2人が本棚に入れています
本棚に追加
02.プライベートビーチ
船着き場から更に先へ進むと、プライベートビーチへと辿り着いた。砂浜には誰もいない、他から隔離された小さな空間だった。海水浴場が近くにあると聞いていたが、ジャックの体を考えれば誰もいない場所の方が良かった。歩道から砂浜に続く階段が伸びているのを発見し、ソフィアが「行ってみましょう!」と足早に階段を降りて行った。俺は階段前で車椅子を止めると、水分補給をしているジャックを見下ろした。こちらの視線に気が付いた少年はペットボトルから口を離すと、蓋を締めながら「僕も降りたい。手伝ってくれる?」と瞳を見上げた。
俺は快く手伝いを引き受けて、ジャックの体を抱き上げると、ウヅキに車椅子を畳んで持ってくるように頼んだ。きめ細かい真っ白な砂を踏みしめて海へと近づいていくと、景色がよく見える位置に少年の体をそっと下ろした。写真を撮っていたソフィアがこちらを振り向くと、海風に艶やかな髪を靡かせた。
「熱中症にならないように気を付けて、ジャック」
「ありがとう。大丈夫だよ」
畳んだ車椅子を立てかけたウヅキが俺たちの下まで砂に足を取られながら歩いてくると、地面に腰を下ろしているジャックの隣に立ち、シューズと靴下を脱ぎ始めた。「行くぜ、ジェームズ!」
どこへ?と俺が聞き返すより早く、裸足になった彼は海に向かって駆けだした。波がギリギリ届かない位置でカメラを構えるソフィアの横を通り過ぎ、水飛沫を上げながら海へと突入していった。飛び散る光の粒が幻想的で目を奪われた。喜悦の交じった声を上げる友人の姿にじきに我慢出来なくなると、同じように靴を脱いで海へ走った。水中から海面に向かってウヅキが蹴りを入れると、水が思い切り跳ねて俺の視界を美しく見せた。
二人ではしゃぎまわっている様をソフィアがレンズ越しに眺めてシャッターを切った。二十一歳にもなってまだ学園ドラマのようなことをやっている自分にどこか溺れていたのかもしれないし、いつまでもこんな風でいたいと心の底から願ったかもしえない。ただ笑い声と波の音だけで満ちた世界はあまりにも幸福だった。
三十分程海の中で俺とウヅキは遊んでいた。パンツの裾は託し上げていたのだが、夢中になっている途中で濡らしてしまった。いつの間にかソフィアはジャックの隣に腰を下ろし、話に華を咲かせていた。そろそろ戻らなければジャックも退屈してしまうだろうと、俺はウヅキに声をかけて砂浜に上がった。
当然のことだったが、水に濡れた足で砂浜を歩くと砂が付着して気持ち悪い。乾かしてから払わなければいつまで経っても靴を履けないパターンだ。何度繰り返しても後悔すると分かっていてやってしまうのは、後悔が何も負の感情しか生まないわけではないからだった。
「久しぶりにこんなに体を動かしたな」
COVID-19の影響でほとんど家から出ない生活を送っていたのもあったが、元からあまり運動はしない人間だったので、たまには悪くないとソフィアの左隣に腰を下ろした。足を乾かすためにじっと座っていると、じわじわと汗が滲み出て来て額を拭った。
伸ばした足をマッサージするジャックを横目に海を眺めていると、ソフィアが「あの日を思い出さない?」と囁き、俺とウヅキに目配せした。
「あの日って?」
「まさか忘れたなんて言わないでよ。あなたとウヅキが私を連れだした日よ」
俺は彼女の言葉にあの日を思い出して、くつくつと笑みを零した。どうやらウヅキも同じように分かったようで笑顔を咲かせた。
高校受験をいよいよ視野に入れ始めなければいけなくなった時期、ソフィアは毎日父親と言い争いをしていた。写真家を目指したい彼女と、いつまでも夢は見ずに堅実に生きてほしい父親。将来に関しての親子の確執と言うのは実に在り来たりな問題だが、当の本人にとっては重大なことであるのは俺もよく分かっていた。我が家の両親もまた(特に父親が)俺の夢を馬鹿にして、学生時代は何度もケンカを起こした。酷い時は俺が父親に殴りかかり、一ヵ月以上口を利かなくなったこともあった。作家を目指すのを止めたとはまだ両親に伝えていないが、彼らなら間違いなく飛んで喜ぶだろう。でも俺は両親を嫌ってはいなかった。俺の夢を馬鹿にしていたこと以外は何の問題もない優しい親だったからだ。むしろわがままばかりの俺をよくここまで育ててくれたものだと心の底から感謝している。
とにかく彼女は将来のことで何度も父親と喧嘩をしていたが、気丈な性格から一切気にしている素振りはなく、我が道を行くという顔をいつも見せていた。だからある日の早朝にかかってきた電話で、スマホ越しに彼女が泣いているのに気が付いた時は本当に驚いた。
『もうこんな家嫌よ』と訴えかける彼女の声は、今も鮮明に思い出せる。
「あの日二人が連れ出してくれたおかげで私は救われたと言ってもいいぐらいよ」
「俺たちに心から感謝してるって?」
「ええ、唯一感謝出来ることよ」
「唯一?十四年間一緒に居て、たった一度だけしか俺たちに感謝したことないのかよ。本当にソフィアは傲慢なお姫様だな」
呆れを滲ませながらも本気で怒っているわけはないウヅキは息を吐き出すと、仰向けに倒れ込み後頭部に両手を添えた。あまりにも眩しい太陽に彼はギュッと目を瞑ると「あっちぃ」と文句を垂れた。
「数よりも大事なことがあるんじゃない?」
ソフィアは俺の肩に頭を預けながら、サンダルから見えている足先に付いた砂を払った。真夏の蒸し暑さのせいで密着するとより一層熱が俺の体を包んだが、自然と嫌な気分はしなかった。友人とのスキンシップは嫌いではなかった。
「たった一度でもあなた達とずっと一緒にいたいと思えるきっかけになったんだから。十分なのよ、それでね」
彼女が真剣な声音で言うものだから、俺は何となく心配になって顔を覗き込んだ。二つの栗色の瞳が俺をじっと見据えていた。まるでため息のような笑みを洩らしたソフィアは、俺にしか聞こえない程度の声量で口を開いた。
「すごく暑いわ」
最初のコメントを投稿しよう!