前編

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前編

 まだほんの小さな頃。小学校にもあがってなかった頃。  うちはちょっとしたお金持ちだった。中学に上がる前に父の会社がつぶれちゃって、もうそれからは転がる転がる。所謂三代目だった父。優しかった頃の面影はさっぱり消えうせた。それどころか父そのものも消えた。温かく大きな手は裕福であるという条件下においてのみ差し伸べられるものだと知った。  だから答えたの。  ピックと名乗るあいつが来たとき。  願い事をかなえましょうかと問われて。 「そうね。この手の届くもの全てが欲しいわ」 「随分抽象的ですね」  かしげる小首に遅れてゆれるペパーミント色の癖毛。スタンドカラーの黒いマント。足よりも長い裾がすぅっとすぼんでそのまま空気に溶けている。こうもりのようなその服装とは裏腹のばら色の頬と幼稚園児のあどけない唇。 「できるの? できないの?」 「せっかちですねぇ。できますよ。その程度なら。でもそれでいいんですか?」 「じゃ、願いを百かなえてって言ったら聞いてくれる?」 「いいですよ。ただし、ただではないですからね。そちらが百欲しいならボクも百いただきます」 「ケチ。じゃあ、さっきのでいいわ」 「引き換えに何をとられるのか聞かないんですか?」 「命いただきますなんてオーソドックスすぎるこというの?」 「命という定義も抽象的ですね。人は生命だけでなく、何よりも大切にしているものを命と呼んだりもします。だけど、そうですね。あなたの生命ではないですよ。ボクはボクが欲しいものをいただきますから」 「ふぅん。じゃ、いいわよ。別になんだって」 「それでこそ」  にやりと笑い、金色の瞳がゆらめく光を放つ。その目つきは、見かけどおりの幼稚園児では、とてもない。細い人差し指を、私の唇に近づけ、ふわりと浮き出た綿飴のような糸をくるくると巻き取った。 「契約は成立した」 「あの三丁目のさ、でっかい家、知ってるか? 俺さ、配達で時々行くんだけどよ」  シャツをだらしなく着崩したヤツが、小さなゲップをしながらビールを飲み干す。親がやってる八百屋を時折手伝うだけの男だから、それほど金回りはよくない。私はそこそこもててるし、付き合う男はヤツだけじゃない。金回りのいい男は他にもいる。だけど、この男は私を独占しようとはしないし、体の相性もいい。頭も気も使わない付き合いは、ある意味居心地よくもあった。 「あの家さ、俺が小学校の頃、化け物屋敷って呼ばれてたんだぜ」 「すごく大きなおうちよね? そんなおどろおどろしい雰囲気だった? 庭が広すぎて家はあまりよく見えないけど、手入れもよくされててきれいな家じゃない」  その家は、八百屋のすぐ近くに借りてるヤツの部屋に行くときに車から見かけていた。鉄製の飾り柵に囲まれて、色とりどりの花が咲き乱れている庭。青々とした刈跡を残す芝生から金粉を吹きあげているような連翹の向こうに、真っ白な壁とうす青の窓枠が見えた。 「いや、住んでる奴がさ、親父がいうにはよ、昔家族で交通事故にあって、その生き残りの子どもらしいんだけど、その事故のせいで顔がもうめちゃめちゃなのよ。子どものころなんて、事故がどうのなんてわからないからさぁ、たまに近所の奴を肝試しに行ったりしてたんだよな」  ……子どもだからわからなかったのかしらね。今でもそんなに変わらないような気がするけど。 「この間、配達行ったときにちらっとみたんだけどよ、やっぱりすごかったよ。顔中ケロイドっていうのか? ひきつれて鼻も変形してんだよ。もったいねぇよなぁ。いくら金持ちでもあれじゃ女もできないぜ」 「お金持ちなんじゃないの? 整形とかしないのかしら」 「目がさ、見えないんだってよ。だから知らねぇんじゃないか。自分のツラ」 「へぇ……、でもつきあう女くらいいるでしょ」 「お前は見てないからそんなこと言えるんだって。