後編

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後編

 冷蔵庫のビールあるだけ飲み乾したって、いくらなんでも二日酔いになるほどの量が常備されてるはずもなく。ちょっとしただるさはあれどもまともに出勤した。このエセ優等生ぶりが疎ましい。  和美に何を自慢されるのかと重苦しい気分はあったけど、デートの自慢はしてこなかった。もらえなかったわけねと思うと意地悪な笑いがこみ上げる。彼の記憶から私だけが抹殺された事実は変わりはしないのに。  がらがらがこんと、自販機から転がり落ちてきた栄養ドリンクを一気のみ。 「先輩、腰に手はいかがなものかと」 「あら、いつのまに」  無意識に腰にあてていた手を、それでも下ろすことなく空き瓶をゴミ箱に落とし入れる。別にどうでもいいのよ。そんなこと。  外回りから帰ってきたところなのか、廊下の向こうから歩いてくる彼にスキップしかねない勢いで弾み駆け寄る和美とか、そんなことだってどうでもいい。和美の頭ごしに彼と目が合って、お互いなんとなく軽く会釈して。それがすごく他人行儀なのもどうでもいい。  きびすを返して自分の机に戻ろうとするところを彼に引き止められた。なんだって跳ね返るの。この心臓は。 「あの、今和美さんとね、今夜飲みに行こうかって話をしてたんです。どうですか? 一緒に」 「は?」  和美が後ろで、頬にばしばしと髪があたるほどに首を横に振っている。 「………デートなんじゃないの?」 「まさか。みんなでって、ね?」  振り向いた彼に和美は乱れかけた髪をさりげなく整えながらにっこりと微笑んだ。お見事。 「僕も同僚連れて行くし、都合悪いですか?」 「みんなで、ね」  耳の後ろをかく彼。私が行くのが困るのか、和美と二人で会うのが困るのか、どっちなのかしら。  そういえば、私が初めて飲み会に誘った時もこうやって耳の後ろを掻いていたっけ。和美や他の後輩にせっつかれて、彼の会社の人たちとの飲み会を設定させられた時。その時は彼の癖なんて知らなくて、後から気がついた時にちょっとむっとした。私に誘われて困ってたのかと冗談めかして言ったら、やっぱり耳の後ろを掻きながらちょっと笑って抱きしめられて。結局その答えは聞けなかった。  ちゃんと聞いておけばよかったかな。そうしたら、今なんで彼が困ってるかわかったのかな。なんだか彼の顔を見ていられなくて、その彼の癖を見ているのが嫌で、うつむきたくなったけど、それは悔しくてできなくて。 「ゆうべもちょっと飲んじゃったし、今日はやめておく」 「えぇ、先輩、昨日そんなこと言ってなかったじゃないですかぁ。デートだったんですか?」  なんでいちいちあんたに報告してなきゃいけないのよ。思わずくちごもったのを勘違いしたのか、和美は嬉々として突っ込んでくる。 「先輩ったらいつの間に彼とかつくったんですか? 教えてくれてもいいのにぃ」 「なんでそうなるのよ」 「だって先輩てば、飲み会が続くくらいどってことないじゃないですか。いっつも」  あんたは私に来て欲しいのか来て欲しくないのかどっちなの。 「へぇ、お酒、強いんですか?」 「いやだぁ、先輩が潰れたところなんて今まで見たことないじゃないですか」  今更とばかりに彼の肩を軽く叩く和美。親しげなその仕草。戸惑いの色を浮かべながら曖昧な笑顔の彼。知らないものね。私がお酒に強いかどうかなんて、覚えてないものね。 「ま、とりあえず私はパスってことで」 「そう、ですか。残念だな。また次の時にでも」 「ん。また誘ってね」  社会人生活で培った社交辞令と愛想笑いで手を振る。絶対行かないけどね。お酒は楽しく飲むのがモットーですからね。飲んでる間中、こんな思いするなんて。  