第10話『最後の選択』

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第10話『最後の選択』

春野亜矢、16歳。 彼女は一度、事故で命を失ったが、死神グリアから『仮』の心臓を与えられ、今も生き続ける事が出来ている。 その心臓に毎日、死神から『口移し』によって命の力を注いでもらわなければ、生命を維持出来ない体になってしまったのだが。 そして今日が、あの日からちょうど1年。 365回めの口移しの後に、少女を待っている結末とは。 ごく、普通の日だった。 普通に登校して、普通に過ごして、普通に帰宅して。 今日が、最後の『口移し』の日だって事は、グリアも分かっているはず。 なのに、彼は普段と何も変わらない様子だった。 いつものように、グリアは意地悪を言いながら絡んで来たし、いつものように、2人して下らない事で口ゲンカもした。 そんな平凡な日、初めていつもと違う事が起きたのは。 亜矢が帰宅し、マンションの自室のドアを開けた時だった。 ドアを開けた瞬間、亜矢の目の前に広がっていたのは、真白な空間。 どこまで見渡しても、無の空間。地と空の境界線すら判らない。 亜矢は一瞬、驚きに足を止めたが、すぐに前に向かって歩きだす。 その白い霧の向こうには、死神グリアが立っていた。 長い、黒のコート。首には、大きな赤い宝石のついた首飾り。 正面から向かいあうようにして、亜矢はグリアの前で歩みを止めた。 「なんか、懐かしいわ」 そのグリアの姿は、亜矢にあの日を思い出させた。 「1年前、あなたと初めて会った時もその格好だったわよね」 グリアは目を伏せ、小さく笑った。 「こっちの方が正装だぜ?」 そう、彼は死神。亜矢のクラスメイトであり、高校生であるというのは仮の姿。 「それに、この空間。あたしが事故に遭ったあの日も、気付いたらこの空間に居て………あなたが現れて」 亜矢は、昔を思い出すような口調で語る。 「誰にも邪魔されたくねえだろ?今日の『口移し』は」 どこまでも勝手な人、と亜矢は思いつつも、1年前とは明らかに違う感情をグリアに向けていた。 『魂の器』の儀式。 それは、禁忌とされた儀式。 一度は死した亜矢にグリアが与えた、『仮』の心臓。 その心臓にグリアが毎日欠かさず『命の力』を注ぎ込む事によって、仮の心臓は、365日後に完全な物となり、蘇生する事が出来る。 そして、その心臓を持つ人間の魂にも、膨大な力が宿る。 その『完成された魂』を食べる事により、死神は永遠の命を手に入れられる。 だが、365日経った日にその魂を食べなければ、長期間力を消費し続けた反動が全て死神自身の体にふりかかり、死神は消滅してしまう。 魂を喰われる事、それは人間にとって『死』。 最後の口移しの後に生きていられるのは、グリアか亜矢、どちらかしかない。 何のつもりでグリアがこんな危険な儀式を行おうとしたのか、真意は分からない。 だが亜矢は、グリアがどんな選択をしようと受け入れるつもりでいた。 結論や結果は、亜矢にとって一番の問題では無かったから。 「………これが、最後の『口移し』ね」 亜矢はグリアの眼を真直ぐ見つめる。 「ああ、『口移し』はな」 グリアもまた、少し見下しながら、亜矢の眼を見返す。 「『口付け』ならこれから先、いくらだって出来るだろ?」 グリアが意地悪そうに笑う。 「やめてよ、冗談じゃない」 そうは言うが、亜矢の心は不安に似た感情に揺れる。 『これから先』は、あるのだろうか? どちらかが生き、どちらかが死ななければ完成しない儀式の後で。 2人の視線が、近付いていく。 相変わらず、目の前の死神の顔は、くやしいくらい綺麗で。 「今日は今までになく素直だな?オレ様に惚れたか?」 この至近距離でも、相変わらずな死神。いつもの彼だった。 「…………バカ」 それでも、いつも死神は唇を重ねるその瞬間だけは、真剣な眼をしていたから。 