無理無理」 「だってあんたにだって、私がいるじゃない」  家に帰れば、お嬢様育ちの母が裕福だった頃の話をうわごとのように繰り返し、パートの仕事のきつさを呪い、自分譲りの美貌をいかして、あの生活をとりもどせと私の手を握る。その冷たく汗ばんだ手が気持ち悪い。だけど、下世話で汚れた人間には慣れているし、私が違うなんて思ってもいない。  こんなものだわ。 「キィタ、おいで」  彼は目が見えない。だけど、部屋がいくつもあるこの家の中と、通りからはほんの一部しか家を見せない広い庭を、何の苦もなく歩き回り、長いんだか短いんだか中途半端な毛並みの犬を呼ぶ。彼は毎晩かかさずその犬のブラッシングをする。そのせいか、年の割にはつやのある毛並み。いつでも彼の足元から動かなくて、どこにだってついていく。小さな子どもを守る母親気取り。 「あの犬嫌い」  いつだって私をさげすむようにちらりと見ては鼻を鳴らす。 「いい犬じゃないですか。主人に忠実で」  彼と結婚して二年目に現れたピック。願いをかなえるといいながら、半年たった今になってもふわりと時折現れるだけ。彼はもちろんだけど、犬のキィタにもピックのことは見えないらしい。獣のくせに鈍い。 「犬はもともと嫌いなのよ」 「ほぉ?」  ピックはテーブルに飾られたチューリップの香りをかぎながら、興味があるようなないような素振り。こいつはいつもこう。 「昔ね、家で飼ってたのよ。犬。黒くて大きな犬。そうね、まだ四、五歳だった私よりもはるかに大きな犬。小さな私には怖くてたまらなかった。その頃はこんな感じの大きな家に住んでたしね。番犬としておいてたんでしょうね」 「その犬、どうしたんです?」 「父がどっかに連れて行ってそれっきりよ」 「なんでまた」 「人に怪我させたのよ。まだ覚えてる。怖くて怖くて必死になって父のところまで走って逃げたの。それから犬はダメ。特に大きな犬はね」 「あなたにも怖いものがあるんですね」  つらりと言ってのけて、ふむふむとうなずきながら消えたピック。溶けるように消える姿ももう慣れた。  彼と初めて会った日。庭に三本植えられている白樺の葉裏が、太陽の光を明るい緑に染めていた。刈り上げられたばかりの芝生が立ち上らせる青々とした香りを含んだ風が、フリルのついたチューリップを右に、左に、ゆったりと揺らし続けている。からからとはじけるような笑い声。ハンディモップみたいな尻尾をちぎれそうなほどに振る犬に抱きつきながら、小さな男の子のように庭中を転げまわってる彼がいた。  八百屋の配達についてきたのは、最初はほんとに興味からだった。  八百屋はにやにやと下種な笑いを見せて、玉の輿でも狙うつもりかなんて言ってたけど。  この家が見たかった。柵の外側からでなく、中から広い庭を見渡してみたかった。裕福で汚いものなんか何も知らなかった頃に住んでた家を重ねたのかもしれない。咲き乱れる花、計算づくに配置された木々、常にみずみずしい刈跡を見せる芝生。住宅街の真ん中にあるはずなのに、広く抜ける空を独り占めしてるかのような庭は、私の胸の奥を鷲掴みにした。  この家が、どうしても欲しくなった。  八百屋が言っていた通り、彼の顔はひどいもので、確かに子どもなら怖いものみたさにはやし立てるのかもしれない。キィタのボールをとりあげ彼に渡すために覗き込んだときにはさすがにちょっとひるんだ。細かな皺とつるりと盛り上がった皮膚がまだらに広がり、右の眉と睫毛は全くない。毛穴がつぶれセロテープをはりつけたように目じりを吊り上げている。鼻先も唇もアイスクリームディッパーでそぎとられたかのよう。すべてではなく、一部分だけだからなお痛々しさが増す。  だけど。  犬と本当に文字通り転げまわって遊ぶこの人は、この広くて狭い世界で子どものままでいるのかしら。そう思った。  微かに触れた彼の指はほんのわずかに震えてた。動揺から警戒、そしてまた動揺。  二度目の動揺はほんの少し甘く。  ひきつれた皮膚のせいで表情をあまり伝えることはできないようだったけど、私にはわかる。男なんてみんな同じ。私はいつもしているのと同じように、ほんのわずかな距離をおいて近づく。