結局、彼の同僚三人と和美の同期二人で飲みに出ることになったらしい。ええ、あとはお若い者同士でどうぞ。  大して急いでもいない伝票をせわしげに見えるように整理し続けながら、彼女達を見送った。何度やっても叩く電卓の計が合わない。やるたびに計が違うってどういうことなの。いつもなら一時間もかからない作業なのに、計算が合わないところをやっと見つけた時にはフロアには誰もいなかった。なんのことはない、 十の桁の数字と百の桁の数字が入れ替わっていた。誰の伝票なのよ誰のと、作成者の欄を見ると私の印がくっきりと。  プライベートを仕事に影響させるなんて社会人としてどうかしてると思ってたし、今まで影響させたことなんてない。それなりに勤務年数と実績を積み上げてきた。そりゃ、キャリア街道まっしぐらなんて出来ではないけれど、手堅い仕事をすると評価ももらってた。給料分よりちょっとは多めに会社に還元してるくらいの自負はあった。 「まぁ、結局その程度のものだったってことなのよね」  ひりひりする目を閉じて、目蓋を軽く押えた。  暗闇の中にちらちらと黄色と緑の点が無数に光る。裏山の菜の花畑。波打つ黄色と緑。両手いっぱいでも抱え切れない世界が全て私一人のものかのような心地よい錯覚。  病院で眠り続けていた間中、あの菜の花畑の夢を見ていた。光を含んだ柔らかな風が私の髪と菜の花を揺らして、抱きしめた世界が私を抱き締め返す。ゆったりとしたあの時間。  彼と過ごした時間はそれにとてもよく似ていて。  帰りたいなって呟いてから、今は菜の花の季節じゃないことを思い出した。 「あ、もう帰るとこですか?」  フロアの出入り口に彼が立っていた。いきなり降りかかってきた声にも、彼がいたことにもびっくりして、電卓やらボールペンやらをばらばらと机から落としてしまう。 「わ。びっくりさせました? ノックは一応したんだけど」 「そ、そりゃびっくりするわよ」  慌てて床にしゃがみこんで取り落とした物をかき集める。ボールペンがない。どこまで転がったんだろう。 「飲み会は?」 「一次会で帰ってきちゃいました。道路からまだこの部屋に明かりがついてるの見えたから」 「見えたから?」  ない。ボールペン。 「残業してるって聞いたんで。はい」  彼が近寄ってきた気配に顔をあげると、右手にボールペン、左手に近所のコンビニの袋。そこのコンビニは元酒屋で、時間帯によってはそこのおばあちゃんが店番をしていた。コンビニのくせに十時には店を閉めてしまう。 「肉マン、嫌いでした?」 「ううん」 「そう、よかった。どうぞ」  ほんのちょっとだけ赤らんだ目元。 「同じ建物なのに、やっぱり雰囲気違いますね」 「そっちの部屋と?」 「ええ」 「勇気あるわね。他の人いたらどうするつもりだったの?」 「だから肉マンは四つあるんですよ」  目じりの皺はいたずらっぽく。 「なるほど。私がそこまで大食らいにみえるのかと」  ぱっと広がる笑顔とはじける笑い声。いや、そんなに笑わなくても。 「もう、終わったんでしょう? 仕事」 「どうして?」 「帰りたいってさっき言ってたから」 「ああ、そうね。うん。もう帰るとこ。………遠慮なくいただきます」  湯気をたてている肉マンにおそるおそるかじりつく。肉マンて、油断すると中身がひどく熱かったりするし。 「それじゃ、これ買って来ないほうがよかったかな」  かじりついたまま彼を見返すと、またにやりといたずらっぽい目じりの皺。 「食事に誘ったほうがいいでしょう。肉マンじゃ味気ない」 「………味気ないというか」  口の中の肉マンを飲み下すことができないまま、うつむいてしまう。「ん?」と彼が覗き込んできて。なんていい雰囲気なの。和美なら「もらったも同然」とほくそえむだろう。それくらいいい雰囲気なのに。 