第二話 太陽の子ら(1)

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第二話 太陽の子ら(1)

 雲一つ無い空の下、川はきらめきながら流れ、対岸の畑で農民たちが畑仕事をしている姿が時折見えている。世話をしている作物は亜麻だろうか。青い花が揺れている。  ときどき手を止め、窓の外に見えるそんな長閑な風景に目をやりながら、メネスは、二階の自室で、せっせと仕事を進めていた。  仕事というのは祈祷書を新しい紙に書き写すこと。それから、携帯用の筆記具に使う固形の墨を作っておいたり、香炉に入れる薬草の束を作ったり――  彼の仕事は不定期で、神官や祈祷師では対処できない「厄介ごと」が舞い込んできた時に限られる。けれどその仕事は表立って口にされることはないから、外からは、彼は何も仕事をしていない、道楽者に見えているはずだった。  街から離れた場所に一人で暮らしている、奇妙な見た目の王子。  ほとんど家から出て来ず、他人とは必要最低限しか交流しない。  時々、見えないものを見ていたり、やたらと独り言を口にする(実際は狒々のヘジュと喋っている)。  近くの村人たちに敬遠されるのも、当たり前といえば当たり前なのだった。  そんな家を訪れる客も、たまには居る。  ほとんどは、切羽詰まった用件を抱えた人々なのだが、…今回は、少し違っているようだった。  玄関から繋がっている紐の先に吊るした木片が、階段でカラカラと音を立てた。  天井から網を吊るした吊り(どこ)でぶらぶらしていた狒々のヘジュが耳ざとくそれを聞きつけて、網に器用に尻尾をからめながら、ひょいと床に飛び降りた。  「おい相棒、誰か来たぜ」  「また? 珍しいな、こう連続するのは」 「禁断の都」アケトアテンから戻ってきて、まだ四、五日しか経っていない。戻ってきてから疲れて丸一日寝ていたから、メネスの体感では、まだ数日だ。  今日は家事手伝いのタシェリトが来ていない。自分で玄関に出てみると、立っていたのは、どこかで見たような男だった。  「…えーと?」  「殿下に助けていただいたイブラーです。その節は、大変お世話になりましたッ!」 言いながら、いきなり玄関前に土下座する。  「ひらに、ひらに…ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでしたッ!」  「あ、いや…大したことは…その」 彼は、慌てて奥の居間の方を見やった。  あまり人が通りかかることはないとはいえ、玄関先で大男に土下座させているところなど見られたら、どんな噂がたつか分かったものではない。  「とりあえず、中に入って。今日は手伝いも来てないから、大したもてなしは出来ないけど」  「もてなしなんて、とんでもない!」 やたらと声の大きな男だ。  死にかけていた時はあんなに弱々しかったのに、というより、死にかけていた時からまだ何日も経っていないのに、見るからにぴんぴんして顔色も良く、すっかり元気になっているのはどういうわけだろう。  (…成程。もともと精力の有り余ってる男だったから、魂を抜かれて四日も耐えられたのか。) 並の人間なら、一、二日もすれば肉体のほうが参って死んでしまっていたはずなのだ。  「それで? 用件は」 玄関に頭をぶつけないよう、おずおずと台所へ入って来た男に椅子を勧めながら、メネスは手短に尋ねた。  「まだ何か問題が残っているのか?」  「ああ、いえ。身体の調子はいいし、一緒に『禁断の都』へ行った弟や友達には何も無くて、本当に、ただのお礼で」 慌てて言いながら、男は恥ずかしそうに頭をかいた。  「そのー、はっきりとは覚えて無いんですが、あんた…いや、殿下が、俺を助けに来てくれたことは覚えてるんでさ。俺なんて何も出来なくて、蛇に睨まれた蛙みてぇに固まってるしか出来なかったってぇのに。そんで、目ぇ冷ましたら側に母ちゃんと親父がいて、母ちゃんはわんわん泣いててさあ。親父が、殿下のことを教えてくれて…。親父はもう関わるのは止めとけ、なんて言ったんだけど、助けて貰って礼のひとつも言わねぇなんて、おかしいだろ? だから俺が来たんだ。迷惑かけたのは俺なんだし」 男はあまりにもざっくばらんに、正直に言いすぎている。  メネスは苦笑した。  