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第二話 太陽の子ら(2)
謁見の間を出てから、メネスは思わず顔を覆ってその場に崩れ落ちていた。
(ああ…また、やってしまった…。)
父である王に逢う時は、いつも何故かつっけんどんな口の利き方をしてしまう癖がある。会うまでは緊張しているくせに、いざ会ってみたら妙に態度が大きくなるのだ。
今日だって、もういいと言われないうちに自分から退出させてくれなどと失礼なことを言ってしまった。
それに――。
(何故、父上は誉めてくれたのだろう…。)
撫でられた大きな手の感触はまだ、頭に残っている。
髪を整えながら、彼は首を傾げていた。何も特別なことをした覚えはない。それどころか、勝手に禁足地に踏み込んで、その報告さえせず呼び出しを食らったほどなのに。
視線を感じて、はっと顔を上げた。
廊下には、次の謁見者が待っている。
十歳かそこらの、面識の無い年下の王女だ。どこか異国風の顔立ちをして、豪奢な衣装に身を包んでいる。
彼女が驚いたような顔でこちらを見つめているのに気づいて、メネスは、慌てて表情を引き締めながら、足早にその場を立ち去った。
帰りは道を変え、ヘジュを先に立たせて用心しながら道を探る。
「どうだ? ネフェルエンラー姉さんは居ないか?」
王宮の中で茂みに身を隠しながらこそこそしている王子などもとても見られた姿ではないが、彼はそれだけ切羽詰まっている。
「お、おう。こっちには居ないようだが…だがなぁ、相棒。何もそんなに…」
頭からすっぽり頭巾を被った上、木の枝を手に持って並木と一体化したふりをしているメネスの姿に、通りかかった使用人が怪訝そうな顔をしている。余計に目立っている気がするのは、気のせいだろうか。
「本当、見つかったらまずいんだって。居ないんなら、一気に行くぞ。ほら、せーので」
「ああ、はいはい。せーの…」
通りを一気に駆け抜けて向かいの茂みに飛び込むと、メネスは用心深く辺りを見回した。それから、ほっと胸をなでおろし、生垣の下をくぐって邸宅の庭に忍び込む。
「全く、どうして実の母親に逢いに行くのに、こんな方法を…」
後ろから、ヘジュがぶつぶつ言いながらついてくる。
「まあ、あなた。何やってるの」
ちょうど庭で薬草園の側にしゃがんで作業していた女性が、驚いた顔をして立ちあがる。手と前掛けは土と薬草の汁に汚れ、長い髪はざっくばらんに首の後ろでひとまとめにされている。
飾りっ毛も無ければ、色気も高貴さもない。だが、正真正銘、王妃の一人だ。
「…やあ、母さん。ただいま」
これが、メネスの生みの母。王宮づき薬師でもある、キヤなのだった。
母の住んでいるのは、側室用の離れ屋だ。女性たちの居住区間の一番端に位置する。
大抵の王妃たちは王宮の専用区間に部屋を持っているが、メネスの母親の場合、王の側室という立場のほかに、神職と薬師を兼ねているために特別にこの邸宅を与えられている。庭の隅には彼女の仕える医薬の神であるネフェルトゥム神の小さな祠堂、それに小さな池と薬草園が、作られている。
草や木の葉を払って椅子に腰を下ろした息子の前に、彼女は、摘みたての薬草から煮出したばかりの良い香りのする薬湯を置く。
「庭から帰省なんて斬新ね、ラメセス。そろそろ戻って来る頃かとは思っていたけど、ここまでは予想出来なかったわ」
朗らかに笑う母の笑顔は、以前と変わっていない。
「はい、ヘジュ様も。イチジク食べます?」
「おっ、さっすが気が利くなぁ! ありがてぇ」
「いえいえ。いつも息子がお世話になってますから。」
たっぷりとした水気のある果実を受け取って、ヘジュは満面の笑みだ。まだ熱い薬湯を少しずつ啜りながら、メネスは、家の中を見回した。
天井から吊るされた薬草の束、壁の棚一杯に並べられた薬の小瓶。それに、薬草から香水を抽出するための装置。
「相変わらず忙しい?」
