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後編
「どうしちゃったんだろ。ゆうちゃん」
ベッドの枕元にまたぼくを座らせて、あゆむは首をかしげていた。
本当なら人形を返すはずだった。だけど、あいつは人形に視点を合わせたとたん、髪に火がついたように泣き叫びだしたのだ。カラダはうごかせないようだった。生まれたばかりの赤ん坊のように、手足をじたばたさせて泣き喚いていた。おかあさんは人形のぼくをあゆむのおかあさんに渡し、あゆむのおかあさんはあゆむとぼくを連れて部屋を出た。閉じるドアの隙間から一瞬、あいつを抱きしめて背中をさするおかあさんが見えた。
このお人形があなたをつれてきてくれたのよ。
なかなかコドモに恵まれなかったおかあさんたちが、普段興味もないのになぜか入った小さな古道具屋の片隅にこの人形がいたのだと。なぜかそばにいきたくなり、なぜか手に取りたくなり、なぜか抱きしめたくなって、なぜか家に連れて帰りたくなったのだと。それからすぐにおなかにあなたがいるのがわかったのよ。そう言った。
残念ながらぼくにはその記憶がない。けれども、この人形のカラダはぼくのカラダなことは間違いがないと、そう思う。
ぼくがぼくを連れてきた?
だったらあいつはなんだ。
ぼくは一体何をした?
五歳のカラダで、赤ん坊のように泣き、言葉も出せないあいつは一体どこからきた?
考えたくはないことだけど、多分答えはひとつだ。
あいつの体はもともとあいつのもの。
ぼくがあいつの体を乗っ取っていたんだ。
あゆむは毎日ユウイチのところに通っていた。
手のひらからはみでるくらいの松ぼっくり、真っ黄色な銀杏の葉、赤とオレンジと黄色がそろったもみじの葉、食べたくなるほど赤く熟した実をたわわにつけたナナカマドの小枝、素手でつるつるになるように固めた雪ウサギ、何日もかけて磨き上げた泥団子、からすに食べられる直前の熟した桑の実。
一人でもできることをどんどん増やして、それをおみやげにユウイチのところに通っていた。もちろん妹へのおみやげ分も忘れていなかった。
そしてそれを毎晩眠る前に、ぼくに報告する。
「ピック! 今日はね! ゆうちゃんがあゆむって呼んだんだよ!」
あゆむはぼくにピックと名づけてた。由来は知らない。多分思いつきだろう。
冬が始まる頃、ぼくを抱きしめて振り回しつつ報告してきた。ユウイチは、赤ん坊が幼児になるよりもずっと早く成長してきているようだった。今までの五年分を全速力で追い上げようとしているように。ぼくがいるあゆむの部屋には来ないけど、時々階下からユウイチとあゆむとあゆむの妹がじゃれあってる声が聞こえるようになったのは、そろそろ川遊びが始まる季節だった。
ゆうちゃんね、かけっこでまたたけしくんに勝てるようになったんだよ。
ゆうちゃんね、どじょういーっぱいとってた。おうちで育てるんだって。
ゆうちゃん、絵本あんまりすきじゃないって。
ゆうちゃん、おとこのこたちとニンジャごっこしてたよ。かっこいい棒さがしてた。イイ武器なんだって。
「あゆむは何してあそんだの?」
みてたー。ゆうちゃんかっこよかったよ。
明日の時間割をにらみつつ、教科書をランドセルに詰めながら、あゆむは「あれ?」と部屋を見回し、首をかしげながらまた時間割をひとつひとつ指差し確認を始めた。
まあ、ぼくが治したのは病気だけで運動神経までは治さなかったからな。ぼんやりさんなのも。
小学校に行くようになって、あゆむにも女の子の友達が増えた。
ユウイチと遊ばない日も増え、ぼくに報告がない日も増えた。
まあ、そろそろ男の子と女の子では、遊び方が変わってくるころなんだろう、と思う。
ぼくがユウイチだった頃に山で遊んだコドモたちでも、十歳くらいのコドモは男の子が多くて、女の子は別の遊びをしていたし。
五歳になるまでの頃より、今のほうが時間の流れはゆったりと感じるのに、ふと気づくと季節は何度も通り過ぎていき、そして、 ぼくの定位置は、枕元から勉強机、勉強机から本棚の上に移っていった。
