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前編
そいつは、取り澄ました顔でこう言った。
「願いを一つかなえましょうか? 勿論タダじゃないですよ。あなたの命と引き換えに」
私が生まれたのはちょっと田舎で、裏山なんかあっちゃって、小学校なんて一クラス十人しかいなくて、しかも二学年一緒のクラスだったりして、そこまで言っちゃうと全校生徒は三十四人だった。
「ほ、ほんとにいまどきそんなとこあるんだね」
ずっと都会で生まれ育った彼はそう言って笑った。
ごめんなさい。いまどきっていうか、今はもう廃校になってありません。
鬱蒼と繁る庭から裏山(どこから庭でどこから裏山なんてはっきりはしてないが)へと抜け、肩まで伸びる雑草が顎をくすぐるのをはじきながら、時々母が持たせてくれた水筒から麦茶を飲む。
あともうちょっと。
この目の前の雑草のカーテンを開いたら。
いきなり開ける視界。
そこには一面の菜の花。
黄色と、緑と、青と、白だけの世界。
大きく息を吸い込んで飛び込む。
菜の花の海に溺れる遊びは、お気に入りの遊びのうちの一つだった。
あげる嬌声は空に吸い込まれ、しばらくたってから小さく響いて返ってくる。
聞こえるのはそれだけの世界。
いつものように大の字にひっくり返る。小さな花弁の黄色たちの隙間から光る青。
刺すような白い日光は花弁を通し、柔らかな黄色となる。
伸びる細い茎。
私の腕にからみつく葉。
菜の花に切り取られた空はいつしか小さな破片となり消えた。
沈む体。
起き上がろうとしても、もうどちらが上なのかもわからない。
菜の花に吸い込まれた私の声は、私の耳にすら届かない。
いつもなら母が夕食に呼ぶ声が聞こえてきたはずなのに。
遠くから、小さな小さな笛の音。
目が醒めたら白い天井。覗き込んできた母が口をぱくぱくさせたと思ったらぼろぼろと涙をこぼした。最近めっきりシワが増えたと言ってたじゃないの。また増えるよ。そういったらまたいっそうシワだらけになって泣き笑いした。
あんたはもうちゃんと食べてるのほんとにあんたが倒れたって聞いた時は貧乏で物も食われんのかと思ったわ。そうまくし立てて目じりをぬぐう指が震えていた。
どんな状態だったのか、寝癖で一房逆立てた髪の医者がもたりと説明してくれたけどさっぱりわからなかった。多分医者にもわかってないんだと思う。病名は全くでてこなかった。まぁ、今はどこかが痛いとか全くないわけだし。大体医者にわかるわけがないのだ。
検査につぐ検査で、退院の許可が出たのは一週間後。医者は首をかすかにひねりながら苦笑いしつつもおめでとうと言ってくれた。母は私を田舎に連れ帰りたい勢いだったけども、小さな背中を丸めて帰っていった。昔からあんなに心配性だったかしらね。
「さて」
思わずひとりごちて目の前の携帯をにらみつけた。
そりゃ病院は携帯の電源は入れられない。
そりゃ、びっちりと母が私の病室にいたかもしれない。
けど、一度も見舞いに現れないってのはどういったことなのか。
彼にじっくりと説明してもらわなくては。だって彼は電話に出ることができるはず。
そうでなきゃ困るんだから。
六回目のコールで彼が出た。
「………もしもし?」
なにヘンな声を出してるのだろう。私がかけているっていうのに、六回もコールさせたことにもイラだって、よそよそしげな声を出してやる。
「もしもし」
そのまま沈黙が数秒。何よ何なの。
「………どちらさまですか」
は? 何がどちらさまですって? あなたの携帯に表示されてるのはどんな名前だっていうの。
「私よ」
「……えっとごめんなさい。わからないんですけど」
頭にきて切った。何よ。なんでわからないのよ。
彼は時々私をからかうことはあったけど、大体においていつも控えめに微笑んでるようなおとなしい人で。その彼の声はほんとに誰かわからない人に対してとまどっている声で。いつからそんなからかいをするような人になったわけ? 見舞いにも来なかった後にそんな悪ふざけするなんて悪趣味じゃないの。悔しくてクッションをばふばふと振り回して壁に当り散らした。