「まあまあ、ってところね。最近は後宮で病気になる人もあんまり居ないし。喘息もちの使用人の面倒を見たりするくらいかしら。あとは――そうね、陛下の関節痛の薬」
そう言って、キヤは微かに、愛おしげな笑みを浮かべる。その僅かな表情の変化に気づいて、メネスは思わず聞いた。
「父上とは、今もたまに話を?」
「ええ。たまにお薬を塗り込んで差し上げに行ってるわ。もう子供を産んで差し上げられる年じゃないし、閨のお相手は若い王妃たちに譲ってますけどね。…あ、またそんな顔して。あなたももういい年なんですからね。いつまでも初心な子供じゃいられないわよ。そろそろ結婚してみたりしないの?」
「えぇ? いきなり? …母さんが、そんな街のおせっかいおばさんみたいなことを言うなんて」
「冗談よ。でも勿体ないわねえ、あなたはいい男なのに、言い寄って来る女の子の一人もまだ居ないの?」
「……。」
「あ、そうだ。お仕事に使う薬草、必要でしょ? 準備してくるわね。ゆっくりしてて」
メネスは黙ったまま、薬湯を啜っている。母に悪気がないのは判っている。けれど、口を開いたら自虐的なことを言ってしまいそうで、何も言うことが出来ない。
「あ痛っ。」
足をつねられて、メネスは思わず声を上げた。足元を見ると、イチジクを頬に含んだまま、どこかふてくされたような顔で狒々がそっぽを向いている。
「何するんだよ、ヘジュ」
「ほんと相棒、お前はさぁ、そういうとこがなぁ…」
「何がだよ」
「何でもないよ。まったく、王様も母上も、お前には苦労させられっぱなしで気の毒ってもんだ」
「はあ?! どういう意味だよ。そりゃ、気を使わせてるのは判ってるけど…」
「だーかーらー、そういうところが判ってないんだっつーの」
「訳が分からないよ。」
「もういい。」
むすっとしたまま、ヘジュは庭の方へ消えていく。一人になったメネスは、小さく溜息をついた。
――他人の気持ちは、良く分からない。実の両親でも、いつも側にいる「相棒」のヘジュでさえ。
きっと愛されているのだと思いつつ、それを心から信じていいのかどうかの確信が持てない。
ただ珍奇な見た目を面白がられているだけなのに、好かれていると勘違いするほど悲しいことはない。王の息子だからという理由だけで期待されて、何も出来ないことが怖い。
それなら、最初から無いものとして扱われるほうがまだマシだ。
母の身分の序列、生まれた順番、格式、王族の序列。
互いを牽制しあう名家出身の王妃たちや、王のお気に入りの子を産んだことで嫉妬されて追い詰められていく低位の王妃たち。王の嫡子でありながら神と人の世界を繋ぐ力が弱いために血筋を疑われ、王室を去ってゆく子供たち。
権謀術数渦巻く王宮は、彼にとっては冥界よりも恐ろしかった。
本質的に馴染めないのだ。
だから、…ここに戻る機会は、出来るだけ少なくしたいのだった。
「お待たせ、はい。これ、薬草持って行って頂戴。」
キヤが戻ってきて、寄木づくりの小箱をメネスに手渡した。
「タシェリトちゃんは、今も手伝いに来てくれてるの?」
「ああ。二日か三日に一度来てくれてる」
「じゃあこれ、ちょうどいい亜麻布が余っていたから渡して頂戴な。それとお化粧道具もね。貰いものなんだけど、私には、ちょっと色が若すぎるから。」
「ありがとう。それじゃ、これで」
「もう行くの?」
「家が心配だから。今日は、慣れない人に留守番を頼んで来ているんだ。――ヘジュ、行くぞ」
庭のほうから狒々が駆け戻って来る。
「それじゃ母さん、また。」
「はいはい、またいつでも戻ってらっしゃい。」
狒々を肩に乗せ、受け取ったおみやげを手に、メネスは王宮をあとにした。
なお、帰りに立ち寄ってくれなかったことに気づいたネフェルエンラーが大いに悔しがり、次こそはと不穏な企みに至ったことを彼が知るのは、これより、ずいぶん先のことなのだった。
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