、表情を変えない。
「普通の人間には見えないとはいえ、こんなところに興味本位で来て一晩も居られるというのは理解出来ないな」
「よっぽど鈍いんだろ。よっ、と」
舟から岸辺に飛び移ると、ヘジュは四本の足で川べりの土手を駆け上がっていく。
「さっさと終わらせようぜ、相棒! 王宮だろ? こっちだ」
「あ、ちょっと待てよ。こっちは足が二本しかないんだぞ」
念のために護符を確かめ、口の中で小さく祈祷の文言を唱えてから、メネスは舟を岸にもやいで上陸した。
亡者たちの影は仄暗く、半透明で、生前の姿はほとんど分からない。
自分が既に体を失っていることに気づかないまま、かつての日々の動作を繰り返している。声もなく叩き売りの呼び込みをする露天商。ロバもいないのにロバを曳く動作を続ける荷運び人。
――音のない薄暗がりの世界に死者たちの蠢く姿は、見ていてあまり気持ちのいいものではない。
けれど、今ではメネスもずいぶん慣れた。こちらから手を出さなければ、何もして来ないのも知っている。
それらの間をすり抜けながら、ヘジュとメネスは、真っすぐに王宮を目指した。
王宮の朽ち果てた門の先には、とうに屋根の崩れ落ちた広々とした玄関と、まだ立っている何本かの柱、いくつかの部屋が続いている。
それまで軽快に走っていたヘジュがぴたりと足を止め、ふんふんと鼻を鳴らして辺りの空気の匂いを嗅ぐ。
「ふん、匂いやがる。嫌な匂いだ」
「悪霊、…だな」
追い付いたメネスも、辺りを見回す。
「多分、女性だ。イブラーの言っていた”姫様”。…ヘジュ、花の匂いは?」
「花? ああ、そういや、あの兄ちゃんが言ってたな。どれ…ふんふん」
しばらく嗅ぎまわっていたヘジュが、何かに気づいた様子で顔を上げる。「こっちだ」
柱の続く回廊のほうだ。壁には、水辺の植物を描いた優雅な彩色がまだ残されている。
回廊の先は、庭を突っ切って別棟へと続いている。入り口では楽隊らしき人影が、楽器を手に動いているけれど、音は何も聞こえない。とびはねるような動きをしながら手を叩く踊り子。行き交う召使たち。けれど、これらの影の中に、まだ命ある者の魂はいない。
匂いはどんどん強まっていく。
行く手には、かつては扉によって仕切られていたのだろう、花と水鳥を描いた部屋の入り口がある。そして、どこかから水の流れるような音が聞こえてくる。――この無音の世界に踏み込んでから、初めて耳にする音だ。
「この中だ。気を付けろよ、相棒」
「ああ。そっちも、準備はしておいてくれよ」
鞄から取り出した呪文書を手にしながら、メネスは、用心深く一歩ずつ部屋の中に踏み込んでいった。
薄暗がりの中に、色とりどりの花の絵に囲まれた部屋が現れた。床には擦り切れた絨毯が残され、柄の折れた扇がひとつ、ぽつんと落ちている。そして崩れ落ちた日干しレンガの壁の向こう側に、川から引き込まれた水が池に流れ込んでいるのが見える。
「いらっしゃい。お客様ね」
鈴を鳴らすような声に振り返ると、扉の内側に、――いつの間にか扉が現れている――着飾った、美しい少女が一人、ちょこんと立っていた。
いつの間にか部屋の中は、豪華な王室の装いへと変わっていた。さっきまで荒れ果てた廃墟だったはずの壁は元に戻り、白い漆喰で塗り固められた上に鮮やかな色をした絵が描かれている。床の絨毯も、その上に置かれた座椅子も往時のままだ。
「おい、相棒。騙されんなよ、こいつは幻だ」
「ああ、判ってる。」
メネスは落ち着いたまま、水蓮の花飾りを頭に乗せた、七、八歳くらいの少女を見つめた。思っていたよりもずっと若い――だが、魅力的な顔立ちをしている。
恐れを知らない大きな瞳に、薄く紅を引いた口元。身なりや立ち居振る舞いからしても、おそらくは、かつてこの王宮に住んでいた王女の一人だろう。確か、アクエンアテンには多数の王女たちがいたはずだ。
「私はメネス。ここにイブラーという男を探しに来たんだ。彼を家族のところへ返してやって欲しい」
「えー、嫌だなあ。まだ遊び足りないの。それとも、あなたが代わりに遊んでくれる?」
「代わりに、…か。彼はどこにいる?」
「そこ」
少女が指さした場所に、いつの間にか遊戯卓と椅子が現れていた。その卓の向かいに、青ざめた顔をしたイブラーが、半透明な影として座っている。
