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Last day
01.鮮明な記憶
二〇一五年.九月.二十日.『映画館』
夕食前の時間帯に恋人のロイ・アイゼンハートと映画館に訪れていた。映画は原作から入る俺にとって、今回の『メイズランナー:スコーチトライ』は非常に映像でどんな風に表現されるのか期待して鑑賞に来ていた。暗闇の中で誰もがスクリーンに意識が集中している。若ければ恋人と手を繋いだり、はたまたキスをしたりするかもしれない。だが俺たちはそんなことも一切なく、最初から最後まで全身全霊で映画を楽しんだ。俺もロイも、エンタメや芸術を楽しむ精神はいつも忘れない人間だった。
スクリーンから出て映画館の外へと向かう数分間、俺はべらべらと映画の感想について語っていた。
"原作とはまったく展開が違う" "テレサの裏切り方は映画の方が好みだ" "別作品を見ているようで好き嫌いが別れそう" "ミンホは生き残ると思うか?"
ロイは幸せそうな表情で相槌を打っていた。一人だけ熱くなり過ぎただろうかと不安になり、俺はおずおずと口を閉ざした。
「本当にジェームズは好きなもののことになると止まらなくなるね」
「ごめん。こういうのってオタクみたいでダサいよな」
「話を聞いているのは楽しいよ」
嘘を言って俺に合わせてくれているわけではないのは分かっていたが、彼の優しさに甘えて自分の趣味を押し付けすぎるのもよくないと映画の話は切り上げて「夕食を食べて帰ろう」と提案した。
この辺りは繁華街になっていて飲食店も多い。ちょうど夕食時で混んでいるかもしれないが、俺もロイも門限はなかった。遅くなれば(そうでなくても)俺が彼を家まで送るし、問題はないだろう。
「何が食べたい?」
「ジャンクフードかな」
「それは俺の食べたいものだろ」
「僕も食べたいんだよ、ハンバーガー」
微笑んだ彼の横顔は、夜の街のネオンに照らされて、いつも以上に儚くも美しく見えた。透き通るような白い肌に様々な蛍光色が映る様は摩訶不思議だった。はぐれてしまわないよう俺はロイの手を握った。人前で恋人らしい振る舞いをするのはあまり好まない彼だったが、これだけの人混みで誰もが自分の世界に夢中なのだ。誰も見ているはずがない。ロイも同じ考えだったのか、それとももっと別の理由があったのか、俺の手を振り払おうとはしなかった。たったそれだけのことが嬉しかった。
近くの小さなハンバーガー屋『ジョーのホクホクハンバーガー』に入ると、一番奥のカウンター席に腰を下ろした。随分と繁盛しているようで店内は賑わっており、店員は忙しそうに走り回っていた。天井からぶら下がる蛍光灯はカチカチと付いたり消えたりを繰り返し不安定だ。壁のあちこちにはラクガキがされ、設置された子供たちのためのガムマシーンは破壊されていた。スピーカーからは絶えず、ブルース・スプリングスティーンの歌声が流れていた。
二人で同じ三段バーガーとコーラを注文した。細身のわりにロイはよく食べる方で、最近太ってきたと嘆き、トレーニングを始めたようだが、出来れば俺は今のままで居てほしかった。もちろん頑張っている恋人を応援したいし、文句を言うつもりはないのだが。
乱雑に渡されたハンバーガーを受け取ると、大口を開けて齧りついた。安っぽい肉に安っぽい野菜の味が口いっぱいに広がる。ソースは無難なケチャップだ。どうしていいものを使っているわけでもないこんなジャンクフードが、世界で一番美味しく感じるのだろうか。俺たちアメリカ人のDNAには何かそういったものが刻み込まれている気がしてならなかった。
「ソース、付いてるぞ」
隣で黙々と食べるロイにちらりと目をやると、口元にケチャップが付着していた。まるで幼い子供のような愛らしさに俺はクスクスと笑いながら指摘すると、ペーパーナプキンで拭ってやった。
「ありがとう」と少し照れながら視線を逸らした彼に、俺の心臓は愛おしさで握りつぶされそうになった。今の自分を鏡で見れば、とんでもなくだらしない顔をしているだろうと思いながらも、こんな当たり前の日常的なやり取りに幸福を感じていた。
男なのに男が好き。同性愛者であることに気づいた時の苦しみを、全て吹き飛ばしてくれたのはロイの存在だった。彼に出会い、恋に落ちたからこそ俺は己のセクシャルマイノリティを肯定出来るようになった。
「今日は俺の映画に付き合ってもらったし、次はロイの行きたいところに行こう」
「僕の行きたいところか。考えておくよ」
無欲というわけではなかったが、彼は若者にしてはがっつきがなく、周りよりもいつも一歩引いて傍観している立場だった。それを冷たい人間だとは感じなかったし、むしろ彼は彼なりに精一杯生きているのを傍に居ると感じられた。頭も良くて成績優秀なロイは一見器用に見えるが、実は人よりずっと生きることに不器用だった。そんな彼の特別になれたことは誇らしい。ずっと隣で支えてやりたいと夢物語ではなく現実的に考えていた。まだまだそういったことを語るには若すぎると自覚はしていた。
