第十二話 新しき道(2)

1/1
前へ
/32ページ
次へ

第十二話 新しき道(2)

 川は下ってゆくごとに幅を増し、やがて、一面が緑の葦に覆われた広大な中洲へと至る。  この国の北の果て。そこは「海」と呼ばれる果てしない巨大な塩水の湖で終わっている。そしてその中洲の東の果てに、国境として造られた砦と街道が続いている。  船で送られてきた罪人たちは、砦へと引き渡され、そこで執政官から最後の裁きを言い渡される。  身に着けていた全ての装飾品を剥ぎとられ、囚人用の粗末な腰布だけを巻いたヒルウェネフを筆頭に、他の囚人たちも、ほとんど布一枚しか身に着けていない。足枷を外されて、彼らは国境線の壁の前で一列に並べられていた。  「偉大なる王のお慈悲により、命だけは奪われない。だが、お前たちはもう、かつての者ではない。この国の国民ではなく、神々の加護の元にも無い。元の名を使うことは許されず、戻って来ることは生涯かなわない」 執政官が罪状と判決を読み上げている間、ヒルウェネフは蒼白な顔をしたままで押し黙っていた。  胎児を失ったケミイトは、ほとんど抜け殻にようになっていて、老婦人サァトレーは、ただ真っすぐに正面を見据え、こんな時でも気品を保ち続けている。  追放される者たちの反応は様々だった。泣いている者もいれば、どこかぼんやりしている者もいる。  この旅の間、メネスが罪人たちと話せる機会は、ほとんど無かった。  それに彼らもまた、ほとんど何も話したがらなかった。ただ、数人だけが、自分がどうして「異界の神」に信仰に傾倒していったのかを話してくれた。  子供を失くしたこと。  書記学校での成績が悪すぎて就職できず、親に勘当されたこと。  妻に浮気をされ、何も信じられなくなったこと。  ――生きてゆく辛さに耐え切れなくなった時、それは目の前に現れた。その天啓に、全てを捧げれば救われると信じたのだ。  後悔している、と言った者もいた。  いつか自分たちの真なる神が救いをもたらしてくれると言い続けていた者もいた。  彼らの行く先に何があるのかは、分からない。けれど、少なくともこれは、可能性へと続く「新しき道」なのだ。  執政官の宣告が終わると、ヒルウェネフがゆっくりと口を開き、震える声で左右にいる同胞たちを促した。そして、砦の先、異国へと続く荒野のほうに顔を向ける。  「行こう。我らは今より何者でもない。ただ、真の神のもとに従う光の使徒となる。」  「ヒルウェネフ・アメンモセ!」 遠くで見守っていたメネスが声を張り上げる。  「最後に何か、言い残すことは? カエムワセトに伝えることがあれば預かろう!」  「アメンモセ…か。」 呟いて、男は笑みを浮かべる。  「弟には、兄は死んだと伝えてくれ。アメンの名は捨てた。もはや私はただの…だ! それだけが、これより我が名となる。」 彼は振り返り、メネスを睨みつけた。  「いつか我らの民は大きくなり、ここへ戻って来るぞ。その時、お前の朱鷺頭の知恵の神は、まだ、この国で地位を保っていられるかな?」  「そうであっても、そうでなくとも」 メネスは答える。  「知恵の神の本質は無くならない。人間が『思考する』生き物である限りは」 男は何も言わず、両手を掲げた。それは降参の合図だと他の者たちは思っただろうが、メネスには、そうは見えなかった。  ――あの手は往く先のあらゆる道を踏破して、どんな困難も乗り越えてゆくという覚悟の証だ。  人々の列が、重たい足をひきずりながら動き出す。  (そう、人間は、自ら道を切り開く者なんだ。…そして人という存在自体が無くならない限り、神は生き続ける。それが、どんな神であれ…)  列を成して去り行く人々の眼前には、茫漠たる荒野が広がっている。  