Third day

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08.星空と本音 ホテルを出ると一匹の白い猫が丸くなり、片目を開けて俺たちの様子を窺っていたが、ちょうど隣を通り過ぎようかというタイミングで猫は体を起こしてピーンと伸びると尻尾を振ってホテルの敷地外へ走り出した。車の走っていない道路まで飛び出すと、一度俺たちを振り返って左に曲がった。 俺は猫の気ままな行動に、この先に小さな公園があることを思い出した。散歩中に見つけて何となく頭に残っていたのだ。 目的地を定めると俺は再び歩き出した。 ウヅキが後ろを付いてきているのを確認して、内心安堵していた。昨晩もある種の喧嘩みたいなものをもう一人の親友としたのに今日もまた喧嘩なんて、普段は揉めたり対立したりすることがないメンバーだからこそ変な気分だった。珍しく旅行に来た結果がこれなのかとも思ったが、悪いことではないような気がした。今回の旅行は中高生が思春期を終えるように、俺たちを新たな段階へと運ぼうとしているのかもしれない。 ソフィアにはすんなりと謝れたが(あれがすんなりと言えるのか?という問いかけはしないでほしい)、同じ親友でも男友達となると、どうしてかプライドが立ちはだかり上手く謝罪をするタイミングが取れなかった。無言でひたすら歩みを進めていき、ホテルの明かりが遠くなっていく。数歩後ろをこれまた口を閉ざしたままウヅキは歩いている。一言も発さない時間が十分以上は続いたかもしれない。お喋りな彼の面影は息を潜め、余計に奇妙に思えた。 静かな海沿いの道を二人でずっと前進していると、小さな公園に辿り着いた。あるのは複合遊具と小さい子のブランコ、後はベンチだけだ。公園に足を踏み入れて、迷うことなくベンチに座ると、ウヅキも隣に腰かけた。 それからも数分間は二人で黙って星空を仰いでいた。商業施設やビルは一切見当たらず、少しの家屋はあるものの、どれも灯りは消えていた。もう二十三時を回ろうとしていることを考えると、何らおかしなことではなかった。 公園に設置された街灯と、夜空に瞬く星しかこの世界には光と呼べるものが存在しなかった。街灯には虫が集り、ぶんぶんと不快な音を鳴らしている。 首が痛いぐらいに満天の星々を眺めて、この星は宇宙で何百年も前に惑星が爆発した名残なんだと考えると、俺たち人間には想像できない壮大さに自分の小ささを痛感した。宇宙から見れば俺たちは塵でしかない存在だろう。世界から見たとしてもどれだけちっぽけなのか。でもそのちっぽけな存在がひしめき合い、営みを続けたのがこの世界なのだ。 「俺たちの住んでるとこじゃ、こんな景色は見られないよな」 感激しているように言ったウヅキに俺は肯定を返した。 星空や海だけじゃない。この町に来たことで見ることが出来たものは数多くある。こうして旅行が決まったのは、まるで未来の俺たちがそうさせた運命に感じられた。 「さっきはごめん。言い過ぎた」 顔を前に向け直すと、道中ずっと躊躇していた謝罪を口にすることが出来た。海や星や山といった自然の景色は、いつも人間の心を大胆にさせるのだ。数秒間の沈黙が続き、俺は生唾を呑み込むと相手の様子を窺おうとしたが、遮るようにウヅキがこちらを横目に見て意地悪な笑みを浮かべた。 「幼馴染だからって心に刺さること言いやがって」 彼の雰囲気も表情も声色も、もう怒っていないことを示していたが、俺はもう一度だけ「悪かった」と誠心誠意謝った。気にしている様子がないことは、過ごしてきた時間として察する能力を手に入れていたが、彼はすぐに笑って誤魔化そうとする癖がある。正直俺は気にくわない。嫌な癖だったが、見抜くことが出来れば問題はなかった。 「俺の方こそ急だったよな。ごめん」 にやけていた口元はきゅっと引き締まり、指遊びをしながら目を伏せてウヅキは謝罪した。 「ニューヨークに一人で残ることも出来るってお前の言葉、俺も考えたよ。でもダメなんだ。日本とこっちじゃ遠すぎる。そんな遠い場所で、母さんを一人にするのは不安なんだよ」 ニューヨークと日本は五千マイル以上離れている。飛行機が普及した現代で、実際に行こうと思えば案外簡単に行けてしまうのかもしれないが、国と国の距離は少しずつ心の距離に変わってしまう気がした。どれだけ会おうと思えば会えると言っても、隣に居る時とは全然違うんだ。ウヅキが日本に帰れば、俺たちの関係がそうやって大きく変化するのは止められないと予感していた。 「俺じゃ珍しいぐらいに頭を使って悩んだよ。でもやっぱり、今の俺は母さんから離れることは出来ない」 ニューヨークに残るか、日本に帰るかの二者択一。