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第九話 降臨(3)
既に夜半を過ぎ、なんとか機嫌を直したヘジュとともに戻って来たメンネフェルの大神殿は、さすがに、静けさを取り戻していた。
街は闇に包まれている。そして神殿の内部も、最低限の灯りだけを残して暗がりに包まれている。夜は、冥界の神の時間だ。
部屋に戻ってみると、イブラーは、まだ起きて待っていた。
「お帰りなさい。ご無事で良かったです、何所へ行かれたのかと。」
「心配かけて済まなかった」
「全くだよ」
隣で、ヘジュがふんと鼻を鳴らす。まだ少し、根に持っているようだ。
「姫様も、ずっと待ってたんですよ」
「え?」
寝台を見ると、タドゥキパが体を丸めて何やら寝言を言いながら眠りこけている。
「…今からだと、家に帰すのも遅すぎるな。どうしてもっと早く、家の人に迎えに来てもらわなかったんだ?」
「殿下がお戻りになるまでは、どうしても帰りたくないと言われたんですよ。今日はほとんど一緒に過ごせなかったから、と。」
「何かずっと考え事してて、ろくに話も聞いてなかったろうが」
ヘジュが溜息まじりに言う。
「ま、無理もないけどよ。明日は少しは、相手してやれよ?」
「それは、…いいけど」
メネスは、怪訝そうな顔をしている。
「彼女はどうして、そんなに私にこだわるんだろう。」
「さぁな。明日、目を覚ましたら聞いてみりゃいいんじゃねーか? ああ、疲れた。わしも寝るか…」
言いながら、ヘジュは寝台の脇の椅子に飛び乗って、その上で丸くなってしまった。
「う、ん…」
タドゥキパが寝返りを打つ。
「お兄様…」
「あの…」
イブラーは、少女を起こさないよう小声で言った。
「姫様、自分の体質を知っても逃げなかったのは、殿下が初めてだと言ってましたよ。――きっと、ありのままのご自分を受け入れてくれるので安心出来るんだと思います。それに誰も見下したり、馬鹿にしたりしないし、俺のことも…」
「……。」
「あっ、すいません。余計なこと言っちまった。それじゃ、俺もこれで。おやすみなさい」
イブラーはぺこりと頭を下げ、慌てて部屋を出ていく。下男や召使たちのための控室は、すぐ隣にある。
柱の向こうの庭から、川を伝って夜風が吹いてくる。寝台の側に灯された小さなランプの灯が揺れる。
(逃げなかったのは初めて、か。…)
既に知れ渡った不穏な噂によって、人から敬遠されがちなのは自分も同じだ。その噂と見た目を知っていれば、誰も近付いて来るはずなどない、と、かつては思っていた。
けれど、イブラーも、タドゥキパも、彼が気にしていた一切を無視して、その向こうにいる本来の自分へと近付いて来てくれた。
メネスは寝台の端に座って、あどけない寝顔で寝息を立てている少女の肩に布をかけてやった。
大神に課せられた試練を果たすことが出来るのか、そもそも残された寿命があとどれくらいあるのかさえも、分からない。それにもし、このまま生き延びられたとしても、知恵の神が持つ天命の書には、到底言い逃れ出来るとも思えない、十を越える罪状が書き記されているはずなのだ。
(…後悔などしていない。でも、それでも、怖いと思うことはある)
膝の上に肘をついて指を組み、額を乗せながら、メネスは唇を噛みしめた。
死ぬこと自体は怖くない。
ただ、その先で仲間たち、家族と二度と会えなくなることが、怖い。
全ての死者は死後、冥界の法廷で裁かれる。もしも罪により消滅が言い渡されたら、魂は永遠に失われる。――あの世の楽園でも、来世でさえも、親しい人たちと再会することは叶わない。
死にも似た深い眠りが、街と神殿全体を覆う中、彼だけは目を覚ましている。
そして、冥界神の統べる長い夜の中でずっと、思い耽ったまま朝の光を待っていた。
メンネフェルを発ったのは、それからさらに何日か経った後のことだった。
「何とか片付いたわ。大神官様も持ち直されたし、あとは州知事さんにお任せできそうね」
後処理を終えたネフェルエンラーは、清々しい顔で出港準備中の船を見あげている。そろそろ出港の時間だ。
見送りには、街の役人や神殿の関係者、それにタドゥキパの父キネンと大神官の孫のティイアも来ている。
「殿下、どうか娘を宜しくお願いします。タドゥキパ! 迷惑をかけるんじゃないぞ」
「大丈夫よお父様。それじゃ、またね!」
桟橋の上から、少女は元気いっぱい手を振ってこたえる。
「王子様、げんきでね! 銀色の神様も!」
「おーう、お前も爺さんを大切にしろよぅ」
ヘジュがキイキイ声で言う。
これから川を遡り、上流のウアセトの都へ戻るのだ。久しぶりに家に帰れる。
やるべきことはやった、と思っていたが、すっきりとはいかなかった。
大神殿で起きていた看過できない深刻な事件、禁じられた神の信仰が密かに広まっていたこと。それに、殺されたアメンヒルコプシェフが関わっていたと思われる不正。
「お父様に報告しなくちゃならないことが、山ほど出てきちゃったわねぇ」
帆をあげている船員たちを眺めながら、ネフェルエンラーがぽつりと呟いた。
「ええ、…それに、考えなくてはならないことも。」
「なぁに、時間はたっぷりある」
ヘジュが、後ろから腕を肩にかけてくる。
「まだ、これから何日も船に乗ってなくちゃあならんのだからな。」
「そうだな。…」
船が、ゆっくりと川へ向かって滑り出す。
手を振る見送りの人々が、メンネフェルの街とともに川辺の緑の向こうへと遠ざかってゆく。
穏やかな川の流れと、今日もよく晴れた青い空。そして、きらめく川の水平線の彼方には、真昼の太陽が高く、輝いていた。
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