第十話 策謀(2)

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第十話 策謀(2)

 がらんとした家の中、呆然と立ち尽くしていたのは、しばしのことだった。  舟が視界の端に消えた時、タドゥキパは突如として、我に返った。  「そう、…ですわ。こんなとこをしている場合では!」 衣装の裾をたくし上げると、彼女は猛然と、家の外へ飛び出した。畑の奥のほうに村が見えている。確か、イブラーはその村に住んでいるはずだ。  誰かが見ているかもしれない、などということは一切気にせず、彼女は夜道を一気に駆け抜けた。そして、村の入り口に立つや否や、すうっと息を吸い込んで、あらん限りの大声で呼ばわった。  「イブラー! いたら返事なさいッ!」 近くの家の屋根がびりびりと震え、家畜小屋の中で眠っていた羊や牛たちが慌てて飛び起き、何事かと鳴き交わす。  村人たちの家々から顔を出す。その中に、見慣れた顔があった。  「え、…ひ、姫様?!」 家で休んでいたらしい男は、上半身は裸で髪もぼさぼさ、寝ぼけ眼のまま、赤く輝く瞳をしたタドゥキパの変容ぶりにぽかんとしている。  「手を貸しなさい。緊急事態よ!」  「え、え? ちょっ…まさか、またネズミが出た、とか?」  「お兄様が危険なのっ!」 はっとして、イブラーは真顔になった。  「すぐに支度します」 家の中に引っ込んでいったかと思うと、すぐに、上着をひっつかんでサンダルをつっかけながら表に飛び出してきた。両親や弟たちが、心配そうに後ろで見守っている。  「ええと、それで? 何が起きたんで」  「タシェリト姉さまが攫われたのよ。それでお兄様は、ヘジュ様だけ連れて出ていかれてしまったの。舟を出して! 行くなって言われたけど、追いかけなきゃ。こんなの罠よ。絶対」  「さ、攫われたって…」 イブラーは、ごくりと息を呑む。  メンネフェルに出発する前、メネスが何者かに攫われそうになっていた話は聞いていた。けれど、本人に手を出せないからと言って、まさか乳兄弟のほうに手を出すとは――。  「あっ」 家に戻る最中、ふいに彼は声を上げて立ち止まった。  「あの人だ、あの人に声を掛けないと」  「何? 誰なの」  「前に殿下と一緒に大神殿へ行った時、少しだけお会いしたんですよ。もう一人の乳兄弟で、大神官様のご子息だとか…」  「神官?」  「月神のコンス様の神官さんです。姫様、俺らだけで追いかけても、もし何かあったら手が足りなくなるかもしれません。俺は神殿に行きますから、姫様は宮殿で――その、誰に伝えたらいいかはお任せします。誰かに伝えて下さい。そんで、家でまた落ち合いましょう。」  「……。」 すぐにも追いかけたそうなタドゥキパは、迷うそぶりを見せた。けれど、イブラーの言うことは理にかなっている。  「…分かったわ。でも急いで。夜明けまでは待っていられませんわよ」  「ええ、もちろん!」  「では参りましょう」 戦女神に憑依された少女の走る速度は速く、それなりに体格のよいイブラーでさえ追い付けない。  あっという間に距離を離され、彼は、舌を巻いてしまった。  「愛の力、だなぁ…。」 そんなことを呟きながら、彼は、せっせと脚を動かして、夜の静まり返った都の通りへと駆け込んだ。  既に参拝の時間を過ぎて門が閉まっていることに気が付いたのは、大神殿の裏手まで来てからだ。  「ああっ、しまった…」 固く閉ざされた門は、乗り越えようにも乗り越えられない。きっとどこかに門番がいるはずだと、イブラーは木戸を叩きながら声を張り上げた。  「おうい、門番さん! 急ぎの用事なんだ。通しちゃくれないか。月神の、コンス様の神官さんに話したいことがあるんだよう。お仕えしてる殿下のことでよう」 中で、ごそごそと動く気配がある。  「神官って、どの神官だ。殿下ってのも、どの殿下だ」  「カエムワセト…ってお人だよ。殿下ってのはメネ…じゃない、ラメセス殿下だ。お二人は乳兄弟だったって聞いてる。早くしないと、殿下が殺されちまうかもしれない! 手を貸して欲しいんですよ」  「んー…何かの病か? 呪詛か? 明日は待てんのか」  「待ってたら間に合わないかもしれねぇんだ! いいから、取り次ぐだけ取り次いでくれよ。殿下とヘジュ様二人だけじゃあ危ないんだって伝えてくれよ…!」 門の向こうからは、何の返事も無い。  「なあ! 聞こえてんのかい門番さん!」  「…聞こえてるよ」 返事をしたのは、別の声だった。さっきの年老いたような門番の声より、ずっと若い男の声だ。  目の前で、門が少しだけ開く。  「お、…」 入って来い、ということか。  恐る恐る、中に踏み込んでいくと、困ったような顔をした老門番の横に、腕組みをして憮然とした表情の若い男が、肩に布だけ羽織った姿で立っている。  