顔がはっきり見えるのは、彼がまだ亡者ではないからだ。けれど、影はかなり薄くなっている。そろそろ、肉体の限界が近いのだろう。
メネスは座っている若者の魂に近付いて、耳元で呼びかけた。
「イブラー、立て。家に帰るぞ」
名を呼ばれ、死んだように無表情だった彼の目が、微かに動いた。
「お、俺…は…帰れ…ない…」
「なぜ?」
「この遊戯が…終わるまでは…勝てないと…帰れない…」
メネスはため息をついて、少女のほうを振り返った。
「あの子と勝負していたのか」
「…ああ」
「仕方がないな。なら、私が代わりに勝負しよう。それで文句はないだろう?」
振り返って、メネスは少女に言う。
「イブラーは解放してやってくれ」
「しょうがないなあ。まあ、いいわ。その人、弱すぎるんだもん」
部屋の主の少女が許可したとたん、男は椅子から立ち上がり、ぎこちない動作で出口へ向かって歩き出す。
「ヘジュ、あとは頼んだ」
「おう。すぐに戻るからな、それまで引っ張っとけよ!」
狒々が男を先導しながら、部屋の外へ出ていく。囚われた魂も、都の外まで出られさえすれば呪縛はとける。そうすれば、あとは自然に肉体を目指して飛んでいけるはずだ。
夜明けまでまだ時間はある。椅子に腰を下ろしながら、メネスは問うた。
「それで、君の名は? お姫様。」
「ネフェルネフェルウアテンよ。駒の打ち方を説明する?」
「盤遊戯のやり方は知ってるよ。先攻は招待客のこちらが貰うよ。それじゃ、始めようか。」
互いの駒を並べ直し、二人は向き合ってそれぞれに最初の一手に手を掛けた。床に足が届かず、脚をぶらぶらさせながら楽し気に遊戯の駒を打つ少女は愛らしく、気を抜けば、これが既に遠く過ぎ去った日々の幻影であることを忘れそうになる。
(そう時間はかけられない。ヘジュが戻って来るまで引き延ばすよりは、一気に畳みかけたほうがいいな)
ぱちん。駒を置く音が響く。
「ねえメネス、ここは退屈なの。姉さまたちは最近ちっともここへ来てくれないし、母様や父様もよ。きっとお仕事が忙しいんだわ。楽団や踊り子にも飽きて来ちゃったの」
ぱちん。相手の駒を置く音。子供ながらに、打ち慣れた駒の運び方だ。
「たまには王宮の外に出てみればいい。川遊びは? 小舟で少し漕ぎ出してみるなんていいんじゃないか」
「それはだめよ、一人でお外に出ちゃいけませんって言われてるもの。お父様に見つかったら叱られるわ」
「忙しいんなら気づかないかもしれないな。それに私が一緒なら、一人じゃないだろう? どうかな。もし私が勝てたら、私の作った舟を見に行かないか」
「……。」
迷うような微かな間。
「いいわ。でも、負けたりしないからね。わたし、強いんだから」
ぱちん。駒が、メネスの陣に攻め入って来る。
「さぁ、次どうぞ」
少女は不敵な笑みを浮かべながら、脚をゆらゆらさせる。
「うーん、そうだな。じゃあ、こうしよう」
迷っているふりをしながら、メネスは駒を引いた。少女は手を叩き、楽しげに笑いながら次の手を打ってくる。
「じゃあ、こうよ。ほらほら、後がなくなって来るわよ」
「強いな。いつもは姉さまたちと打ってたのかい」
「ええそうよ。」
「姉さまたちも、まだ、この王宮に?」
「ええ、…でも、お嫁に行ってしまった姉さまはいないわ。お兄さまたちも、どこかお仕事よ」
(アクエンアテンの次の代の王たち。誰一人、子を残すことなく亡くなった…)
駒を手に、メネスは記憶を辿っていた。
次代の王たちは父の信奉した神に帰依することなく、世の秩序を戻そうと試みた。けれどその試みが成功することはなく、異界の神の呪縛に身体と精神を蝕まれたまま早世していったのだった。
ぱちん。
駒を切り返した時、少女の表情が固まった。
「ほら、君の番だよ。」
「……。」
ぱちん。迷いながら、駒が進められる。そこへ間髪入れず、メネスは次の駒を進めた。相手の攻撃用の駒が倒され、盤の外へ出される。
「ひどい。騙したのね」
「言っただろ、手加減はしないって。ほら、次の駒が危ないよ。逃げる? 戦う?」
「まだまだよ」
少女は駒を進め、果敢に陣に攻め入ろうとしてくる。
