第十話 策謀(3)

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第十話 策謀(3)

 なんとか階段を上り切ったメネスは、呼吸を整えながら辺りを見回した。  そこは、廃墟を見下ろせる橋の上、だったはずだ。下から見上げていた限り、半ば崩れ落ちそうになった古い橋にしか見えていなかった。  けれど今、目の前に続いているのは、真っ白な石で作られた磨き上げられた廊下だ。窓枠には美麗な模様が描かれ、その下の通りには、期待に満ちた瞳の民衆が集まって、歓声を上げている。  やって来るのは、馬に引かせた、二頭立ての戦車と兵士たちの行列。  旗が、槍先が、まばゆいばかりの太陽の光に煌めいている。日除け付きの黄金の馬車に乗っているのは、――赤と白の、二重の王冠を被った細面の男だ。  (異端の王、アクエンアテン…) 熱狂的な声の渦の中を、王は得意げに、異界の神の印を掲げながら進んでゆく。  これは、百年前の光景なのだ。大神殿の地下室の記録で見た、あの時代の。  窓枠に一歩、近付いたメネスの後ろから、ふわりと花の香りが漂う。  振り返ると、顔の見えない王女たちの列がそこに並んでいた。見えているのはただの影。手に花かごを捧げもち、窓から花びらをまき散らす。歌い手が指にはめた板を打ち鳴らし、白い喉を逸らして歓喜の声を上げる。  「幸あれ、大いなる永遠の都! 偉大なる王! 光の神!」  「我らの救い手、全ての生命を飲み込み、生み出すもの。川に水を送り、緑を芽生えさせるものよ、とこしえなれ!」 顔すらない、影で出来た人形のような王女たちが声を合わせて謳いあげる。  舞い散る花びらの中で、人々は声を合わせる。都の繁栄は、絶頂にあった。  けれどメネスは、知っている。――この光景から五年も経たないうちに、この都は、王の死と共に崩壊の時を迎えることになるのだと。  黄金で飾られた戦車が過ぎ去ってゆくのと同時に、幻は薄れて消えていった。  あとには、しん、と静まり返った闇だけが、月明かりと共に残されている。  はっと我に返り、メネスは辺りを見回した。全ての幻が消え去った今、橋は天井が半ば崩れ落ち、色が剥げ、砂埃が厚く溜まっている。  (タシェリトは…) 見つけた。  橋の中ほどに、後ろ手に縛られて、小さく蹲る姿が見える。周囲には、誰もいない。  「タシェリト!」 叫んだ声がわずかに反響する。ぴく、と肩が震えるのが見えた。生きている。  駆け寄ったメネスは、タシェリトの手を縛る縄に手を掛けた。肩に触れた時、体が小刻みに震えているのが分かった。何か様子がおかしい。  「どこか怪我は? 攫った連中は何所へいったんだ」  「……。」 返事は無く、目は焦点の定まらぬまま、どこか遠くを見ている。  小刀で縄を断ち切ると、彼女は両手を床について、それから、ふいに体を痙攣させたかと思うと、口元を押さえた。  「…ぅううっ、うええ゛っ」 胃の中身が、床の上に零れ落ちる。  「うぅあっ…」  「タ、タシェリト?」 後ろから、ヘジュが追い付いてくる。  「おい、どうした」  「それが…」  「はあ、はあ」 涙をこぼしながら、タシェリトは口元を拭っている。  「水は?」 差し出した水筒も受け取らず、ただ、怯えた目で小さく首を振るだけ。  攫われてから今までの間、一体、何をされたというのだろう。よほど恐ろしいものを見せられたのか。  「……。」 メネスは無言のまま、自分の首に提げていた小さな袋を服の下から引っ張り出すと、タシェリトの首にかけた。そして、彼女を力任せに抱き起すと、ぐい、とヘジュのほうに押しやった。  「タシェリトを連れて街を出てくれ。今すぐに」  「お、おい。お前はどうする」  「あいつらの狙いは、私のはずだ。」 彼は橋の向こう側、王宮のほうへと続く暗い廊下を見つめた。強烈な気配が、そちらから迫って来るようだ。  タシェリトがここに残された理由は、おそらく、その先へ自分ただ一人を誘い込むため。