その時の彼は、その一瞬だけは、信じられる気がしたから。 心臓が高鳴る。不安?期待?それとも、もっと別の感情? 唇が触れる瞬間、グリアはそんな不安に震える亜矢の片手に、そっと触れた。 「…………!?」 亜矢がその感触に驚いた。 グリアは、亜矢の手を自らの手で包んだ。 言葉はなくても、優しく包むグリアの手から、心が伝わる。 『オレ様を信じろ』と。 ーーそうだ、いつもそうだった。 グリアは、いつも言葉で伝えてくる人ではなかった。 こうやって、触れる事によって伝わってくるものが、何よりもグリアの心。 深く重ねた唇が、熱かった。 これは、『命の力』の熱さだろうか? 熱に引き込まれ、全ての感覚を失いそうな錯覚を起こした時、2人はようやく離れた。 亜矢は頬を紅潮させ、自分の胸に手を当てた。 「なに……これ?熱い………!」 心臓が、何か大きな力に満たされ、燃えているように熱い。 「これで、『魂の器』の完成だ。あんたの心臓は完全に甦った」 グリアが淡々として言うが、亜矢は不安な表情を浮かべてグリアを見る。 「死神………」 『魂の器』が完成した今、早く亜矢の魂を食べなければ、グリアの方が消滅してしまう。 だが、魂を喰われる事は、人間にとって『死』。 最後の選択の時が来た。 それなのに、グリアは落ち着いた様子でいる。どうするつもりだろうか。 その時だった。 「やっと、『魂の器』が完成したね」 2人だけが存在するはずのこの空間に、もう1つの声が響いてきた。 亜矢が、白い霧の向こうからこちらに近付いてくる影に気付き、目をこらす。 グリアは口を閉ざしたまま、目を細め、その鋭い視線でその影を捕らえる。 ゆっくりとした歩みで2人の前に姿を現したのは……… 「うそっ……リョウくんっ!?」 そのリョウの姿を見た時、亜矢は今までにない衝撃を受けた。 リョウの背中には、深黒の色に染まった二対の羽根。 亜矢はリョウの羽根を見るのは初めてだったが、純白という天使の羽根のイメージからは想像も出来ない、その闇色の翼に恐怖を感じた。 そして、リョウの手には………長く鋭い刃を持つ『黒い鎌』が握られていた。 グリアの持つ『死神の鎌』の白い刃と対をなすような、黒の刃。 それは、天使が持つに相応しくない、邪悪な闇を纏った武器。 「亜矢ちゃんの魂は、ボクが狩る」 そう言うリョウの眼には、光も感情も宿っていない。 ただ、目の前の獲物に切り掛かろうとしているだけに見える。 「な、なんで………?一体どうしたの、リョウくん!?」 自分に向けられた刃。リョウの異常な言動に、亜矢の全身が震え出す。 「ちっ、ようやく本性を現しやがったか…リョウ!!」 グリアが舌打ちをした後、ギリっと歯を鳴らした。 グリアはすでに、以前からリョウの異変に気付いていた。 こうなる事を、予測していたのだ。 「ねえ、どういう事!?あんなの…いつものリョウくんじゃないわっ!!」 亜矢は声を振り絞り、叫ぶ。 「あんた、今までリョウの羽根を見た事がねえのに、なんで奴を天使だと思い込んでいた?」 グリアから突然に切り出されたその質問。 亜矢は動揺しつつも、今までを思い返す。 「そ、それは……何となく、そうなんだと……リョウくんの言葉を信じてたから」 「それが、天使の特性なんだよ。人を無条件に信用させる、やっかいな力だ。ずっと惑わされてんだよ、てめえはリョウに」 亜矢は目の前の現実に、息が止まりそうになった。 震えが止まらない。 「どうして、どうしてこんな事に……?」 今まで亜矢に、笑顔ばかり向けてきたリョウ。 優しくて、でも強い意志を持ってて。いつでも心強い味方だった。 彼を、本気で信じていた。 『話してやるがいい、リョウ』 3人が立つこの空間に、どこからかもう1つの声が響いてくる。 その声は、グリアにも亜矢にも認識できた。 「え?なに……この声?」 亜矢が呟くと、隣のグリアが構え、声を低くして言う。 「出やがったな、天王…!!」 姿こそ見えないが、憎悪をこめてグリアはその名を吐き出す。 