「あっ! あんた…じゃない、あなた様、えっと…前に茂みからのぞき見してた」  「余計なこと言うな」 ぴしゃりと言って、じろじろとイブラーの姿を頭の先から足先まで見回す。  「ふーん、確かにお前、あの時メネスと一緒にいた下男だな。オレのくれてやった護符も着けてるし、偽物じゃなさそうだ。」  「当たり前でしょ! こんな時に冗談言ってないで、助けてくださいよ。タシェリトの姐さんが攫われちまって…」 あくびをしながら髪をかき回していたぴく、とカエムワセトの表情が、ぴく、と動いた。  「――タシェリトが、何だって?」  「攫われたんですよ! 多分、前に殿下を攫おうとしてた連中に…」  「それで? メネスは、何所へ」  「わからねぇんで。ただ、タドゥキパの姫様の言うには、丸い金属板みたいなのを見て、行先が分かったって…」  「…異界の神の印か」 チッ、と舌打ちすると、彼はやや乱暴に、門番に告げた。  「出掛けてくる。大神官には、適当に伝えといてくれ」  「あ、はい。…」 それから、イブラーのほうに向かって言う。  「支度してくるから、戻るまで待ってろ。」 苛立ちと共に、僅かな焦りが伝わって来る。彼にとっては家族も同然の乳兄弟ふたりが巻き込まれているのだから、当然だ。  ほとんど走るような速度で自室に引き返す間、カエムワセトは、闇の向こうのどこかを、激しい怒りを込めた目で睨みつけていた。  一方、メネスのほうは、アケトアテン――禁断の神を崇めた王の築いた、かつての都へ辿り着いていた。  前回ここを訪れたのは、数カ月前のことだ。既に放棄された都が変わることなど在り得なかったが、それでも今日は、妙に人が多いなと感じる。  「ふん、気に入らねぇな。死者どもが活発になってやがる」 ヘジュが鼻を鳴らす。  「まるで生き返ったみたいな顔してやがるじゃねぇか」  「誰かがここへ来たんだ。生きた人間だろう」 舟を岸辺につけて陸へ飛び移ると、メネスは、街の入り口で足をとめた。  「――ここから敵地だと思ったほうがいいな」 言いながら、彼は祈祷用の呪文書を取り出して、いつでも開けるよう指で繰りながら先へ進みだした。護符は、落とさないよう携帯用の袋に入れて首に提げてある。ヘジュのほうは、体の毛を銀色に逆立てながら、用心深く辺りの匂いに嗅覚を凝らしている。  死者の亡霊だけが住まうこの都には、冥界へ行けぬ魂たちが、黒い半透明な影として幾千も彷徨っている。川辺の桟橋から続く大通りの、とうに廃墟となった商店街に。宿屋に。人々の家と、宮殿へと続く道に。影たちは、生きていた頃と同じように通りを歩き続けている。  「!」 と、ふいに、影の群れが大きく二つに分かれた。  何かが列をなしてやって来る。王宮の方からだ。  手に細長いものを持ち、揃いの装束に身を固めている。  「おい、兵士だ。相棒! 死人どもが襲ってくる」  「おそらくは王妃の仕業だ。」 相手をしている暇はない。  「逃げるぞ。タシェリトの居場所を突き止めるのが先決だ」  「ああ!」 二人は、通りを反対側に向かって駆けだした。通りに居るのは半透明な影たちばかりだから、人にぶつかる心配はない。ただ、すり抜けるとき、ほんの少しひんやりと嫌な感触があるだけだ。  走り出してすぐ、遠くの曲がり角からも兵士たちが湧き出してくるのが見えた。  「うおっ、やべえぞ」  「こっちだ!」 細い路地に駆け込んで、崩れ落ちた瓦礫の上を飛び越えながら走り続ける。  百年の間、誰も住んでいなかった街はあちこちに砂が積み重なり、戸口まで埋もれた家も少なくない。走りにくいことこの上ないが、兵士たちが追い付いてくるような気配は無い。  路地を駆け抜けると、次の通りだ。  そこにも、兵士たちが「待って」いる。  避けるように別の路地へ駈け込んで走り続けながら、メネスは違和感を覚えていた。こちらを捕まえるつもりなら、一人も追い付いて来なければ、正面から出くわすこともないというのは妙だ。まるで、どこか特定の場所に誘導されているような…。  「ヘジュ、この道の先はどこへ向かっている? 上から見えないか」  「待ってろ」 狒々が器用に、崩れ残った建物の上へと飛び移っていく。銀色の毛並みが月の光に反射する。  「…大通りだ、この先は!」 上のほうから、声がする。  「物見の橋が――ふんふん、おっ?!」  「どうした」  「人の匂いだ。生きてる人間…こいつは!」 ぴょんと通りに飛び降りて、ヘジュが叫ぶ。  「見つけたぞ。橋の上!」  「タシェリトか? 無事なのか」  「判らん。だが、嗅いだことのある匂いがするのは間違いない!」 メネスは、頭上に見えている崩れそうな橋を見あげた。  大通りの上を渡るように作られた、王宮から続く大きな橋だ。