それでも時折、あゆむはぼくを抱き上げ頬擦りをした。もうこの頃にはぼくに話しかけることはほとんどなかった。ただ一度だけ、いや、ぼくに話しかけたわけじゃないけどつぶやいたことはあった。
「いちばんなかよしって言ったのになぁ」
なにやってんだあのやろう。
あゆむが中学校の制服を着るようになった頃。
ぼんやりは相変わらずで、パジャマのズボンをはいたまま制服のスカートでふらふら出て行ったかと思うと、どたばたと半分こけつつ部屋に戻ってきてズボンだけ脱ぎ捨てまた飛び出していったりしてた。階段から落ちなかったのがせめてもの。
ジャージの背中にゼッケンを縫いつけようとして胸のほうにまで縫い付けてたのは、笑いをこらえるのがきつかった。
やせっぽっちで抱かれれば骨まで感じた胸はふっくらとして、記憶の中でのおかあさんの胸よりはやわらかくはなかったけどそれなりのクッションにはなってきていた。
妹と焼いたクッキーを部屋にもってきて、夜遅くまで勉強しながら、「あと一枚だけ・・・」と全部食べつくしてた。
だけど、バナナマフィンを作ったときには、端が焦げてないやつを選んで薄青い小花柄の紙で包み、黄色いリボンを結んでた。三回結びなおしてた。
あゆむの制服が変わった頃はもう、ぼくを抱き上げてはくれなくなっていた。
そろそろ潮時かな、と思っていた。
この人形のカラダではちょっと外をうろつくわけにもいかないし、どうしたものかと、床にはいつくばっていた赤ん坊の頃のように考え込んでみたりもしてたけど、今はもう抱き上げてくれる手はないし。
今は本棚の上にいるけど、次はどこにおかれるもんかわかったものじゃない。今ならまだなんとか自力で降りることができる。まあ、夜中なら人目につくことも少ないだろう。ぼくがいなくなったことにあゆむはいつ気づくかななんてちらりと夢見てみたりもするけど、このぼんやりっぷりじゃとても。
そんなようなことを、毎晩、背中をべろっと出して丸まってるあゆむに、床に蹴落とされた毛布をかけてやりながら考えてた。そんな頃。
あゆむが久しぶりにぼくを抱き上げた。
頬を赤くして、笑い声をこらえてるもんだからなんか変な声がちょっと漏れてて、子供の頃はしゃいだときのように鼓動が早く脈打っているのが伝わった。
「ゆうちゃん」
小さく小さくつぶやいた声は、内緒話ができなかったあゆむの声とは思えないほどつややかで。
人形のカラダで感じるものと、人間のカラダで感じるものはまるで違う。
知識として、恋愛というものはぼくも知っている。
体温の上昇、早くなる鼓動。昂る感情がカラダにまで影響し、カラダも感情に応えていく。
そうやって人間は、自分の感情や心を育てていく。
ぼくは、五歳までしか育てることができなかった。
もうユウイチとあゆむの時間は、ぼくとあゆむが過ごした時間の倍を超えたんだ。
とっくにそんなことは気づいてたんだけど、気づくってことと実感するってことは全然違うことなんだな。
ほんとにもう行かないと、そう決めた夜。
ユウイチが事故にあったとの報せがあった。
こんな田舎だから薄暗い道はいくらでもある。ユウイチは自転車にのっていて、左折しようとしたトラックに巻き込まれたらしい。自転車がクッションになってくれて、あちこちの骨折はあるもののそれ自体は致命傷ではなく、ただ全身打撲もあり昏睡状態だと。
全く人間ってほんとに脆い生き物だ。
何の力も持たないくせに。
そんな分際で、このぼくを追い出したくせに。
その程度のことで瀕死になるなんて。
部屋で宿題をしていたあゆむの取り乱し方はひどいもので、がくがくと足を震わせながら立ち上がろうとして麦茶を倒し、麦茶に濡れて机にはりついた宿題のプリントが、その上についたあゆむの手で半分破れた。その濡れた手に気づきもせず、病院に駆けつけるというあゆむのおかあさんについて部屋を出て行った。
数時間後に部屋に戻ってきたときも、足取りは頼りなくて。どうしよう、どうしよう、そうつぶやき戸にぶつかりながら部屋に入り、たんすに肩をぶつけ、壁にもたれ、と、あちらこちらにぶつかる反動でベッドまでなんとかたどりつこうとして。
