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第十二話 新しき道(1)
街に戻った時、二人が見たのは、大混乱に陥っている都の様子だった。
大神殿は封鎖され、祭りは中断されていた。兵士たちが血眼になって誰かを探し回っている。街の出入り口も封鎖されようとしており、桟橋のあたりでは、船を出そうとする者と引き留めようとする兵士とが悶着を起こしている。
「一体、何が?」
側を歩いていた街人を引き留めて尋ねると、興奮したような返事が返って来る。
「王様が襲われたんだよ! 神殿の上から矢を射ったやつがいるんだ」
「無事なのか?」
「判らんよ! 見ていたのは遠くからだし、それに、すぐに神殿から追い出されちまったから」
メネスは、拳を握りしめた。
あの強い太陽王、神々の加護を受けた父の身に、何か起きるはずもない。きっと無事だ。だとしても、――儀式の最中に、神殿の中で襲われるなど。
「オレは戻る。父上…大神官なら何か知っているはずだ。ヒルウェネフのことも気になる」
「ああ、私も、王宮に行ってみるよ」
カエムワセトとは、大通りで別れた。大神殿と王宮は、通りを挟んでさず向かい側にある。
いつもなら誰も見張っていない王族専用の裏口には、今日は、珍しく人間の歩哨が立っている。
「どちらへ?」
そんな尋ね方をされたのも、初めてのことだ。
「母のところに戻るんだ。別邸に住んでいる」
「王妃たちの住まいのあたりは問題ありませんが、宮殿のほうへは行かれませんよ。」
「……。」
王の私的な居住区には近づけない、という意味だ。
王宮の中の様子はいつもと違っていた。
いつもなら謁見の間の手前の大部屋でたむろっている王子や王女たちが、居場所を失くしてそこかしこの庭園や道端でひそひそと話合っている。
祭りを見に行っていた者から聞いた噂話や、王の私室に仕える召使いに物品を握らせて聞き出したという得体のしれない不確かな情報。
「射抜かれた冠が落ちたと聞いたぞ。神殿の中で…縁起が悪い。」
「なんでも、頭に怪我をされたそうだ。倒れて、起き上がらなかったとか」
「傷は重いのか? お元気そうに見えて、もう、ご高齢なのだぞ。」
「まさか。イシスの大神がお側に控えていながら、肉体を傷つけられるなどと在り得ます?」
誰もが困惑し、うろたえている。高位の王妃たちも、その子供たちも、何も知らされていないようだった。
「はあ、何だかね。王一人がどうにかなったくらいで、こうも乱れるものなのか」
ヘジュは呆れながらも、どこか、そわそわしている。
「なぁメネス…人間ってのはよう」
「太陽の光が陰れば、人は心配になるものだ。常に頭上に輝いているものが、たとえ一時でも姿を隠せば…」
何もないのは判っている。判っていながら、不安になるのは止められないのだ。
母キヤの住む邸宅にたどり着いた時には、少し、ほっとした。
周囲を生垣で囲まれた小さな庭は静かそのもので、不安になるような噂話も流れてはこない。
「あっ、お兄様!」
椅子に腰を下ろして、キヤと一緒に薬草を選別していたタドゥキパが、勢いよく立ち上がる。もう、ずいぶん元気になっている。
「聞きましたわ。陛下が祭りで襲われたって…本当ですの?」
「そう聞いたが、具体的なことは何も分からない。街中は大騒ぎだよ。ただ、大神殿の中で王子を殺した犯人――裏切り者は捕まえた。そっちは、カエムワセトに任せたてきたよ」
「そう。大神官様も、お辛いでしょうね…」
乾燥させた薬草の束を袋に入れながら、キヤはため息をついた。
「父上のこと、母さんのところにも、まだ何も話は来ていないのか」
「ええ、何も。でも、これから行く場所で何か聞けるかもしれないわ。ご高齢の王妃様の何人かが、陛下が襲われたと知って倒れてしまったらしいのよ。気付け薬と、心臓の薬を持って行かなくては」
準備していたのは、それだったのだ。キヤは女性の薬師だから、女性しか入ることの許されない王妃たちの邸宅では重宝されている。
「それじゃ行ってくるわ。お留守番、頼んだわね。」
「はーい、いってらっしゃい」
タドゥキパとは、まるで実の母娘のようにすっかり馴染んでいる。ヘジュは台所に入って、朝焼いて積み上げられているパンの中から一つをとり、勝手に齧って腹ごしらえをしている。
メネスは、庭の隅に置かれた、医薬の神ネフェルトゥムの祠堂のほうを眺めながら、あれこれと思考を巡らせていた。
時が過ぎ、夜になっても街の方では、まだ混乱が続いていた。
いちど都を出た者はもう戻ることが許されず、夜間はむやみに出歩かないようにとのお達しが出され、街の住人たちは息をひそめるようにして家の中に閉じこもっている。
祭りのために他所からやってきて宿に泊まれなかった者たちは、神殿の周りの路上にたむろして、大神殿の端にある女神オペトの祭壇の辺りも、一夜の宿がわりにしようと集まって来た人々で一杯だ。
