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後編
それから月に何度か、その男性と会うようになった。特に待ち合わせも連絡もしていない。ふと思い出したときに何故か現れる彼と他愛のない話をした。私の客の話であったり、戦の中の噂話であったり、景気や流行の服装であったり。最近は私の部屋でお茶を飲むことが多い。けれど彼は私に指一本触れようとはしなかった。自分の部屋に客をいれたことはない。だからこれは仕事ではない。コンロがひとつしかないキッチンで、しゅうしゅうと音をたてるやかん。ベッドと小さなテーブル、硬めの本が詰まった腰の高さほどの本棚、後は部屋には不似合いに大きなタンス。壁に埋め込まれた備え付けのクローゼットもあるが仕事用の衣装をつめるには足りなかったから。
「新しい本、買ったんですか?」
本棚の上においた読みかけの本の背表紙をなぞり彼が聞いた。お茶をいれるだけで部屋の窓は白く曇る。マグカップに注いで渡すと彼は湯気を顔にあびるように嗅いでうれしそうに微笑んだ。いい匂いとつぶやく彼の表情はやはりどこか幼い。
「字もろくに読めなかったんだけど、なんとかわかるようになるものね。使い捨てされない商品になるには話術も必要だから」
「あなたの言葉は自虐のようでいてそうではないですね。実に変わっている」
「形ばかりの説教をしないあなたも相当よ」
くすくすと笑う彼は、一体どこの誰なのか、何の仕事をしているのかいまだにわからない。私との関係もなんなのか。恋人では当然ないし、友人というにも違うような気がする。もっとも、友人なんていたこともないのでなんとなくそんな気がするということだが。
「字は自分で覚えたんですか?」
「大体はそう。ベッドで字を教えたがる客もいないし。親がまだいたときには多少読める程度ではあったから、なんとかそこから記憶を引き出してってかんじね」
「親御さんは早くに?」
「母は私を産んだときに亡くなったらしいわ。村が戦に巻き込まれたときに父とははぐれちゃったの。あの村の生き残りに会ったことはないから亡くなってるんじゃないかしら」
自分の妻の命を食って生まれた娘のことを父はあまりかわいいとは思わなかったようだし、家にいないことも多かった。だから父との記憶らしいものも実はほとんどない。あの日も朝から家にはいなかった。親を恋しがるそぶりをみせたほうが喜ぶ客にはそうしてみせたが、目の前にいるこの人はただの一度も私に何かを期待することはなかったし、非難することもなかった。そして同情することもなかった。
彼は驚くほどに幅広い知識を持っていて、わからないことなどないようだった。どんな話題でも見てきたかのように語る彼が、一体何故私との会話を望むのか一度訊いてみた事がある。興味深いからですよとだけ返された。
「ボスがね、私を買いたいといってる男がいると言って来たわ。一晩ではなく長期で。あなたにも話したことあったかしら。武器商人の男なのだけど」
「ほお?」
「前からそういってはいたのだけど、本気だったみたいね。売られればもうあなたとこうしてお話する時間はとれないわ」
「そうなるのなら残念ですね」
戦の行方を語っていたときと同じように平坦に彼は答える。その話を持ってきたボスがひざの上で撫でている猫は以前いた猫ではなかった。あのふさふさの毛並みをした金色の瞳の猫はどこにいったんだろう。酷薄そうな薄青い目を私に向け、おそらくはこれからの私の商品価値を見定めようとしていた。女が商品でいられる期間は大概短い。目の前にぶら下げた餌に私が食いつかないことに不服そうな鼻息をたてて、「相変わらずおかしな女だな。あの男に買われれば、もうあの男の相手だけしてればいいだろうに。自由になれるんだぞ」そういった。
「断るんですか? 何故?」
「断る自由なんてないわ。ボスがどうするか決めるだけ。自由もなにも相手がひとりだろうと10人だろうと、することは変わりないのに何をいっているのかしらね」