確かに、「問題」が解決したあと、ぞんざいに礼を言われるとか、それきりになってしまうことは少なくない。けれど、身内のそんな態度が気に入らないからと、わざわざ押しかけてきたのは、これが初めてだ。  「気持ちは有難いが、礼を言われるようなことは何もしていない。強いて言うなら、これに懲りたらもう二度と、禁足地には近付くなってことくらいかな」  「そりゃあもう! ええ、弟にも、キツく言い含めておきましたよ。俺、めちゃくちゃ反省してます。もうちょっとで死ぬとこだったのは自分で判ってますし」 居住まいを正しながら言い、男は、ちらりと部屋の中を見まわした。  「に、しても…その、静かですね?」  「ここには、私とその狒々しか住んでいないからね」 メネスは、窓枠に腰を下ろし、興味のないふりをしながらこちらに背を向けているヘジュのほうを、ちらりと見やった。  「えぇ?! 殿下って王子様なんっしょ。召使とか居ないんですかい」  「家事手伝いが一人、数日に一度来てくれている。それで十分だ。」 彼は、ちょっと肩を竦めた。  「私は、この見た目だからね。誰も好き好んで働きたがらないし」  「そんな…それじゃあ困るでしょう、色々と。あっ、だったらさあ、俺を雇ってくれませんか。ここで」  「は?」  「それなら、いい恩返しになると思うんでさ! 給料なんて気にしませんよ。どうです?」  「いや、困る…というか…何故?」  「俺んち、畑もそんな広くないし、家畜とかも飼ってないし…礼が出来るとしたら、この、丈夫な体で働くことくらいなんですよ。だからです。」  「……。」 あまりに突然の意外過ぎる申し出に、メネスはうろたえながら、意見を求めるようにヘジュのほうに視線をやる。  けれど狒々のほうは、ニヤニヤ意地の悪い笑みを浮かべているだけで、こんな時に限って何も言わない。  この、いかにも愚直な男が嘘をついているとは思っていない。ただ純粋に、恩を返したいという思い。だとしたら、拒絶する理由は無い。だが――  「――判った。でも、住み込みは駄目だ。ここは狭いし、夜は、その…狒々がたまに騒いだりするからね。通いで週に何日か。明日には家事をしてくれてるタシェリトが来るはずだから、分担は、二人で相談して決めてしてくれ」  「はい! ありがとうございますッ」 言いながら、男は机にぶつけんばかりに勢いよく頭を下げた。  こうして、奇妙な成り行きから、メネスの家には家事手伝いが一人、増えた。  「…やれやれ」 頭を抱えていると、ヘジュがテーブルに飛び乗って来た。  「よう。ありゃあ、なかなか面白い男じゃあないか。助けといて良かったな、ん?」  「命が助かったのは良いことだけど、こんなに強引にお礼をされるとは思わなかったよ」  「いいじゃあないか。お前を見て初っ端から引きもせずに構えてるなんて、あいつは中々の大物だぞ」  「どうだろうな。悪霊に幻の王宮に閉じ込められた後なら、変わり者でも生きた人間のほうがマシに見えたんじゃないか」  「自虐的だなぁ。もうちょっと自信を持てよ、相棒。髪の色さえ無けりゃ、目鼻立ちは王様に似ていい男なんだからさ」  「君の評価は参考程度にしておくよ。」 溜息まじりにメネスは、意気揚々と去って行くイブラーを窓から眺めやり、それから、二階の仕事へと戻って行った。  翌日、いつものようにやって来たタシェリトは、体格のいいイブラーを見あげながら一言、  「いいんじゃない?」 と、こともなげに言った。  「いいんじゃない、って…。」  「高いところの掃除やってもらったり、屋根の修繕やってもらったり、男手はあったほうが楽でしょ? っていうか王子、人見知りしすぎなのよねぇ。生活費は十分貰ってるんだし、住み込みの下男の一人くらい居てもいいじゃない」  「ですよねぇ」  「いやいや、二人で勝手に話進めないでくれ。私は一人で住みたくてここに家を構えてるんだから」 それに、家の中に誰か居たら、夜中に仕事に出かけるたびに説明が面倒になる。  「まあいいけどねー。それじゃイブラーさん、やってもらう仕事を説明するから、一緒に来てくれる?」  「了解でさ、姐さん」 年齢的にはどう見てもイブラーのほうが五つは上なのだが、彼は、タシェリトを先輩使用人と見なしたようだった。初対面なのに意外なほど仲良く仕事をしている二人を見て、メネスは、不思議でならなかった。  