2人が本棚に入れています
本棚に追加
04.ウヅキの思い出
二〇一二年.三月.二七日.『自宅前』
俺は虐待を受けていた。
母親は日本人、父親はアメリカ人の俺は、生まれは日本だった。七歳まで日本で育てられていたが、父親の仕事の都合でニューヨークに引っ越すことを余儀なくされた。勿論日本を離れるのは寂しかったが、子供ならではの好奇心で胸いっぱいに期待を込めて新たな世界へと降りたった。
日本に居た頃から両親は多忙だったが、アメリカに引っ越して来てからはより一層忙しくなり、家に帰ってくることが少なくなった。まだ幼い俺を一人で留守番させるのを反対した母親が、ベビーシッターを雇おうかと考えていたある日、偶然にも父親の高校時代の後輩アルマ・ショーン・マイヤーズが家の近くに引っ越して来た。父親は彼女にコンタクトを取り事情を話したところ、アルマの仕事は在宅で行うもののため、ほとんど家に居る生活をしていることを知った。大学生の頃にベビーシッターとしての研修を受け、一時期仕事をしていたこともあり、父親の昔の後輩なら信用できると、俺は両親が居ない日はアルマの家に帰るように言われ、俺も了承した。
まさかそれが、悪夢の始まりになるとは思ってもみなかった。まさにアルマ・ショーン・マイヤーズは悪魔みたいな女だったのだ。
優しい仮面を被った恐ろしい犯罪者。それも子供だけをターゲットにした最低な性犯罪者なのだ。
始めは少し体を触られるだけだった。だからスキンシップが好きなんだろうと特に気にすることはなかったが、次第に体を触ったり匂いを嗅いだりすることが多くなった。頬や額に何度もキスをされたが、愛情表現なんだろうと思った。
十歳を迎えてすぐの頃、アルマは俺の唇にキスをした。唇へのキスの意味を十歳になった俺は分かっていた。どうしてこんなことをするのだろうか?俺のことが好きなんだろうか?でも俺はアルマを好きではなかった。何故なら彼女は俺が少しでも嫌がる素振りを見せると鬼のような形相で睨みつけ、骨が折れるんじゃないかと思うぐらい強く腕を握りしめるからだ。
彼女が好きじゃないどころか嫌いだった。怖かった。暴力はないが、いつ振るわれたっておかしくないと怯えていた。べたべた体を触られるのも気持ちが悪い。キスだってしてほしくない。その時には両親に言うべきだったんだろう。だが、俺は言わなかった。だからまんざらでもなかったんじゃないか?と後に周りから揶揄れるようになるのだが、そんなことはどうでもいい戯言だ。アルマに怯えていた俺は、両親に告げ口することへの報復を恐れた。また父親が信頼している相手の正体を知らしめるのが躊躇われた。最大の理由は両親だ。多忙な親を俺の事情で困らせたくはなかった。俺が我慢していればいつか終わるかもしれない。終わって、そしたらなかったことにしてしまえばいいと自分に言い聞かせた。
しかし、俺は我慢の限界を迎える。恐怖を堰き止めていたダムが決壊することになった。
二〇一二年の二月の終わり。俺はいつもと同じようにアルマにキスをされていた。いつもよりずっと激しい口づけが嫌で仕方がなく、何とか逃れようとしたが、強く体を固定されて逃げられなかった。そんな俺をアルマはソファに押し倒し、ズボンを下ろした。キスは続けたままアルマはトランクスの中に手を忍ばせて…俺は唇が離れた瞬間、堪えきれない恐怖と嫌悪感で悲鳴を上げ、彼女の顔を殴りつけた。アルマが怯んでる隙にズボンを上げると家へと逃げ帰った。すぐに両親に電話をし、あったことを全て話した。我が家に帰ってきた両親は俺を抱きしめてくれた。これほどまでに人の温もりが素晴らしいものだと思ったことはない。でも俺は消えない恐怖心で涙さえ流れてはこなかった。
アルマ・ショーン・マイヤーズは訴えられた。裁判が行われ、彼女は罪を認めた。俺たち家族に出会う前にも、数人の子供に手を出してきたことが判明したのだ。それが判明したのは後の話ではあるのだが、とにかく彼女が罪を認めたことでアルマの名前と共に犯罪が公に公開されたのだった。無論被害者である俺の名前は伏せられていたが、親友の二人は知っていた。アルマ・ショーン・マイヤーズが俺の世話をしている女だということを。
だから今、俺の目の前で恐ろしいものを目の当たりにした時のような表情を浮かべているのだろう。
「ウヅキ、あのニュースは何なの?被害者の少年ってあなたのことなの?」
瞳孔を見開いて詰め寄ってくるソフィアに、俺は首の後ろを掻きながら何でもないことのように肯定を返した。口元を両手で覆い、瞳を次第に潤ませてく彼女の姿に、あまりにもソフィアは優しすぎると俺は感じた。まるで心の痛みを代わりに受け持っているみたいだ。
「どうして…」
「年上にも俺はモテるってことだよな」
いつものくだらないジョークさ、俺のお得意のな。これまでの出来事だって、全部ユーモアにしてしまえばいいんだよ。さあ、笑ってくれ!