本棚の上のぼくを床に払い落とした。
陶器が割れるような音はしなかったというか、ぼくにはわからなかった。空気が振動で震えた感触には気づいた。
あゆむは一拍遅れて振り向いたから、音は多分したんだろう。
中身が砕けて床に厚みなく横たわるタキシード。もう随分白茶けてきていたんだけど、砕けた体の粉末でまだら模様になっている。変わらぬ表情のまま顔の半分がなくなり、その中の空洞をさらけ出している。
「あ。あ。あ」
あゆむは、ふらふらと残骸のそばによって尻餅をついて、どこに手を置いていいのかわからないかのように、人形だったものの上で両手のひらをさまよわせてる。なんとかうまいこと持ち上げれば、元通りになるんじゃないかと思ってるみたいだった。
ぼくはといえば、それをあゆむのちょっと斜め上後ろくらいから眺め降ろしていた。
タキシードに振りまかれた粉末がぼくのほうにふわりと舞い上がり近寄ってくる。大きなかけらはその端からさらさらと砂に変わり、その後を追う。あゆむは、本来ならずっとそこにあるべきかけらたちがどんどん粉に変わっていくのをぼんやり眺めていた。やがて、砕けるはずのないタキシードまで崩れ落ち、舞い上がるのをやっと目で追い始め、ぼくが浮かんでいる方向へ顔を向けた。
粉末はボクにまとわりつき、形をつくり、色づき。おかしなことに、おかしいといえばぼくの存在自体がおかしいのだけど、形作られたのは元の人形のサイズではなく、五歳のユウイチくらいのサイズだと自分の手のひらを見つめて気づいた。
「なんだ。別に器なんていらなかったんじゃないか」
思わずつぶやいたボクの声は、あゆむにもやっぱり聞こえるようで、まん丸に目を見開いたまま、びくりと肩を震わせた。そこでやっと、あゆむとボクの視線の焦点が合う。
「やあ。こんばんは」
「……こんばんは」
うん。このぼんやり加減があゆむだなぁ。
あゆむはおずおずとボクに向かって手を伸ばしてくる。震える指先が、新品のつやを見せているタキシードに触れて、そのまますり抜けた。手にあたるはずであろう抵抗が全くないのに、どこかにあたるはずだとばかりにまさぐる手。
うん。この怖いもの知らずなのも、あゆむだなぁ。
「あのね、別に痛くもなんともないんですけどね。絵的にちょっとグロテスクだからやめてもらえないですか?」
「……あ……ご、ごめんなさい」
素直に手を引っ込めるあゆむ。
ボクは新しい自分の姿を確認できる範囲で確認する。ぱりっとしたタキシード。ふっくらとした小さな手。額にふれる前髪を自分の視界にはいるように伸ばす。明るい緑色の巻き毛。サイズはともかく、見た目は人形と変わらないようだ。ただし新品の。
「……ピック?」
「ん。なんですか?」
「お人形じゃ、なかったの……?」
昔から思ってたんだけど、タキシードのみってなんかしっくりこなくてイヤだったんだ。左手で右袖、右手で左袖、胸を両手の順番でするっとなでおろしてみる。足元も全部隠す長さのマントになった。よし。このほうが好みだ。
「うん。実は違います」
「え。そしたら誰……?」
あゆむは、何?って聞かないんだなぁ。誰って聞いてもらえるのがなんだか不思議だ。
「ピック。きみが名前つけたんでしょう?」
「……あれ? あ。そっか。え? ピックでいいの?」
「そう。それがボクの名前」
「ピック」
「なに?」
「もうピックに触れないの?」
そう言った瞬間に、あゆむはぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
座り込んでしゃくりあげるあゆむを見下ろしていたのはどのくらいだろう。多分十分程度だと思う。
どうしよう。どうしよう。ピック。ゆうちゃんが大変なのに。ピック。どうして。
しゃくりあげながら言うものだから、やっと聞き取れたのはこのくらい。他にはよくわからない言葉にならない呟きが山ほど。
あゆむはやっぱりずるいなぁ。
ボクに触ることなんて、めったになくなっていたのに。
今のボクには、もう重力なんて関係ないし、どこにだっていける。
多分ずっと昔からこの姿だったんだと思う。