「それじゃあ、あとはよろしく。」 それだけ言って、早々に二階へ戻ってしまった。  台所や物入れの中身の説明を受けながら、イブラーはふと、尋ねた。  「そういえば姐さん、殿下のこと『王子』って呼ぶんですね。」  「うん、子供の時の呼び名なの。あたしの実母が王子の乳母で、あたしと、王子と、大神官さまのとこの息子さんを同時に育ててたのよ。それで、呼び捨てには出来ないし、叱りつけたり声かけたりするのにいちいち敬称もつけてられないっていうんで、短縮して『王子』『御子(みこ)』って呼んでたんですって。その名残りなのよ」  「へええ。そんじゃあ、姐さんは殿下との付き合いは長いんですねぇ」  「生まれてから、だからね。もう十五年くらいになるのかなー。呼び方直そうとしたんだけど、王子ったら、本名で呼ばれるの嫌いなのよね。好きな名前じゃないらしいわ」  「あれ? それじゃ、殿下って『メネス殿下』じゃないんで?」  「違うわよ。それ、自分でつけた名前だもの。本当の名前は気に入ってないから呼ぶなって言われてるの。内緒っていうか、私も勝手に人に教えたりは出来ない――」 言いかけた時、玄関の前に誰かが立つ気配があった。  「あら、お客さんだわ。ちょっと待っててね」 タシェリトが玄関に出ていくと同時に、呼び鈴代わりの紐が引かれて、台所と二階、それに庭のほうに張られた紐の先でからから木片が音を立てる。  「どちらさま…あ、王宮からね。」 玄関に立つ伝令の格好を一目見るなり、彼女は相手が何者か判ったようだった。神官風の白い亜麻布を纏い、額と腕には、金糸で太陽をあしらった紋章を縫い取った布を巻いている。  「陛下よりのお召しです。殿下に、これをお渡し下さい」 言いながら、使者はうやうやしく、蜜蝋で封をされた巻物を差し出す。  「ご苦労様です。渡しておきますね」 言いながら振り返ると、ちょうどそこへメネスが二階から降りてくるところだった。  「では」 使者はちらりとメネスのほうを見て軽く頭を下げて去っていく。  「王宮から?」 タシェリトの差し出した巻物を受け取りながら、彼はあまり、嬉しくなさそうな顔をしていた。  「面倒だなあ…。」  「そんなこと言わない。お父様じゃないですか。それに本当は一か月に一回は顔を出すように言われてるのに、何だかんだ理由つけて全然出かけないから、強制呼び出しを食らうんでしょ。他の王子様たちは用が無くても王宮に出入りしたがるのに、逆に寄り付かないのなんて、王子くらいですよ?」  「そうは言われても。こっちからは特に話すこともないし…、わざわざ行っても待ち時間ばかり長くて、謁見なんて、ほんのちょっとだ。」 はあ、と小さくため息をつきつつ、それでも、彼は手元の巻物を見やった。蜜蝋の上には、王が手ずからしたためたことを示す、王家の指輪の印が押されている。  「まあ、呼び出されたら行くしかないんだけどさ…。というわけで、明日は出かけてくるから。悪いけど、留守番頼める?」  「なら、俺が留守をお預かりしますよ!」 イブラーが、どんと自分の胸を叩いた。  「あっ、じゃあ、お願いするわね!」  「……。」 一抹の不安はあったが、敢えて異論を唱えるほどでもない。  かくして、翌日メネスは、イブラーに家を預けて出掛けることになった。行先は、川を少し遡った先にある王都。その郊外に作られた、壮麗にして巨大な太陽王の宮殿、だ。  王都ウアセトを訪れるのは、実に数カ月ぶりのことだった。この国で最も大きな街。国の真ん中を南北に流れる大河を通って、毎日、数多くの船が訪れる。  王宮に続く広い道は今日も、遠くから来た謁見の希望者、見物人、門前市で買い物をするためにやってきた住民など、相変わらず賑やかな人でごった返している。  (相変わらずだなあ、ここは…。) 目立たないよう目深に被った頭巾を念入りに手で押さえながら、メネスは、肩に狒々を乗せて道を急いでいた。  人混みは苦手なのだ。  これだから、毎月ここへ来るなんてとても耐えられない。  かと言って、何カ月も実家に帰らないわけにもいかず、大抵は実母か異母姉にどやしつけられて戻って来ることになる。その反面、父である太陽王からの直接の呼び出しは珍しい。  (ここのところ、ご無沙汰しすぎていたからかな…。) 