2人が本棚に入れています
本棚に追加
07.久しい感情
頭を支配するぶつけようのない怒りと、涙を誘う心を満たす悲しみとでいっぱいいっぱいになりながら、俺は階段を駆け下りてロビーに出た。ズカズカと売店に入ると、チョコレートの置かれた戸棚からスニッカーズをあるだけ取ってレジに運んだ。どっさりと盛られたスニッカーズに女性店員は顔を顰めて俺を見てきたが、無言で相手を促した。
支払いを済ませて大量のスニッカーズを抱えると「どうも」と苛立ちを抑えられないながらにお礼を述べ、ロビーに戻った俺はソファの近くで宿泊客であろう老婦人と話をしているジャックを見つけた。もう十時を過ぎているのにこんなところで何しているんだろうと思っていると、ジャックが俺に気が付いて手を振った。俺も手を振り返そうとしたが、スニッカーズのせいで手を挙げられなかった。
老夫婦に何かを告げるとブレーキを解除し、ハンドリムを握って車椅子を動かし、ジャックはこちらにやって来た。「すごい量のスニッカーズだね」
やはり気になるのはそこだろうなと考え「ムカつく時は甘いもんに限るぜ」と応えた。
「ムカついてるの?」
「相当頭に来てる」
「理由を聞いてもいい?」
「ジェームズと喧嘩したんだ」
すげない返答をする自分に、この子は何も悪くないのに当たってどうするんだと言いきかせた。少しは気持ちを落ち着けなければ、ジャックを傷つけるつもりは一切ない。
目尻を下げて「そうなんだ」と呟いた少年は、俺の強い物言いよりも、ジェームズと喧嘩をした事実に落ち込んでるように見えた。
「一個食べるか?さすがにこの量は血圧上がり過ぎて死んじまうよ」
「まさか一人で全部食べるつもりだったの?」
衝撃を受けているというよりかは少年の馬鹿を見る目に、俺はケラケラと笑うとソファへと歩いて行った。後ろに続いたジャックはソファの横に車椅子を付けて、ブレーキをかけた。噴水を右側から見る位置のソファに座り、隣に大量のスニッカーズを置くと、一つジャックに手渡した。「ありがとう」
俺も一つを手に取ると袋を破いて一口齧った。この一瞬で喉が渇きそうなぐらいの容赦ない甘味がたまらなく好きだった。
「どうして喧嘩したの?」
二口目を齧ろうとしたところで投げかけられたジャックの問いに暫く迷ったあと、俺は日本に帰ることを伝えた。だから思い出作りに旅行に二人を誘ったこと。本当は一ヵ月以上前から決まっていたことなのに二人に話せずにいたこと。色々と説明したかったのに、ジェームズがキレだしたせいで結局話せず仕舞いになった内容を全てジャックに話した。俺が語る間ジャックはただ相槌を打つだけで、言葉を挟もうとはしなかった。
「僕も少し思うかも。どうしてウユキもニッポンに帰らなきゃいけないのかなって。ママが心配なのは分かるけど、それでいいの?」
当然の疑問だった。
むしろ俺の過去(アルマ・ショーン・マイヤーズ)を知らない人間は全員そういう風に思うはずだ。だからこそ過去になにがあったか知っている親友が、ああやって俺を罵ったことが信じられなかったし許せなかった。それとも俺が親友に期待し過ぎていたのだろうか。
「話を聞いてたら何となく察しがついただろうけど、家は両親が離婚してるんだよ。その離婚をした原因は俺なんだ」
アルマ・ショーン・マイヤーズの事件をきっかけに両親の仲は悪くなった。母親が父に難癖をつけたことが始まりだった。些細なこと。我が子がとんでもなく卑劣な事件の被害者であると知って、心に余裕が持てなかった母が感情をぶつけるのに言ったことに過ぎなかった。
「どうしてあんな女を紹介したのよ!」と怒る母親に、父親は当然「あんな奴だったなんて知らなかった」と答える。自己防衛なんかではなく、もう何年も会っていなかったのだからそれが普通なのだ。母だって分かっているが、ふつふつと沸き立つ感情は抑えられない。「あなたのせいよ!」と更に怒りをぶつける。父親は自分が責められることに納得がいかない。彼もまた我が子の事件に胸を痛めていたからだ。
そうやって両親は毎日口喧嘩をし、次第に顔を合わせるのを嫌がるようになった。夫婦として愛し合っていたはずの二人が、一つの事件をきっかけに関係をボロボロにしていったのだ。両親の言い争いを見る度に思った。俺のせいでこんなことになったんだ。俺が我慢していれば、告げ口したりしなければ、両親は仲がいいままで俺たち家族は良好な関係を築けていたのに。
俺のせいで家族は崩壊した。
アルマ・ショーン・マイヤーズの事件と、父親との離婚で母は異常なまでの過保護となった。俺のせいで彼女の人格的な部分まで歪めてしまったんだ。
これは一種の贖罪のようなものだった。だから俺は母親の傍から離れることを拒むし、母親の言う通りにしたいと思っている。これ以上俺のせいで辛い思いも悲しい思いもさせたくないからだ。