なんだってわざわざ器なんかに入り込んだのかさっぱり思い出せないけど、人間のときより、人形のときより、はるかにボクの力は自由になっているのはわかる。それがとても馴染んでいる感触なことも。
「あゆむ」
しゃっくりが止まらなくなったあゆむがボクを見上げる。鼻水だしすぎだ。左手をちょっと振る。ベッド脇に畳まれた洗濯済みの山の中から、ハンカチがあゆむの手の中に飛び込んだ。
「……ずごいね……あじがど」
あゆむは驚いてないわけじゃないはず。ただ、どうもこれがあゆむなんだろうなぁ。
「あゆむ。ボクにはできないことはほとんどないですよ」
ハンカチで口元を押さえながらあゆむはボクを見上げ続けてる。
「鼻、かむといいです。話できないでしょう」
「あ、はい」
素直にハンカチで鼻をかみ、しゃっくりもちょっと落ち着いてきた。
「あゆむ。ボクにできないことは時間を戻すことと、死んだ人間を生き返らせること。それくらい。他はなんでもできる」
そう。昏睡状態の今なら、きっとまたあいつのカラダをのっとることも。
「ゆうちゃんを助けて」
「では、どんぐりをボクにください」
「どんぐり? 木の実の? 地面に落ちてるやつ?」
「そう。それ」
「ひまわりの種じゃだめなの……?」
「別にボクはリスでもなんでもないです」
今は桑の実の季節。
ひまわりの種どころか、どんぐりなんて落ちてない。
次の日の朝早くから、あゆむは学校のジャージで山にでかけた。下生えの雑草は、昔は顎まであった気がするのに季節のせいもあるのか、せいぜいがあゆむの腰までもない。それでも陽が差し込むところはやっぱり雑草は伸びてて、はいつくばってかき分けるのに苦労してるようだった。陽のささない場所はそうでもないけど落ち葉の下や倒木の陰を覗き込んで探してるから、ジャージのひざも手も袖口もドロドロだった。学校が始まる時間にあたふたと着替えて、学校が終わるとまたその汚れたジャージになって森に戻っていった。ユウイチの面会時間が終わるギリギリに病院に行ってから家に帰っても、そっと懐中電灯を手に抜け出してた。
「あゆむ。そのあたりはもう桑の木ばかりですよ」
地面ばかりにらんでるから、とっくにミズナラの木がある範囲から外れてるのに気づかず這い進んでるあゆむに声をかけた。
あゆむは、周囲を見回してから、ぼくを見上げる。
「……あ。ほんとだ。気づかなかった」
慌てて立ち上がって、地面に這う枯れツタに足をとられかける。
「ピックがお外にいるのって不思議だねぇ」
「いきなり現れるボクにたいした驚きもせずに順応するあゆむほどじゃないですよ」
けして運動神経がよくないあゆむは、頼りない足取りでそれでもなんとか転ぶことなくミズナラがあるあたりにたどりつく。道らしい道などない場所に入り込んでるから、会話を進めるテンポは遅い。歩くのと話すのは同時にできないようだけど、できてないことには気づいてないあゆむは、まるでずっと止まることなく会話が続いてたかのように笑った。
「不思議かなぁ。ピックはいつも一緒にいたからだよ。きっと。でも他の人ならびっくりするのかな。するよね。いきなり空に浮いてる子がいるんだもの」
「ボクは人間に姿を見せるかどうか選べますから」
「そうなの? じゃあ、他の人にはピックの姿見えない?」
「あゆむにしか見せてませんよ。だから話しかけるのは人がいないときにしたほうがいいですね」
まあ、あゆむにそんな使い分けできると思わないから、他の人間がいるときは姿を見せるつもりないけど。
「そっかぁ。じゃあ気をつけないとだね」
どんぐりを捜し始めてもう三日たつ。ユウイチは相変わらず昏睡状態のままだ。あゆむは家と学校と病院と山を何往復もしてる。
ばかだな。ほんとに。こんな季節に落ちてるわけなんかないのに。
あゆむはユウイチの病室に入る前に、ジャージの泥をはたき手と顔をしっかり洗う。
ユウイチの握り返してもこない手に触れ、学校であった出来事を話しかける。
「もう宿題いっぱいたまっちゃったよ。ゆうちゃん。ノートとってあるから手伝ってあげるからね」