王宮を出て一人暮らししたい、という彼の要求はあっさり通ったものの、一人暮らしになってから王宮にほとんど寄り付かなくなっていたのは事実だ。あまりにも顔を見せないので叱られるのではないかと、メネスは内心、びくびくしていた。  白く漆喰を塗られた貴族たちの邸宅の間を通り抜け、王宮の敷地に入っていくと、彼は、慣れた足取りで裏口へと向かった。  一般向けの表の出入り口とは別に、王族たち向けの居住空間に繋がる門が隠されているのだ。  庭園を横切っていくと、その門は無造作に目の前に現れた。番兵などは立っておらず、門柱の上には王家の守護者である蛇の像が載せられている。  何の変哲もない石の彫り物に見えるが、その像が魔術による門番になっている。メネスがちらと目を向けると、蛇は首をもたげ、鋭く金色に光る目を向けて威嚇するように口を開けた。  「やあ」 声をかけると、蛇の動きがぴたりと止まった。  金色の目で、じっ、と彼を見つめた後、蛇は何事もなかったように元の石に戻ってしまった。「通って良し」の意味だ。もし許可されていない者が勝手に通り抜けようとすれば、たちどころに毒牙に襲われる。  この王宮には、警備をする人間はあまり居ない。  人間によって警備されているからだ。それに、人間はサボりもすれば見落としもするが、人ならざる身の者たちはそんなことはしない。  王子たちの住むそれぞれの家、王女たちのための庭、身分高き王妃たちの邸宅。それぞれの区画に、それぞれの番人がいて、厳しく目を光らせている。未婚の王女たちの住む区画には、たとえ王子といえど立ち入りは許されないし、王妃たちの住まいに入れるのは、実子と王だけだ。  「よう相棒、母上には逢っていかないのかい」 肩の上からヘジュが訊ねる。母上というのは、メネスの実の母のことだ。多くの妃たちの一人。  「――帰りに少し寄るよ。先に用事を済ませよう」 母ならきっと、逢いに行かなくてもとっくに気づいている。何かと、勘のいい人なのだ。まるで千里眼のように。  ちらと王妃たちの住まいのほうに続く道に目をやってから、メネスは、王の謁見の間に続く、羊頭の像が並ぶ道のほうを選んで歩き出した。  建物の中に入っても、誰何(すいか)する者は誰もいない。逆に言えば、誰何されないということは、彼が何者であるかや、ここにいる理由は見張りの誰もが知っているということだ。  日干し煉瓦を積み上げ、その上に漆喰を塗って模様を描いた平屋の宮殿は、幾つもの部屋と廊下に分かれて、それぞれの部屋や外に続く縁側に、着飾った人々が賑やかに談笑したり、盤遊戯をしたり、暇をつぶしている。  ほとんどは、年長の「異母兄」や「異母姉」たちか、その子供世代だ。  といっても、直接話をしたことは、ほとんどない。百人もの兄弟姉妹ともなれば、全員と面識を持つのが難しい。  それに、王位に近い年長の王子たちとは、親子以上に年齢が違う。逢ったことのない長男は、高齢のために既に他界しているくらいだ。  彼らとは、特に話をすることもない。  足早に通り過ぎようとした時、部屋の一つからひょっこりと若い女性が顔を出した。癖のある長い黒髪を腰まで垂らした、美しい顔立ちの女性。口元には色っぽくほくろが一つ。胸元を大きく開けた薄い布を身に着け、細い金の腕輪を幾重にも嵌めている。  彼女はメネスの顔を見るなり、ぱあっと明るい笑顔になった。  「あーらー、やっぱり、メネスちゃんじゃないの~」  「…うっ」 メネスは、思わず後ずさった。  「ネフェルエンラー姉さん…」  異母姉のネフェルエンラー。高位の王妃から生まれた、父王のお気にいりの子供の一人だ。  女性の肩には、小さな蛙が目立たないよう張り付いている。取り澄ました顔のその蛙が見えているのは、おそらく、王族の中でもごく一部。それほどごく自然に、微かな気配だけでそれは、そこに存在していた。  繁殖と繁栄の女神ヘケトの眷属。生命の創り手たる夫神とともに、人間に子孫繁栄をもたらす女神だ。  「その…メネスちゃん、という呼び方は、ちょっと…」  「えー? 可愛いと思うんだけどなぁメネスちゃん。それとも、メネスたんのほうが良かった?」  「いや、それも…。」  「ね、今日は何しに来たの? お父様にお呼ばれ?」 豊かな体をゆすりながら、彼女は親し気にメネスの肩に手をまわし、惜しげもなく柔らかな香りで包み込む。