「僕と少し似てるね」
性的虐待の部分を除き、全てを語りつくした俺に返ってきたのはその一言だった。目を白黒とさせて、顔を伏せているジャックを横から目視した。
「僕のママとパパは離婚してるって前に話したよね」
ジャックが昨日の散歩中、ソフィアの問いかけに表情を曇らせて答えていたのを思い出した。
「もちろん覚えてるぜ」
「離婚したのって僕の事故のせいなんだ」
膝の上で少年の右手がズボンをギュッと握りしめ、顫動しているのに気が付いた。俺は聞いてもいいものだろうかと悩んだが、話そうとしてくれているのならわざわざ遮る必要もないと見守っていた。
「僕が事故に遭って、パパとママはよく口喧嘩をするようになった。二人の言い合いから僕のことを想ってくれてるのは分かったけど、僕のせいで仲が悪くなっていくのを見るのは辛かったよ」
本当に同じだ。まったくもってそうなんだ。
両親は悪くないし両親を責められはしないが、我が子の為と思って言い争う声も、言葉も、俺たち子供の心を深く切りつけている。自責の念が止まなくなって、辛くて仕方ないんだ。簡単に理解してもらえる気持ちではないと諦めていたが、同じような境遇の少年に数年越しで出会うことになるとは想像してもいなかった。また逆にこの子の気持ちを痛いぐらいに分かるからだろうか?俺は震える右手を優しく包み込むと、丸い瞳をじっと見据えた。
「お前は悪くないよ、ジャック。絶対にお前は悪くない。お前のせいなんかじゃない」
事故だったんだから、避けようのない出来事だったんだから、誰がこの子を責められると言うのだろうか。好きで事故に遭ったわけでもなければ、好きで車椅子になったわけでもない。両親が仲違いしたのだって、離婚したのだってジャックのせいじゃない。両親が自分たちで選んで出した答えではないのか。
強く言いきかせるように何度も繰り返すと、ジャックは俺の手を握り返した。
「ありがとう」
くしゃりと笑った優しい少年は今にも泣き出してしまいそうだったが、グッと涙を堪えているようだった。俺も彼に応えようと無理やりに笑おうとしてみたが、口の端がヒクついただけで笑顔は見せられなかった。
「ウユキも同じだよ」
ジャックは俺がしたのと同じように、真摯な眼差しで手を握りしめたまま向き合った。美しく澄んだ黄金色の瞳に魅入られて、俺は少年の顔を穴があくほど見つめていた。
「何も悪くないんだよ。ウユキのせいじゃないんだよ」
「いや、俺は…」
「すごく辛かったんだね」
左手に持っていたスニッカーズを膝上に載せたジャックは俺の頭を撫でた。
偉大な言葉でもなければ、特別心に響く名言というわけでもない。純粋な子供らしい素直な一言と、髪を滑る優しい手つき。俺の為に涙を流してくれたソフィアと、俺を想って叱ってくれたジェームズが抱きしめてくれたあの日を思い出した。
目頭が熱くなり、視界が霞んでいくのが分かる。久しい感情がぶり返してきて、自分が泣きそうになっているのを察した。
泣くな、ウヅキ・ミナモト。ここで泣いたら嗤い者だぞ。
いつの間にか大人になった俺は、唇を噛みしめて涙を堪えることが出来た。鼻をすすり、濡れた目元を拭うと吐息のような笑みを零した。
「ありがとう、ジャック」
お礼を伝えると、ジャックはそっと手を離して柔らかな微笑みを湛えた。スキンシップを嫌っていたはずの俺は、この子の手を握ることも頭を撫でられたことも一切の不快感がなかった。
相手が子供だからだろうか?それとも自分と境遇が似ている子だから?そのどちらともあったかもしれないが、一昨日と昨日のたった二日間で、俺はこの子に対して確かな信頼を感じていた。それと友人として人としての好意。だから頭を撫でられて、優しくされて親友二人を思い出した。あの日の感情が蘇った。
「ウヅキ!」
声がして後ろを振り向くと、息を切らしたジェームズが立っていた。呼吸を整えながらゆっくりとこちらに歩み寄り、ジャックを一瞥して「少しこいつを借りてもいいか?」と訊ねた。頷き返したジャックに、彼は行こうと俺を促してきた。
「行くってどこに?」
「星を見に行くんだ」
俺が聞き返すよりも早く、背を向けてジェームズは先に歩き始めた。急いで後を追おうと腰を上げたところを、ジャックが服の袖を掴み引き留めた。
「絶対に仲直りしてね」
真っすぐに俺を見つめると、約束だと無言で訴えかけているようだった。
「明日、みんなで遊びに行きたいんだから」
「もちろん。それ全部やるよ、母さんと食べてくれ」
踵を返してジェームズの後を追いかける俺の背中を見送りながら「こんなにいらないよ」と呟かれたジャックの台詞は、俺には聞こえてはいなかった。
最初のコメントを投稿しよう!