「ちょっとやめてくださいよ。乱暴だなぁ」
クッションを振り上げたとたんに頭の後ろで手ごたえ。
そいつは、つんと鼻を上向かせて、柔らかな弧を描く眉を小さく寄せた。この間会った時と変わらず、黒いスタンドカラーのマントをくるりと体にまとわせている。
百三十センチほどの身長よりもはるかに長そうなマントの裾を、蛍光灯が落とすソファの影にすぅっと溶け込ませ、羽根をたたんだこうもりのような姿のまま足をそろえてちょこんとソファに座るそいつは、床から生えたオブジェみたい。
「………何しに来たのよ」
「酷いもの言いじゃないですか。ちょっとそれは。貴方の彼氏の命の恩人ですよ? ボク」
やわらかそうなばら色のほっぺたをぷぅっとふくらませて唇を尖らせる。広いおでこの上にはキラキラと光をはじくペパーミント色の癖毛。首をかしげるたびにくるんと一房おでこにかかる前髪がゆれた。
二週間前に突然あらわれたこいつはピックと名乗った。血統書つきの猫みたいな金色の瞳で私の顔を覗き込み、願いを一つかなえましょうか? と挑戦的に囁いたのだ。
場所は私の職場があるオフィスビルの屋上。
同じフロアーに入っている違う会社に勤める彼が、外回りの途中に事故にあったと聞いた二日後。
営業の社用車である軽自動車は、過搭載で横転したトラックに軽々とはじきとばされた。
職場の誰にも私たちのことは話してなかった。
彼は控えめながらもその穏やかな笑顔が、うちの女子社員の話題にあがることが時々ある人で。意識が戻っていない彼のことを囁きあう声に押しつぶされそうで屋上に逃げ込んでいた。
何本もの透明なチューブが彼の体に何かの液体を流し込んだりしているその光景が思い出されるたびに、震える手を握り締めた。座り込んで、足元の自分の影だけを見つめていた。
その影がぐにゃりと歪み、そのまま空気に流れ出るように立ち上がって形作られたのがピックだった。
顔だけみたらその辺にいる子供と変わらない。その髪と瞳の色以外は。そうそう、いんちきくさい手品師のようなマントも。
「勿論タダじゃないですよ。貴方の命と引き換えに」
あまりにベタなその取引を、ピックは愛らしい子供の笑顔でもちかけた。
「………幼稚園から脱走してきたの?」
ピックはいっぱしに片眉をあげ、マントの裾をこれ見よがしに引いて見せた。するすると私の影から伸び出るマント。手を離すとすとんとまた影の中に戻る。おゆうぎ会の手品にしては確かに凝りすぎ。
しかしなるほど。確かにこれはおとぎ話のような存在なのだろう。
「………願いを一つ?」
「そう、一つ」
「なんでもできる?」
「死者をよみがえらせること以外なら。でももう決まってるんじゃないですか?」
「ええ」
「その口から言葉でどうぞ」
「彼を助けて」
ピックが小さな細い指で空をかきまわし、私の口元から現れた細い糸をからめとる。
わたあめの糸をすくいとるように。
「契約は成立した」
にんまりと笑ったピックの顔が、屋上で最後に見た記憶。黄色と緑がまだらの闇に溶けた。
「彼の無事は確認したでしょう?」
勿論。目が醒めてすぐ同僚に電話してそれとなく聞き出した。
私が屋上で倒れているのを発見された日、彼の意識が戻ったこと。事故の大きさの割りにはたいした怪我も後遺症もなく、明日にも退院できるらしいってこと。その時に「明日」と言っていたのだから、今はとっくに退院してることだろう。
「まぁね、つか、キミさ、あれなんじゃないの? 悪魔か何か知らないけど、見習なんじゃないの?」
「な、なにを言うんですか。彼は無事だったでしょうが」
「でも私は生きてるじゃない。契約と違うわよねぇ? 失敗したんじゃないの? そもそもほんとにあんたが助けてくれたわけ? 悪いけど、私が今生きてるのは私の契約違反じゃないからね。今更命をどうのって言われても受け付けないわよ」
「う、うわぁ………性格悪っ」
「人の足元みて命の取引もちかける奴に言われたかない」
