第九話 降臨(2)

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第九話 降臨(2)

 何か、とても長い夢を見ていたような気がして目覚めた朝だった。  「…?」 ここのところ毎日のように、日が昇る時刻に彼を起こしに来ていた狒々の気配がないことに気づいて庭を覗いてみると、つい昨日まで狒々がいた場所は空になっている。  「母さん」 台所を覗くと、パンをこねていたキヤが振り返る。  「ああ、おはよう。ずいぶんよく寝てたわね。お勉強のしすぎじゃない?」  「少し寝坊したかも。…ヘジュは?」  「あの狒々のこと? 今朝、王妃様の使いの人が来て、連れてったわ」 突然のことだった。  「覚えてたんだ、あいつのこと…」  「そうね。二週間もほったらかしだったから、そろそろ忘れてるかと思ってたわね」 困ったような笑顔を浮かべながら、キヤは呟いた。  「あなたは、あの狒々とずいぶん仲良しになっていたし、起こさないほうがいいと思ったの。ごめんね」  「…ううん、いいよ。その場にいたって、どうしようもなかったと思うから」 それだけ言って、メネスは部屋に引き返した。  いつか、こんな日が来るとは思っていた。  あの狒々は、上位の王妃の「私的な持ち物」で、一時的に預かっていただけなのだ。判っていたことなのに、改めて現実を認識すると、悔しくなってくる。  (ヘジュはまた、あの人に打たれて、蹴られることになるんだ。…それを止めることも出来ないなんて) 机に向かっても、開いた巻物の中身がいっこうに、頭に入って来ない。  もしも自分に、地位や権力があったなら。  腕力や、こんな時に使える何かの知恵があったなら…。  無力感にさいなまれながら、いつものように学校へ行き、上の空で授業を終えたメネスに、さっそくカエムワセトが話しかけてくる。  「今日はどうしたんだ? ずっとぼーっとして。調子悪いんなら無理しなくたって、お前は余裕で卒業決まってるだろ」  「うん、…そうだね」  「いや、そうだねって。返事になってないし」  「ごめん、今日はもう行くから。」  「お、おう…。」 カエムワセトも、いつものように無理には絡んでこない。  何となく、ヘジュのいない家に帰るのが億劫で、メネスの足は自然と、大神殿の書庫へと向かっていた。  けれど、その日はいつもと違い、妙に人が多かった。  大祭の日が近づいて来ている。その準備のために飾り付けの職人たちが神殿内に入り、神官たちも大忙しなのだ。  書庫の入り口にも人がうろうろしていて、あまり落ち着いて巻物を広げていられなさそうだった。屋根裏の宝物庫へ続く道も、月神の神殿のほうも騒がしい。  どこか他に静かなところは無いかと探しているうちに、メネスは、いつの間にか薄暗い地下室へと迷いこんでいた。  さすがに、そこには人はいない。だが、用のないときには近付くな、と言われていた場所だ。それに、書物を読むには暗すぎる。  (流石に、ここは…) 引き返そうとしかけた時、ふと彼は、囁くような声を耳にした。  (…りたいか?)  「えっ?」  (真実を…) 声にならない声が、言葉ならざる言葉で脳裏に直接、伝えてくる。  ”お前の知りたい真実が、この先にある。  知りたいか? 扉の先にあるぞ。”  「――真実?」 相手が何者かも判らないまま、メネスは、吸い寄せられるように廊下の奥へ向かって歩き出した。  薄暗い夜道で耳にしていたら悪霊の囁きかもしれないと警戒するだろうが、ここは、アメンの大神の社なのだ。不思議なことが起こるとしたら、それは神の思し召しのはずだった。  廊下の先に、うっすらと光の漏れる扉がある。物置き部屋の隣の、いつもは固く閉ざされている扉。祭りの準備のために誰かが開けて閉め忘れたのだろうか。  覗いてみると、埃臭い部屋の中に小さな卓が一つと、扉のついた本棚だけが見えた。卓の上にはランプの代わりに蜜蝋の燭台が一つ、火打石とともに置かれている。  ”その中にある、心して読むがいい。  それは――  お前を新たな境地へと導くだろう。” 言われた時にはもう、メネスは本棚の扉に手を掛けていた。  好奇心と、おそらくは神の声に導かれたという自信が、彼をいつもより大胆にさせていた。一体何が待っているのだろう。