うっかり捕まると一晩は放して貰えなさそうだ。  慌てて、メネスはその腕を振りほどいた。  「あっ、あの、急いでいるので、また後で!」  「えーっ、もお~。また後で寄ってねぇ、必ずよー」 ネフェルエンラーは、残念そうな顔をしながらも諦めてくれた。その時にはもうメネスは、足早にその場を離れている。  「ひゅー、相変わらずでっけぇなあ、あれ」  「余計なこと言うなヘジュ、聞こえるだろ?」  「相変わらず苦手なんだなあ。ま、ここにいる中じゃあの王女サマが一番怖い、ってのは事実だけどな。」 急ぎ足に歩いているうちに、いつの間にか廊下の突き当りまで来ていた。  目の前には、謁見の間に通じる扉がある。  一般の謁見希望者が入る表側の扉とは違い、身内用の小ぶりな扉だが、さすがに此処には人間の衛兵も立っている。そして、衛兵の側には年経た老人が一人、ちょこんと椅子に腰を下ろしていた。  長年、取次役を務めている人物で、噂では、王のもとに生まれたすべての子供たちを記憶しているという。  「父上に呼ばれて来た。謁見の時間は空いているか」 老人はちらとメネスを見あげると、小さく頷いた。  「そろそろ来られる頃と思っておりました。そこにお掛けになってお待ちを」 庭園に面した廊下には椅子がしつらえられている。  (いつも、ここの待ち時間が長いんだ…。) 椅子に腰を下ろしながら、メネスは小さな溜息をついた。  ここで待っていると、兄弟姉妹たちと出くわすことも多くなる。髪がこうなってしまってから直接会ったことのない者もいて、王宮の噂でしか彼を知らない王子や王女たちは、目を丸くして奇異な目で彼を見る。  それが嫌なのだった。  「相変わらず、ここの庭は何も食えそうな実がねぇなぁ…。イチジクの一本も植えてくれりゃあいいのによう」 ヘジュは居住まいを崩して、くつろいだ様子で隣に腰を下ろしている。  庭から差し込む明るい光。  眠たくなってしまいそうな時間が過ぎて行く。  ――と、その時、いきなり目の前の扉が荒々しく、大きな音とともに開かれた。そして勢いよく、一人の男が転がりだしてくる。  「うわっ、ぷ…」 衛兵が驚いた顔で、慌てて男を掴んで引き起こす。  転がり出て来たのは、身なりからしてどうやら王子の一人らしい。鼻から垂れる血もそのままに、男は衛兵の手を振り切って、閉まる扉に縋ろうとしている。  「お、お待ちください父上! 私は何も無茶を言っているのではなく、ただ、この損失の埋め合わせのために是非ご支援を…ッ」 声を断ち切るように、無情に扉が閉ざされた。  「ち、父上!」  「お引き取り下さい殿下。謁見の時間は終わりでございます」 衛兵たちが行く手を阻み、老人が、静かに告げる。  「…くっ」 鼻に手をやりながら、男は、まだ諦めきれないといった様子で立ち去っていく。ぽかんとして見守っているメネスのほうには、一瞥さえくれずに。  「ありゃー、何か事業に手を出しでもして失敗したボンクラだろうなぁー…」 隣でヘジュが、誰にも聞こえないのをいいことに容赦のない感想を言っている。  「というか、あれ、本当に王の子か? どうせ連れ子だろ」  「しっ、ヘジュ。どこで誰が聞いてるか分からないんだから、あまり失礼なことを言うな。あれは、多分…」 去って行く男の身なりを見やりながら、メネスは呟いた。  「…私よりは高位の王子だ」  「母親の格と生まれた順番で、だろ。それだけだ。王家の役割を担えなきゃ意味がないね」  「こら。そのへんに…」  「殿下」 老人に呼ばれて、ひそひそ話していたメネスは慌てて立ち上がった。  「あ、はい」  「どうぞ、お入りください。」 衛兵が扉に手を掛けて待っている。  中に入っていくと、とたんに空気が変わった。  ぞくりとするような、畏怖の感触。部屋の中央には、卓を前にした太陽王その人が座っている。  何も知らない謁見者は、それが王の威厳ゆえなのだと思うだろうが、メネスの目にははっきりと、その両脇に侍る、全くそっくりな顔立ちをした二柱の女神たちが見えている。  玉座の女神イシス。  祠堂の女神ネフティス。  王の肉体と魂それぞれを守護する双翼の守護女神たち。一部とはいえ、最上位の女神を二柱も同時に顕現させて自らの傍らに置いておける存在は、この国ではただ一人だ。  