「彼にシカトされたからって八つ当たりはよしてほしっぶ! な、なにすんですか!」
顔面にクッションをたたきつけてやった。
時々ケンカしたり、時々退屈したり、私たちはそんな普通のカップルで。
ケンカといっても怒ってるのは私ばっかりで、彼は困ったような泣き出しそうな変な笑顔をして、私の怒りが収まるのを待っていることのほうが多かった。
お互いの部屋に泊まった夜は、私ばっかりがぺらぺらとどうでもいいような他愛のない話をして、彼はにこにこと話を聞いていた。
「ねえ、そういうのってどう思う?」
話し続けて、隣の彼の方を向くと、くうくうと寝てしまっていたり。
そんな彼との時間が安心できて居心地いい反面、物足りないのも本当で。
彼と話をしていると、ちゃんとこっちを向いている? 私の話を聞いている? と、子供のように地団太を踏みたくなることが最近は増えていた。
「本当にびっくりしたんですよー」
後輩の和美が、微妙な上目遣いで彼にそう話し掛ける。
こいつは彼を気に入っていて、何かと言えば彼の同僚たちを使って昼食を一緒にとっていた。私と彼のことを知っているはずもないから、私まで同席するのもいつものこと。最初の頃はプチ合コンかいと突っ込みを入れたけど、今ではなんとなくいつものメンバーで昼ごはんといった風情でしかない。そもそもお互いの職場が入っているビルの地下にある食堂でプチ合コンも何も。
「でも良かったあ。もう全然体は大丈夫なんでしょう?」
「全然平気だよ。目が覚めた時だって、自分がそんなに意識がなかったなんて信じられなかったくらいだし」
「こいつはこう見えて体力あるんだよ。いろんな意味で」
彼の同僚がにやにやと彼をこづく。ええ、知ってますとも。いろんな意味で。
「え、スポーツとかしてるんですか? 今度教えてくださいよ」
そらとぼけた顔の和美。こいつはいつもそう。裏拳を飛ばしてロッカールームでの和美自身の言葉を思い出させてやりたいことが何度あったことか。
いつもならこんな時は、私と彼は誰にもわからないように、にやりと目配せをしあったものだった。それなのに何を照れたような顔をしているのか。一体全体どういったことなの。
「そうそう、先輩も大変だったんですよね。結局倒れた原因てわからなかったんでしょう?」
「まあね。でももう全然平気だし。なんだったのかしらね」
「倒れたって?」
彼が今日はじめて私に話し掛けた。何? 知らなかったわけ?
「あ、はじめましてですよね? 和美さんの先輩なんですね?」
もしかして、彼も私が見舞いに来ないってふてくされてたりしたのかしらと一瞬でも思った私が甘かった。水を打った静けさに戸惑う彼は、自分が何を言ったのか本当にわかってない顔だった。
「お前、大丈夫? 実は後遺症ってあったんじゃないのか?」
「え、だって」
自分の耳の後ろを掻きながら、彼は自分の同期の顔と私の顔を何度も見比べた。困った時の彼の癖。
「わかった。この間借りたCD無くしたのまだ怒ってるんでしょ! 悪かったわよ。今度おごるからさ、勘弁してってば」
「こいつのCDなくしたの?」
「そうそう。なんかね、うっかりしちゃったのね。こう、車に乗るときにさ、ちょっと鍵を出そうとして荷物を車の天井においたりすることあるじゃない?」
「もしかしてそのまま走ったの?」
「うっかりしちゃったのねぇ」
ありえないと爆笑する周囲の中で、彼だけがぎこちない笑顔を見せていた。
「聞いてくださいよ! 今夜彼とデートなんですよ!」
ロッカールームで帰り支度をしていると和美が寄って来た。
「へぇ。誘ったの?」
和美はにやにやと誘わせたんですーと言ってのけ、
「実はね、彼が入院してる間、毎日お見舞い行ってたんですよね。といっても三日くらいですけど。彼が意識戻ってからだから。お礼にって食事!」
なるほど。彼の意識が戻ってから、ね。
「もうね、もらいましたよね」
ほぉ、色んな意味での体力をスポーツだけに限定させてみせたあなたの口から「もらった」宣言ですか。色んな意味ですばらしい。
「それはおめでとう。健闘を祈ります」
