前編

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前編

 そのとき、私はまだ小さな子供だった。  生まれた村も小さな小さな村で、ほんの小さな畑で村の大人たちはほんの少しばかりの豆や芋を作っては山の向こうの町に売りにいき、やっと村人が腹をすかせないでいられる程度の暮らしだった。  あるとき見知らぬたくさんの男たちがやってきて、村の男たちは私や他の子供たちや女たちを村のはずれにある倉に押し込めた。何が起こっているのかそのときはまるでわからなかった。ただ暗い倉の天井近くにある小さな明り取りの窓からどんどん紅く暗くなっていく空が見えた。  そこから先は断片的な光景しか思い出せない。大人になってから初めて見た無声映画を見たときに、自分の記憶と同じようだと思った。倉から次々と引きずり出される女たち。子供たち。自分の子供を固く抱きしめながらも、引きずり出されるときには、なんとか子供を倉の奥へ押しやろうとしていた。どこにも隠れられるところなどないというのに。いつも穏やかだった女たちが見たこともないほど顔をひきつらせ口を大きくあけている。多分悲鳴をあげつづけていた。でもその記憶はない。記憶の中の村人たちはみんな口をぱくぱくとさせているだけだ。  私の家も、隣の家も、畑の作物も、もうもうと黒い煙を噴き上げて。  遊び慣れていて道になどとうに迷わなくなっていた山もその形を変えていて。  そこからどうしたのか、私は焦げ臭い山の中をふらついていた。  裸足のかかとはあちこち血がにじんでいたけど痛かったかどうかは覚えていない。  何度目かに転んだときに、もう立ち上がることができなくなっていた。  遠くでぱちぱちと何かがはぜる音がしているなと思いつつ、地面に頬をつけ、這い回る蟻を眺めていた。  ふと、黒い布が目の前に現れたのに気がついた。  やわらかそうな光沢のある黒い布。多分すごく高価なんだろうなと、何故突然そんなものが目の前に現れたかという理由よりもさきにそう考えた。  頭をあげることもできなくて、目だけでその布の上のほうを見上げると、夏の陽射しを透かしたような明るい緑色が場違いに輝いていた。  ふわふわとした緑色の髪、つやつやしたばら色の頬、同じ年頃にも見えるその子は遠くのほう、多分ふもとの村のほうを見つめていて。黒い布はその子がまとっているマントだった。よくみるとマントの裾は地面の影に吸い込むように馴染んでいる。どこのお金持ちの人形がこんなところに置いてけぼりにされたんだろうと思った。  ぴくりとも動かないそれをどのくらい眺めていたのか。  私のほうをふと見下ろしたのは、視線に気づいたせいなのかたまたまなのかわからない。  目があったとき、すこし驚いたように見開いた瞳は金色だった。 「もしかしてボクが見えているんですか?」  腰を軽くかがめて、私に囁いた声は近所の子供や私のような高い声ではなく、やわらかい静かな声。私は顎を少し引いて答えた。 「ほう……見せるつもりもないボクの姿を見ることができるヒトは初めてお会いしました」  普通は見えないのだろうか。見えないとしても彼の姿はそれにふさわしいほどに現実味がなかった。  町には教会があって、一度中に入ってみたことがある。赤や緑や黄色のステンドグラスが張られたいくつもの大きな窓の合間の壁には少しすすけた絵が飾ってあった。その絵の中に白い布をまとった子供がいっぱいいて、それは天使だよと教えられた。神様のお使いの子供たち。ふっくらとした手足に金色の巻き毛。目の前にいるこの子とは髪の色も服の色も違うし、白い羽もないけれど、くるくるとやわらかそうな巻き毛はそっくりだった。 「あなた、天使?」  その子は、ちょっと首をかしげてからくすりと小さく笑った。 「基本、呼びたいようにどうぞというのですけど、あまりそう呼ばれたことはありませんね」  では違うのだろうか。善い行いをした人間のもとに、神様が天使をお使いやお迎えに出すってきいたのに。私がよい子ではなかったからだろうか。 「なに、してるの」 「ふもとの村をみていました。あなた、あの村のヒトですか?」 「うん」 「なるほど」 「天使じゃないの?」 「どうしてですか? 天使に会いたいんですか?」 「連れて行ってくれるのかと思ったの」 「どこに?」 「わかんない」  ふむ、とその子はマントに隠したままの指先を顎にあてた。 「ボクが姿を見せようと思ってもいないのにボクを見つけたのはあなたが初めてです。特別にただで何かひとつ願いをかなえましょうか?」 「願い?」 「そう」 「なんでもいいの?」 