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06.親友との喧嘩
大浴場から上がると部屋で一休みをして、十九時に予約していたディナーに向かい、二十時過ぎにまた部屋へと戻って来ていた。バルコニーで夜の夏風に吹かれながら、俺たちはガーデンチェアに腰かけて、机には酒とお菓子を並べていた。最後の夜に相応しい小さな宴を始めようとしていたのだ。
ホテルの売店で買ったカクテルを氷の入ったガラスコップに注ぐと、バルコニーを照らすスタンドライトの下で乾杯をした。グラス同士がぶつかる音と氷のカランと崩れる音が耳に心地よかった。
ごくごく喉を鳴らしグラスに入っていた酒を一気に飲み干したウヅキは爽快感から息を吐き出すと、濡れた唇を拭って頬を上気させた。
「もう、やめてよね」
一口酒に口を付けて、ドライフルーツに手を伸ばしたソフィアが相手を咎めるように目角を立てた。ニヤニヤと笑っているウヅキは誰よりも早く二杯目をグラスに注ぐと「やっぱり始めはグイッといかなきゃな」と一笑した。
「それにしてもあっという間だな。明日の昼にはここを出るんだ」
バルコニーからの眺めは暗闇に包まれて、海は漆黒の絨毯となっていた。近辺にはホテル以外に建物がないため天を仰ぐと星が瞬いているが、ホテルの光で霞んでしまっている。もし『ヤング・レター』の明かりさえもなくなれば、美しい星空が広がっているに違いなかった。
ソフィアは三脚を持ってきていたようだが、結局一度も使ったところを見ていない。星空を撮影するのに使用するつもりだったのかもしれないが、彼女は星を見に行こうとは言い出さなかった。
「いい写真は撮れたのか、ソフィ?」
「色々とね。ジャックのおかげだわ」
膝に置いていた一眼レフをソフィアは卓上に移動させると電源を付けた。パッと液晶画面が光ったが、部屋から洩れる灯りとバルコニーのライトもあってさほど眩しいとは感じなかった。
「そういえばジャックと約束してないけど、明日会えるかな」
「何となくだけど会える気がするわ」
「俺もそう思うぜ、不思議とな」
昨日の海辺の散歩中にジャックは俺たちを船に乗せて、今までに見たことないぐらいの景色を見せてくれると約束した。もちろんその約束を絶対果たしてほしいとは言わないし、破られたとしても構わなかった。ただこのまま一言も交わさずに別れるのはあまりにも惜しいと思えた。俺は少年を友人だと感じていたし、ソフィアやウヅキも同じ気持ちのはずだ。
「やっぱり応募するのは海の写真の方がいいわよね。ここまで来たんだから」
「海の写真よりもっといいのがあるのか?」
一眼レフの画面を見下ろしてボタンを操作しながら言った未来の写真家にウヅキは問いかけた。海が綺麗な町、海が綺麗なホテル、確かにこの場所に来て海以上に惹かれる写真が撮れたのだろうかと俺も不思議になった。
「これよ」と彼女が見せてくれたのは、初日にバルコニーから見える風景にはしゃいでいる俺とウヅキの写真だった。風景写真も人物写真もどちらもよく撮影するソフィアだったが、これを一番に選ぶのは些か奇妙だった。ウヅキも同じく疑問を抱いたようで、目を瞬かせていた。
「選んだのは私じゃなくてジャックよ」
「ジャックが?」
「この写真はレンズ越しじゃなくて、私の目で見てる景色に思えたって言われたの。その言葉が頭から離れないわ」
「本当に、ジャックは…」
俺が思わず笑ってしまっていた。
昨晩ソフィアに謝りに行く前にあの子と話した内容を思い出したからだ。
どこまでも俺たちの心をくすぐり、引き出してくれる。将来はカウンセラーにでもなるつもりなのだろうかと俺は心の中で冗談を言った。
突然笑い出した俺に二人はきょとんとしたので、頭が変な奴だと思われないうちに昨日のジャックとの会話と、俺の心情をありのままに話した。
「さすが俺の弟だぜ」
「だからなに勝手に弟にしてるのよ」
ソフィアに謝らなければいけない根本的な理由を教えられ、ロイ・アイゼンハートに対しての微かな怒りさえも書き換えられたのだ。とんでもなく心を動かされた気がしてならない。いや、実際俺たちはあの子に心を揺れ動かされている。良い方に転ぶか悪い方に転ぶかは俺たち自身の手に委ねられる絶妙な具合の位置で。普段子供と関わる機会など一切ないが、大人が子供と話をすればこれだけの発見や気づきを与えられるものなのだろうか。俺たちもかつては子供だったが、大人は俺たちと話をして思うことが多くあったのだろうか。