そのノートは、半分くらいみみずがのたくった字になっているのをこの間見た。自分でも解読できるのかどうか怪しい。
今ボクの姿はあゆむには見えていない。ベッドの脇の椅子をあゆむに譲ってドアのそばにいるおかあさんにも。
おかあさんの目の下には隈がくっきりと浮かんでいて、この数日で何キロもやせたようだった。
ユウイチの意識はずっと深いところで眠っているのがわかるけど、まだ消えてはいない。あと何日もつかな。もって四日といったとこか。
あゆむが病室を出て行った後、おかあさんはベッド脇の椅子に座って、あゆむがさっきまで握っていたユウイチの手を軽くはたき、
「あんたは、ほんとにあゆむちゃんに心配ばかりかけて。早く起きなさい」
濡れたハンカチで唇を湿らせてあげ、頬をなでた。
ユウイチだった頃。風邪を引いて熱を出したボクの額に濡れタオルを載せながらこうして頬をなでてくれた。
その手が、ボクはとても好きだった。
おかあさんの額に指先をあてる。おかあさんにボクは見えてないし、視線の先にはユウイチがいる。ボクの指先が薄く光るのと同時に、その目がとろりとなり、ことん、と、ユウイチのベッドに頭をのせて眠りにおちた。
ちょっと姿勢が悪いけどね。少しは眠らなきゃ。あと数日、数日だから。
それから二日たった夜、細かな雨が降っていた。細かすぎる雨は葉を打つ音すら立てず森を濡らしていく。
あゆむは今夜も懐中電灯を手にどんぐりを捜している。
せっかくボクが健康にしたのにな。
ほんとに人間ってやつはなんてばかな生き物。
ユウイチだってそうだ。せっかく手に入れているカラダをなんだってもっと大事に扱わないんだ。
なんの力も持っていないくせに、何の根拠もなく自分は死なないと思っている。
下生えの雑草はすっかり水を含んでるし、いまさら雨が当たらないようにしてやってもあゆむはずぶぬれなわけだけど。
あれはボクが治してあげたカラダだしね。そのカラダの周りには雨が降り注がないように。いまさらなんだけどさ。
鼻をすする音。
「どんぐり、ない。どんぐり……どんぐり……」
時折、袖口で顔をぬぐいながらあゆむはどんぐり探しの手を休めない。
ほんとに。ほんとにばかだ。
さあっと雨がやみ。
薄雲の向こうから月が顔をのぞかせ。
さっきまで降っていた細かな雨のような光を注ぐ。
視界が急に明るくなったことに驚いたあゆむが、空を見上げ、ボクを見つけた。
「ああ、ピック……」
鼻水をすすり上げてまぶたを拭きながら笑おうとするあゆむが言葉を止め息を呑んだ。
「どうしました?」
「……ピック、ずっと前も、そうやってあゆむと話したこと、ある?」
自分のことをあゆむと呼ぶのを聞くのは久しぶりだ。
「ずっと前って?」
「ずっと、ずっと前。ちいさいころ……」
うん。あの夜も、こんな風に月の光が明るい夜だった。
「あゆむ。どうしてボクが本当にキミの願いをきくと思うの?」
「え?」
「いきなり現れたこんな得体の知らない何かが。どうして。キミの願いを叶えるはずだと。どうして信じてるの?」
「だって……」
あゆむは大きく目と口を開いてから、転がり落ちるように山から駆け下りた。
戻ってきたのは小一時間もたったころだろうか。
息を切らしながら、何度転んだのかひじも顔も泥だらけになって、それでも両手で胸を押さえるように何かを大事そうに持って駆けてきた。手の中に、元は黄色だった白っぽいリボンで結ばれた小さな巾着袋。
言葉を出せないあゆむの息が整うのを待つ。待ってる間に、濡れたジャージを乾かした。まあ、あゆむは気づいてないけど。
「これ」
リボンをとき、あゆむの手に転がり落ちるどんぐり。
ポケットいっぱいに詰め込んだどんぐりの中から、一番つやがあって、一番大きくて、一番形がよくてって選り抜いたどんぐり。
「ごめんね。ピック。ごめんね。なんでゆうちゃんにあげなきゃって思ったんだろう。ピックにあげる約束だったのに」
「よくありましたね。これ」
「ゆうちゃんのおかあさんが持ってたの」
「でしょうね。彼がとっておくとも思えないし」
あゆむの手のひらに転がるどんぐりは、十年以上超えて乾き細いヒビが寄っていて。