その中でリョウは1人、一切の感情を表さずに、ただ静かに口を開く。 「ボクの使命は、『魂の器』を完成まで導き、その魂を手に入れる事」 そこまでの言葉で、亜矢は思わず言葉を挟んだ。 「それって……それって、最初から、死神も…あたしも……見殺しにするつもりだったって………事……?」 自分で言ってて辛い。 今の亜矢には、真実をそのまま口に出すだけで精一杯だった。 理解するなんて、受け入れるなんて無理だった。 「そういう事らしいぜ。少なくとも、天界の王は、な」 グリアが、『天界』という言葉に憎しみをこめて言う。 死ぬ予定でない人間の魂を狩る、という重罪を犯す死神が増えていく中で、天界に納めるべき魂の数が著しく減少してきている。 そこで、天界は魂の数の調整を行う事にしたのだ。 『魂の器』によって膨大な力を宿した亜矢の魂には、普通の人間の魂の何百倍に相当する価値がある。 それを手に入れ、調整を図ろうとした。 それによってさらに、『魂の器』の儀式を行える程の力を持つ死神グリアを消滅させる事が出来るのなら、天界にとってこんなに都合がいい事はない。 強大な力を身に付けた死神グリアは、今では天界にとって脅威なのだ。 『お前ほどの死神だ、こちらも優秀な天使で迎え撃つしかあるまい?』 あざ笑うかのように、天王の声のみが空間に響く。 「そんなの、どうでもいいわ。リョウくん、言ったじゃない…!死神とあたしを絶対に救うって!あの日に……言ってくれたじゃない……」 亜矢の目に、涙が溢れる。 グリアは初めて知って驚いた。リョウのヤツがそんな事を言ったのか、と。 「無駄だぜ。あいつは今、完全に心を支配されてやがる。……やっかいな呪縛をかけられたな、あのバカが」 冷たい言い回しだが、グリアもどこか辛そうだった。 グリアと出会った事により、リョウは天界への反抗心を膨らませ、天界に背き、天界の王から処罰とも言える呪縛を受けた。 その結果が、目の前にいるリョウの姿。 「リョウ……。てめえ程のヤツが、天界の下僕に成り下がるとはな……!!」 グリアが小さく漏らした言葉。 この言葉で初めて、グリアはリョウを認めていたという事が分かる。 あれだけグリアが毛嫌いしていた天界の者でも、リョウは別だったのだ。 だが、今のリョウにはどんな言葉も届かない。 リョウは黒の鎌を構えると、その両翼を使い、一気に加速をつけて亜矢に向かって行った。 鋭い、黒き刃を向けて。 「い………やっ………!」 正面から襲い来る刃に亜矢は立ち尽くしたまま、ただ小さく叫んだ。 その目から、ひと粒の涙が零れた。 ガキィン!! 刃物と、刃物がぶつかる音が響いた。 亜矢の目の前にグリアが立ち、自分の鎌でリョウの鎌の刃を受け止めていた。 ぶつかり合う、黒と白の刃。 「あ………」 亜矢はただ、言葉にならない声を出すしか出来なかった。 リョウはその反動で刃を引くと、冷たく言い放つ。 「………邪魔だよ、グリア」 グリアはこの状況にも関わらず、笑いを浮かべる。 「やべえな、あの鎌は。死神を斬る事が出来るヤツか……。ククク、本気でオレ様を殺ろうってワケか」 笑ってはいるが、余裕なんて微塵もない。額から、汗が流れ出る。 「なんで……?なんで、こんな事………」 目の前で、グリアとリョウが敵対し、刃を向けあっている。 亜矢は、ただ目の前の光景を呆然と目に映す事しか出来なくて。 その時、グリアに異変が起きた。 「グッ……」 グリアが苦痛に顔を歪めた。手から、鎌が落ちた。 亜矢がグリアの様子を覗きこむと、グリアの片手が消えかかっていた。 霧状に分散し、空中に消えるようにして、グリアの手から腕へと進行していく。 「!!」 亜矢は手で口を覆った。声など、もう出ない。 「く………やべえ、『消滅』が始まっちまった……!!」 『魂の器』が完成した後、亜矢の魂を食べなければグリアは消滅してしまう。 もはや、グリアに時間は残されていない。 選択の余地なんて、ない。 