兵士たちは、目的の人物を無事に見つけられたのだろうか。それすらも分からない。
祭りは中断されたまま、大神殿は固く門を閉ざしている。
「王が危ないらしいぞ」
そんな噂まで流れはじめていた。
「王が身罷られたらどうなる」
「そりゃあ、王子が即位するんだろ」
「王子って、どの王子だよ。上の三人くらいもう亡くなってるんだろう」
「そういやあ、この間、大神殿で王子の一人が殺されたじゃないか。あれは…」
留まることを知らない噂が噂を呼び、尾ひれがついて流布していく。それを止めようとする者すらいない。
通りを少し覗いただけで気分が悪くなって、メネスはすぐに王宮の中へ戻って来た。
そこも噂話の百花繚乱だが、少しは立場をわきまえているだけ、まだマシだ。
「第五王子だろ? 今の、いちばん上なのは」
「あの人はもうほとんど立てないんだぞ。半年前に卒中で倒れて以来、寝たきりだ」
「第六王子の母親は庶民出で身分が低い。現実味があるのは第七王子だろう」
「まさか。あの愚か者を王と仰ぐなど、とてもじゃないけど無理よ」
まだ何の話も出ていないうちから、もう、次に即位するのは誰か、などと話しあっている。
百人を超える王の子供たち。
その多くが序列を気にしてひしめき合っていたことを、メネスは、今更のように思い知った。
王は既に即位してから五十年を経過し、いまだ壮健なれど老いは隠せなくなってきた。彼らはその父王のもとで、父が西へ旅立った後も地位を保つことを密かに考え、備えてきていたのだ。
(私には、全く頭に浮かびもしなかった。考えたことも無かった。…いつか、太陽は沈むものだということを)
けれど父がまだ元気に生きている時に、その死後の身の振り方を考える子がどこにいるだろう。たとえ、王位の継承が一国の命運を左右するものだとしてもだ。
次に即位すべき王子の候補は誰か、自分とその王子がどのように親しくしていたかなど、かまびすしく話し合う異母兄や異母姉たちの群れを、メネスは、どこか冷めた目で眺めていた。
そして、そのまま通り過ぎようとしていた。
「あっ、メネスちゃん!」
名を呼ばれて振り返ると、ネフェルエンラーが豊満な肢体をゆすりながら、こちらに向かって走って来るところだった。
「おお、なかなかの揺れっぷり…ぐふっ」
メネスに口をふさがれて、狒々の言葉は途中で途切れた。
「ん? なあに? 何か言った」
「…何でもありません。お久しぶりです、王女」
「そうねー。メンネフェルから戻って以来だものね。」
こんな時でも、ネフェルエンラーは全く変わっていない。それが妙に安心できる。
「どうしたんですか? そんなに急いで」
「メネスちゃんを呼んでくるように言われたの。今から来てくれる?」
誰に、とも、何所へ、とも言わなかったが、彼女の表情からして行先の予想はつく。
「構いませんよ。」
頷いて、メネスはネフェルエンラーとともに歩き出した。
彼女は自然な足取りで、庭を突っ切って宮殿の裏手に向かって歩き出す。そちらには王の私室があり、限られた者しか立ち入りは許されていないはずだ。
日は、既にとっぷりと暮れている。
部屋の窓からは明るい光が漏れ、薄暗がりに、警備の兵たちの影が揺れている。
ここまで入るのはメネスには初めてのことだったが、ネフェルエンラーは、もう何度も訪れているようだった。
「お父様、呼んできましたよ。」
敷石の先の段を上がって、彼女は明るい声を部屋の中に投げかける。
あとに続いて部屋の中へ入っていったメネスは、椅子に腰を下ろして誰かと話している王の姿に、思わずどきりとした。いつも謁見の間で見ている威厳に満ちた姿とは違う、ごく普通の老人のようだったからだ。
王冠も被っておらず、長い外套も錫杖も無い。ゆったりとした部屋着でくつろいだ姿の太陽王には、街の噂とは違って、普段と何ひとつ変わったところは無かった。
じろじろと見つめている視線に気づいたのか、王は、微笑みを浮かべて顔を上げた。はっとして、メネスは慌てて頭を下げる。
「ご無事で何よりです、陛下。お怪我などは…されていないようですね。」
「そちらもな。まぁ、もう少し近くへ来なさい」
ネフェルエンラーに手招きされて、メネスは、彼女の隣まで近づいた。
そして、その時になってはじめて、王と向い合せに座って話していた人物が誰なのかに気が付いた。
アメン神の大神官、…カエムワセトの父親だ。
「全て捕えました」
と、王と同じくらいの年齢に見える大神官は、静かに言った。
「神殿に潜んでいた、禁断の神の信奉者たちも、その首魁であった我が息子も。…目的は果たされました。」
「そしてお父様が怪我を装うことで、王宮内で王の死を望んでいる者が誰なのかも、はっきりしましたわ。」
ネフェルエンラーが、恐ろしいほどの冷たい微笑みで続ける。