「この肉マンの中、まだ凍ってる………」  どうしてこうなるかなぁ。 「頼むよ、おばあちゃん………」  かじりかけの肉マンを割って、中身がしゃりしゃりとした肉なのを確認すると彼はぽつりと呟いた。それがおかしくてたまらなくて笑いが止まらなかった。 「あのおばあちゃんが店番だったんだ?」 「そうそう、ばっちり出来てるって言ったんだけどなあ」 「あのおばあちゃん、こないだ賞味期限が切れたお弁当を並べて、新しいお弁当をしまおうとしてたのよ」 「まじですか」 「まじです」 「まいったなぁ、………えぇと」 「えぇと?」 「食事、行きませんか?」 「唐突な。だって、食べてきたでしょう?」 「育ち盛りなんです」 「それ以上どこが育つんですか」 「それは今は言えません」  ほんとうにおかしくて。久しぶりに声を上げて笑った気がした。 「駅の近くに、Nって店あるの知ってます? そこでいいですか?」  Nは入り組んだ仲通にある小さな店で、こじゃれてはいないけれども夫婦二人で家庭料理を並べている。彼は角煮で私はオムレツが好きだった。会社の人間には知られていないその店でよく二人で食事した。 「うん、いいよ」  彼は小首を傾げて、また耳の後ろを掻く。  ゆるめたネクタイと、二つ目までボタンをはずしたシャツ。今まで襟に隠れていた首筋の部分に、釣り針のような形の赤い傷が見えた。 「ボクは、命と引き換えにとは言ったけれども、生命そのものとは言っていないですよ?」  ピックは確かにそう言った。  では、私が失ったものはなんだっただろう。 「おや、しばらくだね」  Nの奥さんが、カウンター越しに迎えてくれた。  控えめなくせに人懐こい彼は、常連風を吹かせるわけでもなく、ただにこにこして主人夫婦の話に相槌をいつもうっていた。 「角煮と、オムレツと、それから?」  何も言わずとも、中ジョッキを私の前に、小ジョッキを彼の前に出しながら奥さんが注文をとる。今日のおすすめの焼き魚を頼んだ。 「やっぱり、この店も一緒に来てたんですね」 「そうね」  彼はいつまでもおしぼりで手をぬぐいつづける。 「美味しいわよね。ここ」 「僕、ここには会社の人間って連れてきたことないんですよね」 「そう」 「ええ、そうなんです」  ジョッキをもちあげて無言で乾杯した。 「その、首のあざ、いつつけたの?」  彼は眉をあげて、自分の首もとをさぐる。 「あざ? そんなものある?」 「ん」  ちょうど彼のあざのあたりを、自分の首元を示して教える。 「さぁ、どうだろう。覚えがないな。事故の時にでもつけたのかな。別に痛くもなんともないですよ」 「そ」  くいっとジョッキをあおって、半分ほど飲み干す。 「美味しそうに飲みますね」  いつもの彼の笑顔。以前のまま。息苦しくて、目をあわせることができなかった。 「和美、ふてくされてなかった?」 「え?」 「先に帰ってきちゃったんでしょ?」 「ああ、どうかな。するっと抜けてきたし」 「………デート、どうだった?」 「食事しただけですよ。お見舞い、来てくれてたし」 「ふぅん。………オムレツ、美味しいね」  ばかじゃなかろうか。私は。 「看護婦さんがね、僕が意識のなかったときに、毎晩通ってきてた女性がいたって冷やかしたんですよね」 「毎晩っていったって、二日くらいじゃないの」 「………まあ、そうなんですけど、一晩中ついてたって。和美さんなのかなって」  昔こういうおとぎ話を読んだ。有名なやつ。ほんとうは主人公の女が助けたのに、バカな男は目がさめたときに目の前にいた別の女を恩人だと思い込んだのよね。なんって間抜け。 「和美はなんて?」 「聞いてません」 「なんで?」 「違う気がしたんで」 「ふぅん」  いかん、ちょっとうれしくて鼻が膨らみそう。というかこんなことで喜んでてどうするのか。