嫌なことも全部笑いに変えられる力が俺にはあると信じていた。そうしなければ、どうにかなりそうだった。俺は心の中で二人が笑うことを祈ったが、笑顔とは程遠い面持ちしか見せてはくれなかった。
「ふざけないで!」金切り声を上げたソフィアはボロボロと涙を零し始めた。何も言えずに突っ立っているジェームズは茫然と俺を見つめていた。
「どうしたんだよ、二人とも。そんな深刻になるなって」
ヘラヘラと笑って、泣いているソフィアを慰めようと肩に手を置いたが、乱雑に払いのけられてしまった。嗚咽を洩らし、その場にしゃがみ込んだ彼女を見下ろした。彼女を泣かせるつもりなどなかった。むしろ笑わせてやろうとしたのに、どうして上手くいってくれないんだ?
「あの女は裁かれるし、俺ももう安心だ。最高なハッピーエンドだよ!ハレルヤ!」
両手を上げて神に感謝を表した俺に、ずっと黙っていたジェームズがようやく口を開いた。
「どうして笑ってるんだ?」
ポツリと零した彼の質問に、俺は目を瞬かせて聞き返した。聞き取れなかったわけではない。彼の問いかけは俺の心を容赦なく抉るものだった。俺はその言葉が聞き間違いであると思いたかったのだ。
「どうして笑ってるんだよ」
「どうしてって…」
「どうしてあんなことがあったのに、笑ってられるんだよ!」
怒号を上げたジェームズは俺の胸ぐらに掴みかかり、ゆさゆさと体を前後に揺らしてきた。されるがままに(まだ首がすわってない赤ん坊のよう)俺は振り回された。弾かれたように俺たちを見上げたソフィアが慌ててジェームズを止めにかかるが、怒り心頭の彼は止まらなかった。
「笑うなよ!笑って済むことじゃないんだよ!」
ジェームズの怒声が次第に涙声へと変わっていく。
つられて俺の目頭が熱くなった。
「一番お前が笑ってちゃけないだろ。だってお前は…」
「やめろよ」
泣くな、ウヅキ・ミナモト。
道化師の俺が泣いたら嗤い者だぞ。
「仕方ないだろ!」
俺の両目からはとめどなく涙が溢れだしていた。
ここまで我慢してきたと言うのに。今日まで我慢してきたというのに。こいつらのせいで全部無駄になってしまった。ああ、最悪だ。本当に最悪な日だ。
「笑ってなきゃ気がおかしくなりそうなんだよ!」
ジェームズの手を振りほどくと、次は俺が彼の胸ぐらを掴み、思いの限り叫んだ。今にも殴りかかりそうだった。
「もう放っておいてくれよ!」
ぎゅっと胸ぐらを握りしめているはずなのに、手が震えて上手く掴めない。
「頼むから、放っておいてくれ」
俯いた俺は、懇願するように大粒の涙をいくつもアスファルトに落とした。親友二人が俺を放ってどこかに行ってくれることを願った。だが、二人はどこにも行こうとはしなかった。それどころかジェームズは俺の体を強く抱きしめた。ソフィアも同じようにして、俺とジェームズに腕を回した。
アドレナリンが溢れ出ていたのが嘘だったかのように、俺の心には安らぎが訪れ始めていた。
「放っておけるわけがないだろ。こんな状態の親友をおいて、どこに行けって言うんだ」
息が止まるんじゃないかと思うぐらい強く抱きしめられているというのに、俺はまったく抵抗しようとは思えなかった。二人の温もりに安心した。ずっとこうして抱擁されることを待ち望んでいたとでも言いたげに。
「私たちは絶対にあなたを傷つけないわ。安心して」
嗚咽を洩らし、声を上げて俺は泣いた。大粒の涙が頬を伝い、ジェームズの肩を濡らした。彼は嫌がる素振りなど見せなかった。
親友たちの優しさに包まれた俺は、ただひたすら泣き続けた。
最初のコメントを投稿しよう!