彼が悩んだのは嘘ではないだろうし、日本に帰るのを選んだのだって母親を見捨てられないからじゃない。母親に依存しているわけでもないし、俺が罵ったように必要以上に一人を恐れたからでもなかった。ただ単純に未来を、将来を見据えた結果、彼はニューヨークに残るよりも、日本に帰るべきだと判断したんだ。 親と友人。どちらかの傍にしかいられないとして、どちらを取るべきなのか。本当に誰よりも自分のことを想って考えてくれるのは誰なのか。そう考えた時に、ウヅキの中で自然と答えは出たんだろう。 母親が過保護で、いつも彼女の言う通りにしてきたウヅキは、それでも今回俺たちとの思い出を作るために旅行を計画してくれた。母親が強く反対すると分かっていても、折れずに説得してこうやって実行に移してくれた。縛られてもいなければ、言いなりになっているわけでもない。彼は間違いなく、いつでも母親の下から飛び立つ覚悟や準備は出来ている。だけど今はまだその時ではないのだ。 「さっきソフィアに言われたよ。大人になったからこそ現実を知ってる。それがウヅキが母親と日本に帰る選択をした理由なんだろうって」 「ソフィアには敵わないな」 ぽりぽりと頬を掻いたウヅキに、俺は口元を綻ばせた。 彼はまだソフィアが好きなんだろうか?かつて想いを寄せていたのは知っているし、ホームカミングで告白してフラれたのも知っている。しかし、それ以降の彼の感情の変化を聞いたことがない。見ている限りでは判断が難しかった。 どんなことも隠さずに打ち明けていた子供時代はもうないのだろう。幼馴染だろうと話せない秘密も増えていく。相談できない悩みも出てくるはずだ。そうやって大人になって、話す事柄だってどんどんと変化していくんだ。 大人になるのは、こうも寂しいことなのだろうか。 「日本は確かに俺の肌によく馴染むし、好きな風が吹いてる。でも出来ることなら、お前とソフィアが居るこの場所に残っていたかった」 行くな!そう言えれば、どれだけ気持ちが楽になるだろうか。でもこれ以上彼を困らせたくはないし、また言い争いになって、笑顔で明日の朝を迎えられなくなのるのは絶対に嫌だった。 ああ、やっぱり大人は寂しくて辛いことが増していくんだ。 子供の頃なら泣きながら、行かないで!と本音を伝えただろうが、大人になった俺は本音を押し殺して、心の奥深くにしまい込んで彼を見送ることしかできない。必死に悩んで彼が選んだ答えを、いくら親友と言えど邪魔することはできなかった。そんな愚行には走りたくなかった。 「ジェームズとソフィアと一緒に居られることは、俺にとってとても大きな幸福だ」 声が震えている。 ウヅキが泣けば、きっと俺も我慢できなくなってしまうだろう。しかし、彼が泣くのを拒めば彼は二度と涙を流さなくなってしまう気がした。涙を流すことをかつて嫌がった彼だからこそ、泣くのは悪い行為だと思い込んでしまうんだ。 「泣けばいいよ」 ロイ・アイゼンハートに振られたあと、俺は茫然自失となって車に戻った。 事情を聞いても話さない俺に、ただ事ではないと二人は感じ取ったのだろうが、深くは追求しなかった。俺の家の前でウヅキが車を停めたときに、ようやく俺はポツリポツリとあったことを話し始めた。と言っても事は単純で、俺がロイ・アイゼンハートの苦しみに気づいてあげられなかったこと。それが災いしてフラれてしまったということ。瞳孔を見開き、意味も分からずにただ事実を語るだけのロボットと化した俺は、傍から見れば不気味だっただろう。あまりのショックに脳も心も処理が追い付いていなかったのだ。話し終えて、まるで抜け殻のように前方を見ているだけの俺の手を、運転席に座っていたウヅキは握って言った。「泣けよ。まだ泣いてないんだろ?」 どうしてかその一言を聞いた途端に、俺を縛り付けていた糸が解けたように涙が溢れて止まらなくなった。ようやく心を取り戻し、痛みを理解したようだった。泣いて、泣いて、一頻り泣き続けて俺はようやく少し落ち着いた。 あの時俺に『泣けばいい』と言ってくれたのは、他でもないウヅキだった。 「泣けばいいよ。誰も見てない。俺しかいないよ」 大粒の涙が一粒彼の頬に伝った。唇は震えて、頬は上気していた。"ちゃんと"泣けるように俺は親友の体を強く抱きしめた。この場にソフィアも居てくれれば、ウヅキの心をより一層慰めてくれたはずだ。 十二歳に戻ったようだったが、ここに居るのは紛れもない二十一歳のジェームズ・ディーンとウヅキ・ミナモトだ。 星空に見守られた二人分の泣き声が、森閑とした公園に響き渡った。
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