はやる心は抑えきれない。  力をこめて扉を引き開くと、暗がりの中からばさりと書物がいくつか転がり落ちてきた。陶器の破片に書かれた文字、見慣れない護符、文字のような印。  「ん、…暗くてよく見えないな」 手さぐりに火打石を取り、燭台に火を灯す。当たりが明るくなるとともに、床に落ちていた何かがきらりと輝いた。  金の板に刻まれた、王名だった。  アクエンアテン、アテンの神を利する者。  ――それが、かつて調べた「禁断の王」の名であることに気づいた時、彼ははじめて、ぞくりとするものを覚えた。  (まさかこれは、消されたはずの記録…?) 慌てて、彼は辺りを見回して、誰もいないのを確認してから震える手で卓の上に巻物を広げた。  それはまさに、ずっと知りたかったことの書かれた書だった。  時間も忘れて貪るようにして読んだ。名を消された王自らが書き記した「禁断の神」の教義、その姿。異界より来る光。全にして一なる絶対の存在。あらゆる神を凌駕するとされた完全無欠の永遠なるもの。  王が自らの神に捧げた、甘美で優雅な賛歌には、どこか心惹かれるものがあった。  けれどそれよりもメネスは、禁断の王と同じ時代を生きた人々の遺した記録のほうに意識を奪われていた。  百年前、禁断の神の信仰が広まり始めたその頃、この国は、ひどい疫病に見舞われていたのだった。  そして川は水位が下がりすぎ、赤い川底を露呈して、まるで流れる水は血のように見えた。飢えと病で多くの人が、特に新生児が死に、死と嘆きが大地に満ちた。  ある者は神の怒りと言い、別の者は祈りが足りないのだと考えた。けれど、どれほど祈り、捧げものをしようとも、病の勢いは衰えることなく、人々は絶望の淵にあった。  そこへ現れたのが、「異界より(きた)る神」だった。  神は言った。いずれの神の守護下にもない処女地に、新たな都を築くようにと。  祈りに応えぬのは、それが偽りの神であるからと。  真なる神に従えば必ず救われるのだと――。  同じ時代を生きた高位神官や官僚たちが、迷いながらも王に従い、改宗し、川の神や医療の神らの神殿を封鎖し、像を打ち捨てて新たな都へ移住していく記録が、そこにははっきりと残されていた。  やがて新たな都では、疫病は去り、川の水位はもとに戻った、…かのように見えたが、その代わり、都の外では酷い飢饉や揉め事が続くようになっていった。  けれど陳情を訴えられても、王はただ、「神に帰依せよ」としか、言わなかったらしい。  (平和な都に閉じこもったまま、王は満足に生きて死んだ。その間に、この国は…) 心臓が高鳴り、それ以上は読むことが出来なくなっていた。  巻物から手を放し、メネスは、疲れ果てて卓の上に突っ伏していた。  (これでは、禁じられて当たり前だ。こんな神は、神じゃない…) 王の死後、都は閉ざされ、異界の神への信仰は全て禁じられた。  そして一部の記録だけが、密かにここに残されていたのだ。おそらくは、戒めのために。  (…忘れよう。これは…在ってはならないものだ) 巻物を閉ざし、メネスはゆっくりと顔を上げた。他の全ての神々を偽りの神と断じ、人生の全てを供物として要求するような神は、禁じられても仕方がない。ましてや、神の教えこそ全てとし、自らの頭で考えることを良しとしないのは、彼に馴染みのある知恵の神の教義、「自ら思考することこそ人たる証である」とは、相反するものであったからだ。  書物も石の欠片も、護符も、全てを戸棚の中へ仕舞い終え、最後の巻物を手に扉を閉ざそうとした、その時だった。  ”…望みを思い出せ…”  「えっ?」 風も無いのに、ふっ、と燭台の光が消えた。  突然訪れた暗がりの中、どこかから、狒々の悲鳴に似た声が響いてくる。  「! ヘジュ、…」  ”力無きことを思い出せ。死にゆく者を救えぬ己の無力さを…"  「キィーッ!」 狒々の悲鳴が、闇の中に響き渡る。  「やめろ! いや、やめてください。どうして、こんなひどい幻聴を?」  ”幻などではない。これは、現実…今まさに、起きていること…そうら、打たれて流れる血だ…じきに死ぬぞ…” ぽたっ、と生暖かいものが頬に触れる。  「ひっ」 血の匂い。触れた指先に、どろりとした感触がある。 「う、そだ…」  ”お前は、見ようとしていないだけだ。