「まあ、確かにそうですね。でも一般的に言って今の状態よりは自由に生きられるのでは?」
「あなたとお話する自由はあるわよ。今なら」
「なるほど。売り渡されるのが嫌なんですか?」
「そうねぇ。嫌、なのかどうなのか。私は、おなかがすくのが嫌、痛いのが嫌、寒さに凍えるのが嫌。嫌なことが起きないようにしていたら生き延びちゃったの。あの男に買われたら、しばらくは嫌なことは起きないでしょうね。でもそれはどれだけ続くかしら。今の生活を続けるのとどちらが長く嫌なことが起きないようにしてられるかしらって考えているだけだと思うわ」
彼の金色の瞳が、ほんのわずかだけ哀しげに揺れたように見えた。彼らしくないことだ。それともまさかとは思うが、そうあってほしいと私が願ってでもいるのだろうか。多分、どちらも気のせいだろう。電話がけたたましく鳴り響いた。あの軍人からだった。部屋に来たがっていたが、いつもの宿でということに落ち着かせた。
「ごめんなさい。仕事が入ったわ」
「ええ。お暇します。今日も楽しかった。その前にひとつだけ、意見を言っても?」
珍しいことだ。どうしたのだろう。促すと、彼はいつもどおりに私との間の距離を保ちながらこういった。
「あの武器商人は、この町から離れたところにあなたの部屋を構えるでしょう。あなたはその部屋に行ったほうがいいと思いますよ」
宿の部屋につくと、血走った目でやつれた風情の男に出迎えられた。この男がこんなよれたシャツを着ているところを見たのは初めてだ。上着も前のボタンを留めずに着崩れている。挨拶もそこそこに抱きしめられるとつんと汗のにおいがした。
「ナナ、一緒に来て欲しいんだ」
「どこへ?」
「どこでもいい。どこがいいかい? 海は見たことがある? ああ、湖もいいな。山をふたつばかり越えたところにいいところがあるんだ」
そわそわと落ち着きなく部屋を歩き回り、怒涛の如くすばらしい土地の話をする男は、まるで私を見てはいなかった。
「私は町から出られないわ。そういう仕事なのはわかっているでしょう?」
「不自由はさせない。逃がしてあげるよ」
逃げたいのは自分だろうに。
「あなた、故郷に婚約者がいるでしょう」
雷に打たれたように唐突に立ち止まった男は、さきほどまでのそらぞらしい陽気さとはうって変わって怒りに頬を震わせた。
「あんな女! いいかい。あの女は私が国のために働いているというのに、国のためってことはあの女のためでもあるってことだろう。なのに信じられるかい!」
もうすでに皹の入っている窓はその怒声ではじけそうだった。曇ったガラスを拭きつつ窓の下を見下ろすと、軍の車が二台、三台と横付けされていくのが見えた。ばらばらと散っていく制服の男たち。
「急な休みがとれたから驚かせようと会いに行ったんだ。ばかばかしい花束とかお菓子を持ってね! あんな汚らわしい男と一緒にいるとわかっていれば機関銃を持って行ったのに! こんなリボルバーの弾では足りなかったよ!」
なるほど。その先は聞かなくても察しはついたが、男の口は止まらなかった。唾をはきちらしてこめかみに血管を浮かせている。振り回している黒い鉄の塊にもう弾薬は補充されているのだろうか。
「ねえ、ナナ、きみは来てくれるだろう?」
「その前に随分ともう囲まれているようだけどどうやって湖までたどり着く計画?」
この男は本当に私と逃げるつもりだったのだろうか。かつては自分の部下であったものもいるだろう群れを見下ろしてあんぐりと口をあけた。これは絶望の顔。あの村、あの日、村の女たちが見せた顔と同じだった。一体なんの望みをこの男は抱いていたのだろう。婚約者の不貞を目の当たりにした後でなお。
「ナナ、きみにならわかるだろう。この国の兵士がどんなに立派だったか。私がどれだけ忠実に働いてきたか。それなのにあの女は」
「立派だと思ったことはないわ」
心底予想外だというように固まった男は、映画のワンシーンであれば笑いを誘うほどだったと思う。