徐々に子供の頃の記憶は薄れて、あの時持っていた感情も忘れてしまう。でも子供と関わる度に記憶や心の奥底を突っつかれるのだ。幼い頃の俺が、思い出して!と声を上げる。歳を重ねるにつれて落としてしまった忘れ物を拾い上げるように訴えかけるんだ。
「子供って素敵ね。海や空よりずっと綺麗なんだわ」
「そうだろうさ。あんなに純粋な目で俺たちを見てくるんだから」
「私たちにもあんな頃があったのよ?信じられる?」
「信じられないな。まるでファンタジーだぜ」
まるでファンタジーか。本当にそうなのかもしれない。
俺たちは幼い頃ファンタジーの夢の世界(ネバーランド)で暮らしていた。大人になって現実世界へと連れてこられたのだ。魔法は解けて、大人になる。夢の世界は終わりを告げて、俺たちは現実だけを見据える日がやって来た。
大人は夢を魅られないのだろうか?大人は魔法を信じられないのだろうか?
「ウヅキが旅行を提案してくれたおかげだわ。でもよくお母さんは許してくれたわね」
「もう成人してるしな。と言っても説得にはかなり時間がかかったけどさ」
「てっきり俺は冗談だと思ってたぞ」
過保護の彼の母親が旅行なんて許すはずがないと、彼なりの励ましというかユーモアなんだろうと思っていたが、三人で集まった際に『ヤング・レター』のサイトが映し出されたスマホの画面をを見せられて「ここはどうだ?」と勧められ、俺とソフィアは仰天した。まさか本当に旅行に行くことになるなんて、まさか本当に彼の母親から許可が下りたなんて信じられなかったんだ。それほどまでにウヅキの母親は(異常な)過保護だった。
「私も嘘だと思ってたわよ」
「おいおい、俺ってそんなに信用ならないのかよ」
カクテルを飲みながら目を据わらせたソフィアに「酷い奴らだな」とウヅキは眉間に皺を寄せた。
「でもあなたのお母さんが過保護になるのも仕方ないと思うわ。あんなことがあったんだもの」
「それでも度が過ぎてると俺は思うけどな。…ああ、いや。お前の母親を悪く言いたいんじゃないんだ」
自分の失言に気が付いてすぐに付け加えたが、ウヅキは気にした素振りはなく、ヘラヘラと笑うとグラスに口を付けた。
何はともあれこうして幼馴染と旅行に来れて俺はよかったと思っている。喜ばしい出来事であり、大切な思い出になるはずだ。
俺たちはくだらない話を続けながら酒を飲み続けた。
あっという間に宴を始めて二時間近くが経ち、腕時計を俯瞰すると時刻は夜の十時七分を指していた。浮かれ気分は通り過ぎて、ゆるりとした眠気が俺たちを包み込み始めていた頃合いに、グラスの中を揺蕩う酒を見つめていたウヅキが口火を切った。
「あのさ、本当は旅行が終わってからお前たちに話そうと思ってたんだけど」
うつらうつらとしていた俺と、闇夜に佇む大海原を眺望していたソフィアは、彼の話の切り出しに強く興味を引かれて顔を向けた。
「俺、日本に帰ることになった」
その場は水を打ったような静寂に包まれた。
現実世界と夢の世界の境界線をさ迷っていた俺は、一瞬夢を見ているんじゃないかと疑ったが、ウヅキが真剣な声色で更に言葉を続けたことにより、次第に思考がクリアになっていった。
「コロナがあるからまだいつってハッキリ決まったわけじゃないけど、渡航出来るようになったらすぐにでも帰るみたいだ。母さんがそうしようって言ってるんだ」
「どうして急に?」
ソフィアは唖然と衝撃的な告白をした親友を凝視していた。俺はあまりにも非現実的な彼の発言をまだ呑み込めずにいた。心の隅では、どうか夢であってくれと祈っていた。
「ずっと帰りたいって母さんは言ってたんだけど、俺のことを考えたら暫くはニューヨークに居るべきだって我慢してた。でもコロナのせいで周りと色々あってさ、ちょっと精神的に参ったというか…だからもうニューヨークに居るのは堪えられないんだとさ」
母親が日本に帰るからと言ってウヅキも一緒に帰る必要がどこにある?母親が居なきゃ何も出来ない子供じゃないんだぞ。成人してるんだ。大学だってあると言うのに、彼が日本に帰らなければいけない理由は?