自分を納得させる言い訳を作り出し、ごまかして…”  「あ、ああ…」  ”何も出来ぬ…無力で、哀れな…子供…” 後退るメネスの前で音も鳴く闇が割け、そこから、光の腕が一本、目にも止まらぬ速度で飛び出してくる。動揺している彼には、なすすべも無かった。  気が付くと、メネスは宙に吊り上げられたまま、闇の裂け目の向こうにある光の塊と向き合っていた。  身を焼き焦がすような眩しい光が、じりじりと全身を照らしつける。目を逸らそうとしても、手を翳しても、光は消えない。それどころかますます強く、頭の中まで真っ白になりそうなほどに押し寄せてくる。  ”願え…” 声が耳元に囁く。  ”力が欲しいのだろう? 奪われた親しきものを取り戻したいのだろう?”  「それは、…」  ”主の前で、人間はすべて等しくあらねばならない…理不尽なる者たちに報いを…裁きを…”  「そんなこと望んでいない! 僕は、ただ、…あんな、傷だらけになって…可哀そうなのは…。」  ”お前には、救えないのだ”  「…っ」  ”縋れ…受け入れよ…そして…さあ、この光の中へ…。” 無数の光の腕が、裂け目の向こうで蠢いている。その先は人間の手のような形に見え、光る手が、裂け目の中から目の前に差し出される。  手を取れ、ということなのだ。  そこに手を延ばせば、ヘジュは助かるのかもしれない。  けれど――。  「…ううっ」 メネスは反射的に、目を背けた。  『どうした? あの光に照らされてなお、お前はなぜ、向こう側へ行こうとしない』 面白がるような別の声が、頭の中から聞こえてくる。  それは、威圧感を感じる声とは違う、どこか優しく、聞き覚えのあるもののように思われた。  「だって、…意味がないから。こんなこと…間違ってる」  『間違っている、とは? どう間違っている? 口に出して、言ってみるといい』  「…望んだのは、罰じゃない。裁きや報いでもない。…僕は無力だ。だけど、力が欲しいわけじゃない。それは手段だから…本当に欲しいものは違う…。」 光の束縛の中で身をよじりながら、メネスは、必死に言葉を探していた。  「力が欲しいのは、…自分のためじゃない。そうだ…僕はただ、…ヘジュに幸せに生きて欲しいだけなんだ…」 言葉にしようとすると、頭の中のもやもやが不思議なくらい、はっきりと晴れて行くのが分かった。  メネスはようやく、自分の感じていた違和感の正体に気づいた。  「お前は…何だ?」 呆然と、呟いた。  そう、目の前にいるこの光の塊は、どう見ても、アメンの大神ではない。それどころか、彼の知る、どんな神とも違う。  いや、そもそも「神」と言っていいのだろうか、これは?  するり、と腕がほどけ、彼は突然、床に投げ落とされた。  「うあっ」 受け身などとる暇もない。もろに足から落ちた衝撃で、メネスは、膝を抱えて蹲った。  音もなく、腕が素早く闇の裂け目へと引っ込んでいく。と同時に、裂け目が縫い合わされるようにして元通り、閉じてしまった。あとには何もない闇だけが、静かに漂っている。  傷みに顔をしかめながら起き上がるメネスの目の前には、さっきまで在った体を焼き尽くすような激しく眩い光とは別の、静かで冷たい銀の輝きが、ふわりと宙に浮かんでいる。  何者なのかは分からないが、妙に安心する。さっきのあれは、神かどうかを疑われて姿を消した。ならば、消えないこちらが、本物なのだ――多分。  「あの、…」 メネスは、居住まいを正して床に額をつけた。  「すいませんでした。」 しん、としたまま返事はない。けれど、彼は言葉を続ける。  「勝手にこの書庫に入ったこと。多分、見てはいけないものを見てしまったこと。大神殿で騒いだこと。…すいませんでした」  『――そうだな。お前は軽く十は禁忌を破った。死者の法廷で裁かれる時には長い長い罪状が読み上げられることになるだろう。』 厳しい言葉だが、会話は成立している。一方的に喋るだけだった、さっきの、良く分からない恐ろしいものとは違う。  『だがお前は一つ、賞賛に値することを果たしてのけた。異界の神に抵抗し、支配を拒絶するということを』  「異界の? ――え、さっきの?! 光…えっ?! まさか…百年前の、あの?」 彼は、慌てて頭を上げて辺りを見回した。そんな少年の素直な反応が面白いのか、小さく笑う声が聴こえてくる。  『そうだ。