ぴったりとではなく、でもちょっと意識的に動けばどこかが触れるくらいの距離。彼は自分から触れようとはしなかった。それどころか触れそうになるたびにのけぞってみたりして。嫌がってるわけではなく、ただひたすらに緊張してる姿は、なんだか初々しくて面白かった。昔見たフランケンシュタインの映画を思い出させる。  自分が触れることですべてが壊れるかと思っているかのような不器用なしぐさ。  初めて一緒にすごした夜も、そっと、そっと、壊れ物を扱う手つき。  私の反応をうかがい、確かめ、ぎこちないながらも確実に探り当てていく。  彼は、太陽の光こそ暖かさで感じるようだけど、蛍光灯の明かりはわからないようだった。広すぎる部屋のせいかもしれない。なんとなく、明かりを消すことがためらわれた。なぜか消してはいけないような気がしつつも、消さずにはいられなかった。明かりがついていようが消えていようがそれまでなんとも思わなかったのに。彼にはどちらでも変わらないはずなのに。  セックスなんてたいしたことじゃない。誰とだってしてきたこと。彼とのセックスだって嫌ではない。下世話な話ではあるけど、むしろ上手といってもいい。彼は私の部屋を用意してくれたけど、結婚した後も、一度だって当然のように私の部屋にはいってくるようなことはしなかった。  今は全く部屋に招き入れることはない。彼は何も言わない。時折、酔いに任せて八百屋を連れ込んだりしたけど悲しそうにすらしない。おおっぴらにしたわけじゃなく、一応こっそりとはしてたけど、気づかないわけはないと思う。霧雨の雨音すらも聞きつけて、傘をもっていったほうがいいよと教えてくれる彼が。  たとえば美味しい料理を食べたとき、「美味しいわね」の一言で、満足そうな顔をする。わずかにぴくりと口元をひきつらせるだけの顔。  母が一緒に暮らしたがったけど私は嫌がってることがわかると、いつのまにか母にマンションを与えていた。何も言わないけど生活費も渡しているようだった。  彼は事故にあった小学校の時以来、学校に行っていないと言っていた。  インターネットや点字におきかえられた本、それで間に合わないところを家庭教師で補って勉強を続けていたらしい。家から出なくても死んだ両親から譲りうけた財産を管理して、投資やらなにやらで増やしている。「ほんの少しずつだよ」と詳しいことは話さないけど、驚くほど博識な一面を見せたりもした。ニュースで聞こえてきたことを少し尋ねれば、短い言葉でわかりやすく尋ねられたことのみ説明してくれる。  犬と転げまわっている彼の口から経済や政治の話を聞くのは、なんだかテレビに出てくる天才小学生をみるような気分がした。 「ほら、見えない?」  裏庭のクスノキ。彼が指差した先は、そびえる幹のなかごろ、太陽を反射する葉に遮られてよくわからない。 「えっとね、ちょっといい?」  ひょいっと私を小さな女の子のように持ち上げて肩車してしまった。我ながら素っ頓狂な悲鳴をあげて、彼の頭にしがみつく。彼の体はほっそりとした外見よりもずっと力強く、片手で私のひざを支えるだけで揺るぎもしない。器用にもう片手で私の唇に指を立てる。 「しぃー、よく聞いて見てごらん」  ごつごつとした幹によりそって、もう一度彼が指差す方向を見上げた。 「あ」  ぴぃぴぃと、甲高い細い鳴き声が聞こえる。思わず背を伸ばした私の足の裏を支えて、もっと覗き込めるようにしてくれる。うんと手を伸ばしたら届きそうなくらいの太い枝と幹の付け根に、小枝で作られた小さなおうち。黄色いくちばしを目一杯に開けた雛鳥がわずかに見えた。 「毎年、ここに巣ができるんだ。僕らの振動でね、ゴハンくれる母鳥だと思って口開けるんだよ」  とっておきの秘密を教えてくれる子どもみたいに声をひそめる彼。私たちのほかには誰もいないのに。あ。キィタがいたか。でもこいつはとっくに知ってる秘密だからねってすまし顔して、彼の足元に前足をそろえて座っている。 「かわいい」 「触っちゃダメだよ。母鳥が世話しなくなっちゃうからね」 「うん。大丈夫。