マスカラを丹念にチェックいれながらガッツポーズを見せるという離れ業を見せる和美に、お先にと声をかけて外に出た。
エレベーターを降りてすぐに彼の姿には気づいてた。とくんと弾んだ自分の心臓が憎々しい。ビルを出てすぐの歩道で待ち合わせですか。和美らしい大胆さ。私にはできなかった。何故かなんてわからない。なんとなく、できなかった。彼が二歳年下だからとか、なんかそんなくだらない理由は山ほど思いつくような気もするけど。
「お疲れ様でした」
そう、声をかけて通り過ぎようとしたら呼び止められた。
「昼、ごめんなさい」
「何が?」
ああ、なんて意地悪なんでしょうね。私は。
「いや……僕」
「僕、だって。何かしこまってるの?」
「いや、その」
そうね、私はよその会社の年上の女性ですものね。目上の者には敬語よね。
「本当にごめんなさい。多分、後遺症、出てたんですね。申し訳ないんですけど、本当にあなたのこと、覚えてなかったんです。僕、あなたとCDの貸し借りするほど親しかったんですよね?」
「……まぁ、時々CDの貸し借りする程度の仲だっただけよ。意識がなくて、あんな仰々しい機械につながれるほどだったんだから、その程度の後遺症ならばんばんざいじゃない? 他には何もないんでしょ?」
「……ええ、全然」
「じゃ、よかったね」
ぱたぱたと現れた和美に、バイバイと手を振って駅に向かった。
本当に。
後遺症を突然自覚したってのに。
デートどころじゃないでしょ。病院に行けばいいのにね。
私に謝ってる場合じゃないじゃないの。
本当に。
「なんだこりゃ」
湯船につかりながら自分の左胸に浮いてる痣に気づいた。はてなマークの下の点がとれてるような、釣り針のような痣。軽くひっかいてみたけど、痛くはない。いつつけたんだろ。
「あ、それ、ボクとの契約印です」
「また来たのか」
「冷たいなぁ。もうちょっと愛想良くできないんですか」
私は時々、風呂場の電気をつけないまま湯船につかる。すりガラスの向こうからぼんやりと照らす脱衣場の明かりだけで、ぼうっといつまでも浸かってる。
「女の風呂にいきなり登場するやつに愛想をまくメリットがどこにあるのよ」
「あ、ボク、えり好みする性質なんで気にしなくていいですよ」
すりガラスのドアの横の影から現れたピックは、お湯を盛大にひっかけてやっても髪の一本すら濡れはしなかった。
「いいんですか?」
「んがにがよ」
ぶくぶくと頬まで湯船に浸かってつぶやいた。
「和美さんでしたっけ? デートなんでしょ? 今ごろ」
ぷっと息を止めて目の下まで浸かる。
「見事な意地っ張りですね」
うるさいなぁ。
「そんなことしたって、目が赤いのは残ると思いますけど?」
あぁ、うるさい。うるさい。
「まぁさ、結局その程度のもんだったんじゃないの?」
風呂上りのビールをくいっと一気に飲み干して、二本目のプルタブを引く。
「それよりなにより、客にも勧めるとかそういった配慮はないのですか」
「誰が客なのよ」
「ボク」
「未成年の飲酒は法律で禁止されております」
「ボクが未成年とか通常のくくりでくくられる人物だとどうして思えますか」
「勝手に開けて飲めば」
もてなしとかそういったものはとかなんとかぶつぶつと呟きながらピックは言われたとおりに冷蔵庫を開けてビールを取り出した。そうか。悪魔もビールを飲むのか。
「遠慮とかそういったものはもちあわせていないわけ?」
「そういった通常の美徳を要求される世界に生きてないもので」
「なるほど」
かつんと、缶をお互い打ち合わせる。なんの乾杯なんだ。なんの。
ぷはぁと親父のような息をついてビールをあおるピックは、どうみても牛乳飲み乾してる幼稚園児。
「あんた、いける口だわね」
「それほどでも」
彼はあまりいけない口で、缶ビール一本で目の周りが赤くなったものだった。だからいつも私もビールは二本ですませてた。
「それでも二本飲むんですね」
「二本しか飲んでないじゃないの」
「彼はなんて?」
「別に。美味しそうに飲むねぇって笑ってたわよ」