「そうね、確かに私はこの国の兵隊さんに助けられた。パンをくれたテントで、スープも欲しければと犯されたわ。それが助けだというならそうでしょうね。飲めたときにはスープは冷め切って土ぼこりがはいっていたけど」
あの兵士は眠っていた私の口をふさぎ、押し殺した声で静かにと言った。未知の痛みに耐え切ることと、口に押し込められた布ごと塞ぐ手で窒息死するのとどちらが早いだろうと思った。
「君は、私を憎んでいたのか」
男はゆっくりと窓の下をもう一度見下ろし、それから視線と一緒に私へ銃口を向けた。
「いいえ? あなたはあのときの兵士ではないし、私が兵隊を立派だと思っていると思っているようだから説明しただけよ。撃つのなら即死するようにしてね。痛いのは嫌なの。あなたならできるでしょう」
三分ほど待った。扉をノックされるときまで。強張った声で男の名を呼ぶ兵士を迎え入れるために扉を開けた瞬間に響き渡った銃声。なだれ込む兵士たちの流れに逆行して宿から抜け出る私を誰も呼びとめはしなかった。
上客がひとり減ってしまってから半月以上たってしまった。ボスは私を武器商人に売り渡すだろうか、それとも未だに値を吊り上げるために駆け引きを続けているのだろうか。あいも変わらずこの町の空気は煤けている。彼の読みどおり部屋をどこか違うところに構えるのならそれもいいのかもしれない。ボスの持ち物であるレストランでぼんやりと窓越しに通りを眺めながら彼の提案を検討してみる。だけど果たして抜けるような青空が広がるところへ行ったとして、それで何が変わるのだろう。そもそも変わることを私は望んでるわけでもない。どこに行っても多分何も変わらないことを私は知っているんだと思う。
ボスは一人ではなく、見覚えのない男を連れてきた。背中は曲がっているが、見た目ほどは老いてはいないのだろう。少なくとも私の客になるのであればそれなりには。私を手元においたほうが武器商人に売り渡すよりも価値があるとどうやら判断されたようだ。相手がある程度の地位をもつ人間であれば、女を世話することは単純に金儲けだけの利益に留まらない。
もう通りに吹きだまる枯葉すらない。新たな客と連れ立って暖かすぎる店内からでると鼻の奥がつんとして雪の訪れが近いことを感じさせた。
私が生まれた村では雪は降らなかった。前の晩からうってかわって穏やかな顔をしてみせている兵士に送られた施設で初めて雪というものを見た。音もなく降り注ぐ花びらのように真っ白なそれが景色を塗り替えていくのを、カーテンもない窓から何時間も眺めていた。施設では食事は二日に一度で、それもパンがひとつだった。園長の機嫌がいいときにはスープもあった。いつもいつもおなかがすいていて。その施設のある町もある日突然襲われた。逃げ惑う大人たちは、子供たちの数を数えすらせず我先にと飛び出して行ったから、年かさの子供たち数人と一緒に大人たちとは違う方向へ逃げた。いつだって襲撃は突然だ。大人になり、こうして新聞や本を読むようになり、襲撃は戦の敵国からに限らないことを学んだ。大人であろうとも餓えには堪えられるものではない。
だから、町の明かりが消え始めるころに轟音とともに窓の外が明るく照らされたときには、ああ、きたんだと思っただけだった。遠くから乾いた銃声や何かが崩れ落ちる音が聞こえる。あれがすぐそばまでやってくるのに半時もかからないことをよく知っている私は、手早く身支度を整えて部屋から出た。もたもたとホテルのフロントに電話をかけて怒鳴り散らしている客は置いてきた。どちらにせよ私のことは眼中になかったし。通りに飛び出し、方角を確かめる。彼はちゃんと逃げただろうか。あれから会っていない。明るく照らされた方向とは逆に向かって走る。通りにあふれる人々の流れになんとか乗れるように。逃げる方向を初めて間違えたと気づいたときには、もう遅かった。