「なんでも」 「おなかがすいた」 「それから?」  薄汚く染みだらけの宿の壁に背中をもたれながら枕に頭を預けた男が、うとうととまどろみながら聞いてきた。 「さぁ? 覚えてないわ。気がついたら兵隊さんが私を抱えて山を降りていたの。それからテントでパンをもらって食べた」  筋肉でもりあがった男の肩を、人差し指の爪でなぞりながら答えた。 「村を襲った連中は隣の国の兵士で、私を助けてくれたのはこの国の兵隊さん」  貧しい村で育った痩せっぽっちの子供は、しなやかな指とふくよかな胸をもつ娘に育った。ばさばさで水気のなかった髪は波打つ栗毛になった。艶やかな紅を引いた唇の端をほんの少し持ち上げてみせれば、おなかをすかせることはなくなった。男は腕を伸ばして私の腰を軽々と引き寄せた。 「あなた、もう帰らなくちゃいけない時間じゃない?」  覆いかぶさってきた男の鼻から顎までをそっとなでると、ああ、とため息をついてそのまま顔を私の横の枕にうずめた。 「次の休みは再来週になる」 「そう」  観念したように立ち上がった男の後を追ってベッドから抜け出て、壁にかかったシャツに袖を通すのを手伝う。アイロンが効きすぎなほどぱりっとしたシャツ。 「何か欲しいものはあるかい?」 「いいえ。何も」 「ナナ、きみはいつもそうだね。なんでもねだってくれてかまわないのに」  男がシャツのボタンをつけ終わるのを待って、次は上着の袖を通させ、胸に三つならんだ星の向きが揃うように整える。こんなことで誇らしげに満足する男に、わざわざ欲しいものをねだる必要などない。ショーウィンドウを華やかに飾る店の前を一緒に通り、一瞬立ち止まって見せればすむこと。男は札入れから数枚の札を出し、私の手を包み込みながら握らせた。 「部屋代は払っておくからね。ゆっくり支度してお帰り」  頬への口づけに、首を傾けて笑顔で返せば今夜の仕事は終わり。  私はそれなりに稼ぎがいい。二日に一人ほど相手をしたら、やわらかい白いパンもこの季節の流行の服も手に入る。最近はすっかり常連の男ばかりを相手にするだけでいいようになれた。  もう、誰も私のパンをとらない。  もう、誰も私のスープを床にまきちらさない。  もう、誰も私の服を破らない。  もう、誰も私の頭を地面にこすりつけたりしない。  もう、誰も私を引き裂かない。 「リカ、考えておいてくれたかい?」  初老ともいっていい男は、部屋にはいるなり私を抱きしめ耳元で囁いた。 「なにが?」 「前から言ってるじゃないか。私の用意した部屋で、私だけを迎えて欲しいんだ。不自由なことは何一つさせない」 「そうねぇ」  皺だらけだが手入れが行き届いた爪の男の手は、いくつもの大きな石をはめ込んだ指輪で飾られている。戦火はもう何年も消えかけてはまた燃え上がり、この国のどこかを毎日灰にしている。けれど、貧しさが全てを支配するこの町でも、まだ数軒は金持ちをもてなすためのホテルが残っていた。磨き上げられたくるみ材の家具、塵ひとつ残していない複雑な装飾をほどこされた窓の桟、ブラシでもかけたかのように毛並みのそろった絨毯。男の腕からすり抜けて、ひとりでは持ち上げられそうにもない優雅な猫足をもつひとり掛けの椅子に足を組んで座った。 「あなたは欲張りね。何もかももう持っているのに。あなたみたいな欲張りは、そうして私を閉じ込めたら、きっともうそれで満足して部屋には来ないでしょう」  高いヒールの靴を片方、つま先だけにひっかけて男に向けた。男は私の足元にひざまづき、靴ごと私の足を両手で包み込む。この男は貿易で財をなしたことになっているが、その財の大半は裏で武器をあちらこちらに無節操に売り渡して築き上げたものだ。まあ、貿易といえば貿易ではあるけども。 「そんなわけがない。わかっているだろう?」  のどの奥で笑いをもらしてみせる。 「どうかしら」  ストッキングをはいたままの足にくちづける男の薄くなった頭頂部を見下ろす。全てを手に入れていると思える人間ほど、手に入らないものへ強い執着をみせるのが常。 「ねえ? 私はあなたが来ない部屋に閉じ込められるなんて嫌なのよ。わかるでしょう?」  サイドテーブルの上の繊細なガラス細工に盛り付けられたチョコレートを口移す。この話はもうこれでおしまい。  どっしりとした重い雲がのしかかる薄暗い日。すっきりと晴れた空など最後に見たのはいつだったか。たとえ晴れていたとしても町を覆う陰気さが陽をさえぎっているのかもしれない。薄い刃がすべるように吹く風に、襟元をかきよせた。 「ふん、相変わらず稼いでるな」  どす黒い顔色の男が筋張った首をほぐしながら、私が差し出した封筒を覗き込んで中の札をざっと目で数えた。