けれどメネスはそれらをかわし、逆に相手の駒を次々と倒して取ってしまった。盤の外には、戦えなくなったいくつもの駒が並べられている。
「……。」
ついに、相手の動きが止まった。
「負け、でいいかな?」
「……嫌」
「だけど、もう君は何も出来ないよね」
「いや! 負けなんて認めないっ!」
全ての駒を乱暴に盤の上から弾き落とすと少女は、我儘放題のお姫様そのままに、すっくと立ちあがってメネスを睨みつけた。
「もう一度よ。もう一度、最初から! 命令よ、メネス。わたしが勝つまでやるの!」
「やれやれ。こうやって今までの来客は皆、囚われていったというわけか。」
溜息をつきつつ、メネスは椅子から立ち上がった。
「だけど、その『命令』は私には効かない。君は『約束』したね。私が勝ったら舟を見に行くと」
言いながら、彼は扉のほうに歩いていく。
「無駄よ、わたしがいいっていうまで、部屋からは出られない…」
勝ち誇った笑みで言いかけた少女の表情は、メネスが難なく扉を開いた瞬間、固まった。
「嘘」
彼はそのまま、扉の外へ踏み出して振り返る。
「さあ、君も来るんだ」
少女の体がびくん、となり、自動的に椅子から立ちあがる。意に反した自らの動作に、彼女は狼狽えていた。
「どうして、どうして?! わたしは王女なのよ! わたしの命令には誰も逆らえないはずなのに!」
「――知ってるよ。」
メネスは、悲し気に微笑んだ。
「でもね、私も王の息子なんだ。そして君は未成年で、女の子で、『約束』を反故にしてまで私に『命令』できる権限を持っていない」
「!」
「出掛ける時だ、ネフェルネフェルウアテン。君はいつまでも部屋に閉じこもっているべきじゃない」
「い――嫌よ、だって、だって…外に出たら…」
手をばたばたさせながら、少女は、身体をよじって部屋の中を振り返る。「まだ遊んでいたいの。いや…死ぬのは…暗いのは嫌…!」
ちょうどその時、廊下のほうから体毛を逆立てながら狒々が全速力で駆け戻って来た。
「戻ったぞ、相棒! って、おいおい、もう勝負を終えちまったのか」
「舟へ行こう。ヘジュ、頼む。そろそろ他の連中に気づかれそうだ」
頷いて、狒々は少女の体をひょいと両腕で抱え上げる。
二人は廊下を走り抜け、元来た道を駆け戻り始めた。それと連動するように、背後から声なき叫び声が沸き起こり、衛兵のような影が走って来るのが見えた。
「やべぇな相棒。あいつら、わしらをとっつ構えるつもりだぞ。」
「多分、正妃が命じたんだ。アクエンアテンの正妃、ネフェルティティ。彼女の特権なら、『正妃以外から出た王子』よりは上だからな」
「落ち着いて分析してる場合か! 捕まったら面倒なことになるぞ。ここは、どの神も管轄外だ。何かあっても、そう簡単に助けは呼べねぇ」
「判ってる。それよりヘジュ。その子を絶対に離すなよ」
ヘジュの腕の中で、少女は、いつのまにか人間の顔を持つ一羽の鳥に姿を変えている。
これが魂の本来の姿。
――生前の顔と、鳥の体を持ち、肉体が死を迎えると西の空へ向かって飛び立つための姿だ。
影の兵士たちに追われながらうごめく街並みを駆け抜けたその先に、乗って来た小舟が繋がれている場所が見えて来た。けれど、追っ手ももうすぐそこまで迫っている。
足を止め、メネスは、鞄から巻物を取り出しながらくるりと後ろを振り返った。
「ヘジュ、葦舟にその子を。時間を稼ぐ!」
そう言うと、彼は死者の霊をなだめるための呪文を唱え始めた。都の中ではほとんど効果はないが、ここはもう、都の内と外の境界線上に近い。
勢いよく追いかけてきた影の衛兵たちの身が揺らぐ。
「…”見よ、死は今、汝の元にあり”」
呪文とともに、その体が解けて崩れた。
「おい、追加を乗せるか?! そいつらも王女様の護衛につけて送るぞ!」
小舟を川に向かって押し出しながら、ヘジュが怒鳴っている。無言に頷きながら、メネスはさらに呪文の詞を継ぐ。
「”空を往くは銀なる魂の導き手。西の地平より沈む時、魂は死に至り、東の地平より昇る時、魂は再生す。”」
東の空が明るくなり始めている。
影は薄れ始めた。都の境界で足を止めたまま、槍を手にした兵士たちの影はもう、ほとんど見えないほど薄れてしまっている。
ヘジュに押しやられ、小舟は、川の中ほどまで流されていた。