このまま行けば、グリアは消滅の道を辿ってしまう。 「うそ………死神……い、いや……」 どうすればいいのか、自分に何が出来るのか。亜矢は震えながらも、必死に何かの答えを探した。 リョウは、グリアの事など眼中にないのか、再び亜矢に刃を向けて構える。 「クッ……リョウ!!」 グリアが、苦痛に耐えながらもリョウを見上げる。 その時、ようやくリョウはグリアの身に起こった異変を目で捕らえた。 だが、何も反応は示さない。 「今、てめえがしてる事、それは……てめえの意志か?」 感情なくグリアを見るリョウの瞳が僅かに揺れた。 自分の意志? リョウはただ、心を呪縛に飲み込まれ、天王の命令のみで動いているに過ぎない。 だが、何故だろうか。グリアの言葉で、リョウは何かを思い出しかけた。 そうしている間にも、グリアの『消滅』は進行していく。 亜矢は全身の力を振り絞り、グリアの正面へと歩み寄る。 今、自分に出来る事。 それは、自分の魂をグリアに与える事。 元々、この命はグリアからもらったのだ。 事故で命を失ったあの日からの1年という月日は、グリアからもらったもの。 だから今、この命をグリアに返そう。 亜矢はグリアと向かい合う。 グリアが少し驚いた様子で目を見開き、亜矢を見る。 どういう方法で、どうするかなんて分からない。 だけど、今まで死神がしてきたように……同じように、『口移し』というその方法で……出来る気がする。 「ありがとう、グリア」 亜矢が言ったのは、今までの1年間の思いをこめた言葉。 今まで、一度も言えなかった言葉。 初めて、亜矢が死神の事を名前で呼んだ瞬間。 亜矢が微笑んだ。涙が零れた。 グリアが何かを言うよりも先に、亜矢は自らグリアに唇を重ねた。 自分の命と魂、全てをグリアに注ぎこむ。 ただ、それだけを思い、深く重ねる。 亜矢の体内から、全身から何か温かいものが抜けていくのが分かる。 ああ、成功した………と、亜矢は思った。 まさか、自分からグリアに口移しをする日が来るなんて、いつもの自分なら悔しく思うのだろうが、何よりも今は嬉しかった。 ふっと亜矢の全身から力が抜け、グリアから離れていく。 「亜………矢…………」 グリアは言葉を途切れさせる。 目の前で倒れ行く少女。ふと、最後に亜矢はリョウに視線を向けた。 「リョウくん、あたし……今も……信じてる………」 最後に見せたのは、亜矢の笑顔。こんな時にまで、亜矢は笑顔を向けた。 リョウの瞳が大きく開かれる。 「あっ………」 リョウの口から、小さな声が漏れる。その瞳が大きく揺れ始める。 「あ、亜矢ちゃん………」 リョウの手に握られていた鎌が、黒い霧状の粒となって空中に消えていく。 「亜矢ちゃんっ!!」 その叫びと同時に、黒に染まっていたリョウの両翼が、一瞬にして元々の色である純白へと移り変わっていく。 リョウの中で起きた衝撃。それによって甦った自我が、呪縛を打ち破った。 呪縛を受けたあの日から1年、リョウは『呪縛』から解放された。 リョウは亜矢とグリアの元へと駆け寄る。 だが、亜矢を強く抱きかかえ、顔を伏せているグリアを前にして、リョウは足を止め、2人をただその場で悲痛の面持ちで見下ろした。 「亜矢ちゃん……。ボクは……なん……て……」 それ以上の言葉は出せない。代わりに、リョウの片目から一筋の涙が流れた。 亜矢を抱きすくめるグリアの顔には長い銀色の髪がかかり、表情は見えない。 ただ、グリアは全く動かない。 そして、魂を失った亜矢は、もう動く事はない。 あの笑顔も、暖かさも、眩しいくらいの命の輝きも。 グリアの腕の中で、静かに消えていった。 亜矢の目元にはまだ、溢れ出た涙の痕が光っていた。 命を失った少女。永遠の命を手に入れた死神。 その結末は、少女が望んだ最後の選択。 『魂の器』の儀式は、亜矢の死をもって結末を迎えた。
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