今月分の場所代だ。この町にたどりついてから五年、こういった稼業にはつきものの必要経費。 「しかし、あの骨ばっかりのガキがねぇ。このあたりじゃ一番の稼ぎ頭になるとは思わなかったな。なぁ、エリ」  じっとりと冷たく汗ばんだ手を私の手に伸ばしてくる。そうでしょうとも。思わなかったからこその扱いは十分に受けた。この手が次の瞬間どう動くか、そればかりに神経を張り詰めていた。熊の住む洞窟のほうがまだ清潔と思える地下室に、私と同じように荒れ果てた村々からかき集められた少女たち。お互いの体温で温めあおうと部屋の片隅で身を寄せあった。時々、もう温めることはできないほど冷たくなっていく子もいた。そんなときは、その子をそこにそのまま残し部屋の反対側にみんな移動してまたかたまった。体温を奪われぬように。朝になればそれは片付けられ、また新しい子がどこからか連れて来られる。そこでは名前など何の意味もない。お互いに呼び合うことなどない。喋れば体力がどんどん奪われることをみんな本能でわかっているのだ。  指名してくれる客が多くなればそこから抜け出せるようになる。商品価値があがればあまり傷がつかないよう扱われる。人の顔色を見るのが昔から得意だった私は生き延びることができた。あの頃あの地下室にいた少女たちはみんなどこにいるのかわからない。少なくともこの町にはもういない。 「この間、ボスと食事したわ。商売の調子を聞かれた」  男はぎょっと目を見開き、突然私の手が熱くなったかのように手を離した。そう、商品は傷つけてはいけないのよ。そして上前をはねることもね。  脂汗がみるみるうちに浮かんだ額をぬぐいながら男は立ち去った。通りの向こう側に止まっていた高級車が静かに走り出し男の後を追う。勘定もチップもおいていかなかったが、そのくらいは餞別と思ってあげることにする。渡した封筒の中身は今月こそボスの手元にまるごと届くことだろう。  向かいの空いた席にすとんと唐突に男が腰掛けた。漆黒のスーツとコートは艶やかな黒い巻き毛と同じように塵ひとつついていない。「こんにちは」と会釈しながらこちらに向けた瞳はボスのところにいた猫と同じような金色で、陶磁器のような肌をもつ美しい男性だった。席につく了解を得ない無作法を、立ち居振る舞いの優雅さが打ち消している。 「あなたの時間をもらうためにはおいくら払えばいいんですか?」  稼げるようになり、着飾ることもできるようになったここ二年ほどは私の職業を一目で理解する人間はいなかったのに。聞かれれば率直に答えはするけども。 「自分で仕事はとらないわ」 「ああ、なるほど。それは残念です。お話をするだけでも仕事でなくては駄目ですか?」 「それでは、あなたは私と話す理由はないのではないの?」 「いいえ。私は男性として機能しませんから。なので仕事として受けていただいてもお話だけなので同じです」 「戦争で?」  私よりもいくつか年上であろう男は、私が最上級の客に与える笑顔よりもはるかに美しい微笑を見せてそれを答えにした。 「……よく私の仕事を一目でおわかりになったわね。私そんなにそれらしい振る舞いをしてたかしら」 「いいえ。こんなご時世で流行にのった上等なドレスをまとったあなたに似つかわしくない無骨な男が封筒を受け取り、さらに真っ白に顔色を変えて勘定もせずに去り、いかにもといった車が追いかけていく。まあ、良家の子女であればあのような男とは接点がありませんし、かといってそうでなければそこまで着飾れる女性の職業は限られますよ」 「もっともですね。よかったわ。それらしい振る舞いをしてたつもりはなかったもの。それでそんな前から私たちのほうを観察してらしたの?」 「興味がわきましたから。お話してみてやはり興味深いと思いました。私の無礼を怒るわけでもなく、天気の話をしているかのようなあなたがね。ああ、お名前を伺っても? 」 「あなたがお好きな名前でどうぞ」  私に名前はないし、いつでも男たちは自分の好みの名前で呼ぶ。故郷においてきた恋人の名であったり、若かりし頃の恋人の名であったり。私はその名にあわせて振舞う。そうして生き残ってきたのだ。ところがこの目の前にいる男性からは好みの女性像が読み取れない。これは今までであまりなかったことだった。 「困りましたね。私は好きな名前などありません。まあ、二人でいる分には名を呼ぶ必要もないでしょう」 「あなたのことはなんと?」 「私には名前がないんですよ。お好きなようにどうぞ」  面白がるような表情は少し幼く見えた。
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