手の内も、行動も、全て読まれている。  だからこそ逆に、応じなければならないのだ。  もしここで引き返そうとすれば、タシェリトまで狙い撃ちされる。ヘジュも、メネスも、ここにたどり着くまでに体力と精神力を消費した。これ以上、往く手を阻む死者の影の攻撃をかわしながら、全員で無事に脱出出来る保証は無い。  「頼む。彼女は、私の大事な家族なんだ。」  「……分かった」 断腸の思いで頷くと、ヘジュは、ほとんど抜け殻と化したタシェリトの体をひょいと抱え上げる。  階段へ向かってゆくヘジュたちの気配が、何者の攻撃も受けず遠ざかるのを確かめてから、メネスは、ゆっくりと王宮の方に向かって歩き出した。  橋から王宮へ続く階段を降りて、メネスはただ一人、ゆっくりと歩いていく。王宮の天井はあちこち崩れ落ち、静かな月明かりが差し込んでいる。冷たい瓦礫の山の中を、どこからともなく囁くような声が聞こえ、明滅する影が滑るように行き過ぎる。  いつしか、彼は広い空間に出ていた。  両側に色の剥げ落ちた柱が立ち並び、その向こうは、開けた中庭になっている。奥には一段、高くなっている場所がある。  玉座の置かれるべき場所。――ということは、ここは、王家の人々が開く宴の間だったのだろう。  ふいに、どこかから琴の音色が聴こえて来た。  と思ったら、急に目の前が明るくなり、ぼうっと火の灯る音がした。瞬間、廃墟が生き生きとした宴会場へと姿を変えていた。柱の前にかがり火が焚かれている。その火が照らし出すのは、色鮮やかな天井の模様。床に敷かれた豪華な絨毯と、その上を澄ました顔で行き交う官女たち。華やかに笑いさざめく声。琴や打楽器の音色。花の香り。ゆったりとダチョウの羽根の扇を仰ぐ召使い。  そのあまりの豪華絢爛さに、メネスも驚いていた。  王宮で開かれる宴には、一度か二度、参加したことくらいある。けれど、今世の現人神とまで言われた偉大なる太陽王の宮殿でさえ、これほどまでの華やかさは持ち合わせていなかった。  惜しげもなく焚きしめられる香木と、散らされる色とりどりの花びら。高級な酒がふるまわれ、官女たちは、褒美にもらった金の腕輪をたくさん腕に嵌めている。  その中から、こちらをじっ、と見つめる視線があることに気づいて、メネスは振り返った。  視線は部屋の奥の、薄い垂れ幕の奥から届いている。玉座の置かれている場所だ。二つの玉座のうち片方に、誰かが腰を下ろしている。  (…あれは、この宮殿の主)  垂れ幕の奥から鋭い目つきでこちらを睨んでいる女は、もう若くはなく、それでいて、老人というほどの歳ではない。  けれど、美しい。  均整の取れた細身の体、気品と威厳に溢れた顔。すらりとした鼻筋と、赤い唇。意志の強そうな鋭い眼差しは、吸い込まれそうな色をしている。  (王妃、ネフェルティティ――) 絶世の美女と言われ、王との間に多くの子をもうけた女性。禁忌とされたがゆえに残されていないが、その姿は、見るものを虜にせずにいられなかった、という。  大神殿の地下で見た記録のままに、確かに彼女は美しかった。そして、威厳に満ち溢れている。  「お前は、あの小賢しい黒頭の朱鷺めの手下じゃな」 メネスが近づいていくと、彼女は見下すような仕草とともに言った。  「どうじゃ? わらわの宮殿は。ここにおる者たちは皆、満ち足りておる。崇高なる我らが神のご威光をとくと見やれ」  「…彼らはもう、この世には居ない。あなたもだ。冥界へ行かず、ここで、この冷たい廃墟でいつまでも、宴を続けるおつもりなのですか?」  「冷たいものか。ここには我らが神がおるのじゃぞ」 威厳ある女性の声が垂れ幕から聞こえてくる。  「西の冥府へ下って何になる。くだらぬ裁きの茶番につきおうて、何になる? 皆、この祝福されし土地で暮らせば良いのじゃ。生きた者も、死んだ者もな。偽りの神など捨ててしまえ。けだものの姿をした神など無意味じゃ。ただ、光の神を崇めておればよい。