私も。おとぎ話の女は、その男に、助けたのは自分だと伝えることができなかった。子供ながらにバカじゃないのかと思った。声に出せないなら字を書くとか色々あるじゃないかとか。けれど、私も言えそうにない。  どうしてできないんだろう。  簡単なことなのに。  なんで忘れちゃうのさって怒りたい。  和美なんかとデートしちゃわないでよって。  いつもみたいに、怒った私をなだめて。  私をちゃんと見て。  話を聞いて。  思い出してよ。 「ちょっと、魚一人で食べちゃわないでよ」  ああ、口は勝手なことばかり。  結局、私は中ジョッキを二杯おかわりして、彼はウーロン茶を一杯飲んで店を出た。  夜気がつんと鼻を刺す。  見上げるビルの隙間からは、冷え冷えとした薄紫色の雲がのぞいていて。  二人の間にある拳ひとつ分の空間に静かな風が渡る。 「ねぇ、ヘラクレスって映画、あるじゃない」 「ああ、アニメのならビデオで見ましたよ」  誰と見たかは覚えてないわけよね。もちろん。 「あれさ、ヘラクレスが惚れる女がいるでしょ」 「ヒロインでしょ」 「うん。で、その女の過去がさ、恋人の命を救うために、なんだっけ? えーっと、ヘラクレスの敵のおやじにさ、魂を売るんだよね。でも、肝心の恋人は、彼女に命を救われたのに、つらっと彼女を忘れて他の女と結ばれちゃうの」 「ん」  駅まではすぐそこ。彼は私の歩調に合わせて歩いている。 「大好きな人の命を救うために、自分が犠牲になるってのは、ありふれたロマンチックじゃない?」 「そうだねぇ、ありがち」  うわ………ありがち言われた。 「僕なら嫌ですけどね」 「つめたっ」 「いや、そうじゃなくて。だって、自分が助かったって、相手が自分のせいでいなくなったなんて嫌じゃないですか」 「ま、まぁ、後味はよくないわよね」 「僕なら嫌だもんなぁ。自分が嫌なことは人にしちゃいけないっていうでしょ?」 「人にしちゃいけない」 「幼稚園で習います」 「そうだわね」 「だから、僕なら、なんか他のもので勘弁してもらえないかなぁって交渉しちゃうな」 「他のものって?」 「皿洗いとか」 「無銭飲食じゃないんだから」 「だめですかねぇ」 「だめじゃないですかねぇ」  駅の中にはいると、ふわっと暖房の風が頬にあたった。お互い反対方向へ走る電車に乗る。ホームも別々。それじゃ、と手をあげて。それじゃ、と軽く会釈して。  彼は、一体何と引き換えに、何をピックに頼んだのだろう。私の左胸にあるあざと同じ形をしている彼の首のあざ。ピックは契約印だと言った。 「出て来い。ピック。その辺にいるんでしょ」  すれ違う辺りの人には気づかれないように口ごもる。 「彼は何を願ったの」  ピックが差し出すようにというものは、命。生命とはかぎらない。にくったらしいすまし顔で「人それぞれ」とぬかす。  辺りの影をいう影をにらみつける。階段の段差の影。すれ違う人の影。構内の柱の影。呼んでないのにくるくせに、呼んだら来ない。ほんとになんて奴。  確かめてどうするって言うんだろう。  彼のあざは本当にピックの契約印なんだろうか。  それを知って私はどうするんだろう。  彼の命を救うために私が何を引き換えにしようとしたのか、わざわざ私の口から言うの?  ………かっこわる。  駅の天井からつるされている電光板は、彼の部屋の方へ向かう電車があと十分で出ることを告げている。私の電車はあと五分。  私の田舎へつづく夜行列車の名前も並んでいる。  彼の命と引き換えに私が失ったものは、恋人としての彼。  彼が何を望むとしても、彼の「命」ってなんだろう。 「だって、そこまで好きなら、ずっと一緒にいたいじゃないですか」  彼は、今さっき、うつむきながらそういった。目があうと、照れくさそうに「なんてね」と笑って。 