さっきまで耳を突き刺していた爆音がもう聞こえない。静かに思えるのは私の耳がおかしいせいだと気づいたのは目の前で古びたアパートが音もなく崩れ落ちる瞬間を見たときだった。石畳の溝にそって砂埃を載せた赤黒い血が流れてくる。横たわる私のほうからも流れていく血とそれは混じりあい、排水溝を目指して行った。瓦礫の下からのぞく誰かの腕。そのそばに座り込んで腕をひっぱろうとしている子供。あの日のあの村のように、叫び声は聞こえない。子供は大きな口をあけているようにしか見えない。その子は走りよった大人に抱きかかえられていった。体は動かない。首をなんとか曲げて自分の下半身のほうをみると大きな金属がのしかかっていた。多分街灯とその下に据え付けられていたゴミ箱だと思う。街灯の柱は折れ曲がり、ゴミ箱だったものごと私を押しつぶしている。これはどうやっても抜け出せるものではないなと、頭を石畳に戻したとき、目の前に黒い布がまた現れた。
「こんばんは」
遠い記憶のなかと変わらぬ明るい緑色の巻き毛とばら色の頬。漆黒のビロードでできたマントに包まれた子供。何故かこの子の声だけは耳に届いた。
「あなた、まるで変わらないのね」
少し息が苦しいが、なんとか声だけは私も出せるようだ。
「ボクがヒトとは違うことはわかっていたでしょう?」
「ええ。そんなきれいな髪をもつヒトはいないわ。どうしたの?」
「あなたの願いをまだきいてませんからね」
「あのとき、おなかがすいたって言ったのに」
その子はあの日と同じように腰を軽くかがめて私を見下ろしている。
「あれはあなたの願いではないでしょう。あなたは何も願ってはいなかった。それにあのときはもうすぐそばまでヒトがきていましたからね。ボクでなくても食べ物は与えてもらえたでしょう。だからあなたはまだボクに願いを叶えてもらうことができます。まだ願いはありませんか? 痛みをとりましょうか?」
「痛くないもの。ちょっと息が苦しいくらい。ねえ、今度は連れて行ってもらえるの?」
「どこか行きたい場所があるならそう願ってもらえれば」
「あなたが住んでいるところで暮らすことはできる?」
金色の瞳に、町の火が紅くゆらめいて映っている。彼はひざまづき、静かに首をふった。
「あなたがこれから最後に行かなくてはいけないところはボクの管轄外です。そこまでご一緒することしかできませんよ」
「なんでも、って言ったのに」
笑ってみせると、彼も微笑み、すみませんと返した。
「他に願いはやっぱりまだありませんか?」
「ああ、思いついたわ」
「ほお? どうぞ聞かせてください」
「いつもの姿になって見送ってくれる?」
彼は数秒固まってから、目を伏せてため息をついた。なんて長いまつげ。みるみるうちにやわらかそうにふっくらとした頬や顎がすっきりと整っていき、こんな季節にはついぞお目にかかれない緑色の髪が、艶のある黒い巻き毛になった。大きな手がマントの中から差し出され、私の手を包みこむ。初めて触れる彼の手は思ったよりもがっしりとしていた。
「いつから気づいてたんです?」
「その瞳が似てるとは思ってたわ。はっきり確信したのはさっきよ。暖かい手ね」
「あなたの手が冷たいんですよ」
ああ、そうかも。私の頬が今暖かいのも、きっと頬そのものは冷たいのかもしれない。片手で私の手をにぎったまま、私の頬をそっと撫でたもう片方の手は濡れていた。
「……だから町を出なさいと言ったんですよ」
「そうね。本当だわ。ばかね」
「ええ。本当に」
「でも痛くないもの。寒くもない。おなかもすいてないわ。ねえ、私すごく汚れてない?」
「いいえ。まあ、多少服は傷んでますけどね。でもその体を脱ぎ捨てたときには綺麗になってますよ」
「そう。よかった。そこからどこかにいくのね?」
「ええ」
「一緒に?」
「ええ。そこまではご一緒します」
「うれしい」
今、きっと私は彼に負けないほどの極上の笑顔を浮かべているはず。
暖かな手が包んでくれているし、彼が額に口づけてくれたから、きっと、そうだと思う。
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