第十話 策謀(1)

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第十話 策謀(1)

 それからの帰路では、特に何も起こることなく、穏やかに日々は過ぎて行った。  ちょっとした問題といえば、船にネズミが出て、タドゥキパが危うくネズミごと船底の穴を開けてしまいそうになったこと。これはメネスとヘジュが体を張って止め、被害は、川に投げ込まれたイブラーくらいで済んだ。  もっともこれは、イブラーが泳ぎの達者なほうだったから良かったようなもので、下手をすれば溺死者を出していたところだ。  水平線の向こうにウアセトの街が見え始めた時は、誰もが少し、ほっとした顔をしていた。  メネスの住む家はウアセトの手前、少し下流のあたりだから、街につく前にもう見えている。しっかり戸締りされたまま、しばらく誰も立ち寄った形跡はない。  船はウアセトの街の郊外の桟橋で止まって、乗客たちを降ろした。  「はあー、長旅でしたねえ。さすがに少々、疲れやした」  「しばらくぶりなんだろう? まずは実家に戻って顔を見せてくるといい。私は、タシェリトに帰宅の報告をしてから戻る」  「そういやあ、姐さん街に住んでるんでしたっけね」  「ああ。大神殿のすぐ裏に、兄さん夫婦と一緒にね」 その家には、三つほど年上の兄夫婦と彼女、そして年老いた父親の、四人が暮らしているはずだった。  面識があるのはタシェリトくらいのもので、他の家族とはほとんど顔を合わせたこともない。というのも、タシェリトの母が乳母をしていた頃には、彼女は毎日、娘を連れて大神殿に通って来ていたからだ。  「タドゥキパ、イブラーが荷物を持っているから、一緒に先に戻って家を開けて待っていてくれるかい」  「分かりましたわ!…でも、お一人で大丈夫ですの? また、以前のように狙われたりしません?」  「流石に大丈夫だろう。警備の目だってあるだろうし、私が今日戻って来るなんて誰も知らないはずだ」 言いながら、メネスはほんの少し、自分の言葉の説得力に疑問も持っていた。前回だって、本当ならそうだったのだ。あの時間に家に戻るとは、誰にも伝えていなかったはずなのに。  (…今回は気を付けよう。街中なら何もないはずだし、もし、郊外の道に怪しい待ち伏せがいたら引き返すんだ。それで、何とかなる) 自分に言い聞かせながら、彼は頭巾を目深に被った姿でタドゥキパたちと別れた。ほんの少しの間だけだ。  タシェリトの実家へは、もう何年も行っていない。  かつての乳母である彼女の母は数年前に病で無くなり、今はほぼ接点の無いタシェリトの兄夫婦が家を引き継いでいる。歓迎されないのは判っていたから、そのまま足が遠ざかっていたのだ。  大神殿の裏手の細い路地、神殿で働く下働きや下級神官たちの住む家の集まっている一画に、その家はある。  記憶を辿り、見覚えのある扉の前にたどり着いて軽く叩くと、中から、男が一人、顔を出した。タシェリトの兄だ。  「――あの、タシェリトは家にいますか?…」  「……。」 じろじろと不審そうに見つめていた視線が、ある時、はたと彼の後ろで物陰に隠れている狒々に止まった。瞬間、表情に、面倒な人間が現れたとでも言いたげな無言の嫌悪感が走るのが分かった。  「妹は、今は留守にしています。何の御用ですか?」  「そうですか。では、戻った、とだけ伝えて下さい」  「…分りました」 短く、最低限の礼儀だけを盛り込んだ言葉。  メネスが扉の側を離れようとした時、まだ閉まり切っていない扉の中から、夫婦の話し声がする。  「ちょっと、あれ、例の呪われた王子様でしょ? どうして例の話、言わなかったの」  「仕方ないだろ。本人の前で言えるかよ。もう関わらせたくないなんて…」 思わず、足が止まった。  背後で扉が閉ざされる。  振り返ることも出来ず、メネスは数秒、その場に立ち尽くしていた。  (タシェリトの兄さんたちは、…彼女を私に関わらせたくないのか。それは、そうだよな。乳兄弟とはいえ、今はもう…) 当然といえば当然の感情だ。  良くない噂のある、しかも一人で郊外に住む変わり者の下位の王子の世話役など、辞めさせたいと思われても仕方がない。ずっと彼女の好意に甘え続けてきた。けれど、それも限界なのかもしれない。  (…少し、話してみるか。) きっと本人は首を縦に振らないだろうな、と思いながら、メネスは、街の外へと向かう道へ向かって歩き出した。  「お帰りなさーい!」 家に戻ると、タドゥキパが笑顔で待っていた。扉と窓は開け放たれ、軽く掃除された形跡がある。  