「いい恋人ですね」
「そうかしらね」
彼はいつも飲みすぎることはなくて。
時々飲みすぎた私をベッドまで運んでくれた。
次の日の朝には、ゆうべはね突然掃除はじめたりしてたよとか、そんなことをちょっと意地悪そうな笑顔で楽しそうに教えてくれた。
「実はそれが楽しみだったとか」
「そうかも……あのちょっと意地悪な顔、和美にも見せるようになるのかしらね」
「まぁ、そうなるのならその程度のもんだったんじゃないんですか?」
「最悪ね。あんた」
「自分でさっき言ってたんですよ」
「そうか。そうだったわね」
ふらつく足で冷蔵庫に向かう。もういい。明日仕事休んでやる。二本取り出して、ひとつはピックに手渡した。
「私さ、彼と二人でつぶれるまで飲んでみたかったな」
「自分だけじゃつまんないですか」
「酒ってそういうもんじゃない」
「ボク、つぶれませんよ」
「いや、あんたとは別に」
「ほんとに見事な意地っ張りで」
「ふん。今度は一緒に飲める恋人見つけるわよ」
もう二度と恋人なんていらないとか言えない自分が意地っ張りだっていうのなら、それはきっとどうしようもない真実なんだろうなと思いながら、冷蔵庫のビールをあるだけ飲み乾すことにした。
どうしてだろう。どうして忘れてしまったの。
そんなピンポイントに忘れなくたっていいじゃない。
その程度のものだったと、ピックの声と私の声が二重唱で耳の奥にこだまする。
愛してなんかなかったんだと結論付けるほうがずっと楽に思える。
「まぁ、命まで賭けた私が哀れな気もしないわけじゃないけどね。それは言っちゃおしまいだしね」
ちょっと口が軽くなる程度の酔いが物足りないのに、手にもったビールは最後の一缶で。
ピックはちょこんと座ったまま、くるりと巻きつけたマントの裾も乱さずに飲み続けている。時折入れる茶々が憎たらしいけれども、ピックはなかなかの聞き上手だった。
「ねぇ、どうしてっていえば、どうして私は生きているの?」
「命の定義の違いじゃないですかね」
「定義?」
「ボクは、命と引き換えにとは言ったけれども、生命そのものとは言っていないですよ?」
「じゃあ、何よ」
「さあ、なんですかね。それは人それぞれ」
「うわ。もったいぶり」
ちょっと焦点をあわせるのに苦労しつつ、すまし顔のピックの瞳を覗き込む。金色の瞳はまっすぐに私を捕らえているけれども、その向こうの感情は読み取れない。
「じゃ、人によっては、あんたが欲しいものじゃないものを差し出したりすることもあるわけ?」
「引き換えに求めたからって、ボクがそれを欲しがってるとは限りませんよ?」
「ほんともったいぶり。なぞなぞなんてしたい気分じゃないわ。私が知りたいのは、あんたと私の契約で、あんたは何を手に入れたのかってことよ」
ピックは目だけで笑って見せて、とんとんと人差し指で自分の顎を叩くという大人びた仕草をしてのけた。だからあんたはそんなことしても幼稚園児にしか見えないんだってば。
「ちなみに、あなた、ボクのことなんだと思ってます?」
「悪魔でしょう?」
「迷いもしませんね」
「命と引き換えに願いをなんて人でなしが悪魔以外に何あるっつのよ」
「そりゃまぁ、人ではないですけれども」
「違うの?」
「そうですねぇ。そう呼ぶ人も確かにいますよ。人それぞれですね」
「またそれですか」
にっこりと今度は顔いっぱいに笑ったかと思ったら、さっと私の手からビール缶をとりあげ、くいっと飲み乾した。なんて奴。
「さて、長居をしました。今夜はこれにて」
「や、やっぱり悪魔だ。最後の一缶だったのに」
するするとマントの裾が伸びてかがみこむように私の額に人差し指をあて。
「もう、おやすみなさい」
途端に目の前が黄色と緑のもやに包まれ、眠りに吸い込まれる直前にピックの声。
「勝負はまだこれからですとも」
いつもどおりな挑発的に聞こえるセリフとは裏腹に、声音はやけに優しく感じられたのは絶対に気のせい。
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