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09.ディナー
十九時に夕食の予約をしていた俺たちは、部屋でシャワーを浴びると、着替えを済ませてホテルに併合されている一階のレストランへ足を運んだ。レストランはホテル同様にシックな雰囲気を漂わせており、全体的な色合いは暗めで、照明もロビーや廊下より落とされていた。深緑色のエプロンドレスを来た女性が俺たちを出迎えると、予約の確認をしてすぐに席に案内してくれた。
椅子はソファのようになっていて、大人が三人並んでも余裕があるぐらいの広さがあった。俺とウヅキが隣に並び、向かい合う形でソフィアが腰を下ろした。座席は全部で八席しかなく、今は俺たちも含めて五席うまっているようだった。中央に小さな舞台があり、その舞台を円形に囲むように座席は並べられている。俺たちの座席は一番出入り口に近い位置で、この場所が舞台の正面に当たるようだった。『海辺の歌姫 ジュリア・アンダーソン』と書かれた立て看板がこちらを向いていた。赤髪に黄金色の瞳を携えた女性の写真が一緒に貼りつけられている。俺は彼女の美しい髪色を見て、間違いなくジュリア・アンダーソンがジャックの母親だと確信した。
「こちらがメニューになります」
シャンデリアの薄明かりに照らされて、ウェイターが俺たちに革製のメニュー表を差し出した。メニューを開くと中には三つのコースが用意されていて、そのうちの一つを選択するようだった。こんなにも高級なレストランでの食事は初めてのことで、俺は少々緊張していた。
タイプAがメインは肉、タイプBがメインは魚、タイプCはベジタリアン用だった。実質肉か魚の二択と言うことだろう。
「俺はタイプAでお願いします。食後の飲み物は紅茶で」
「私はタイプBで、飲み物はコーヒーを」
二人が迷うこともなくさっさと注文を口にするので俺は考える時間を失くし、メインに記載されている牛肉に目を引かれて「タイプAで」と注文した。ウェイターは微笑みを浮かべながら、伝票にペンを走らせ「お飲み物はいかがなさいますか?」と視線を投げかけてきた。決してこちらを急かしている空気ではなかったが、俺はこの場の雰囲に気後れしていた。
「コーヒーでお願いします」
「かしこまりました」
彼女はメニューを回収すると、頭を下げて姿勢を正しくその場を立ち去った。数秒もしないうちに別の男性ウェイターがガラスコップに入った水と、サービスの小さなカゴに入ったパンを持ってきた。自然と声のボリュームを落としながら彼にお礼を述べると、突然レストラン内の照明が更に暗くなり、舞台にスポットライトが当てられた。いつの間にか小さな舞台の中央には、マーメイドラインの漆黒のドレスを着た女性が立っていた。看板に貼られた写真のジュリア・アンダーソンと同一人物だ。手にはマイクが持たれている。彼女が小さく会釈すると、レストラン内の客とウェイターは拍手をして出迎えた。俺たちも他と同じように手を打ち鳴らす。波が引いていくようにゆっくりと拍手が止むと、レストラン内に流れていたBGMが消え、彼女の為の曲が始まった。曲はアバの『ダンシング・クイーン』だった。
小さく息を吸い込むと、ジュリア・アンダーソンはその場にいる全員を惹きつける歌声を披露した。圧倒的な歌唱力と言うわけでは決してないのだが、儚く寂しげで、それなのに芯が通っていて人々にそっと寄り添うような柔らかく優しげな歌声。海辺の歌姫という呼び名は実に相応しい、人魚ですら嫉妬する歌声だ。ソフィアとウヅキも同じように感じているようで、二人とも一言も喋ることなく、体を左右に揺らしながら舞台に向き合っていた。三分少しの曲が終わると、誰もが夢の世界から現実に戻ってきた寝起きのような表情で彼女を見つめ、次の瞬間には一斉に拍手が巻き起こった。ウヅキが口笛を鳴らすと隣の席の男性が「最高だ!」と声を上げた。海辺の歌姫は全員に微笑みを向けていた。レディッシュの長髪がスポットライトに照らされ、宝石のように輝いていた。
「きっと彼女がジャックの母親よね」
「赤ん坊の時にあんな子守唄を聴いてたら耳が肥えちまうよ」
顔を寄せて囁いたソフィアに、いつもと変わらずジョークを交えた返答をウヅキがして、俺は二人に同意を示すよう首を縦に振った。
明日ジャックに会った時、キミの母親は世界一のシンガーだと伝えようと俺は心の中で呟いた。
割れんばかりの拍手が終わり、また新たな曲が流れ始めたとき、ジュリア・アンダーソンが俺たちを見つめていた気がしたが、正面席に座っているのだから自然と言えば自然なことだろう。
「お待たせ致しました」
ぬっと影が現れたかと思ったら、ウェイターが前菜を運んできたようだった。照明の暗い部屋で暗い色の服を身に付けていると分かりにくいと、歌姫に見惚れて気が付くのが遅くなった俺は、心臓をバクバクと鳴らした。
高級レストランでありがちな料理の説明でもされるのだろうかと憂慮していたが、ウェイターは俺たちの前に前菜の盛り付けられた皿を並べると、頭を下げてそそくさと立ち去った。料理の説明よりも(レストランで働く者として如何なものかとは思うが)うちの歌姫の歌声を聞け!と言われているようだった。言われなくてもそうするさ、と俺はフォークを片手に野菜を突っつきながら舞台に顔を向け直した。
ジュリア・アンダーソンの歌声と運ばれてきた料理(ジャンクフードの方が俺の口には合ってるとはさすがに言えなかった)を堪能して、俺たち三人は最高のディナーを楽しんだ。
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