手も届かないし」 「見えにくい?」  彼は自分までつま先立ちしようとする。ちょっとしたぐらつきに笑い声をあげてしまった。 「いいってば。ちゃんと見えるから」  彼はニュースの解説をしてる時なんかよりずっと得意げで満足そう。私が飽きるまでずっと支えててくれた。  穏やかで、ぬるま湯な毎日。  夜になると、私は外へ遊びに出る。相手は八百屋だったりそうじゃなかったり。夜の私は何か追い立られてるかのようだった。なんでだかわからない。ただ、どうしても、夜は落ち着かなかった。ドアを開けて、廊下をわたりきった先まで行けば彼の部屋。昼間なら訪れることに抵抗はないのに、なぜか夜は行くことができない。だからその途中の階段を降りてしまう。 「外で遊ぶのは楽しいですか?」  ピックは非難がましくするわけでもなく、かといって、興味深々な顔をするわけでもなく、「身長はいくつ?」と聞いてるかのような平坦な尋ね方をする。 「別に。楽しいといえば楽しいし、退屈といえば退屈ね」 「ヒトは本当にやっかいな生き物ですね」 「あんたはヒトじゃないわよねぇ。なんなの?」 「おや。興味あるんですか? いまさら」 「なによ。その言い方」 「いえ。ボクがなんなのか、尋ねなかったヒトはあなたが初めてでしたから」 「登場の仕方からしてヒトじゃないのはわかってたし、とりあえず害はなさそうだしね。そういえば私の願いをかなえてくれるって話はどうなったのよ」 「そうですねぇ……もうすこし、ですよ」  微笑みで丸みをおびるばら色の頬は天使のように愛くるしいのに、何故だか初めて、このヒトではない存在が、ほんのすこし恐ろしいものに思えた。 「なぁ、ちょっと都合してくれねぇ?」  たばこ代からはじまって、呑み代からガソリン代、八百屋の無心は現金にまで発展してきた。デート代くらいならともかく現金渡してつなぎとめるほどの男ではないから断った。 「なんでだよ。金ならあんだろ?」 「私のじゃないわよ。遊ぶお金くらいなら何も言わずにくれるけどね」  彼は私の口座に毎月少なくない金額を振り込んでくれる。インターネットで全て動かすことができるから、手元に現金はあまりおいていない。だからだと言っていた。おかげで彼にねだることもなく、私は毎晩でも遊び続けることができる金額を手に入れている。 「なぁ、それってよ、あいつがいなくても、誰も気づかないってことだよな?」  八百屋の目つきが、ぬめりとした、いやらしい色を浮かべるようになっていた。 「お前さぁ、金目当てなんだろう?」  会うたびに八百屋はねめつく声でささやく。 「それがなに?」 「そんなさぁ、毎月のはした金で満足しちゃうわけ?」  そのはした金を目当てに寄って来てるくせに。 「お前、もしかしてあいつのこと愛しちゃったりしてるわけ?」 「やめてよ」 「だよなぁ? そんなわけないよなぁ」  彼に限らない。私は誰のことだって愛したりなんてしない。八百屋なんてもってのほか。 「キィタ? キィタ?」  最近は彼が呼んでも眠ってばかりの犬。心細さと焦りがにじむ声が聞こえて彼の部屋に向かった。 「どうしたの?」  彼は振り返りもせず、ただ犬の名前を呼ぶ。「キミが来たらすぐわかる。声かけられなくても」そう言っていた彼が、私の声も聞こえないかのよう。彼は私の香水の匂いが好きだと言った。すぐわかると、声かけられなくても私が傍にいることがわかると。だからいつでもこの香水をつけていることを約束した。その約束だけは破ったことがない。 「……ねぇ」 「キィタ? キィタ?」  犬の頭をひざに抱き、背をさすり、やっと犬がくぅんと鳴き声をあげた。 「よかった。僕をおいていくなよ」  愛しげに鼻をすりよせあっている。 「やっぱりもう年なのよ」  やっと彼が私に気づいた。背中が強張っている。 「最近眠ってばかりじゃない? あなたが呼んでも来やしない」  あの犬、やっぱり嫌い。あの非難がましい目。
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