「不穏な因子が一網打尽に出来て、何よりです。ふふっ」
「祭りは明日、予定通りに再開される」
と、王。
「罪人たちの聞き取りが終われば、穢れた者たちは国外追放となる。ラメセス、お前には、罪人どもを流す付き添いをしてもらいたい」
「私が、…ですか?」
「そうだ。道中で何が起きるか判らんからな。たとえ異端者どもが船員を怪しい教義でたぶらかそうとしても、残党が襲ってきても、お前ならば対処できるだろう。」
それは信用されているからなのか、と、メネスは微かな疑問を覚えた。大役だが、それだけなら他にも適任者はいるはずだ。
「罪人の多くは、お前の関わって来た者たちだ」
王は静かに、そう付け加えた。
「…サァトレーもケミイトも、結局、余には何も言わなかった。お前となら話してくれるかもしれんがな」
「……。」
そう、王は、かつての妻たちに裏切られたのだった。
「分りました」
頷いて、メネスは軽く頭を下げた。そういうことなら確かに、自分が行くしかあるまい。
「末の息子の謹慎は、解いておきました」
大神官が言う。
「我が神殿内部のごたごたで、殿下にも、随分とご迷惑をおかけしました。どうかお許しを。」
「いえ。」
「そういえば、最近はもう書庫へは来られませんな。ご興味のおありな品は、もう読みつくされてしまいましたか?」
はっとして顔を上げると、老神官が目尻に細く皺を寄せて微笑んでいた。
「あの、――私は…以前、あそこで粗相を…」
「それは、既に知恵の大神が裁かれたこと。わしには咎める権利などありません」
「……。」
「懲りずにまた、おいでください。新しい書物も入っておりますから。」
無言のままに頭を下げると、メネスは部屋の奥に背を向けて、出口へ向かって歩き出す。
「相変わらず、必要最低限しか話さんなぁ。あいつは」
王が小さく呟く声が聴こえてくる。
「お喋り過ぎるよりいいと思うわ。可愛いし。」
「ネフェルエンラー、お前のほうは逆に…」
慌てて庭に出ると、メネスは肩で大きく息をついた。
「どうした、緊張したのか」
狒々がひょいと彼の目の前に回り込む。
「そりゃあそうさ。それに恐ろしかったんだよ。罠をかけたつもりだったのに、…罠にかけられていたのは私たちのほうだ」
「ああん。王サマの言ってたことか」
「王はこの襲撃すら、身内を試すために使おうとしていた…。」
本当は無事なのに、怪我をしたと噂を流させたのは、きっと王自身なのだ。
そして、まるで容態が危ないかのように見せかけて、王妃やその子供たちがどのような行動をとるかを見ていたのだ。
王宮の中には多数の「人ならざるもの」たちの耳目がある。どうせ、全てが筒抜けだろう。
自分は、その恐ろしい王の目がねに叶っているのだろうか?
もし、そうではないとしても、仕事を任された以上はきちんと務め上げるつもりではあったが。
「あー、しかし、国外追放なぁ。国外っつーとあれか、北の国境か」
「おそらくそうだろう。行先は、北東の砦かな」
北の果てまで川を下れば、そこから先は海となる。北西は何もない沙漠へと続く街さえない僻地だが、東のほうには、異国の国々へと続く街道がある。かつてヒルウェネフが交易を行っていた国々も、その先に続いている。
禁じられた神への信仰は死に値する大罪だが、今回の罪人は、高位の神職にあった者や、かつて王の妻であった王妃たちだ。生かしたまま国外追放とするのは、せめてもの情けなのだ。
「遠いな…。行って戻るのに、ふた月かそこらはかかるぞ。」
ヘジュはぼやいている。
「でも、海が見られるだろう? 私はまだ、海というものを見たことが無い。それに下流の街のあたりにあるという、一面の緑の中洲も。それは楽しみだ」
「おっ。なら、ついでだ。帰りにジェフウトの大神殿に寄ろうじゃないか」
「知恵の神の大神殿? 確かに大神殿の中で一つだけまだ行ったことが無いところだけど…あそこは川の支流だから少し時間がかかるぞ。」
「ふた月もふた月半も誤差の範囲内だろ。やることやっときゃ王サマに怒られることも無ぇよ。な、いいだろ? 久しぶりに他の仲間たちに逢いてぇ」
「うーん…どうしようかな…。」
憂鬱な旅のはずなのに、妙に楽しそうなヘジュが、ある意味では羨ましかった。
と同時に、そんな風にいつも前向きでいられる相棒がいてくれたことが、有難かった。
(タドゥキパは、母さんのところで預かって貰おう。カエムワセトに挨拶に行って、タシェリトのことを頼んで。それから…)
具体的なことを考えていると、不思議と、煩わしさよりも、楽しみな気持ちのほうが大きくなっていく気がした。
息の詰まるような窮屈な王宮とも、人目を気にする街中も離れ、見たことも無い遠い場所へ行けるのだ。
そう、新しい場所へ。
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