「なにが」  急に仁王立ちに止まった私に、ぶつかりかける人の気配。追い抜き際にいぶかしそうにちらりと見られた。ふん。 「なぁにが、なんてね、だ」  きびすを返して走りだした。まだ彼の電車は出ていない。人の流れに逆らって、時々ちょっとどついたくらいにして。ホームへと続く階段の半ばでふとももが悲鳴をあげるのもシカトして。  電車を待つ人の列の後ろ辺りにぼんやり立ってる彼を見つけた。列車がくる方向を見つめている後頭部は、寒さのせいなのかちょっとすくんで肩にうもれかけてる。  駆け寄って、そのお尻のあたりに膝蹴りを入れた。 「痛っ………な、なにしてるんですか」  一瞬しかめられた眉間がすぐに緩んで、目を見開いている。息が切れて声がなかなか出ない。 「どうして」  滑り込んでくる電車。ごうっと髪を舞い上げる風。人の波が動き出す。彼は、聞こえないという風に、かがんで私の顔に耳を近づけた。 「どうして忘れるかなぁ!」 「ど、どうしてって」 「なんで忘れちゃうのさ! 和美なんかとデートまでして!」 「い、いや、ちょっと待って」 「もう、あんたはいっつもそう! いっつもにこにこばっかりしてごまかして!」 「そ、そうかなぁ」 「そうなの!」 「ごめんなさい」 「わかればいいのよ」  いや、わかるわけないし。これで。でも、一気にまくしたてて息が続かない。私たち二人をぐるりと避けて他の乗客は電車に乗り込む。 「やっぱり、つきあってたんだ? 俺たち」  は? 肩で息しながら、ちょっと待てと、手をあげて彼の言葉をとめた。彼はそっと私の肩を押して、ベンチに座らせる。すぐ戻るからと、人差し指一本立てて私を押しとどめ、彼はちょっと離れたところにある自動販売機に小走りに向かった。その上着のすそをついつかみたくなる衝動をかろうじて抑える。 「温かいのとつめたいのどっち?」  差し出された缶コーヒー。どっちって選ばせたって、あなたは冷たいコーヒーなんて今は欲しくないでしょうに。私は冷たいのがいいけれども。 「冷たいの」  はい、とリングプルを引いて渡されたコーヒーを一口飲む。  彼は自分のは空けずに手のひらで転がしながら暖をとっている。 「やっぱり、って何よ。………もしかして思い出してたの? それとも最初から嘘だったの?」  そんなんだったらただじゃおかない。首締める。 「違う違う。もしかしたらって」 「なんでよ」 「だって、家にさ、写真とかいっぱいあるんだもんな」  ………そういえばそうだ。 「な、なによ! そしたら聞けばいいじゃないの!」 「いや、君だって言わないし、もしかして別れた後とかさ、どうかすると僕の片思いとかだったりするかもしれないじゃないかって、痛っ! 痛いってば」  つらっと、いつもどおりのほほんと、なんて、なんて憎たらしいの。ばんばんとグーで肩を殴りつけた。人の気も知らないで。 「ごめんって、ごめん」  冷静になってみれば、彼は記憶を失ったままなわけだから、この場合彼はあまり悪くないわけで。あまりどころか彼の言い分はかなりもっともなもので。けれどもただ謝り続ける彼は、ケンカしたときのいつもどおりの彼。悪いと思ってるのか思ってないのかわからない口調で、私はいつもそれにむかつきつつもちょっと安心していた。 「ごめんな」  いいかげんに痛くなった殴る手を下ろすと、彼は私の頬を片手で包んだ。その動きと冷たさで、自分が涙をこぼしてることに気づく。もしかしてアイラインは今大変なことになってるのではないだろうか。 「もういい。ぼけ」  化粧崩れも気になったけど、いつまでもおさまらない動悸が苦しくて、反対側のホームに顔を向けた。もうすぐ電車がくるのか、列が作られだしている。ちょっとほろ酔いな足取りのサラリーマン。塾の帰りなのか群れる小学生らしき子供たち。