「残ればいいだろ、お前はこっちに」
俺の声色はやけにさめざめと冷え切っていて恐ろしかった。心配するようにソフィアがこちらを見たが、無視してウヅキを正視した。疑問をぶつけるはずが、ふつふつと沸いてくる怒りを抑えられなくなっていた。だが、どうして怒っているのか自分でも分からなかった。
「母さんが一緒に来てほしいって言うんだ。だから俺も帰るしかない」
「母さんが?お前は昔からそうだな、母さん母さんってそればっかりだ」
「仕方ないだろ!家の事情はジェームズだって分かって…」
「分かってるさ、でもいつまでそうやって母親に縛られてるつもりなんだよ?まさか死ぬまでずっと一緒に居るつもりか?」
まるで親友を責め立てるように俺はつらつらと言葉を並べ、次第に語気が強くなっていく。
どうしてこんなに苛立っているんだ?何もかもが腹立たしくて仕方がないんだ?感情の制御の方法を忘れてしまっていた。
「そんなつもりあるわけないだろ。ただ今はこうするしかないんだよ」
「今は?嘘吐くなよ。母さんじゃなくてお前の問題だ。お前が母親から離れられずにいるんだろ!マザコン野郎!」
目を見開いたウヅキは俺の胸ぐらを掴み、立ち上がった。椅子が音を立てて後ろに倒れた。
「やめて、二人とも!」ソフィアの悲痛な叫びが静かなバルコニーに反響した。俺とウヅキは互いに睨み合い、今にも殴り合いそうな一触即発な雰囲気だった。
「俺のことずっとそんな風に思ってたのか」
「ああ、そうだよ。ずっと思ってた。過保護な母親に依存して、一人になることを怯えて離れられないお子様だ。お前は母さんが居なきゃ何も出来ない弱虫なんだよ」
勢いよく後方に突き飛ばされて、俺は椅子にぶつかると尻もちを着いた。ウヅキの双眸は憤怒と悲哀を揺らして俺を見下ろしていた。涙は流していないのに泣いているように見えて、俺は心臓が握りつぶされるような感覚がした。
「お前たちなら分かってくれると思ってたのに」
それだけ吐き捨てた親友は、バルコニーから部屋へ戻る扉へと足を進めた。ソフィアが彼を呼び止めたが、歩みを休めることはなく部屋を出て行くと荒々しくドアは閉じられた。窓の近くで立ち尽くしているソフィアの背中を見上げて、取り返しのつかないことをしでかしたと実感した。
こちらを振り向いたソフィアの瞳は涙で濡れていた。昨日も俺のせいで彼女を泣かせてしまったと言うのに、今日もまた俺は涙を流させている。
いつの間に俺はこんなクズな男になったんだろう。
「あなた、最低よ」
ソフィアの一言はあまりにも重く、俺にのしかかった。
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