そして、先導者たるかつての名を捨てた男は、両手を広げたまま、今や誰にも咎められることの無くなった神の名を唱えながら、どこへとも知れぬ地平へと消えて行った。  メネスの提案で、その日は船を街の近くで停泊させて一日、休暇とすることにした。ここまで急ぎの船旅だったから、少し、ゆっくり陸で過ごしたかったのだ。  船倉が空になり、気が楽になったのもある。それに、明日からは期限も無い帰路なのだ。急ぐ旅でもなく、初めて目の当たりにする海を、もう少し眺めていたかった。  ここまで囚人たちの見張りを務めてきた兵士たちは、休みを貰えてうれしそうに街に繰り出していった。そしてメネスは、緑の葦の原が広がる中洲で敷物を敷いて腰を下ろし、川の水と海とがまじりあう場所を眺めながら、ぼんやり過ごしていた。  宵の明星が、西の空低く輝いている。  海から吹く風には嗅いだことの無い匂いがして、何か、遠い昔の記憶を呼び覚まされるような感覚がある。  「おぅい、相棒。いいもん貰ってきたぞー」 ヘジュが船の方から、小躍りするような足取りでやってくる。手には麦酒の壷と、果物の入った籠を提げている。  「どうしたんだよ、それ。」  「へっへー、砦の連中と船員たちが、一仕事終わった祝いに盛り上がってたのさぁ。つーかお前も来れば良かったのによ。こういう時は王子サマ自ら盛り上げるもんじゃねぇのか」  「えぇ…。そういうのは、ちょっと」  「冗談だ、冗談だよ。お前に、そういうのが向いてないのは判ってる。」 敷物の端に腰を下ろし、酒と果物を置き、狒々は器を差し出した。  「まぁ飲め。ご苦労さん、これで一仕事終わったな。」  「ああ。…そうだな。」 全てではないが、一つの仕事がようやく終わったのだ。  まだ解決していない問題は沢山ある。  亡霊たちの蠢くアケトアテンの廃墟。禁断の神の教えを口伝として伝える者たち。  かの異界の神への信仰は、おそらくこの先も、完全に消え去ることはないだろう。――それを求める者たちが居る限り。  どろりとした麦酒の入った器を手にしたまま、メネスは、遠い星空を眺めていた。じきに、月が昇る時間になる。  「――なあ、ヘジュ。」  「あん?」  「私は一度、異界の神に呼ばれたことがある。大神殿の地下で…『神』としての君と出会うより前に。」 果物を口いっぱいに頬張っていたヘジュが、思わずむせ込んだ。喉に詰まった果物を飲み込むために急いで胸を叩き、大きく、ごくりと音をたててつばを飲み込んだ。  「出くわしたのか? 大神殿って、アメンの大神の家でか?」  「ああ。今ならその理由も判る。異界の神は太陽神ラーの眷属として現れる、とサァトレーが言っていただろう? 全ての太陽神の根源は、ラーに通じているからだ。冥界の神、プタハの大神の神殿にさえ、太陽はあった。妻と息子。太陽の娘である女神と、太陽の花の化身。…どこにでも誘惑は、あれが現れる隙間はあるんだろう。どれだけ禁じようと、封じようと、呼び出すものが人の心の隙間なら、この先もずっと消えることは無い」  「…お前の役目は、…終わらない、か」  「そういうこと。多分、私の代でも終わらないよ。この先もずっと続く」 メネスは、微かに微笑んだ。  「本当なら、私はもう死んでいた。それを異界の神の理を拒絶せよという試練と引き換えに、知恵の大神が少しだけ延ばしてくれたんだ。」  「それが、大神との契約なのか。」 ヘジュは額に手をやった。  「なんという無茶を…」  「辛いとは思わない。君がいてくれるからね。…この命が尽きるその時まで、私は、真理を探し続けたい。ずっと…一緒に」  「相棒…」  人の命は短く、百年に達することもない。空を埋め尽くす星々の、ただ一度の瞬きにも満たないほどの時間しかない。  けれど、その短い時の中で、人は足掻き、道を探し、思考し続けるのだ。  