「決まったら教えてくれ、楽しみにしてるから」
うん。と短く返事をしたロイに、俺は顔を綻ばせると、お粗末な食事(だが世界一!)を続けた。
夕食を食べ終わり、三十分程雑談した俺たちは店を出ると帰路に着いた。夜が深くなるにつれて繁華街は面倒な輩が多くなる。酒や煙草だけではなく、ドラッグに狂った奴が暴走するだろう。頭のおかしい変態が女を路地裏に連れ込んで犯し、それに喜びを見出す痴女までも。ギャンブルに負けて咽び泣く者や馬鹿を狙った詐欺師が彷徨く。ここはそんな街だ。変な奴に絡まれる前に退散だと、俺たちは足早に繁華街を立ち去り、閑静な住宅街へと入った。
先ほどまでの煌びやかな明かりや街の喧騒が嘘かのように、住宅街はしんと静まり返っていた。時折明りの灯った家から家族の笑い声が聞こえてくる程度である。路肩に駐車された赤いスポーツカーの中で、ビアンカップルが激しく互いを求めあうようにキスをしていた。横目で女たちを流し見しながらロイの家を目指す。
彼の両親には一度だけ会ったが(ロイも親に自分が同性愛者であることを打ち明けていなかった)、とても優しそうで穏やかな人達だった。結婚をしたのが遅かったのか、ロイを生んだのが遅かったのか、歳は六十を超えていた。
「古臭い考えを持ってるんだよ。だから話せない」と前にロイは言っていた。でも両親はとても彼を可愛がっているように見えたし、話せば受け入れてもらえる気もするが、両親に告白していない俺が言えた義理ではないと黙っていた。
「送ってくれてありがとう」
「どういたしまして。次はいつ会える?」
周りに建つ家屋よりも敷地の広い、赤い屋根のアイゼンハート家へと到着した。玄関前の庭に続く門に手をかけ、俺の問いかけにロイは数秒考える素振りを見せて「予定を見てから連絡する」と答えた。いつも通りの返答に、特に何も思うことはなく俺は了承を返した。
「それじゃあいい夢を」
別れるのは名残惜しかったが、いつまでもここで突っ立っていても仕方ないと、軽く手を振って踵を返そうとした俺の手を掴んでロイが引き留めた。何のアクションもなく見送るのが通常となっていた俺は、突然手を掴まれたことに驚いて目を白黒とさせながら相手を振り向いた。
「ごめん、急に不安になって」
「不安?大丈夫か?」
まるで悲劇的な物語でも読み終わった後のような面持ちで、自分の感情に当惑しているロイを正視した。何か言いたそうにしている彼の様子に、急かすことはなくじっと次の言葉を待った。
「ジェームズが僕をいつも通り送ってくれて、でもその次の日から連絡が取れなくなって、キミは僕の目の前から姿を消すんだ。幻だったみたいに居なくなる。あまりにも急すぎる別れがある気がしてならない」
「どうして?そんなことになるはずないだろ」
ただの妄想とか夢とかそういった類のものだ。
恋人として幸せな時間を過ごしていると、ふとした瞬間に、この幸せがいつまで続くのだろうと不安を抱くのはよくある話だと聞いていた。楽観的ではない俺も、この幸せが永続的なものであるのを祈ったりする日はあるが、俺が彼の前から急に姿を消すなんてあり得なかった。こんなにも愛しているのに、その愛情が無くなる日なんて想像が出来なかった。
「言い切れる?どうしようもないことがあって、僕らには乗り越えられないと分かった時逃げるかもしれない」
「俺が逃げるってことか?」
「逃げるのは僕の方かも」
愛し合っていても乗り越えられないことが存在するのだろうか。二人なら大丈夫だと言うのは若者特有の愚直な思考ということだろうか。
ジェームズ・ディーンとロイ・アイゼンハートなら、何があっても平気だと神様に保障してもらいたかった。突発的なものであろうと、不安に怯える彼を安心させてほしかった。
「そんなことにはならないよ、絶対に」
強くロイの手を握りしめると、彼もまた俺の手を握り返した。じっと上目遣いにこちらを見上げる彼を見下ろして「約束する」と微笑んだ。
夜風が髪を撫でるなか互いに無言で見つめ合っていた。たぶん人と人がキスをする時は、そういった雰囲気や流れを自然に生み出し、無意識に察知するのだろう。ならば迷うこともないと、俺は手を握りしめたままロイの唇にキスをした。ビックリしたように彼の体は一瞬硬直したが、空いた方の手を肩に置くと、凝り固まった体はゆっくりとほぐれていった。唇を離し、薄闇の中でも宝石のように美しく輝く瞳を覗き込んだ。微かに熱を持った眼差しは、静かに揺蕩っていた。
ロイは俺の背中に手を回すと、つま先立ちをして口づけした。"まだ足りない"と言っているように思えた。あまりにも自分に都合が良すぎる解釈だろうか。好きな人とのキスは、俺の脳にとてつもない快楽をもたらした。
夜の住宅街で誰かに見られるかもしれないなんてことを考える余裕もなくし、先ほど見たスポーツカーでビアンたちがしていたように、俺たちは愛おしい恋人を求める深いキスを繰り返した。
これが、俺の人生で初めてのキスだった。
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