見よ、この都を。この繁栄を」  「その都は…」 メネスは、小さく首を振った。  「王の死と共に滅びました。なぜ、異界の神への信仰が消え去ったのかを調べました。この繁栄のために一体、何を犠牲にしてきたのか、覚えていないんですか?」  「戯言を。」 扇を持つ手を止め、王妃は微かに苛立った声で繰り替えた。  「――わらわは王妃ぞ。口答えなど認めてはおらぬ」 幻の兵士たちが近付いて、メネスを後ろから殴りつけ、力任せにメネスを床へ押し付けた。兵士たちの腕からは、生きた人間のものとは違う、ぞくりとするほうな冷たさが伝わって来る。  陽気な音楽がぴたりと止み、広間にいた人々の声が消えていく。  「消えはせぬ。真なる神の光は決して、忘れられたりはせぬのだ。いずれ判る」 冷ややかな声が、頭上から降って来る。  「牢に放り込んでおけ」  衣擦れの音が遠ざかってゆく。  兵士たちが頷いて、メネスを引きずってゆく。笑いさざめく広間の亡霊たちは、惨めな姿の彼を指さし、笑いあい、飲みかけのビールの滓を投げつけたり、わざと足を出して蹴ったりしてくる。  その中に生きた人間の気配を感じて、メネスは、思わず首を動かした。  頭からすっぽりと亜麻布をかぶった人物がするりと玉座に近付いて、立ち去ろうとしているネフェルティティの亡霊に何か囁いている。  「…か。我が愛しのお方の骸は、まだ見つからぬのかえ?…」 会話の一部だけがはっきりと、耳に届いた。けれど、判ったのはその部分だけだ。その先は、広間から連れ出されてしまったせいで聞きとれなかった。  廊下の先まで引きずられた後、メネスは、床下の穴へと乱暴に放り込まれた。  頭上で蓋が閉まる。何も見えない――辺りは漆黒の闇だ。そして、足元には深い砂が積み重なっている。手探りで壁を探そうとしていると、何か、すべすべした固いものに触れた。  「…?」 両手で形をなぞった彼は、どきりとして思わず手を放した。  人間の骨だ。  あとすさった手にも、別の太い骨が触れる。墓さえ作られず、無造作に打ち捨てられた人の体が、砂に埋もれ、長年のうちにばらばらになっているのだ。  (信仰に帰依しなかった者たちの末路、…か) このままなら、いずれ遠からず自分も同じことになる。  砂の上に腰を下ろしたまま、メネスは、これからどうすべきかを考えていた。荷物は全て取り上げられてしまったし、もしあったとしても、今のこの状況で役に立ちそうなものはほとんど入っていない。  ここが王宮である以上、王妃ネフェルティティの権威は絶大だ。全ての亡霊たちは彼女の指示に従う。影の兵士たちも、彼女の支配する王宮の中でなら実体と同じ力を得られる。王宮の外でのように、呪文で力を奪うことは出来ないだろう。  そしてこの都は異界の神、アテンに捧げられた土地の上に作られている。そのせいで他の神の力は半減する、と王は言っていた。朝になり太陽が昇れば死者の霊は力を失うが、今度は逆に、街に潜む生きた人間――異界の神の信徒たちが、神の力を顕現させやすくなる。  (…だが、相手は一体、何者なんだ? 私を攫おうとした者。さっき、ネフェルティティの亡霊と会話していた者。…私が街に戻ってすぐ、タシェリトを攫ったということは、戻って来るのを知っていたか…知ることの出来た誰か) 側に転がっていた人間の骨の長い部分を掴んで天井の高さを測りながら、彼は思考を巡らせる。  諦める、という選択肢は無かった。  大人しく死ぬために、ここに来たわけではない。  (…こんなところで、死んでたまるか…) 持って来た道具は穴に放り込まれるより前に全て取られてしまったけれど、頭脳と理性という武器だけは、まだ、手元に残されている。そして、魂の繋がりも。  (ヘジュ…) 胸に手をやりながら、彼は”相棒”の名を、心の中で呼んだ。  そう、こんな状況でもまだ、希望は残されている。
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