ぼくの手のひらの上では、少しだけ大きく見えた。
「あゆむ」
「うん」
「願いはひとつ、叶えてあげる。でもタダじゃないよ」
「ゆうちゃんを助けて」
どんぐりと引き換えじゃなかったのかと言わないんだもんな。
「……こういう取引を持ちかけられたら少しは何と引き換えなのか確認しなきゃダメですよ」
「そうなの?」
「まあ、いいです。そんなこともこの先ないでしょうしね。もう一度願いをその口で、言葉にして」
「ゆうちゃんを助けて」
あゆむの唇からこぼれた綿飴のような薄い言葉の糸を、人差し指で巻き取る。
「契約は、成立した」
ボクの姿を見ることが出来るかどうかは、ボクが見せたいかどうかで決まる。
そして普段は人間が住む世界とは、ほんの少しずれた空間にいるわけだけど、その空間を重ねてあげることで姿を見せる。まあ、大体そんなかんじ。
ユウイチだった頃、世界はずっと広くて果てなどないように思えたけど、今ボクはユウイチやあゆむが住む世界の向こう側にいるといっていい。
世界の果てがないわけじゃないのはもう知っている。
果てがある世界の中にいたからこそ、美しく感じることができたことも。
あゆむを眠らせ、部屋のベッドまで運んだ。ユウイチの病室にはおとうさんがいた。小さな椅子が余計に小さく見える背中を丸めてうつらうつらしている。おかあさんは家のソファで横になっていた。
明日の朝、ユウイチは目を覚ます。
のっとったところで、所詮借り物の器。人形のカラダに戻る前に調子が悪くなっていたのはそのせいだ。もって数年だろう。
それに契約したからね。契約は契約。
あゆむが望んだのは、このユウイチだ。
いわゆる住宅造成地のニュータウン。元はなだらかな大豆畑だったと思う。元というか前にみたとき、かれこれ四十年か五十年ほど前かな。多分。切り拓かれた土地に定規をあてたような清潔な区画割りが、石畳風の歩道とカンテラぽい街灯で欧州風の演出をしようとした目論見まで切り落としたかんじの町並み。こざっぱりさと欧州のロマンチック風は両立は難しいよと誰か教えてあげたらいいのにとは思ったけど、それでもなんとなくお洒落な感じはかろうじて振りまかれていたのかそこそこ宅地は埋まっていった。そして今ボクは、ニュータウン拡大の中段階あたりで建てられたであろう築年数の家にきている。
角地に建っているそれは、そろそろ外壁の手入れが必要かもしれないかなくらいになってきてはいるけども、小ぢんまりした庭に季節の花がたえないよう植えられた花壇、赤い三輪車、物干し竿にはためく真っ白なシーツが、その敷地内総ての印象を明るくさせている。庭のサイズには少し不似合いなほど育ってしまったミズナラの木が葉陰を落とす部屋。一階の和室は絶え間なく香がたかれ、仏壇にはみずみずしいカラーと額縁がふたつ。ひとつは真新しく、もうひとつは少し色あせている。けれど、もともとは寄り添った一枚の写真からそれぞれ切り取ってきたものなのがわかる。時折、三つくらいの女の子が転がって絵本を一人で読みにくる。そのまま寝てしまうのが最近のお昼寝のパターンらしい。丸くなって背中をはだけさせている。
「そっくりですね」
「そう?」
「そっくりですよ」
ボクの隣に浮かぶ女の子は、今畳の上でころころと転がっている女の子と瓜二つの姿と声で笑った。
「ほんとに久しぶりねぇ。ピックったら、いきなりいなくなっちゃうんだもの。全然帰ってこないから心配したのよ?」
「ボクもいろいろとありますからね。事情が」
「どんな?」
「教えません」
「ケチー」
ぷぅと膨らむほっぺた。部屋の中空で並んで浮かぶボクらの背丈はさほど変わらない。あゆむは本格的にお昼寝にはいった様子の女の子に近寄ろうとして、足をじたばたさせてはどうやら床を歩くようには動けないことに気づいてあきらめた。
「ねえ、ピック。私なんでこんな子供の姿なのかしら」
「人によるんですけどね。大体において、その人の人生で一番幸せな時代の姿になるみたいですよ」
「じゃあ私にとって一番幸せな時代ってこの頃なのねぇ」