異界より来る光。気付きもせずに拒絶するとは面白い。何故、そうした?』 この声は、すぐ近くで聞こえる。さっきの声は、世界の果てから聞こえてくるように遠かったのに。  「何故、って。…」 一体、何の神と話しているのだろう、と訝しみながらも、メネスは、答える。  「それは、言われている意味が分からなかった…から。確かに僕は、ヘジュが酷いところへ戻るのをどうにも出来なかった。それで、あいつが死ぬかもしれないことも判ってた…。でも、力が欲しいとかそういう話ではないし、神に祈るようなことでもない…」  『では、お前なら何を神に祈る?』  「それは、自分ではどうしようもないこと…」 メネスは、俯いた。  「努力しても、考えてもどうしようもないことを。ヘジュのことは、ただ、僕が勝手に諦めて、考えることを止めてしまってただけなんだ。祈るなんておかしい…。うん、そうだ。あの、僕、行ってきます。あの王妃様のところへ行って、狒々を解放してやってくださいって頼んでみます。他の動物たちも」 言葉にしたとたん、気分がすっきりした。  そうだ、本当はとっくに思いついていた。ただ、実行する踏ん切りがつかなかっただけだ。無駄かどうかなど、やってみなければ分からない。  立ちあがろうとした時、がくんと体が前のめりになった。  「…あれ?」 力が入らない。  声が、静かに告げる。  『異界の光に焼かれ、お前の魂は傷ついている。体力と気力を奪われ、休息を必要としているのだ』  「え、でも。行かなきゃ、すぐ…」 言いかけた言葉が、尻つぼみになって消えてゆく。目の前に浮かぶ、明滅する銀の輝きのもつ雰囲気から。言葉はなくても、察することがある。  「…死ぬんですか、僕は」 いま話しているこれは、冥界からの迎え――なのか。  呆然としたまま、メネスは、胸のあたりをぎゅっと掴んだ。  「でも。僕は…私にはまだ、やることが…」  『……。』  「どうか、お慈悲を! お願いです。もう少しだけ。せめて、あと一日だけでも!」  『天命を延ばせと願うのか』 どこかから、微かな風が吹いてくる。羽ばたくような音。銀の輝きを帯びた、白い羽根が光の向こうに見える。  『確かにそれは、人の力ではどうにもならぬ、神に祈るべき事柄だな。』 どこか、感心しているような口調だ。けれど、とは言わなかった。  ようやく、メネスも気が付いた。  どこか馴染みがあるような気がするのは、感じているこの雰囲気が、いつも礼拝している小礼拝堂で感じるものと似ているからだ。書記学校で授業の始まりと終わりにいつも、皆で拝礼する知恵の神の小像。脚を折った朱鷺の姿をした神。  知恵の大神ジェフウティは、冥界において死者の名と生前の行いを記した書を管理する者。  そして、時の管理者にして、人の寿命を定める者――。  『では、ラメセス・アメンエムオペト。お前には試練を与えることにしよう。もしもそれを果たせたなら、お前には禁を冒すより前の元の寿命を戻してやろう』  「…私はどうすれば?」  『己が生命と知恵をもて、異界より侵入する理に立ち向かい阻止するのだ。あれは人によって呼ばれ、人によって拒否される。――故にこれは、人の手で成されなければならない。人自身の選択する、理として』  「…わかりました」 メネスは、歯を食いしばるようにして、ゆっくりと床に額を付けた。  やり方など分からない。出来るかどうかも。けれど今、少しでも命長らえるために、他に方法は無い。  「従います。我が主…真実と時を統べる御方…ジェフウトの聖域の丘におわすお方」 目の前の光がゆるりと解け、メネスのほうへやって来る。  冷たい輝きが、体を包み込んでいくような気配があった。目の前が闇に包まれ、そして、意識の中に静かに、力が染み込んでくる――。  薄ぼんやりとした世界の中で、メネスは、時が流れてゆくのを眺めていた。  光が生まれた遥かな過去、やがて死んでゆく遥かな未来。混沌の海より光は生まれ、大地が浮上し、生き物が生まれ、栄え、そして次々と滅びてはまた生まれる…。  理解出来たものはほとんどない。  けれど一つだけ判っていたことは、これが、知恵の神の「記憶」だということだ。神々の見ている遥か悠久の時の奔流の中、人はもとより神も、そして太陽でさえも生まれては死んでゆく。  