「イブラーは、家に戻ったのか?」  「はい。ネズミとか、虫が出ないことを確認してから。」  「…そう、か」 助かったな、とメネスは思った。戻ってきたら家が半壊していた、では、泣くに泣けない。  「タシェリト姉さまは?」  「言伝は残してきたから、時間が出来た時に来てくれるはずだよ。今日か、明日かな」 日は、まだ高い。街に買い物に出かけているだけなら、今日中に言伝を聞いて来てくれるかもしれない。  …さっきの、タシェリトの兄夫婦の言葉が少し、ちくりと胸の奥で痛んだ。  本当は、もう来てもらわないほうが良かったかもしれない、と。  「そろそろお昼ですが、どうしましょう」  「街で少し食糧を買って来た。川辺で一緒に食べないか。」  「! は、はいっ」 タドゥキパの顔に、笑顔が広がっていく。  「ヘジュ、そこの敷物を持ってきてくれ。食器は私が持っていくよ」  「ほいきた。」 以前、タドゥキパが自分の召使たちに天幕を建てさせていた場所には、今は何もない。ちょうどそこが空き地になっていたから、敷物はそこに広げることにした。  川の増水する季節、水位は、一年でいちばん高く、庭先の植え込みのあたりまで上がってきて来ている。今年は、十分な水量があるようだ。  「はい、タドゥキパの分」  「わあ! ありがとうございます。」  「ヘジュの分。」  「おう、…って肉は無いのか、肉は」  「果物を余分に渡してるからいいだろ? 狒々なら肉より果物だろう」  「なんだよ、けちくさいな」 ぶつぶつ文句を言いながらも、ヘジュは渡されたパンをちぎって、器用に口に運んでいる。  「ふふっ、お二人やっぱり仲がいいですわね。それにみんなで食事するのはやっぱり楽しいですわ」  「家に戻りたくなった?」  「いいえ。姉たちはもう全員、嫁いでしまっていて、家には今は父しかいませんし。」 小さく首を振って、彼女は、ちらと川の方に視線を向けた。  「…姉たち、年が離れているんです。わたくしがこうなったの、いちばん下の姉が嫁いでからでした。」  「寂しかったのかもなぁ」 水瓜の皮を丸ごとばりばりとかみ砕きながら、ヘジュが言う。  「なんか心に足りないもんがある時は、神ってやつは、そこに入り込みやすくなるからな」  「あら、まあ。ヘジュ様が言うと意味深ですわね。」 口元に手をやって、少女が笑う。  「では、ヘジュ様はお兄様の足りない何に取り憑いたんです?」  「ふん? ふー、ほへは…」  「友達が欲しかったんだよ。乳兄弟はいたけど、友達っていう友達は居なかったからね。」 口の中が一杯のヘジュの代わりに、メネスが答える。ただの狒々だった頃、最初に出会った時に求めていたものは、それだった。  「…ヘジュは、最初に出来た友達だった。今も、一番の親友だよ」  「へへっ、嬉しいこと言ってくれるじゃあねぇか。相棒」  「ま、あんまり神らしくないから良いんだよ、君は。」 笑いながら、メネスは、なつめやしの実を一つ摘まみ上げた。  知恵の神との誓約によって結ばれた絆は、おそらく、彼がそれに背かない限りは、消えることはない。――多くを失ったあの時、得られた数少ないものの中で唯一の、そして掛け替えのないものだ。  「タドゥキパには、姉さんたち以外の友達は?」  「昔は少し居ましたのよ。姉の友人たちとか、親戚の子たちとか…。でもやっぱり、嫁いでしまうとほとんど逢わなくなってしまいますわね。特に嫁ぎ先が別の街だと。」  「ふうん…女の子って、やっぱりそうなんだな。それなら、私とも友達でいいんじゃないか?」  「…え」 タドゥキパの動きが、ぴたりと止まった。  「えぇ~? それは、ずるいですお兄様…せめて、『お友達から』とか、ですよね?!」 声を上げて抗議されて、メネスはきょとんとした顔になっている。  「…だめ、なのか?」  「だめだろう、相棒。それはちょっとずるい」  「え…そう…?」  「そうですわっ」  「はあ。そっちの知識が無さすぎるんだよなあ。どうしたもんか…」  「何だよ、二人して…。」 緩やかに流れてゆく川と、平穏な時間。  その中で、じんわりと不安な影が迫りつつあることに、メネスはまだ、気づいていない。  旅の荷物の片付けや掃除などをしているうちに、気が付けば夕刻になっていた。  「そういえば、タシェリト姉さま、結局来なかったですわね。」  「あれ? 確かにそうだな。今日は忙しかったのかな…」 それとも、あの兄夫婦が何か言ったのだろうか。  「まあ、いいさ。明日にはイブラーがまた来るだろうし、様子を見に行って貰おう」 言いながら、玄関の前を通り過ぎようとした彼は、ふと、扉に何かが挟まっていることに気が付いた。  