両側に窓がついていて、かつては、王や王妃がそこから通りを眺めたり、民衆に向けて演説をしていたはずだった。  橋へ登っていくための階段は、離宮の壁の向こうにある。そして、その入り口には、影の兵士たちが生きていた頃と同じように、警護している。通してくれ、と言っても、素直に通してはくれなさそうだ。  「やるしかないな…」 メネスは、呪文書を開いた。  「おい、今なのか?! 数が多すぎるぞ! こいつら亡霊は、朝になれば消えるんだ。朝を待ったほうがいいんじゃねぇのか」  「忘れたのか? ここは異界の神に捧げられた街なんだぞ。しかも奴は太陽神の一部の神格を借りてこちら側の世界に顕現する。夜のほうがまだ、確実だ」 それに、――タシェリトを朝まで待たせることなど出来ない。  「ああ、判った、判ったよ! 確かにな。わしの力も、今が一番だ」 ヘジュは後ろ足で立ち上がり、大きく吠えて胸を強く叩いた。  「見せてやろう。”偉大なる銀のもの”と呼ばれたわしの力を!」 言うなり、離宮を守る兵士たち目掛けて突進していく。その間、メネスは死者を冥界へ送る呪文を唱えている。  (…効果が薄い。) 辛うじて、すぐ近くまでやってきた死者には言葉の力が届いている。けれど、遠い死者の魂には届かない。  影が槍を振りかざす。  「うわっ」 すんでのところで躱しながら、彼は数歩、後退した。  「相棒!」 ヘジュが慌てて駆け寄って来る。  「大丈夫、こっちは何とかなる。隙をついて階段まで走る…引き付けてくれ」  「ああ、判った…」 百年も前の死者たちが声なき声で何か叫び、援軍を呼んでいる。  「まずいぞ、こいつは…」 街のほうにいた影の兵士たちも、後ろから迫って来る。  ヘジュは牙をむき、威嚇するように構えながら周囲を見回す。  その間にメネスは、水の入った特徴的な形の器を取り出し、月に翳して呪文を唱えてから辺りの地面に撒いた。中に入っているのは、神殿で清めてもらった水だ。清めの水は、ほんの少しの間なら穢れたもの――ここでは悪霊と化した死者たち――を、遠ざけることが出来る。  空になった容器を足元に置くと、彼は次に香炉を取り出した。  死者の輪は狭まってきているが、水で描かれた陣の中に入り込めず、周りをウロウロしているだけだ。  「西の国におわす御方、魂を裁く者、大地を開く者…オシリスよ、偉大なる死の国の王よ。彷徨える者たちに道を指示したまえ」 呪文と共に、香炉の中に火種が落とされる。  「銀なる月の船に乗れ、汝、オシリスたらんものよ。西に至る者、生無き者、勝利を得たるが如く太陽とともに沈み往け。再び、太陽とともに昇る日のために」 ヘジュには、メネスが呪文の言葉を選んでいるのが判った。  ここにいる死者たちは皆、異界の神への信仰のために他の神々を否定している。冥界へ入るための手順も、神々の名を唱え、その理に従わせるだけでは無効なのだ。  「太陽とともに沈み往け、西の地へ。再び、太陽とともに昇る日のために」 彼は繰り返す。  数体の影の姿がゆらめき、吸い込まれるように空へ、銀色に輝く月を目指して飛び立っていく。けれど、ほとんどの影は微動だ利しない。魂をこの地に縛り付ける力が強すぎるのだ。  (焦るな。相手は死者なんだ。攻撃しても効かない…それに、魂を傷つけたくない) 香炉を手に、身を守るための呪文を唱えながら、彼はそろりと歩き出す。  清めの水と香炉の香り、それに呪文のお陰で影の兵士たちの動きは多少、緩慢になっているが、いつ効力が切れるかは分からない。  なんとか離宮の中に入り込み、階段まで辿り着いたところで、彼は大きく息を吐いて汗を拭った。  「やっぱり、そう簡単には”送”らせてくれないな…。」  「当たり前だ。百年もここに縛り付けられてる奴らだぞ? 今まで何人も神官がやって来て、ほとんど何も出来ずに帰ってったような場所だ。相手は、冥界への入り口どころか、冥界の概念すら否定してるような連中だしな。月の舟に乗せられりゃあ、そのまま西へ送れるんだがなあ」 ヘジュは、階段の下に迫って来る影をうらめしげに睨みつけたまま、メネスを背に守るようにして立ちはだかっている。  「…まだ、走れるか?」  「ああ」  「なら一気に上まで走れ!」 頷いて、メネスは橋の上まで続く階段を見あげた。  死者の気配は下の方に集中している。これが罠だとしても、この上にタシェリトがいる以上は、行かなければならない。  「くっ…!」 後ろで、ヘジュが呻いている。  「ああ、もう! 絡んでくるんじゃねえっ」 影の兵士たちと戦っているのだ。実体のない死者の影に、物理的な攻撃は通じない。対抗しているのは、神としてのヘジュの力だ。  その気配を背に、メネスは体の力を振り絞って階段を駆け上がっていった。
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