その世界の片隅で、ただ変わらず、闇の向こうにじわじわと輝き続ける無数の腕を持つ光の蠢きは、ひどく異質なものに見えた。  「ラメセス!」 目を開けた時、自分がどこにいるのかは分からなかった。  母キヤが泣きながら抱き着いてくる。  「良かった、本当に――良かった…」 声を出そうとして、喉がからからに乾いていることに気付き、手を上げようとして、その手がひどく萎えていることに気が付いた。  一体、どのくらい気を失っていた?  メネスの表情としぐさに気が付いて、彼女は、はっとしたように水差しをとった。  「喉が乾いているのね、待ってて」 口に薄い塩水が流れ込んでくる。乾いた砂漠に水を垂らしたように、それは、体の奥深くまで染み込んでいくような感覚があった。生きている感覚だ。  「こ、こ…家?」 視線だけを動かして、彼は、部屋の中を見回した。見慣れた自分の部屋だ。  そして、寝台の傍らには、黒っぽい毛玉のような塊が、すうすう寝息を立てている。  「…ヘジュ」  「あなたが倒れた日に、どういうわけか妃殿下の召使いの方が連れてきたの。あげます、って。何度も逃げ出そうとするから面倒になったんじゃないかしら。」 涙を拭いながら、キヤは賢明に笑顔を作ろうとしている。  「良かったわね。この子もずっと、あなたが目を覚ますのを待っててくれたの。何日も寝ずに…目を覚ましたら、安心したのか入れ替わりで眠っちゃったの。」  「…そう」 狒々の頭には、ひどく殴られた跡と血の跡がこびりついたままだ。異界の神が聞かせたあの声も、見せた血も、ただの幻覚では無かったのかもしれない。  (ヘジュは本当に、殺されそうになっていたんだ。それを知っていたら…私は、どうしていだたろうな) 目を閉じながら、メネスは、異界の神の声を拒絶したあの選択を思い出していた。  もし、あの時、あの声に従っていたら?  そうしたら、この狒々は別の方法で自由を得られていたのだろうか。それとも…。  「まだ無理はしちゃあ駄目よ。髪は、そんな…になっちゃったけど、体はどこも悪くないって、お医者様も言っていたからね。しばらく休めば、良くなるから」  「髪?…」 頭に手をやったメネスは、指先にからみついた髪の端が真っ白になっていることにはじめて気が付いた。  大神殿の地下の書庫で倒れていたのを見つけられた、と聞いたのは、それからしばらく経った後のこと。熱を出し、三日ほど眠っていたこと。見つかった時、禁じられた書物を手にしていたこと。  断片的な噂を聞きつけた人々に、神の罰を受けたのだ、と噂されていることを知るのは、それより更に後のことだ。けれどきっと、そんな噂が無かったとしても、メネス自身、変貌は「罰」を受けたせいだと答えていただろう。  ただそれが、猶予期間を設けた慈悲ある罰であった、というだけで。  ようやく寝台の上で起き上がれるようになった翌日、メネスを待っていたものは、予想もしていなかった出会いだった。  「おー、ようやくお目覚めかぁ。気分はどうだー?」  「…?」 足元から、聞き覚えのないしわがれた声がした。見ると、大きな獅子が尻尾をぴんと立ててこちらを見つめている。  「…ヘジュ?」  「おうよ。と言っても、ただのヘジュじゃぁ無いぜ。偉大なる五人のうちの一人、偉大なる銀のもの、古の知恵の神が一柱! ヘジュ・ウル様だ。…まあ、今はこんなチンケな姿だけどな」  「いや、その、…元の、狒々のほうのヘジュは…どこへ」  「ああん。あいつはまぁ、なんつーか、わしの一部だな今は。お前の側に居られるなら構わんと、喜んで体を貸してくれたぞ。わしはな、知恵の大神に言われて、お前を手伝うようにと…よっこらせ」 寝台の上に這い上がりながら、狒々は言う。  「まー何だ? 詳しい話は聞いとらんが、お前、大神から仕事を言いつかっとるんだろう。わしの力はお前に預けておく。好きに使え」  「……。」 つまり、専属の守護神がついたようなものだ。確かに狒々は知恵の神の姿の一つだが、まさかこんな形で、聖獣に憑依して現れるなどとは、聞いたことも無い。でも――  「よろしくなぁ、相棒。」 にやりと笑った狒々の顔は、とても神とは思えないほどひょうきんで、心から嬉しそうな、明るい笑顔だった。
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