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05.温泉
海水浴場に設置されていた簡易シャワーでざっと体を流し(結局濡れたサンダルの中には砂が入り込んだ)、荷物を抱えて駐車場に停めた車に戻った。サンシェードを付けていたとは言え、車内は蒸されたように暑く、三人が文句を言いながら冷房を最大出力にしてビーチを後にした。環境破壊がどうたらこうたらと海に入る前に話していたことは、すっかり忘れていた。若者とはいつも己の考えや発言に責任を持たないものだ。責任が大嫌いなのだから。
ホテルへの道のりをオアシスの音楽と共に走り抜けていると、後部座席でスマホをいじっていたソフィアが顔を上げた。
「そういえば、ホテルに大浴場があったはずよ」
「え?大浴場?」
俺はハンドルを握りしめた状態でバックミラー越しにソフィアと視線をぶつかり合わせた。そんな話は一切聞いていなかったし、突然の知らない事実に驚いて、ホテルの予約をしたウヅキを一瞥した。
「そうだっけ」と呑気に言った彼に、俺たちは盛大なため息を吐いた。ホテルを探して予約をしてくれた彼を批難したくはないが、必要な情報は頭に入れておいてほしかった。無論俺やソフィアも他人任せにして調べなかったのは悪かった。
「泊まるのは今日で最後だし、せっかくだから入りにいこう」
「そうね、眺めもいいみたいよ」
眺めのいい大浴場か。
普段温泉に入りに行くこともなければ、家でもバスタブに湯を張ることなんてまずない。ウヅキの家では毎日湯を張ってるらしいが、彼自身風呂が好きというわけではないためシャワーで終わらすことがほとんどだと言っていた。「でもたまに浸かるといいんだよなあ」と話していたのを思い出す。
日本人らしいと感じたが、実際湯船に浸かることは癒し効果を得られると証明されている。特別な機会がなければ温泉は入らないが、そういった特別な機会に恵まれた時はいつもローマ人に感謝するものだ。
この時間帯ならそんなに混んでいないかもしれない。ゆっくり景色を愉しみながら温泉に入れるだろうと想像して、俺は全身を取り巻く不快感を忘れて表情を緩めた。
車内では全員水着のままだったが、さすがにホテルではそういうわけにもいかず、渋々と水着の上から服を羽織り、必要な荷物だけを持って自分たちの宿泊する部屋へと戻った。テキパキと温泉に向けて支度をすると(この海水によるベトベトから解放されたい!)、大浴場がある最上階へ素早く足を伸ばした。
脱衣所とシャワールームは男女別で温泉自体は混浴だ。むしろ混浴ではない温泉の方が珍しいと思うのだが、温泉大国と呼ばれる日本はどうなんだろうか?昔はよく日本の話をウヅキから聞いていた気がするが、ほとんど忘れてしまった。それに今や完全にニューヨークに染まったニューヨーカーの彼が日本の話を持ち出すことはまずなかった。せいぜい政治的な面でアメリカとの間に大きな進展があった時ぐらいだ。
混浴のため水着着用だったが、温泉用の貸し出しがされていて何とか助かった。水着分の料金を支払うと、俺とウヅキは一旦ソフィアと別れて脱衣所へ入り、羽織っていた服と海で着ていた水着を脱ぎ始めた。
「人魚とは付き合いたくないよな」
「付き合う予定でもあるのか」
温泉用の水着を片手にタオルを下半身に巻き付けると、脱衣場を出てシャワールームに向かった。ずらりと並べられた長方形型の箱に、シャワーとボディーソープやシャンプーが置かれている。実に簡易的だったが、これだけ揃えられていれば十分だった。
白いカーテンを閉めるとシャワーヘッドからお湯を出し、頭から一気に浴びた。体中に纏わりついている塩分が流されていく感覚に一種の快感を覚えていると、隣からウヅキの歓喜の声が響いて吹き出した。まるで数週間ぶりにシャワーに有りつけた人のようだった。
頭と体を洗い、水着を着用すると、俺たちはほとんど同じタイミングでカーテンを開けた(顔を見合わせてニヤリとした)。温泉へと続く水色のタイルが敷き詰められた廊下を、ぴちゃぴちゃとぬるま湯を跳ねさせて進む。廊下の左手にはガラスドアの先に広々とした温泉が見えていた。期待していた通り人は疎らで俺たちを合わせても七人しかいない。ソフィアはまだ来ていないようだった。
屋外への温泉に続くドアを開けて外に足を踏み出すと、俺たちは眼前に広がる絶景に息を呑んだ。真っ白な二十五メートル四平の温泉には空の色を映し出した水色のお湯がゆらゆら揺れている。仕切りはなく、言わば断崖絶壁のような状態で海と温泉の境界線が溶けあう状態になっていた。
温泉サイドに設置された棚にタオルを置くと、俺たちはすぐさま温泉へと足を浸け、掻き分けるように最も海へと近い方へ歩いた。
「すげえ!こんな絶景の温泉初めてだぜ」
あまりにも壮大で絵に描いたような景色に、俺は言葉を失っていた。
もっと早くから知っていたかった気持ちと、宿泊最後の日に知れたことへの喜びとが入り混じり、複雑な感情を抱いて立ち尽くしていた。
後方から聞こえてきた子供の笑い声にハッと現実に返り隣を見てみると、ウヅキは温泉の縁に腕をかけながら(足は後方に伸ばして浮かせていた)、壮観な光景を眺めていた。俺もゆっくりと肩まで湯に浸かると、ただ静かにマリンブルーを正視していた。
温泉と空と海と俺たちの周りには青色しかなく、こんなにも青色は美しくて人々の心を癒すものだと俺は今日まで知らなかった。静かに佇む青色はその雄大さで俺たちを包み込み、抱擁していた。
「この町に来れて本当によかった」
青色に魅せられたような夢現の表情で呟いた親友の一言が、何故か俺の頭から離れなかった。
暫く二人で景色に見惚れていると「お待たせ」と声がかかり振り向いた。温泉用の水着に着替えたソフィアが俺たちの後ろで海に目を馳せていた。
「最高ね。カメラが持ち込めたらいいのに」
「スマホならよかったみたいだぞ」
サイドのリクライニングチェアに寝転がっている女性がスマホを持っているのを視線で指すと、ソフィアは子供みたいに「うっそー!」と声を上げた。とても愛らしい彼女の反応に思わず口元を緩めた。
「女はいいよな。男だと盗撮に間違えられちまうぜ」
「男女差別?女だって男だって同じよ」
「それはどうだろうな、お嬢さん」
肩をすくめたウヅキに彼女は嘆息吐き、これ以上馬鹿らしい口論はしてられないと俺の隣に腰を落ち着けた。これ程までの景色を目の前にして、無益な言い争いなど続けられるはずがなかった。
俺たちは並んで海へと向き直り、逆上せてしまうギリギリまで温泉に浸かっていた。いや、眼前の青色に魅了されていた。
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