「…ん?」 何か、茶色い切れ端のようなものに見える。  特に深くも考えず扉を引き開けた時、目の前に、きらりと光る金属板が音をたてて転がり落ちた。  敷石の上に転がったのは丸い銅板だった。そこには、異界の神の印がはっきりと記されている。  「!」 声なき声を上げ、屈み込んでそれを拾おうと手を伸ばした時、敷石の脇に置かれた籠が目に留まった。  見覚えのある、小さな手提げ籠。いつもタシェリトが持ち歩いているものだ。  ざっ、と背中に冷たいものが走った。  「どうした、相棒?」 異変を嗅ぎつけて二階から降りて来たヘジュは、メネスが卓の上に置こうとしている籠に気づいて足を止めた。  「おい、それ」 無言に、籠の覆いを取る。  中に入っていたのは、既に冷めて固くなったパンと、赤い石で出来た、石の結び目を象った身の守りのための護符。それに、――長い黒髪がひと房。  「タシェリトのだ…」 それだけ言って、メネスは拳で卓を叩きながら歯を食いしばった。  「くそっ…!」  近くまで来ていたはずなのに。  それなのに、目と鼻の先で彼女が攫われるのに気付けなかったなんて。  ひく、と狒々が鼻を動かした。  「おい、相棒。この匂い。こいつぁ――」  「分ってるさ、奴らだ。」 強く拳を握りしめたまま、彼は、窓の向こうを睨みつけた。  「受けて立つしかない」  そうしなければ、人質に取られたタシェリトの身も危ないのだから。  彼は、速度に行動を起こしていた。  「待って、待って下さい、お兄様。お一人で誘拐犯と戦うんですか?! そんなの危ない」  「これは、私の役目だ。絶対について来るな。」  「でも、…」 タドゥキパは不安から、ぽろぽろと大粒の涙を流している。  もう、日が暮れようとしている。そんな時に、また幼い少女ひとりをこんな小さな家に残していくことがどれだけ理不尽かは、メネスも判っている。せめてイブラーが一緒に居てくれたら。  「…ごめんよ。一人で街まで行けるか? 私の母のところに行けば、今夜は泊めてくれると思う。それから、もし、私が戻らなかったら…」  「そんなこと言わないで! 必ず戻って来るんです!」  「……。」  「約束してくれなきゃ嫌ですっ!」 胸に縋りついて泣くタドゥキパの頭を、メネスは、そっと撫でた。癖のあるやや茶色がかった髪、香油の匂い。しゃくりあげる、微かな泣き声。  手を、その肩にやりながら、彼は言った。  「戦女神アスタルテに愛された者、タドゥキパ。君は強い()だ。泣くな、顔を上げて立て。己の名に恥じぬよう」 はっとしたように、タドゥキパが顔を上げる。  「…お兄様」  「死ぬつもりはない。…行ってくる」 決意に満ちた瞳の色の横顔は、優しい微笑みを残して裏庭へと遠ざかってゆく。  ヘジュが庭の端で、葦舟を用意して待っていた。  「行先は?」 舵を持つ狒々が問う。  「禁断の都(アケトアテン)だ。あそこしか考えられない」  「了解、っと」 舟を川の流れへ押し出して、メネスは、船主の方に腰を下ろした。月が水面に揺れている。  いつもの鞄には、今すぐ使えるだけの道具は入れて来た。ただし、それを使える機会があるかどうかは分からないが。  「ああ、いい月夜だなぁ」 舵を手に、狒々は、のんびりとした口調で言う。けれど決して、呑気な感想を述べているわけではない。  「今夜なら、君の力もそれなりに解放出来そうか?」  「まぁ、それなりにな。…とはいえ行先はあの、禁断の都だ。異界の神の本拠地だぞ。支配地で顕現されたら、大神の加護があったって無理だ」  「…だろうな」 鏡のような水面に、舟の航路が長く尾を引いてゆく。川の上にいる舟は、メネスたちの乗る一隻だけだ。  「なぁ、相棒? 生きて帰れんかもしれんのなら、今のうちに言っておくことの一つも、あるんじゃないか?」 と、ヘジュ。  「うん? …そうだなあ。いつもありがとう、とか」  「茶化すな」  「本気だよ。君がいてくれたから、私は今のまま、ここに居られる。」 舵の方に背を向け、舳先の向こうを見つめたままで、彼は少し微笑んだ。「――一人じゃなかったから、戦って来られたんだよ。ずっと…ありがとう、ヘジュ。あの時、元の君をすぐに助けに行けなくてごめん…」  「元の? 何の話だ?」  「いいんだ。君に判らなくても、もう一人の君は判ってるはずだから…」 下ってゆく川の先に、仄暗い、死者の亡霊の彷徨う廃墟の都が見え始めていた。
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