それ以外にもこの部屋は、人ならざるものの気配に満ちている。その荘厳な雰囲気に気圧されてか、いつもは騒がしいヘジュでさえ、今は、大人しくメネスの後について行儀よく二足で歩いていた。  王の目の前まで来ると、メネスは膝をつき、臣下の礼をした。  「お召しに従い、参上しました」  「ふむ、思っていたより元気そうだな。まぁ、もそっとこっちへ来なさい」  「……。」 大きな手で招かれて、メネスはおずおずと卓に近付いた。  王の年の頃はもう七十近いが、大柄な体格と堂々たる覇気はいまだ健在だ。  けれど若々しすぎるということもなく、目尻や口元には皺が寄り、既に真っ白になった髪は指甲花(ヘンナ)で紅く染め上げられ、玉座の脇には歩く時に使うための杖が立てかけられている。  「王宮を出てからの暮らしはどうだ。少しは気楽にやれておるのか?」  「はい、お陰様で。仕事に出るのも楽ですし」 言いながら、メネスは視線をどこへやったらよいかをさ迷わせていた。王の輝くような真っすぐな眼差しは、正面から見返すにはあまりに強すぎる。  「最近、『禁断の都』へ行ったな。」 一瞬言葉に詰まったが、なぜ知っているのかなどと問うのは愚問だ。王の傍らには、冥界の入り口の門をも管理する女神たちが(はべ)っているのだから。  「はい…かの王の末の王女の魂を連れ出して、冥界へと送りました。」  「どうだった? あそこは」  「どう、と言われても…。相変わらず、恐ろしいところです。それに、悲しいところだ。あそこに囚われた魂は、いつまであのままなのかと考えていました」 顔を上げ、メネスはようやく、父の顔を見た。  記憶にあるままの、強く、優しい威厳のある表情。  自分と似てている部分もあるような気もするが、全く違うようでもある。肉親の情は感じる。けれど、それでいて、どこか――恐ろしい。  「高位の神々の力を借りて、あの場所を丸ごと浄化することは出来ないのですか? それともせめて、建物をきれいに壊してしまえれば、物見遊山で迷いこむ近隣の住民もいなくなるでしょう」  「ふむ。建物のほうは検討してもよい。だが、そうすると何もないからと言って逆に、家を建てたり畑にしたりする者が現れんとも限らん。そして…浄化については、不可能なのだ。」  「不可能?」  「その土地で最も力を持つのは、土地の守護者だからだ。かの地は異界の神に捧げられてしまった。それ以外の神の力は、たとえここに居る双翼の女神たちであっても半減してしまう。」 いかにも明快な答えで、それ以上は何も言えなくなってしまう。  俯くメネスの頭に、ぽん、と手を置いて、王は、息子の白い髪を無造作にかき混ぜた。  「とはいえ、お前はそんな場所から知恵で一つでも魂を救い出せたのだ。誇れ、もっと胸を張らんか。」  「…ありがとう、ございます」 乱された髪をそのままに、彼は、形ばかりの礼を述べた。  どれだけ親しくされても、優しい言葉を掛けられても、それを素直に受け取れるほどメネスは幼くは無かった。自分は百人いる子供の一人に過ぎない。下位の王妃から生まれた、取るに足りない存在なのだという思いは、決して消えることはない。  「あの、お話がそれだけでしたら…これでお(いとま)してもよろしいでしょうか。お忙しいでしょうし、あまりお邪魔しても。」  「うん? そうか? わしはまだ構わんのだがな。お前から何も無ければ、退出しても良いぞ」  「はい。では、失礼します」 頭を下げ、くるりと扉のほうに向きなおると、失礼のない程度に足早に、出口に向かおうとする。  その背中に向かって、王の言葉が飛んでくる。  「あまり無茶をしすぎるなよ、。」  「……。」 半分だけ振り返り、曖昧に頷くと、メネスは、逃げるように部屋を後にした。  彼は気づいていない。  後ろについていきながら、狒々が振り返ってちょっと肩を竦め、困った顔をして王に微笑んで見せたこと。それに応えるように、同じ表情をした王が、黙って頷き返したこと。  それはある意味、諦めの境地のようなものだった。どれだけ本当のことを言われても、真っすぐに褒められても、本人が気付こうとしない限り、決して気づくことはないのだろう、と。
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