手にはゲーム機らしいものをそれぞれ持っている。近くでみたら寒さで色がまだらになってるに違いないような素足の若い女の子たち。こんな時間まで連れ出されているのか小学校にあがる前くらいの子供が、白いモヘアフードがついているジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま立っている。よいしょと、こっちのホームまで掛け声が聞こえそうなもったりとした動きでベンチから立ち上がるOL風の女性。  ふわりと、肩にちょっとした重み。温かい。 「なによ」 「いや、寒くない?」 「別に」 「まあまあ、そういわずに」 「寒いのはあんたでしょ」 「正直いうとそうです」 「ぼけ」  やさしく、でもしっかりとした力でつかまれる肩。 「もう、泣かないの」 「泣いてない」  盛大に鼻水をすすりあげる。 「だって、あんた、忘れちゃったじゃない。私のことなんて」 「そうだねえ」 「この手はなんですか。そしたら」 「つきあうとかつきあわないってのは、気持ちが大事でしょ」 「それはまあ、そうだけども」 「覚えてなくてもさ、気になってたからさ」 「そうなの?」 「うん。いつも泣き出しそうな変な顔してた」 「変て」  他に言い方はないのか。この人は。 「だから、すごく困った。なんで困っちゃうのかわかんなかったけど、困ったんだよね」 「そう」 「うん。困った」  向こう側のホームに電車が滑り込む。行列はちょっとゆがみながらもくずれずに動き出す。白いフードの子供が一人で行列の最後尾にのんびりとした足取りでついた。誰かに手を引かれるどころか連れの大人らしき人間も見当たらない。子供は、白いフードを後ろにはねのけながら振り返った。きらきらと光をはじくペパーミント色の髪。いつものすまし顔で音を立てない拍手を二、三度して、にこりと笑い、ばいばいという感じに片手をにぎっては開いて、にぎっては開いて見せて。 「あ、こら、待て」  思わずつぶやいて腰を浮かせたときには、もう行列とともに電車のドアに吸い込まれていった。 「どうしたの? 知り合いでもいた?」 「ピックが」 「………外国人の友達がいたの?」 「………うん、まあ、そんなとこかな」  彼がピックを知らないのは、本当に知らないのか、私に関わる願いだから覚えてないのか、きっともうそれはわからないんだろうなと、なんとなく思った。  ドアに群がる人の間にもぐりこんだ小さな後ろ姿。一瞬だけ見えた緑の尻尾。てっきり、着ぐるみ着た子供だとばかり思ってた。隣の女性の風にひるがえるスカートとは明らかに違う方向へとくるりと動いた尻尾の先には小さなハート。  ねえ、ピック、あんた、黒いマントばっかりじゃなかったのね。そんなかわいい格好してたら悪魔だなんて全然見えないわ。………そもそも悪魔だって確かに名乗ってはいなかったわね。 「ねえ、あの電車」  彼の腕にもう一度肩を預けて、ゆっくりとホームから出て行く向こうの電車を指差した。 「あれ、私の田舎行き」 「へえ」 「田舎っていってもはんぱじゃないわよ。小学校なんて一クラス十人しかいなくて、しかも二学年一緒のクラス」 「ほ、ほんとにいまどきそんなとこあるんだね」 「うん。裏山なんてあっちゃってね、秘密基地あったんだよ。私だけの」 「秘密基地ってのも懐かしい響きだね」 「菜の花畑。一面の。すごいきれいなんだ。黄色とね、緑がずうっと広がってるの」 「春になったら見に行こうか」 「ん」  肩まであった雑草のカーテンはもう腰くらいまでしかないだろう。  けど、あのペパーミント色と金色が織り成す世界は変わらずきっとそこにまだある。
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