次の世代に、人の世の(ことわり)を繋いでゆくために。  いつしか月が昇り、銀の輝きが地上を照らし出していた。  「ヘジュ。」 ふと、それまで黙っていたメネスが呼びかけた。声が微かに調子を変えたような気がする。  「神に祈るのはどうしようもない時だけで、祈らずとも何とかなることは自分で何とかする、などと言い出す人間を、どう思う?」 はっとして、狒々が顔を上げる。  立てた膝に腕を乗せたまま、メネスはさっきから格好を変えていない。けれど、その横顔には、微かに先ほどまでとは違う気配が漂っている。海風にたなびく白い髪が、微かな銀色を帯びていた。  「――大将?! ジェフウトの大神…ひと、いや神が悪いな、あんた、いつからそこに…まさか、」 狒々は、ぺちりと自分の額を叩いた。  「そうか、髪の色が戻らなかったのはそういうことか…あんた、ずっと、こいつの中に居たんだな?」  「一部だけはね。君と同じだ」 声には微かに、どこか遠くから響いてくるような気配がある。メネスの姿のままで、その存在は、静かに目を細め、海を見やった。  「人間の中に宿るのは、千年ぶりくらいか…。確か、前は、イムホテプという男だったな」  「何でまた、そんなことを? あっ、まさか異界の神に負けた時のことを考えて?」  「まさか。呑まれてしまうなら、それまでだ。選択するのはその人間自身なのだから。――私はただ、この人間の眼を通して見、耳を通して聴き、思考を読んでいたかっただけだ。それはとても、興味深い体験だった」 メネスの胸に手をやって、しばし、その鼓動を感じている。  「彼は私と出会った時、祈るのは人の力ではどうしようもない時だけだと言った。そしてその言葉通り、本当にどうしようもなかった時以外は手助けを必要としなかった。人間は強いな、ヘジュ。いつかは、我々の力など必要ではなくなる時が来るのだろう。あの異界の神など、恐れるに足りないよ。この者が迷わず禁断の果実を手にしたように、人は何度でも禁じられたその先へ可能性の手を伸ばし、やがて、神など乗り越えていってしまうんだ。」  「それは――」  「いつか、彼らの子孫の見る、遠い未来の話だ。」 時の支配者である神は、その眼差しを遠い空の彼方へと向けていた。  時は過去から未来へと途切れず繋がっている。その「先」の記憶も、全てを識る者は既に見えている。  「さて。私は、そろそろ行こう。この者をもよろしく頼む」 ふわり、と銀の光が羽根のように舞い散り、メネスの首が、がくんと垂れた。  「…あれ?」 今まで眠っていたかのように、彼は、目をこすりながら辺りを見回した。  「目が覚めたか、相棒」  「うん、疲れてたのかな…。そろそろ戻ろうか」  「…ああ」 月明かりに照らされて、白い髪が揺れる。それは今も、彼の中に知恵の大神の一部が宿り続けているという証だ。  過酷な使命は、呪いといえばその通りだが、同時に、祝福でもある。神に認められ、常に共にあるという証だ。  (どう思うか、って。わしには、他の人間のことなんぞ判らんよ、大将…) 酒の壷と敷物を抱えて歩き出すメネスの後ろを、残りの果物の入った籠を抱えてついていきながら、ヘジュは、心の中で呟いた。  (けど、一つだけ言える、確かなことがある。わしは、この人間が好きなのだ。――わしの、大事な相棒が) いつかきっと、別れの時は来るだろう。けれどそれは、終わりではないと信じたかった。  本当の意味での永遠など無いと知りながら、共に生きた記憶は、この世界は、その先もきっと、どこかに息づいていくはずなのだと。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

52人が本棚に入れています
本棚に追加