「まあ、後悔ゆえに戻りたいだけだったり、良くも悪くも記憶が鮮やかな時代だったりもするようなので、一概にそうとも言い切れませんが」
あゆむはちょっと首をかしげながらボクを見上げた。
「どのときが一番とは決めにくいけど、このくらいの年齢の頃は幸せなことしかなかったのは間違いないわ」
時々発作で随分と苦しんだ時代のはずなんだけど、それはあえて指摘しないでおく。
「ピック」
「なんですか」
「自分が半透明なのって不思議ねぇ。ピックのほうがずっとはっきり見える」
あゆむはしげしげと自分の短い腕や小さな足を見つめている。
「まあ、存在するための力ってものが必要なんですよ。ボクはかなり強いので」
「今の私とそんなに変わらなく見えるのになぁ」
「念のため言っておきますけど、別に腕相撲とか筋力系の力のことではないですからね」
畳に転がる女の子のシャツの背中を伸ばして肌を隠してあげる。
「寝相までそっくりですね」
「ええ? 私そうだった?」
「そっくりです」
「そういえば息子もそうだったわ。孫にまで遺伝するものなのね」
今はすやすや眠っているこの子も、やっぱりこんな風にころころと笑うのだろうな。
「私ね」
「はい」
「ぽっくり死んじゃったのよね。びっくりしたわ。いつもどおり夜眠ったら、この姿で目が覚めたの」
「ええ。知ってます」
「ピックはお迎えにきてくれたの?」
「……いいえ。見送りに」
「私、ピックの顔見たときに、ああ、苦しくないようにしてくれたのねって思ったのよ」
「あゆむはちょっとボクを信じすぎですね」
「そうかしら。だって、ピックが私に何もかもくれたのよ。こんなにかわいい子にまで恵まれたのはピックのおかげ」
口を開けば素っ頓狂な声をあげていた頃の姿でこんなにも穏やかに話されるのもなんだかくすぐったい。
「ありがとうって、ずっと言いたかったのに、あなた全然姿見せてくれないんだもの」
「ちゃんと覚えてますか? ただの契約ですよ。無償だったわけじゃない」
「だって、ピック、私から何ももっていかなかったじゃないの」
「そんなことはないです。ボクはボクの欲しいものをもらいます。いつでもね」
納得いかないように眉をひそめるあゆむは、その姿に似つかわしくないほど大人びている。そう。もらうものはもらう。いつだって。ただ、もらわれるほうがそれに気づかないこともあるだけのこと。
「そういえば、見送りって、私これからやっぱりどこかいくの?」
「ええ。行くべきところに」
「ゆうちゃんね、私より先にいっちゃったのよ。そこにいるかしら」
あゆむはずっとその呼び名のまま通したのだろうか。
「どうでしょうね。正直、そこはボクの管轄外なんですよ」
「だから見送り?」
随分と察しがよくなった。人間は成長するものだけど、あゆむが成長したと思うと不思議と不思議でしょうがない。
「まあ、そこまでの話し相手くらいいてもいいでしょう?」
「うん。懐かしくてうれしい」
「怖くはないですか?」
「全然? どうして?」
「……まあ、怖くないならなによりです。まだ少し時間はあります。どこか行きたいとことかありますか?」
「うーん。あることはあるけど、ちょっと遠いわ」
「あまり距離は関係ありませんよ。ボクがいればね。願ってみますか?」
「願う?」
あゆむの額に指先をあてる。
「そう。行きたいところを願うだけ」
次の瞬間、ボクらはふもとに古い町並みを抱く小さな山を見下ろしていた。つややかな葉をうたわせるカエデ、桑の木、ミズナラ。町並みこそ少し変わってはいるけども、山は変わっていない。うまく動けないあゆむの手に軽く手を添えてゆっくりと山に近づく。リスか何かが走ったのか、風とは違う方向にがさがさっと震える一枝。
「すごい! すごいね! ピック! ほら! リスよねあれ!」
きらきらとした目を見開いて、頬をうっすら上気させて叫ぶあゆむ。
山に近づくにつれてその姿はどんどん薄れていくことに気づきもしない満面の笑み。
ボクはね、ずっとその顔がまた見たかったんだよ。あゆむ。
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