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08.別れの日
二〇一八年.七月.二十六日.『車内』
ウヅキの運転する車の助手席に座り、スマホを片手にSNSの巡回をしていた。バイト先の先輩から貰ったマフィンが美味しかったことについて語る親友に、適当に相槌を打ちながら画面をスクロールしていると、恋人のロイ・アイゼンハートからメッセージが届いた。彼とは付き合い始めてかれこれ三年半となる。生まれて初めての恋人であり、キスもセックスもすべて彼が初めての相手だった。
デートの誘いだろうかと俺はすぐにメッセージを開き、画面に表示されたたった一文に後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
『ごめん、もう終わりにしよう。今までありがとう』
隣で未だハンドルを切りながらマフィンについて語っている親友の声が遠くに反響しているように聞こえて、俺はほんの一瞬だが意識を失う直前の世界をさ迷った。すぐに我に返るともう一度文章を確認して「車を停めてくれ!」と声を上げた。あまりに突然俺が叫んだことに、後部座席でうたた寝していたソフィアが飛び起きた。目を白黒とさせて何事かと辺りを見回してから、俺とウヅキへ鋭い視線を投げかけた。ウヅキも驚いたように俺に一瞥をくれてから「何だよ、いきなり」とハンドルを強く握って聞いてきた。
「いいから車を停めてくれよ!」
あまりにも俺が必死に、または威圧的に言うものだから、二人の瞳は豹変した親友に対する微かな恐怖の色を浮かべていた。だが俺はそんなことに構っていられるほどの余裕はなかった。ウヅキは言われた通りに路肩に車を駐車させると「ほら、停めたぞ」と怒りを声に滲ませた。俺は彼の言葉を無視してシートベルトを外すと慌てて車外へ飛び出した。荒々しくドアを閉じて車から少し離れたところ(運よく人通りが少ない道だった)まで移動すると、俺はロイに電話をかけた。これほどまでに誰かに電話するのを緊張したことはない。煩いぐらいに心臓が脈打って、強い痛みを左胸に感じた。
頼む。出てくれ…!
俺は心の中で強く祈った。こんなたった一文で今まで築き上げたものを、ロイ・アイゼンハートとの関係を失いたくはなかった。
電話の繋がる音がすると、すぐさま相手の名前を呼んだ。ふと後方で雷鳴が轟き、俺は振り向いた。夜も八時を回っているせいで天気が良いのか悪いのかすぐに気が付かなかったが、月は雲に隠れて星も一つも輝いていなかった。どうやら雷雨がこちらに近づいているようだ。
「ジェームズ、なに?」
「ロイ、さっきのメッセージどういう意味なんだ?」
別れを告げられる原因が何なのか俺には心当たりがなかったが、もし気にくわないことがあるのならばまずは話してほしかった。彼のためなら俺は変わる努力をするし、自らの行いを改めて反省することだって出来る。突然に別れを切り出すなんてあまりにも酷いんじゃないかと微かな怒りを覚えた。
「そのままの意味だよ。もう恋人ではいられない」
「突然過ぎる!理由を教えてくれ」
「突然?本気でそんなことを言ってるの?」
ロイの声音には呆れと失望が入り混じっており、俺の心を深く抉った。
突然じゃない?そんな、まさか。信じられない。今まで恋人で居ることや一緒に居ることへの不満を洩らしたことなど一度もなかった。別れるなんてせんな素振り、一度も見せていなかったはずだ。
「僕は何度も言ったはずだよ。僕らにとっての普通は世間にとっての普通じゃないって」
俺が愛の言葉を囁けば「男同士でこんなことって…」と彼は不安を感じていた。キスをした時も、セックスをした時も、彼は俺を求めながらも世間が向ける非難の目を想像して怯えていた。いつも周りを気にしていた。自分はおかしいんじゃないかと呟く度に「そんなことはない」と俺が強く言いきかせた。
俺がロイ・アイゼンハートを愛したように、彼もまたジェームズ・ディーンを愛したのだろうが、二人は決定的に違うところがあった。ジェームズ・ディーンは恋人しか見ていなかった。恋人と自分の世界しか見えていなかった。しかし、ロイ・アイゼンハートは自分と恋人の世界、それからその周りの世界も見ていたのだ。最初から、ずっと。
「忘れてた?気が付かなかった?」
ロイは責め立てるように俺に問いかけた。
その時、大事な出来事を思い出した。一週間前に彼が俺の家に遊びに来ていたときことだ。ベッドの上で俺に背を向けてロイは囁いた。
「きっと僕ら、ずっとこのままではいられない」
そう言った彼は泣いていた。恋人がこうして不安に駆られるのは時折あることなので俺は呑気に「大丈夫、ずっと一緒に居られる」と励ました。その台詞がどれだけ滑稽で的外れだったことか。三年間共に過ごし、彼が涙を見せたのはその時が初めてだったのだ。
「悪かった、ロイ。でも…」
「僕たちはもう男の子って呼ばれる歳を終わろうとしてるんだよ。なのにキミは知らないフリをして、誤魔化そうとしてる」
世間の目を気にして怯えて生活するのはもう耐えられないということ。もっと早くに気が付いてやるべきだった。しかし、気が付いたところで俺に何が出来たのだろう?世間の目は消せないし、気にしなくていいと言っても彼は気になってしまう。どうしようもない運命的なものだと言うのだろうか。
『世間』のせいで俺たちは別れなくてはならないのか?それとも他に理由があるのか?覆しようのない絶対的な理由が。
「ごめん、ジェームズ。僕はキミを愛してるけど、愛してるだけじゃどうしようもないことだってあるんだ」
「それって何なんだ?」
雷鳴は俺のすぐ傍までやって来ていた。雷に怯える幼子のように、恋人の返答を望む俺の声は細く震えていた。
「大人になるってことだよ」
ポツリ。
空から落ちてきた雫が俺の頬に当たって跳ねた。
堰を切ったように雨はどんどんと量を増やし始め、髪や服を濡らしていった。体にべったりと貼りつく布の感触が気持ち悪かった。あっという間に雨は豪雨へと変わっていた。その時間、俺たちは互いに沈黙を貫いていた。雨音と静寂が共存する奇妙な世界に立っていた。
「子供時代は永遠には続かない。僕たちは大人になるんだよ」
雨の音が煩いのに、ロイの言葉だけはハッキリと聞こえた。電話越しに耳で聞いているのではなく、直接心に語りかけられているかのようだった。
「先に行くよ。さようなら」
俺は何も言えなかった。肯定も否定も出来なかった。呼び止めることさえも。
電話の終了を知らせる合図がスマホからは洩れ出していた。雨に打たれながらスマホを持った手をだらんと垂らし、濡れるアスファルトを見下ろした。前髪から伝った雨が、頬を流れ落ちていく。
心にはポッカリと穴が開いているばかりで、感情の一つも顔を出しはしなかった。ただ頭の中で同じ言葉が繰り返され続けていた。
『子供時代は永遠には続かない』
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