そろそろ夜明けの時だ。
「…”汝、永遠なるものよ。今、汝を敬拝し奉る。汝は昇り、汝は輝く。すべての父なる光、汝の名は――太陽”」
東の崖を越えてきた一条の光が届いた時、影たちは全て消え失せた。そして、小舟とともに都から遠く離れた場所まで押し流されていた魂たちが、光の中で声を上げながら、翼を広げて飛び立ってゆくのが見えた。
あの小さな王女も。
風に乗って、花の香りが微かに届く。
(大丈夫。死の世界は暗いばかりじゃない)
百年の束縛を経て、ようやく自由になって空に消えてゆく魂を見あげながら、メネスは、心の中で呟いた。
(その世界にはきっと、…君の兄さんや姉さんたちも待っているから。)
「終わったなぁ、相棒」
川べりから、飛ぶような足取りでヘジュが戻って来る。
「イブラーの魂は、ちゃんと戻れただろうか」
「途中で力尽きてなきゃあ、な。やれることはやった。さ、わしらも帰るぞ。」
そう言うと、狒々は二本肢で立ち上がって、ぽんぽんとメネスの肩を叩いた
「帰りは、わしが櫂を担当しよう。」
「……。」
立ち去りかけたメネスはふと、視線を感じて足を止めた。
振り返ると、王宮の端の見晴らし台の上に立ち、こちらを見下ろしている貴婦人らしき人影があった。頭の上には禿鷲を象った、高位の王妃だけが身につけられる王冠を乗せている。
(…王妃ネフェルティティ?)
視線が合った気がしたのは、ほんの一瞬のことだった。
朧げな姿はやがて陽の光の中で溶けて消え、あとには、ただの崩れかけた石積みだけが残されている。
(あなたの魂をここから解放するほどの力は、今の私には…)
「おーい、何してる相棒! 早く乗れー」
舟の上で、櫂を手にしたヘジュが怒鳴っている。王宮のほうに向かって軽く頭を下げると、メネスは、大急ぎで狒々のあとを追いかけた。
夜の間はあれほど不気味で奇妙だった『禁断の都』も、朝の光の中では拍子抜けするほど、ただの廃墟だった。誰もいない、がらんとした場所。近くの若者たちが肝試しに行ってみたがる気持ちも少しは判るのだ。…昼間なら。
「あの王女は確か、幼くして疫病で亡くなったんだったな」
「ああ、アクエンアテンとこの子供はほとんどそうだ。子供の守り神も、疫病を調伏する神も、あの時代にゃ何も仕事出来てなかったからなぁ。異界の神なんぞに傾倒した王サマが悪いのさ。自業自得ってやつだ」
「あの子の母親や姉さんたちも、まだ何人かあそこにいる。…いつか、あそこの人たち皆、解放される日がくるんだろうか。」
狒々が片方の眉を跳ね上げた。
「あんまり同情心は持ちすぎるなよ、相棒。共鳴してあっち側に引っ張られたら戻って来られなくなるぜ」
「…分ってる。ただ、気になっただけだ。」
「ま、千年もすりゃあ、解放はされるだろうな。それまでに冥界神どもが仕事して片づけてくれりゃあいいんだが。」
ゆるやかな流れに逆らうように、舟は、ゆっくりと川を遡っていく。
「戻りはしばらくかかる。寝てていいぜ、相棒」
「じゃあ、そうさせてもらうよ。」
上着を頭からかぶり、メネスは、舟底にごろんと横になった。一晩中走り回っていたせいで、疲れは溜まっている。
「それにしてもなあ、相棒。お前は最近、無茶をし過ぎだぞ。悪霊と盤遊戯で勝負などと、あの時、もし勝負に負けていたらお前、死ぬまであそこから出られなかったかもしれんのに」
「何言ってる。盤遊戯のやり方は、君が教えてくれたんだぞ。負けるわけがないだろう…」
静かな眠りが押し寄せてくる。
「…って、もう寝ちまいやがった。やれやれ。」
生きた人間は、死者に囲まれているだけでも気力も体力も消費する。死者と対峙して支配されずにいるためには、さらに精神力を必要とされる。
今のメネスでは、いちばん年下の王女を冥界へ『送る』だけで限界だ。あの場所は、――『禁断の都』は、そういう場所なのだ
緊張の糸が切れたように眠り続けるメネスの、まだ少し幼さの残る横顔を見下ろして、年経た狒々は微かに微笑んだ。
「まったく。お前ときたら、本当に…」
そして、櫂を手に、ゆったりとした動作で生者の都へ向かって舟を進めていった。
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